ハーツラビュル
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「トレイ先輩、ちょっと聞いてもいいですか」
放課後の柔らかな光が差し込む植物園の片隅で、葉を摘む手がふと止まる。
「ん? なんだ、藪から棒に」
トレイは再び手元を動かしながら、穏やかな声を返した。
「トレイ先輩って、自分のユニーク魔法を悪いことに使ってみようと思ったことあります?」
手元が再び、ぴたりと止まる。
トレイは一瞬だけ眼鏡の奥の目を丸くしたが、すぐにいつもの苦笑いを浮かべた。
「おいおい、物騒なことを言うな。俺の『薔薇を塗ろう 』を悪いことに、か。例えばどんなことだ?」
「そうですね……例えば、食べられないものを美味しく見せかけて誰かに押し付けるとか」
「それはもう、寮生相手にやったことがあるな。失敗した料理の味をごまかしたりとか」
「それは救済措置ですよ。そうじゃなくてもっとこう、個人的な欲望を満たすためというか。悪巧み的なやつです」
「個人的な欲望、ねえ。リドルの嫌いなジャンクフードを好物の味に変えて無理やり食わせるか」
「先輩、発想が健全すぎません? もっとずる賢くて、ちょっと人には言えないようなことです」
歩き出したトレイの隣に並び顔を覗き込む。
トレイは困ったように眉を下げた。
「人には言えないようなこと、か。お前、たまに突拍子もない球を投げてくるな。俺をなんだと思っているんだ」
「普通の、ちょっと器用な先輩だと思っています。だからこそ、その器用さを別のベクトルに使ったらどうなるのかなって」
「別のベクトルね。……まあ、確かに『要素を上書きする』なんて能力だ、悪いことを考えようと思えばいくらでも思いつくさ。人間の五感を騙すなんて詐欺師の基本だからな」
トレイの口調は冗談めかしていたが、その声のトーンはどこか低く落ち着いている。
「五感を騙す、ですか」
「ああ。味覚だけじゃない。視覚も聴覚も、短時間ならどうとでもなる。例えば、お前が今飲んでいるただの水の味を最高級のジュースに変えることもできるし……その逆もできる」
「それは知ってます。ケイト先輩たちにもやってましたよね」
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
トレイが足を止め、こちらをじっと見つめてくる。
「例えば、本当はすごく苦い薬を、お前の大好きな甘いお菓子の味に変える。お前は喜んでそれを飲む。だけど魔法が解けたあとに喉の奥に残るのは、強烈な苦味と裏切られた感覚だけだ。……これなら、十分に悪いことだろ?」
「うわ、性格悪いですね。でも、それだけですか?」
「それだけ、って……。お前、意外と肝が据わっているな。普通はもう少し怖がるものだぞ」
「だって、トレイ先輩がわたしにそんなことしないって分かってますから。それに、もっと身体の感覚に直接訴えかけるような、いやらしい使い道もあるんじゃないですか?」
「いやらしい?」
トレイが小首を傾げる。その仕草はどこまでも自然で、大人の余裕を感じさせた。
「ええ。例えば……媚薬とか、そういう怪しい薬を飲まされたような感覚に上書きするとか」
二人の間に一瞬だけ沈黙が流れる。
風が植物の香りを運んでくる中、トレイの視線がわずかに動いた。
「なるほど、お前はそういう方向の『悪いこと』を期待していたわけだ」
「期待だなんて人聞きの悪い。ただの好奇心です」
「はは、手厳しいな。だが、確かにそれも可能だろうな。そういう感覚を相手の脳に上書きして覚え込ませる。そんな悪戯を仕掛けられたら、相手は俺の魔法が解けるまで、まともに立っていられなくなるかもな」
トレイは一歩、距離を詰めてきた。
影が重なり彼の体温がほんのりと伝わってくる。
「もし俺が、お前にその魔法を使ったらどうする?」
「……どうもしませんよ。ただ、本当にそんなことができるのかは気になります」
「お前なぁ。……俺なら、そうだな。相手の肌に触れる時の、皮膚の感度を上書きするかもしれない。少し指先が触れただけで過剰にゾクゾクするような、そんな感覚に」
トレイの指先がこちらの髪に不意に触れた。
耳の後ろをかすめるような、ごくわずかな接触。
それだけなのに、言葉のせいで妙にその部分が熱を持ったように感じられる。
「……トレイ先輩、それ、完全に下ネタの領域に入ってますよね」
「お前が言い出したんだろ? 俺はただ、お前の問いに誠実に答えているだけだ」
トレイは悪びれもせず指先を離した。
しかし、その目はまだこちらを捉えたままだ。
「それに短時間しか保たないからこそ、タチが悪いんだ。魔法が解けた瞬間、一気に現実へと引き戻される。その落差に人間は一番弱いのさ。……どうだ? 少しは俺の魔法が怖くなったか?」
「むしろ、先輩の頭の中が意外と不健全だって分かって安心しました」
「おいおい。俺だって健全な男子校の生徒だからな。これくらいの妄想は言わないだけで誰でもしているさ」
トレイは再び歩き出し今度は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。
「さて、そろそろ戻らないとリドルに怒られる。今日の収穫分の仕分けをしなきゃならないからな」
「手伝いますよ、不健全先輩」
「その呼び方はやめろ。……でも、手伝ってくれるのは助かるよ。ありがとう、ななし」
並んで歩く道すがら、先ほど触れられた耳の後ろがまだほんのりと熱を帯びているような気がしてならなかった。トレイの歩幅に合わせながら、その横顔を盗み見る。
(本当に、ただの冗談なのかな……)
トレイは前を見据えたまま、小さく鼻歌を口ずさんでいる。その表情からは、先ほどの意味深な言葉の真意は何も読み取れなかった。
薄暗い作業部屋に入ると、乾燥させた植物の香りが鼻腔をくすぐった。
二人は長い木製の作業机に並んで腰掛け、作業を始める。
「さっきの話だけどな」
トレイが手を動かしたまま、ぽつりと言った。
眼鏡の位置を指先で直すその横顔は、いつもの冷静な先輩のものだ。
「不健全な妄想の続きですか?」
「おいおい、俺はいたって真面目な解説をしたつもりだぞ。ただ、お前があまりにも物おじしないから、少しからかいたくなっただけだ」
「からかうにしては具体的すぎましたよ。本当にやったことがあるんじゃないかって疑うくらいに」
「まさか。俺がそんなことを誰かに試すわけがないだろ。……お前以外の奴に、そんなことを考える必要もないしな」
さらりと言い捨てられた言葉に葉をむしる指先がわずかに狂う。
言葉の意味を反芻する前にトレイがこちらに身体を向けた。
「なあ、ななし。本当に試してみたいか?」
「え……?」
「俺のユニーク魔法で、お前の感覚を上書きする。本当に少しだけだ。お前がどれだけ強がっていられるか、見てみたい」
トレイの声音は低く、どこか試すような響きを帯びている。
冗談のようでありながら、その奥にある本気が見え隠れする。
「……どうせすぐに解けるんでしょう?」
その言葉にトレイの喉が小さく動いた。
眼鏡の奥にある瞳が、わずかに細められる。
「本当に物おじしないな。後悔するなよ」
トレイが手を伸ばし、こちらの右手首をそっと掴んだ。
男らしくて少し無骨な手のひらの熱が、じかに肌へと伝わってくる。
その瞬間トレイが低く呟いた。
「白を赤に、赤を白に『薔薇を塗ろう 』」
トレイの指先から微弱な魔力が流れ込んでくるのを感じる。
最初は冷たい風が肌を撫でるような感覚だった。
しかし次の瞬間。
「……っ」
手首を掴むトレイの指の感触が劇的に変化する。
ただの皮膚の接触のはずが、まるで熱を持った鉄を押し当てられているかのような強烈な熱量へと上書きされた。
いや、それだけではない。
指先が微かに動くたびに、まるで脳の奥へと直接甘い痺れが走るような感覚が押し寄せる。
「どうだ。ただ掴んでいるだけなのに、ずいぶんと熱いだろう」
トレイの声が、いつもよりすぐ近くで聞こえる。
耳から入る声までもが鼓膜を甘く震わせる刺激へと上書きされているかのようだ。
「先輩、これ……ちょっと、おかしいです」
「おかしくなんかないさ。お前の脳が今、俺に激しく触れられていると錯覚しているんだよ」
トレイの親指が手首の脈打つ部分をゆっくりと撫でる。
それだけで身体の奥が跳ねるように熱くなった。
呼吸が自然と浅くなり、体温がじわじわと上昇していくのが自分でもわかる。感情と肉体が知覚する偽りの感覚が、混沌と混ざり合っていく。
「嫌なら、すぐに手を離すが。……どうする、ななし」
トレイの手も微かに震えている。
魔法を使っている彼自身もまた、目の前で呼吸を乱し肌を上気させていく後輩の姿に静かに煽られている。
「離して、なんて……言ってません」
トレイは小さく息を吐き、今度は空いた左手でななしの頬に触れた。
「本当に……生意気な後輩だ」
触れられた頬から、さらに強い熱が全身へと伝播していく。
感覚の上書きは、すでに指先だけに留まらず二人の間に漂う空気そのものを濃密に変質させていた。
じわじわと、しかし確実に引き返せない熱が二人を包み込んでいく。
頬に触れたトレイの掌は、魔法の効果によって太陽に晒されたかのように熱い。いや、それは脳が引き起こしている錯覚だ。
わかっていながらも、ななしの身体はその偽りの熱を本能的に貪るように、わずかにトレイの手へと寄りかかる。
トレイの指先が、耳の下から顎のラインへとゆっくりと滑り降りた。
その極小の移動さえも脳内では暴力的なまでの摩擦熱として処理される。
呼吸を忘れたように静まり返った部屋の中で、二人の呼吸が刻むかすかな音だけが同調していた。
「……ずいぶんと素直だな」
トレイの低い声が直接鼓膜の奥を揺さぶる。
それもまた感覚の上書きによる副産物だ。
いつもの穏やかな声が今は官能を煽る甘い毒のように響く。
「からかっているのは、先輩の方でしょう」
「からかっているつもりは、もうないさ。……お前が、あまりにも無防備だからな」
眼鏡の奥の瞳が熱を帯びたままこちらを見つめている。
その双眸に宿る揺らぎは、彼自身もまた、この張り詰めた空気に囚われていることの証だった。
手首を掴む彼の右手に、一層の力がこもる。
骨の感触が過敏になった皮膚を通じて、脳の奥深くへと刻み込まれていく。
「これ、いつまで続くんですか」
「あと、一分もない。俺の魔力じゃ、こうして触れている感覚を維持するのが精一杯だからな」
「じゃあ、解けたら……どうなりますか」
「元に戻るだけだ。お前の皮膚も、俺の指先も」
トレイの親指がななしの唇の端をそっと掠めた。
ただそれだけのことなのに、脳裏に眩いほどの閃光が走る。
感覚の過敏化は、触覚だけでなく思考の領域にまで及び始めていた。
彼に触れられているという事実だけで、胸の奥が締め付けられるように痛む。
これが魔法による錯覚なのか、それとも自身の本心なのか、その境界線はすでに曖昧だ。
「戻るだけなら……今のうちに、もっと悪いことをしたらどうですか」
その言葉に、トレイは唇をわずかに歪めた。
彼は小さく息を吐き出すように笑う。
「お前は本当に、俺を試すのが好きだな。だが、これ以上は止めておこう」
「耐えられますよ」
「強がるな。……ほら、もう魔法が切れる」
トレイの言葉と同時に世界が急速に冷えていくような感覚が襲う。
手首を縛り付けていた強烈な熱が、頬を包んでいた焦がれるような温度が、潮が引くように消え去っていく。
そこに残されたのは、いつもの少し肌寒い夕方の空気だけだ。
「……っ」
あまりの落差にななしは小さく息を呑む。
体温が急激に奪われたような錯覚に陥り、身体が内側から震えた。
魔法が解けたあとに残る強烈な喪失感。
先ほどまであれほど熱く、愛おしく感じられたトレイの手が、今はただの平温の皮膚としてそこに存在している。
その事実がたまらなく寂しい。
「言っただろ。解けたあとの方が、タチが悪いって」
トレイはゆっくりと手を離した。
しかしその表情には、いつもの余裕は戻っていない。
彼の指先もまた微かに震えていた。
魔法を解いた彼自身も、その落差の残響に当てられている。
「……本当に、タチが悪い」
「嫌だと言わなかったのはお前だ」
トレイは眼鏡の位置を直すと、いつもの困ったような苦笑いを浮かべた。
だが、その視線はまだななしの唇のあたりを彷徨っている。
魔法が解けてもなお二人の距離は変わらない。
物理的な近さと精神的な飢餓感が、作業部屋の空気を重く沈殿させていく。
「これで、俺のユニーク魔法の悪い使い道の話は終わりだ。……どうだった、ななし」
「二度と、他の人に試さないでください」
その言葉に、トレイは一瞬だけ驚いたように目を見張った。
そして今度は心底愛おしそうな、柔らかい笑みを浮かべる。
「言っただろ。お前以外の奴に、こんなことを試す必要なんてないってな」
トレイはななしの頭を、今度は魔法なしの、いつもの優しい手つきでぽんぽんと叩いた。その掌は、決して熱くはないはずなのに不思議と胸の奥をじんわりと温めていく。
上書きされた感覚は消え去っても、心に刻まれた熱だけは消えてくれそうになかった。
放課後の柔らかな光が差し込む植物園の片隅で、葉を摘む手がふと止まる。
「ん? なんだ、藪から棒に」
トレイは再び手元を動かしながら、穏やかな声を返した。
「トレイ先輩って、自分のユニーク魔法を悪いことに使ってみようと思ったことあります?」
手元が再び、ぴたりと止まる。
トレイは一瞬だけ眼鏡の奥の目を丸くしたが、すぐにいつもの苦笑いを浮かべた。
「おいおい、物騒なことを言うな。俺の『
「そうですね……例えば、食べられないものを美味しく見せかけて誰かに押し付けるとか」
「それはもう、寮生相手にやったことがあるな。失敗した料理の味をごまかしたりとか」
「それは救済措置ですよ。そうじゃなくてもっとこう、個人的な欲望を満たすためというか。悪巧み的なやつです」
「個人的な欲望、ねえ。リドルの嫌いなジャンクフードを好物の味に変えて無理やり食わせるか」
「先輩、発想が健全すぎません? もっとずる賢くて、ちょっと人には言えないようなことです」
歩き出したトレイの隣に並び顔を覗き込む。
トレイは困ったように眉を下げた。
「人には言えないようなこと、か。お前、たまに突拍子もない球を投げてくるな。俺をなんだと思っているんだ」
「普通の、ちょっと器用な先輩だと思っています。だからこそ、その器用さを別のベクトルに使ったらどうなるのかなって」
「別のベクトルね。……まあ、確かに『要素を上書きする』なんて能力だ、悪いことを考えようと思えばいくらでも思いつくさ。人間の五感を騙すなんて詐欺師の基本だからな」
トレイの口調は冗談めかしていたが、その声のトーンはどこか低く落ち着いている。
「五感を騙す、ですか」
「ああ。味覚だけじゃない。視覚も聴覚も、短時間ならどうとでもなる。例えば、お前が今飲んでいるただの水の味を最高級のジュースに変えることもできるし……その逆もできる」
「それは知ってます。ケイト先輩たちにもやってましたよね」
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
トレイが足を止め、こちらをじっと見つめてくる。
「例えば、本当はすごく苦い薬を、お前の大好きな甘いお菓子の味に変える。お前は喜んでそれを飲む。だけど魔法が解けたあとに喉の奥に残るのは、強烈な苦味と裏切られた感覚だけだ。……これなら、十分に悪いことだろ?」
「うわ、性格悪いですね。でも、それだけですか?」
「それだけ、って……。お前、意外と肝が据わっているな。普通はもう少し怖がるものだぞ」
「だって、トレイ先輩がわたしにそんなことしないって分かってますから。それに、もっと身体の感覚に直接訴えかけるような、いやらしい使い道もあるんじゃないですか?」
「いやらしい?」
トレイが小首を傾げる。その仕草はどこまでも自然で、大人の余裕を感じさせた。
「ええ。例えば……媚薬とか、そういう怪しい薬を飲まされたような感覚に上書きするとか」
二人の間に一瞬だけ沈黙が流れる。
風が植物の香りを運んでくる中、トレイの視線がわずかに動いた。
「なるほど、お前はそういう方向の『悪いこと』を期待していたわけだ」
「期待だなんて人聞きの悪い。ただの好奇心です」
「はは、手厳しいな。だが、確かにそれも可能だろうな。そういう感覚を相手の脳に上書きして覚え込ませる。そんな悪戯を仕掛けられたら、相手は俺の魔法が解けるまで、まともに立っていられなくなるかもな」
トレイは一歩、距離を詰めてきた。
影が重なり彼の体温がほんのりと伝わってくる。
「もし俺が、お前にその魔法を使ったらどうする?」
「……どうもしませんよ。ただ、本当にそんなことができるのかは気になります」
「お前なぁ。……俺なら、そうだな。相手の肌に触れる時の、皮膚の感度を上書きするかもしれない。少し指先が触れただけで過剰にゾクゾクするような、そんな感覚に」
トレイの指先がこちらの髪に不意に触れた。
耳の後ろをかすめるような、ごくわずかな接触。
それだけなのに、言葉のせいで妙にその部分が熱を持ったように感じられる。
「……トレイ先輩、それ、完全に下ネタの領域に入ってますよね」
「お前が言い出したんだろ? 俺はただ、お前の問いに誠実に答えているだけだ」
トレイは悪びれもせず指先を離した。
しかし、その目はまだこちらを捉えたままだ。
「それに短時間しか保たないからこそ、タチが悪いんだ。魔法が解けた瞬間、一気に現実へと引き戻される。その落差に人間は一番弱いのさ。……どうだ? 少しは俺の魔法が怖くなったか?」
「むしろ、先輩の頭の中が意外と不健全だって分かって安心しました」
「おいおい。俺だって健全な男子校の生徒だからな。これくらいの妄想は言わないだけで誰でもしているさ」
トレイは再び歩き出し今度は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。
「さて、そろそろ戻らないとリドルに怒られる。今日の収穫分の仕分けをしなきゃならないからな」
「手伝いますよ、不健全先輩」
「その呼び方はやめろ。……でも、手伝ってくれるのは助かるよ。ありがとう、ななし」
並んで歩く道すがら、先ほど触れられた耳の後ろがまだほんのりと熱を帯びているような気がしてならなかった。トレイの歩幅に合わせながら、その横顔を盗み見る。
(本当に、ただの冗談なのかな……)
トレイは前を見据えたまま、小さく鼻歌を口ずさんでいる。その表情からは、先ほどの意味深な言葉の真意は何も読み取れなかった。
薄暗い作業部屋に入ると、乾燥させた植物の香りが鼻腔をくすぐった。
二人は長い木製の作業机に並んで腰掛け、作業を始める。
「さっきの話だけどな」
トレイが手を動かしたまま、ぽつりと言った。
眼鏡の位置を指先で直すその横顔は、いつもの冷静な先輩のものだ。
「不健全な妄想の続きですか?」
「おいおい、俺はいたって真面目な解説をしたつもりだぞ。ただ、お前があまりにも物おじしないから、少しからかいたくなっただけだ」
「からかうにしては具体的すぎましたよ。本当にやったことがあるんじゃないかって疑うくらいに」
「まさか。俺がそんなことを誰かに試すわけがないだろ。……お前以外の奴に、そんなことを考える必要もないしな」
さらりと言い捨てられた言葉に葉をむしる指先がわずかに狂う。
言葉の意味を反芻する前にトレイがこちらに身体を向けた。
「なあ、ななし。本当に試してみたいか?」
「え……?」
「俺のユニーク魔法で、お前の感覚を上書きする。本当に少しだけだ。お前がどれだけ強がっていられるか、見てみたい」
トレイの声音は低く、どこか試すような響きを帯びている。
冗談のようでありながら、その奥にある本気が見え隠れする。
「……どうせすぐに解けるんでしょう?」
その言葉にトレイの喉が小さく動いた。
眼鏡の奥にある瞳が、わずかに細められる。
「本当に物おじしないな。後悔するなよ」
トレイが手を伸ばし、こちらの右手首をそっと掴んだ。
男らしくて少し無骨な手のひらの熱が、じかに肌へと伝わってくる。
その瞬間トレイが低く呟いた。
「白を赤に、赤を白に『
トレイの指先から微弱な魔力が流れ込んでくるのを感じる。
最初は冷たい風が肌を撫でるような感覚だった。
しかし次の瞬間。
「……っ」
手首を掴むトレイの指の感触が劇的に変化する。
ただの皮膚の接触のはずが、まるで熱を持った鉄を押し当てられているかのような強烈な熱量へと上書きされた。
いや、それだけではない。
指先が微かに動くたびに、まるで脳の奥へと直接甘い痺れが走るような感覚が押し寄せる。
「どうだ。ただ掴んでいるだけなのに、ずいぶんと熱いだろう」
トレイの声が、いつもよりすぐ近くで聞こえる。
耳から入る声までもが鼓膜を甘く震わせる刺激へと上書きされているかのようだ。
「先輩、これ……ちょっと、おかしいです」
「おかしくなんかないさ。お前の脳が今、俺に激しく触れられていると錯覚しているんだよ」
トレイの親指が手首の脈打つ部分をゆっくりと撫でる。
それだけで身体の奥が跳ねるように熱くなった。
呼吸が自然と浅くなり、体温がじわじわと上昇していくのが自分でもわかる。感情と肉体が知覚する偽りの感覚が、混沌と混ざり合っていく。
「嫌なら、すぐに手を離すが。……どうする、ななし」
トレイの手も微かに震えている。
魔法を使っている彼自身もまた、目の前で呼吸を乱し肌を上気させていく後輩の姿に静かに煽られている。
「離して、なんて……言ってません」
トレイは小さく息を吐き、今度は空いた左手でななしの頬に触れた。
「本当に……生意気な後輩だ」
触れられた頬から、さらに強い熱が全身へと伝播していく。
感覚の上書きは、すでに指先だけに留まらず二人の間に漂う空気そのものを濃密に変質させていた。
じわじわと、しかし確実に引き返せない熱が二人を包み込んでいく。
頬に触れたトレイの掌は、魔法の効果によって太陽に晒されたかのように熱い。いや、それは脳が引き起こしている錯覚だ。
わかっていながらも、ななしの身体はその偽りの熱を本能的に貪るように、わずかにトレイの手へと寄りかかる。
トレイの指先が、耳の下から顎のラインへとゆっくりと滑り降りた。
その極小の移動さえも脳内では暴力的なまでの摩擦熱として処理される。
呼吸を忘れたように静まり返った部屋の中で、二人の呼吸が刻むかすかな音だけが同調していた。
「……ずいぶんと素直だな」
トレイの低い声が直接鼓膜の奥を揺さぶる。
それもまた感覚の上書きによる副産物だ。
いつもの穏やかな声が今は官能を煽る甘い毒のように響く。
「からかっているのは、先輩の方でしょう」
「からかっているつもりは、もうないさ。……お前が、あまりにも無防備だからな」
眼鏡の奥の瞳が熱を帯びたままこちらを見つめている。
その双眸に宿る揺らぎは、彼自身もまた、この張り詰めた空気に囚われていることの証だった。
手首を掴む彼の右手に、一層の力がこもる。
骨の感触が過敏になった皮膚を通じて、脳の奥深くへと刻み込まれていく。
「これ、いつまで続くんですか」
「あと、一分もない。俺の魔力じゃ、こうして触れている感覚を維持するのが精一杯だからな」
「じゃあ、解けたら……どうなりますか」
「元に戻るだけだ。お前の皮膚も、俺の指先も」
トレイの親指がななしの唇の端をそっと掠めた。
ただそれだけのことなのに、脳裏に眩いほどの閃光が走る。
感覚の過敏化は、触覚だけでなく思考の領域にまで及び始めていた。
彼に触れられているという事実だけで、胸の奥が締め付けられるように痛む。
これが魔法による錯覚なのか、それとも自身の本心なのか、その境界線はすでに曖昧だ。
「戻るだけなら……今のうちに、もっと悪いことをしたらどうですか」
その言葉に、トレイは唇をわずかに歪めた。
彼は小さく息を吐き出すように笑う。
「お前は本当に、俺を試すのが好きだな。だが、これ以上は止めておこう」
「耐えられますよ」
「強がるな。……ほら、もう魔法が切れる」
トレイの言葉と同時に世界が急速に冷えていくような感覚が襲う。
手首を縛り付けていた強烈な熱が、頬を包んでいた焦がれるような温度が、潮が引くように消え去っていく。
そこに残されたのは、いつもの少し肌寒い夕方の空気だけだ。
「……っ」
あまりの落差にななしは小さく息を呑む。
体温が急激に奪われたような錯覚に陥り、身体が内側から震えた。
魔法が解けたあとに残る強烈な喪失感。
先ほどまであれほど熱く、愛おしく感じられたトレイの手が、今はただの平温の皮膚としてそこに存在している。
その事実がたまらなく寂しい。
「言っただろ。解けたあとの方が、タチが悪いって」
トレイはゆっくりと手を離した。
しかしその表情には、いつもの余裕は戻っていない。
彼の指先もまた微かに震えていた。
魔法を解いた彼自身も、その落差の残響に当てられている。
「……本当に、タチが悪い」
「嫌だと言わなかったのはお前だ」
トレイは眼鏡の位置を直すと、いつもの困ったような苦笑いを浮かべた。
だが、その視線はまだななしの唇のあたりを彷徨っている。
魔法が解けてもなお二人の距離は変わらない。
物理的な近さと精神的な飢餓感が、作業部屋の空気を重く沈殿させていく。
「これで、俺のユニーク魔法の悪い使い道の話は終わりだ。……どうだった、ななし」
「二度と、他の人に試さないでください」
その言葉に、トレイは一瞬だけ驚いたように目を見張った。
そして今度は心底愛おしそうな、柔らかい笑みを浮かべる。
「言っただろ。お前以外の奴に、こんなことを試す必要なんてないってな」
トレイはななしの頭を、今度は魔法なしの、いつもの優しい手つきでぽんぽんと叩いた。その掌は、決して熱くはないはずなのに不思議と胸の奥をじんわりと温めていく。
上書きされた感覚は消え去っても、心に刻まれた熱だけは消えてくれそうになかった。
