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「ジャミル先輩」
西日が差し込む静かな部屋で、その名前が呼ばれた。
書類をめくる手がわずかに止まる。
ジャミルは視線を上げず、手元に意識を戻した。
「なんだ」
「ジャミル先輩って、自分のユニーク魔法、エロいなって思ったことあります?」
今度こそ完全に手が止まった。
ジャミルはゆっくりと顔を上げ、正面に座る後輩の姿を捉えた。彼女は至って真面目な、まるで今日の夕食の献立でも尋ねるかのような平然とした顔でこちらを見つめている。
「……お前、自分が何を言っているか分かっているのか」
「分かってます。というか、ありますよね? 自覚」
「あるわけがないだろう。ふざけるのも大概にしろ」
ジャミルは溜息を吐き、書類を机に置いた。
彼のユニーク魔法『蛇のいざない 』。他者の意識を乗っ取り、意のままに操る力。それをそんな突拍子もない言葉で表現されたのは彼の人生において間違いなく初めてのことだった。
「だって、相手を自分の意のままにするんですよ? 逆らえなくして、自分の言うことしか聞けない状態にするなんて、シチュエーションとしてかなりそれっぽいじゃないですか」
「おい」
「声とか目つきとか、いろいろずるいです。掛けられた側は抗えないわけですし」
淡々と、しかし確信を持った口調で言葉が紡がれる。
ジャミルの眉間が自然と険しくなった。
普段なら一喝して終わらせるような突飛な言い分だが、彼女の瞳にはからかうような色が一切ない。それが逆に調子を狂わせる。
「俺のユニーク魔法は、そんなくだらない目的のためにあるものじゃない。洗脳、あるいは誘導。効率的に物事を進めるための手段だ」
「それは建前ですよね」
「本音だ。お前は少し、物事を飛躍させすぎている」
「そうですか? もし私が掛けられたらって想像したら、普通にちょっとドキドキしますけど」
彼女は机に頬杖を突き、じっとジャミルを見つめた。
距離は変わっていないはずなのに、彼女の言葉が空気をわずかに震わせる。
「……緊張感がないな。本来なら恐怖を感じる場面だ」
「ジャミル先輩が相手なら、怖くはないです」
「それは俺を甘く見ているということか」
ジャミルの声のトーンがひとつ下がった。
だが、彼女は怯むどころかさらに身を乗り出してくる。
「違います。信頼です。でも、あの魔法の本質って支配的なものじゃないですか。それって、そういう行為の究極系みたいなところありません?」
「そういう行為、とはなんだ」
「言葉通りの意味ですよ。先輩だって男なんですから、分かりますよね」
ストレートな追及がジャミルの鼓膜を叩く。
部屋の温度が心なしか上がったような錯覚を覚えた。
ジャミルは椅子の背もたれに体を預け腕を組む。彼女のまっすぐな視線を受け止めながら思考を巡らせる。
普段の彼なら、ここで完全に話を切り捨てるか冷徹な態度で突き放す。しかし目の前の人物が放つ独特の空気感が、それを許さない。どこか奇妙な心地よさすら孕んだ、危うい会話のキャッチボールが始まっていた。
「……仮に、百歩譲ってその言い分を認めるとしよう」
ジャミルは静かに口を開いた。
「俺がその支配を、お前が言うような意図で使っているとでも思っているのか」
「今は使ってないですよね。でも、使おうと思えばいつでもできる。そのカードを握っているジャミル先輩が、一度もそういう想像をしたことがないなんて私は信じません」
「買い被りだな。俺はそこまで性欲に振り回されるほど愚かでもない」
「否定の仕方が逆にリアルです」
彼女は小さく笑った。
その笑顔には、やはり邪気がない。
だからこそ言葉の刃がまっすぐにジャミルの懐へと入り込んでくる。
「命令されたら、身体が勝手に動くわけですよね。頭ではダメだって分かっていても、ジャミル先輩の言う通りに動いちゃう」
「……そうだ。意識を奪うからな」
「意識を奪うのもそうですけど、意識がある状態で身体だけが言うことを聞かないっていうパターンも、エロくないですか?」
「お前、本当に何を言っているんだ」
ジャミルは呆れたように息を漏らしたが、その実、喉の奥が微かに渇くのを覚えていた。
彼女が口にする具体的なシチュエーションが脳内で一瞬だけ鮮明な像を結ぶ。自分の言葉ひとつで自由を奪われ、ただこちらを見上げることしかできなくなる彼女の姿。
「だって、そうでしょう? 『こっちに来い』って言われたら、足が勝手に歩き出す。『服を脱げ』って言われたら――」
「そこまでにしろ」
ジャミルの鋭い声が彼女の言葉を遮った。
部屋が一瞬、静寂に包まれる。
窓の外では夕日がさらに赤みを増し、二人の影を長く引き延ばしていた。
「……悪乗りが過ぎるぞ、ななし」
ジャミルは彼女の名前を呼んだ。
少しだけ低くなったその声に、彼女は瞬きを一つした。
しかし、その瞳にある好奇心の光は消えていない。
「怒りました?」
「怒ってはいない。ただ警告だ。男を相手に、そんな無防備な妄想を口にするな」
「無防備じゃないですよ。相手がジャミル先輩だから言ってるんです。他の人にこんな話しません」
「それが無防備だと言っているんだ」
ジャミルは組み換えた指に少しだけ力を入れた。
彼女が自分に対して抱いている絶対的な安心感。
それがどれほど危うい境界線の上に成り立っているか、彼女自身は全く気づいていない。
「俺がお前のその言葉に触発されて、本当にそういった事を仕掛けたらどうする」
「え、やってくれるんですか?」
「……は?」
想定外の返しにジャミルは思わず眉を跳ね上げた。
彼女の顔には恐怖も困惑もない。
そこにあるのは、純粋に次の展開を期待するような、あるいはジャミルの反応を愉しむような真っ直ぐな眼差しだけだった。
「冗談だろ」
「半分は冗談ですけど、半分は本気です。ジャミル先輩のユニーク魔法、ちょっと受けてみたいってずっと思ってましたし。いや、受けたことはあるか。でも、それが先輩の言う『そういう意味』を含んだものなら、なおさら興味あります」
彼女は机に置かれたジャミルの手元に、そっと自分の手を近づけた。
触れるか触れないかの距離。
かすかな体温が触れ合ってもいない皮膚を通じて伝わってくるようだった。
「俺を試しているのか、お前は」
「試してないです。ただ、先輩の本音が知りたいだけです」
ジャミルは彼女の手を見つめ、それからゆっくりと視線を上げ、彼女の瞳を真正面から見据えた。
部屋の空気は、いつの間にか先ほどまでの軽さを失いつつあった。言葉の端々に、隠しきれない熱のようなものが混ざり始める。
「本音、か」
ジャミルがつぶやいた。
その声は夕暮れに溶けるように静かで、そしてどこか艶を帯びていた。
「……先輩?」
静寂が長引いたからか、彼女が怪訝そうに小首を傾げた。
ジャミルは視線を彼女の瞳に戻し小さく息を吐き出す。手元に迫っていた彼女の手は、相変わらず触れそうで触れない位置に留まっている。
「お前は、俺の魔法を万能か何かと勘違いしているんじゃないか」
「万能だなんて思ってないですよ。ただ、すごい魔法なのは確かです」
「買い被りだと言ったはずだ。あれはそんなに都合のいい力じゃない。一度に操れる人数には限界があるし、強い魔法師相手ならすぐに解ける。何より細かい動作を正確に命令するには、それ相応の技術と集中力が要るんだ」
ジャミルは淡々と自らの魔法の制限を口にした。
普段なら絶対に他人に明かさない性質。カリムにすら口止めし、周囲には徹底して隠し続けている彼のユニーク魔法の本質。それを今、目の前の後輩に淀みなく話している自分に内心で冷ややかな苦笑を漏らす。
「細かい動作って、例えば?」
「……お前がさっき言ったようなことだ」
ジャミルの言葉に彼女の目がわずかに見開かれる。
「コップを持つ、歩く、といった大雑把な命令なら容易い。だが、指先の角度を変える、他人に気づかれないように視線を動かす、といった緻密な制御は、掛ける側にも大きな負担がかかる。ましてや――」
言葉を区切り、ジャミルは彼女の手元を見つめた。
「他者の身体を使って繊細な快楽をなぞるような真似は、技術的にもブロットの許容量的にも割に合わない」
「なるほど。つまり、できないわけじゃないんですね」
「……話を聞いていたのか」
「聞いてましたよ。大変だけど、ジャミル先輩の技術なら可能だって意味に聞こえました」
彼女は喉を鳴らして笑った。
その不敵とも言える態度に、ジャミルの奥底で燻っていた熱が、確実に温度を上げる。
「それに、対象は意思疎通ができる動物だけなんでしょう? 虫には効かないって前に言っていましたよね。ということは、人間に掛けるのが一番確実で反応も分かりやすい。……やっぱり、どこか扇情的です」
「言葉を選べ」
「本質ですよ。ジャミル先輩は、その難しいコントロールを完璧にこなせる。だからエロいんです」
まっすぐな称賛。
しかし語られている内容は、紛れもなく艶笑話の領域だ。
そのギャップがジャミルの理性を少しずつ削り取っていく。彼女の言葉は、まるで薄い絹布で肌を撫でられているかのような、奇妙な身体感覚を伴ってジャミルの脳を刺激した。
「……お前、本当に俺の魔法を何だと思っている」
ジャミルは腕を組み直した。
上着の擦れる音が妙に大きく部屋に響く。
「他人の意識を乗っ取るということは、その人間の呼吸も心音も全て俺の支配下に置くということだ。命令一つで呼吸を浅くすることも、鼓動を速くすることもできる」
「……っ」
彼女の喉が小さく鳴った。
先ほどまでの余裕の笑みがわずかに形を崩す。
ジャミルの声に含まれる、具体的でかつ実感を伴った支配の重みに、初めて彼女の身体が微かな緊張を宿した。
「頭の中をピンポイントで覗くような器用な真似はできない。だが、俺の命令に従って動く身体がどんなふうに震えているか、どんな温度になっているかは手に取るように分かる」
ジャミルは机から手を離し、ゆっくりと上体を前に傾けた。
二人の距離が一気に縮まる。
彼女の瞳に部屋の明かりと、消え残る夕日の赤が混ざり合って映り込んでいた。
「俺の指示通りにしか動けない身体で、お前はどんな声を出す? 意識がない間、お前は完全に俺のものだ。何をされても、何を命じられても、拒絶することはできない」
「ジャミル、先輩……」
「これが、お前の言う本質だ。これでもまだ受けてみたいなどと言えるのか」
ジャミルの低い声が彼女の耳元を掠めるように響く。
彼女の呼吸が明らかに浅くなっていた。
胸元が小さく上下し、その視線はジャミルの唇へと吸い寄せられるように固定されている。
からかうつもりで始めたはずの会話。
だが主導権は完全にジャミルの手に渡っていた。
いや渡したというよりは、ジャミルが強引に奪い取ったのだ。
彼女の態度が、彼の内にある本能を最悪な形で刺激してしまった結果だった。
「……言えます」
張り詰めた空気の中、彼女は消え入りそうな、しかし確かな声で紡いだ。
「は?」
「言えますよ。だって、その間……私の全部がジャミル先輩の手の中にあるんですよね。想像しただけで身体の奥が変な感じになります」
彼女の顔が、ほんのりと赤く染まっていた。
それは夕日のせいだけではない。
彼女自身の内側から湧き上がる、熱の仕業だった。
彼女は逃げるように視線を逸らすこともせず、じっとジャミルの目を見つめ返している。その瞳は恐怖ではなく、紛れもない期待に濡れていた。
「お前……」
ジャミルは絶句した。
これほどの脅し文句を並べられてなお、一歩も引かないばかりか、さらに熱を煽るような言葉を返す。彼女のその度胸と、自分に向けられる無防備な信頼がジャミルの理性の限界を容易く超えていく。
じわり、とジャミルの手のひらに汗がにじむ。
彼女に触れたい。
その細い手首を掴み、自分の魔法がどれほど恐ろしく、どれほど心地よいものかを、その身体に直接教え込んでやりたい。そんな衝動が身体の奥底から激しく突き上げてくる。
「……後悔するなよ、ななし」
ジャミルは静かに手を伸ばした。
今度は触れるか触れないかの距離ではない。
彼の長い指先が彼女の頬にそっと触れた。
彼女の肌は驚くほど熱かった。
指先から伝わるその体温が、ジャミルの思考を完全に焼き尽くしていく。
「先輩の魔法、私に使ってください」
吐息混じりの声が二人の間で溶けた。
「……ああ。望み通りにしてやる」
ジャミルの声は、すでに普段のそれとは全く異なっていた。
低く掠れ、熱を孕んだその響きは、魔法を使うまでもなく彼女の身体を硬直させるに十分な威力を持っていた。
「……本気なんだな」
ジャミルは低く零した。
彼女が自分を信頼しているのは知っていた。
だが、その信頼の形がこれほどまでに歪で、そして甘いものだとは思いもしなかった。自分のユニーク魔法の本質を支配と言い切り、そこに男と女の、それも最も濃密な行為の匂いを感じ取る。その感性そのものが、ジャミルのコントロールを狂わせようとしていた。
「後で後悔しても、解いてやらないぞ」
「解いてほしくなったら、そう言います。……言えたら、ですけど」
彼女は小さく笑った。
まるで、すべてを委ねるかのようなその仕草がジャミルの胸の奥を激しく突き動かす。
深呼吸を一つ。
ジャミルは自身の内側にある魔力を練り上げた。
普段なら、他者を効率的に動かすための冷徹なトリガー。それを、目の前の彼女の、その熱い身体を縛るためだけに発動させる。
「瞳に映るはお前の主人。尋ねれば答えよ、命じれば頭を垂れよ。『蛇のいざない 』」
言葉が部屋の空気に溶けた瞬間、彼女の身体が微かに跳ね、直後に完全に脱力した。
ゆっくりと開かれた彼女の瞳から、先ほどまでの意志の光が消えている。どこか虚ろで、それでいてジャミルの姿だけを正確に映し出す独特のあの瞳。
ジャミルは彼女の頬から手を離し、じっとその様子を観察した。
呼吸は浅く規則正しい。
だがジャミルには分かっていた。
意識を乗っ取っているこの瞬間、彼女の身体の内部が、どれほどの熱を孕んでいるか。
「……ななし。手を、机の上に」
ジャミルが静かに命じる。
彼女の身体は一切の躊躇なく動いた。
膝の上にあった両手が滑らかな動きで木目の机へと滑り出す。
ジャミルは内心息を呑んだ。
力のある魔法士や拒絶の強い対象であれば、こうはいかない。身体が命令を拒もうとして動きに僅かな硬さや震えが生じる。
しかし彼女の身体にはそれが全くなかった。
それどころか、まるで彼女自身の本能がジャミルの命令を全うすることを喜んでいるかのような恐ろしいほどの従順さだった。
「指先を、俺の手のひらに重ねろ」
次の命令を下す。
彼女の細い指が迷うことなくジャミルの手のひらの上に乗せられた。
じわりと直接伝わる体温。
高度な技術が必要とされる細かい動作の命令。
それを実行している今、ジャミルの脳内には彼女の身体感覚が微かなノイズのように流れ込んできていた。
魔法を通じて伝わる彼女の皮膚の過敏な変化。
衣服が擦れるわずかな感覚。
そしてジャミルの指が触れている場所から、じわじわと広がっていく切ないほどの熱量。
「……くそ、これは、どちらが掛けられているか分からないな」
ジャミルは奥歯を噛み締めた。
意識を乗っ取っているはずの自分が、彼女の身体が放つ快美な拒絶のなさに、逆に支配されそうになっていた。
彼女は言葉を出せない。
ただジャミルの命令を待つだけの器になっている。
その圧倒的な優位性がジャミルの内にある昏い独占欲をどこまでも煽り立てた。
「呼吸を、深くしろ」
命令のトーンがさらに低くなる。
彼女の胸元が大きく上下した。
吐き出される吐息が普段よりもずっと熱く、そして甘い。
彼女の頭の中をピンポイントで覗くことはできないが、この身体が今、ジャミルの存在をどれほど強く意識しているかは嫌というほど伝わってきた。
頭では逆らえない。
身体も言うことを聞かない。
その極限の状態で彼女がどれほどの悦びと、もどかしさに身を焦がしているか。
「声を、出してみろ。……俺の名前を呼べ」
「……じゃ、みる……せんぱい……」
掠れた声が彼女の唇から漏れ出る。
それは意識を失った人間の出す機械的な音声ではなかった。
紛れもなくジャミルを求め、その支配に溺れている女の声だった。
ジャミルの脳内に強烈な痺れが走る。
これほどまでに自分という存在に全てを明け渡し、自分の色に染まっていく人間が、かつていただろうか。カリムの従者として生きてきたジャミルにとって、一人の人間を完全に自分のものにするという感覚は劇薬以外の何物でもなかった。
「……もう、限界だ」
ジャミルが呟くと、魔法の糸が唐突に切れる。
「――っ、はあ!」
次の瞬間、彼女の瞳に一気に光が戻った。
激しく息を吐き出し、彼女の身体が大きく前に崩れる。
ジャミルは咄嗟に手を伸ばし彼女の肩を抱きとめた。
「大丈夫か」
「……あ、すごい、です……本当に、身体が、動かなくて……」
彼女はジャミルの胸元に顔を埋めたまま、肩を激しく上下させていた。
その身体は、まだ微かに震えている。
魔法が解けたにもかかわらず、彼女はジャミルの腕から逃れようとはしなかった。
「怖かったか」
「……いいえ」
彼女はゆっくりと顔を上げジャミルを見上げた。
その瞳は涙で少し潤んでいたが、そこにあるのは完全な恍惚の光だった。
「すごかったです。ジャミル先輩の言う通り、心臓の音まで全部、先輩に握られてるみたいで……頭がどうにかなりそうでした」
「お前は……本当に、恐ろしい奴だな」
ジャミルは諦めたように自嘲気味な笑みを浮かべた。
彼女が自分をここまで狂わせるとは思わなかった。
だが、もう引き返すことはできない。
ジャミルは彼女の肩を掴む手にさらに力を込めた。
「言ったはずだ。解いてほしくなったら言え、と。だがお前は言わなかった」
「言いたく、なかったですから」
「なら、もう二度と解放してやらないと言ったら?」
「……望むところ、です」
彼女の言葉が終わる前にジャミルは顔を近づけた。
部屋の明かりが二人の重なる影を濃密に照らし出している。
窓の外の夕日は完全に沈み、静かな夜が彼らの秘められた時間をどこまでも深く包み込んでいった。
西日が差し込む静かな部屋で、その名前が呼ばれた。
書類をめくる手がわずかに止まる。
ジャミルは視線を上げず、手元に意識を戻した。
「なんだ」
「ジャミル先輩って、自分のユニーク魔法、エロいなって思ったことあります?」
今度こそ完全に手が止まった。
ジャミルはゆっくりと顔を上げ、正面に座る後輩の姿を捉えた。彼女は至って真面目な、まるで今日の夕食の献立でも尋ねるかのような平然とした顔でこちらを見つめている。
「……お前、自分が何を言っているか分かっているのか」
「分かってます。というか、ありますよね? 自覚」
「あるわけがないだろう。ふざけるのも大概にしろ」
ジャミルは溜息を吐き、書類を机に置いた。
彼のユニーク魔法『
「だって、相手を自分の意のままにするんですよ? 逆らえなくして、自分の言うことしか聞けない状態にするなんて、シチュエーションとしてかなりそれっぽいじゃないですか」
「おい」
「声とか目つきとか、いろいろずるいです。掛けられた側は抗えないわけですし」
淡々と、しかし確信を持った口調で言葉が紡がれる。
ジャミルの眉間が自然と険しくなった。
普段なら一喝して終わらせるような突飛な言い分だが、彼女の瞳にはからかうような色が一切ない。それが逆に調子を狂わせる。
「俺のユニーク魔法は、そんなくだらない目的のためにあるものじゃない。洗脳、あるいは誘導。効率的に物事を進めるための手段だ」
「それは建前ですよね」
「本音だ。お前は少し、物事を飛躍させすぎている」
「そうですか? もし私が掛けられたらって想像したら、普通にちょっとドキドキしますけど」
彼女は机に頬杖を突き、じっとジャミルを見つめた。
距離は変わっていないはずなのに、彼女の言葉が空気をわずかに震わせる。
「……緊張感がないな。本来なら恐怖を感じる場面だ」
「ジャミル先輩が相手なら、怖くはないです」
「それは俺を甘く見ているということか」
ジャミルの声のトーンがひとつ下がった。
だが、彼女は怯むどころかさらに身を乗り出してくる。
「違います。信頼です。でも、あの魔法の本質って支配的なものじゃないですか。それって、そういう行為の究極系みたいなところありません?」
「そういう行為、とはなんだ」
「言葉通りの意味ですよ。先輩だって男なんですから、分かりますよね」
ストレートな追及がジャミルの鼓膜を叩く。
部屋の温度が心なしか上がったような錯覚を覚えた。
ジャミルは椅子の背もたれに体を預け腕を組む。彼女のまっすぐな視線を受け止めながら思考を巡らせる。
普段の彼なら、ここで完全に話を切り捨てるか冷徹な態度で突き放す。しかし目の前の人物が放つ独特の空気感が、それを許さない。どこか奇妙な心地よさすら孕んだ、危うい会話のキャッチボールが始まっていた。
「……仮に、百歩譲ってその言い分を認めるとしよう」
ジャミルは静かに口を開いた。
「俺がその支配を、お前が言うような意図で使っているとでも思っているのか」
「今は使ってないですよね。でも、使おうと思えばいつでもできる。そのカードを握っているジャミル先輩が、一度もそういう想像をしたことがないなんて私は信じません」
「買い被りだな。俺はそこまで性欲に振り回されるほど愚かでもない」
「否定の仕方が逆にリアルです」
彼女は小さく笑った。
その笑顔には、やはり邪気がない。
だからこそ言葉の刃がまっすぐにジャミルの懐へと入り込んでくる。
「命令されたら、身体が勝手に動くわけですよね。頭ではダメだって分かっていても、ジャミル先輩の言う通りに動いちゃう」
「……そうだ。意識を奪うからな」
「意識を奪うのもそうですけど、意識がある状態で身体だけが言うことを聞かないっていうパターンも、エロくないですか?」
「お前、本当に何を言っているんだ」
ジャミルは呆れたように息を漏らしたが、その実、喉の奥が微かに渇くのを覚えていた。
彼女が口にする具体的なシチュエーションが脳内で一瞬だけ鮮明な像を結ぶ。自分の言葉ひとつで自由を奪われ、ただこちらを見上げることしかできなくなる彼女の姿。
「だって、そうでしょう? 『こっちに来い』って言われたら、足が勝手に歩き出す。『服を脱げ』って言われたら――」
「そこまでにしろ」
ジャミルの鋭い声が彼女の言葉を遮った。
部屋が一瞬、静寂に包まれる。
窓の外では夕日がさらに赤みを増し、二人の影を長く引き延ばしていた。
「……悪乗りが過ぎるぞ、ななし」
ジャミルは彼女の名前を呼んだ。
少しだけ低くなったその声に、彼女は瞬きを一つした。
しかし、その瞳にある好奇心の光は消えていない。
「怒りました?」
「怒ってはいない。ただ警告だ。男を相手に、そんな無防備な妄想を口にするな」
「無防備じゃないですよ。相手がジャミル先輩だから言ってるんです。他の人にこんな話しません」
「それが無防備だと言っているんだ」
ジャミルは組み換えた指に少しだけ力を入れた。
彼女が自分に対して抱いている絶対的な安心感。
それがどれほど危うい境界線の上に成り立っているか、彼女自身は全く気づいていない。
「俺がお前のその言葉に触発されて、本当にそういった事を仕掛けたらどうする」
「え、やってくれるんですか?」
「……は?」
想定外の返しにジャミルは思わず眉を跳ね上げた。
彼女の顔には恐怖も困惑もない。
そこにあるのは、純粋に次の展開を期待するような、あるいはジャミルの反応を愉しむような真っ直ぐな眼差しだけだった。
「冗談だろ」
「半分は冗談ですけど、半分は本気です。ジャミル先輩のユニーク魔法、ちょっと受けてみたいってずっと思ってましたし。いや、受けたことはあるか。でも、それが先輩の言う『そういう意味』を含んだものなら、なおさら興味あります」
彼女は机に置かれたジャミルの手元に、そっと自分の手を近づけた。
触れるか触れないかの距離。
かすかな体温が触れ合ってもいない皮膚を通じて伝わってくるようだった。
「俺を試しているのか、お前は」
「試してないです。ただ、先輩の本音が知りたいだけです」
ジャミルは彼女の手を見つめ、それからゆっくりと視線を上げ、彼女の瞳を真正面から見据えた。
部屋の空気は、いつの間にか先ほどまでの軽さを失いつつあった。言葉の端々に、隠しきれない熱のようなものが混ざり始める。
「本音、か」
ジャミルがつぶやいた。
その声は夕暮れに溶けるように静かで、そしてどこか艶を帯びていた。
「……先輩?」
静寂が長引いたからか、彼女が怪訝そうに小首を傾げた。
ジャミルは視線を彼女の瞳に戻し小さく息を吐き出す。手元に迫っていた彼女の手は、相変わらず触れそうで触れない位置に留まっている。
「お前は、俺の魔法を万能か何かと勘違いしているんじゃないか」
「万能だなんて思ってないですよ。ただ、すごい魔法なのは確かです」
「買い被りだと言ったはずだ。あれはそんなに都合のいい力じゃない。一度に操れる人数には限界があるし、強い魔法師相手ならすぐに解ける。何より細かい動作を正確に命令するには、それ相応の技術と集中力が要るんだ」
ジャミルは淡々と自らの魔法の制限を口にした。
普段なら絶対に他人に明かさない性質。カリムにすら口止めし、周囲には徹底して隠し続けている彼のユニーク魔法の本質。それを今、目の前の後輩に淀みなく話している自分に内心で冷ややかな苦笑を漏らす。
「細かい動作って、例えば?」
「……お前がさっき言ったようなことだ」
ジャミルの言葉に彼女の目がわずかに見開かれる。
「コップを持つ、歩く、といった大雑把な命令なら容易い。だが、指先の角度を変える、他人に気づかれないように視線を動かす、といった緻密な制御は、掛ける側にも大きな負担がかかる。ましてや――」
言葉を区切り、ジャミルは彼女の手元を見つめた。
「他者の身体を使って繊細な快楽をなぞるような真似は、技術的にもブロットの許容量的にも割に合わない」
「なるほど。つまり、できないわけじゃないんですね」
「……話を聞いていたのか」
「聞いてましたよ。大変だけど、ジャミル先輩の技術なら可能だって意味に聞こえました」
彼女は喉を鳴らして笑った。
その不敵とも言える態度に、ジャミルの奥底で燻っていた熱が、確実に温度を上げる。
「それに、対象は意思疎通ができる動物だけなんでしょう? 虫には効かないって前に言っていましたよね。ということは、人間に掛けるのが一番確実で反応も分かりやすい。……やっぱり、どこか扇情的です」
「言葉を選べ」
「本質ですよ。ジャミル先輩は、その難しいコントロールを完璧にこなせる。だからエロいんです」
まっすぐな称賛。
しかし語られている内容は、紛れもなく艶笑話の領域だ。
そのギャップがジャミルの理性を少しずつ削り取っていく。彼女の言葉は、まるで薄い絹布で肌を撫でられているかのような、奇妙な身体感覚を伴ってジャミルの脳を刺激した。
「……お前、本当に俺の魔法を何だと思っている」
ジャミルは腕を組み直した。
上着の擦れる音が妙に大きく部屋に響く。
「他人の意識を乗っ取るということは、その人間の呼吸も心音も全て俺の支配下に置くということだ。命令一つで呼吸を浅くすることも、鼓動を速くすることもできる」
「……っ」
彼女の喉が小さく鳴った。
先ほどまでの余裕の笑みがわずかに形を崩す。
ジャミルの声に含まれる、具体的でかつ実感を伴った支配の重みに、初めて彼女の身体が微かな緊張を宿した。
「頭の中をピンポイントで覗くような器用な真似はできない。だが、俺の命令に従って動く身体がどんなふうに震えているか、どんな温度になっているかは手に取るように分かる」
ジャミルは机から手を離し、ゆっくりと上体を前に傾けた。
二人の距離が一気に縮まる。
彼女の瞳に部屋の明かりと、消え残る夕日の赤が混ざり合って映り込んでいた。
「俺の指示通りにしか動けない身体で、お前はどんな声を出す? 意識がない間、お前は完全に俺のものだ。何をされても、何を命じられても、拒絶することはできない」
「ジャミル、先輩……」
「これが、お前の言う本質だ。これでもまだ受けてみたいなどと言えるのか」
ジャミルの低い声が彼女の耳元を掠めるように響く。
彼女の呼吸が明らかに浅くなっていた。
胸元が小さく上下し、その視線はジャミルの唇へと吸い寄せられるように固定されている。
からかうつもりで始めたはずの会話。
だが主導権は完全にジャミルの手に渡っていた。
いや渡したというよりは、ジャミルが強引に奪い取ったのだ。
彼女の態度が、彼の内にある本能を最悪な形で刺激してしまった結果だった。
「……言えます」
張り詰めた空気の中、彼女は消え入りそうな、しかし確かな声で紡いだ。
「は?」
「言えますよ。だって、その間……私の全部がジャミル先輩の手の中にあるんですよね。想像しただけで身体の奥が変な感じになります」
彼女の顔が、ほんのりと赤く染まっていた。
それは夕日のせいだけではない。
彼女自身の内側から湧き上がる、熱の仕業だった。
彼女は逃げるように視線を逸らすこともせず、じっとジャミルの目を見つめ返している。その瞳は恐怖ではなく、紛れもない期待に濡れていた。
「お前……」
ジャミルは絶句した。
これほどの脅し文句を並べられてなお、一歩も引かないばかりか、さらに熱を煽るような言葉を返す。彼女のその度胸と、自分に向けられる無防備な信頼がジャミルの理性の限界を容易く超えていく。
じわり、とジャミルの手のひらに汗がにじむ。
彼女に触れたい。
その細い手首を掴み、自分の魔法がどれほど恐ろしく、どれほど心地よいものかを、その身体に直接教え込んでやりたい。そんな衝動が身体の奥底から激しく突き上げてくる。
「……後悔するなよ、ななし」
ジャミルは静かに手を伸ばした。
今度は触れるか触れないかの距離ではない。
彼の長い指先が彼女の頬にそっと触れた。
彼女の肌は驚くほど熱かった。
指先から伝わるその体温が、ジャミルの思考を完全に焼き尽くしていく。
「先輩の魔法、私に使ってください」
吐息混じりの声が二人の間で溶けた。
「……ああ。望み通りにしてやる」
ジャミルの声は、すでに普段のそれとは全く異なっていた。
低く掠れ、熱を孕んだその響きは、魔法を使うまでもなく彼女の身体を硬直させるに十分な威力を持っていた。
「……本気なんだな」
ジャミルは低く零した。
彼女が自分を信頼しているのは知っていた。
だが、その信頼の形がこれほどまでに歪で、そして甘いものだとは思いもしなかった。自分のユニーク魔法の本質を支配と言い切り、そこに男と女の、それも最も濃密な行為の匂いを感じ取る。その感性そのものが、ジャミルのコントロールを狂わせようとしていた。
「後で後悔しても、解いてやらないぞ」
「解いてほしくなったら、そう言います。……言えたら、ですけど」
彼女は小さく笑った。
まるで、すべてを委ねるかのようなその仕草がジャミルの胸の奥を激しく突き動かす。
深呼吸を一つ。
ジャミルは自身の内側にある魔力を練り上げた。
普段なら、他者を効率的に動かすための冷徹なトリガー。それを、目の前の彼女の、その熱い身体を縛るためだけに発動させる。
「瞳に映るはお前の主人。尋ねれば答えよ、命じれば頭を垂れよ。『
言葉が部屋の空気に溶けた瞬間、彼女の身体が微かに跳ね、直後に完全に脱力した。
ゆっくりと開かれた彼女の瞳から、先ほどまでの意志の光が消えている。どこか虚ろで、それでいてジャミルの姿だけを正確に映し出す独特のあの瞳。
ジャミルは彼女の頬から手を離し、じっとその様子を観察した。
呼吸は浅く規則正しい。
だがジャミルには分かっていた。
意識を乗っ取っているこの瞬間、彼女の身体の内部が、どれほどの熱を孕んでいるか。
「……ななし。手を、机の上に」
ジャミルが静かに命じる。
彼女の身体は一切の躊躇なく動いた。
膝の上にあった両手が滑らかな動きで木目の机へと滑り出す。
ジャミルは内心息を呑んだ。
力のある魔法士や拒絶の強い対象であれば、こうはいかない。身体が命令を拒もうとして動きに僅かな硬さや震えが生じる。
しかし彼女の身体にはそれが全くなかった。
それどころか、まるで彼女自身の本能がジャミルの命令を全うすることを喜んでいるかのような恐ろしいほどの従順さだった。
「指先を、俺の手のひらに重ねろ」
次の命令を下す。
彼女の細い指が迷うことなくジャミルの手のひらの上に乗せられた。
じわりと直接伝わる体温。
高度な技術が必要とされる細かい動作の命令。
それを実行している今、ジャミルの脳内には彼女の身体感覚が微かなノイズのように流れ込んできていた。
魔法を通じて伝わる彼女の皮膚の過敏な変化。
衣服が擦れるわずかな感覚。
そしてジャミルの指が触れている場所から、じわじわと広がっていく切ないほどの熱量。
「……くそ、これは、どちらが掛けられているか分からないな」
ジャミルは奥歯を噛み締めた。
意識を乗っ取っているはずの自分が、彼女の身体が放つ快美な拒絶のなさに、逆に支配されそうになっていた。
彼女は言葉を出せない。
ただジャミルの命令を待つだけの器になっている。
その圧倒的な優位性がジャミルの内にある昏い独占欲をどこまでも煽り立てた。
「呼吸を、深くしろ」
命令のトーンがさらに低くなる。
彼女の胸元が大きく上下した。
吐き出される吐息が普段よりもずっと熱く、そして甘い。
彼女の頭の中をピンポイントで覗くことはできないが、この身体が今、ジャミルの存在をどれほど強く意識しているかは嫌というほど伝わってきた。
頭では逆らえない。
身体も言うことを聞かない。
その極限の状態で彼女がどれほどの悦びと、もどかしさに身を焦がしているか。
「声を、出してみろ。……俺の名前を呼べ」
「……じゃ、みる……せんぱい……」
掠れた声が彼女の唇から漏れ出る。
それは意識を失った人間の出す機械的な音声ではなかった。
紛れもなくジャミルを求め、その支配に溺れている女の声だった。
ジャミルの脳内に強烈な痺れが走る。
これほどまでに自分という存在に全てを明け渡し、自分の色に染まっていく人間が、かつていただろうか。カリムの従者として生きてきたジャミルにとって、一人の人間を完全に自分のものにするという感覚は劇薬以外の何物でもなかった。
「……もう、限界だ」
ジャミルが呟くと、魔法の糸が唐突に切れる。
「――っ、はあ!」
次の瞬間、彼女の瞳に一気に光が戻った。
激しく息を吐き出し、彼女の身体が大きく前に崩れる。
ジャミルは咄嗟に手を伸ばし彼女の肩を抱きとめた。
「大丈夫か」
「……あ、すごい、です……本当に、身体が、動かなくて……」
彼女はジャミルの胸元に顔を埋めたまま、肩を激しく上下させていた。
その身体は、まだ微かに震えている。
魔法が解けたにもかかわらず、彼女はジャミルの腕から逃れようとはしなかった。
「怖かったか」
「……いいえ」
彼女はゆっくりと顔を上げジャミルを見上げた。
その瞳は涙で少し潤んでいたが、そこにあるのは完全な恍惚の光だった。
「すごかったです。ジャミル先輩の言う通り、心臓の音まで全部、先輩に握られてるみたいで……頭がどうにかなりそうでした」
「お前は……本当に、恐ろしい奴だな」
ジャミルは諦めたように自嘲気味な笑みを浮かべた。
彼女が自分をここまで狂わせるとは思わなかった。
だが、もう引き返すことはできない。
ジャミルは彼女の肩を掴む手にさらに力を込めた。
「言ったはずだ。解いてほしくなったら言え、と。だがお前は言わなかった」
「言いたく、なかったですから」
「なら、もう二度と解放してやらないと言ったら?」
「……望むところ、です」
彼女の言葉が終わる前にジャミルは顔を近づけた。
部屋の明かりが二人の重なる影を濃密に照らし出している。
窓の外の夕日は完全に沈み、静かな夜が彼らの秘められた時間をどこまでも深く包み込んでいった。
