スカラビア
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「おーい、ななし! ちょっとこっち来てくれよ!」
賑やかな声が中庭に響く。
声の主はカリムだった。
両手いっぱいに抱えきれないほどの果物や、きらびやかな布地を抱えている。
「カリム先輩。またそんなにたくさん荷物を抱えて、どうしたんですか」
「さっき購買に行ったらさ、美味そうなものがいっぱいあって、つい買いすぎちまったんだ。そうだ、これもお前に分けるよ!」
カリムは満面の笑みを浮かべ、抱えていた大きなリンゴをひとつ差し出してきた。手渡す瞬間に、互いの指先がほんの少しだけ触れ合う。
「ありがとうございます。でも、いつもこんなに貰ってばかりでは申し訳ないです」
「気にするなよ! オレは、お前にも食べてほしいだけなんだからさ」
カリムはそう言って悪びれもせずに笑う。
その笑顔には一点の曇りもない。
彼はいつも、自分が持っているものを他人に分かち合うことを躊躇わない。
「ジャミル先輩にまた怒られますよ」
「うっ……それはそうかも。でもさ、お前が喜んでくれるなら少しくらい怒られても平気だぞ」
カリムは頭を掻きながら、少しだけ困ったように眉を下げた。
しかし、すぐにまた明るい表情に戻る。
その様子はどこまでも屈託がない。
「ななしはさ、今欲しいものとかないのか? なんでも言ってくれよ。オレ大抵のものは用意できるからさ」
「欲しいもの、ですか。特に思い浮かばないですね」
「えー、本当にないのか? 絨毯でも、宝石でも、珍しいお菓子でも、何でもいいんだぞ?」
カリムは不思議そうに小首を傾げる。
彼にとって、欲しいものを手に入れることはとても簡単なことだった。
大抵のものは、彼の家が持つ財力で解決できる。
「今の生活で満足していますから。それに、自分で少しずつ集めるのが楽しいんです」
「そういうものなのか? オレにはよく分からないけど……お前がそう言うなら、そういうものなのかもしれないな」
カリムは納得したように頷く。
しかし、その表情には少しだけ寂しそうな色が混じっていた。
「オレさ、お前が困ってる顔とか寂しそうな顔を見るのが嫌なんだ。だからオレができることなら何でもしたいって思うんだよな」
「先輩は優しいですね」
「優しいっていうか……ただ、お前に笑っていてほしいだけだよ」
カリムの言葉は真っ直ぐで、飾るということを知らない。
その素直な視線が真っ直ぐに向けられる。
「あ、そうだ。今度、オレの寮で宴があるんだ。お前も来いよ。ジャミルが作る料理は最高だぞ」
「楽しそうですね。ぜひ行きたいです」
「よし、決まりだな! 絶対に招待するから、予定空けておいてくれよな」
カリムは嬉しそうに飛び跳ねるようにして笑った。
差し出されたリンゴは、西日に照らされて赤く輝いている。
「じゃあ、オレはこれジャミルに届けてくるから!またな、ななし!」
大きな荷物を抱えたままカリムは賑やかに去っていく。
その後ろ姿から手元にあるリンゴへと視線が落ちる。
カリムは何でも持っている。
彼が望めば手に入らないものなど、この世界に存在しないかのように見える。しかし彼が本当に求めているものが何なのかは、まだ誰の目にも見えていない。
賑やかな宴の喧騒から少し離れた場所に二人の影があった。
宴の熱気を含んだ風が夜の帳を揺らしている。
「ここにいたのか、ななし。ジャミルの料理、口に合ったか?」
カリムが背後から声をかける。
その手には宴の席から持ち出してきたらしいガラスの器が握られていた。
「はい、とても美味しかったです。カリム先輩は、もう中には戻らないんですか」
「ああ、お前が外に出るのが見えたからさ。ちょっと一息つきたくてな」
カリムはそう言って隣の欄干に背中を預けた。
いつもなら大勢に囲まれて笑っている彼が、今は静かに佇んでいる。
その境界線は曖昧で夜の空気に溶け込んでしまいそうなほどに静かだった。
「いつも賑やかだから、こういう静かなのも悪くないな。……お前と二人きりだしさ」
「先輩?」
「いや、なんでもない。ただ、こうしてお前の近くにいると、なんか胸のあたりが妙に熱くなるんだよ」
カリムは自分の胸元にそっと手を当てた。
心臓の鼓動が衣服の布地を押し上げるようにして刻まれている。
それはどれほど豪華な宴で踊っても、どれほど高価な楽器を鳴らしても得られない、ひどく不規則で激しい皮膚の感覚だった。
「疲れているんじゃないですか。今日は朝から準備で忙しそうでしたし」
「違うんだ。疲れとかそういうのじゃなくて……。上手く言えないんだけどさ」
カリムは言葉を濁し視線を彷徨わせる。
これまでに数え切れないほどの富を与えられてきたはずだった。しかし今、目の前にいる存在に対して抱くこの渇望を何と呼べばいいのかが分からない。
「オレさ、オレができることなら何でもしたいって前に言っただろ?」
「はい、覚えています」
「だけど最近それだけじゃ足りない気がするんだ。お前に何かをあげるんじゃなくて、お前から何かを貰いたいわけでもなくて。ただ……」
カリムの言葉が途切れる。
伸ばしかけた掌が夜の空気の中で行き場を失ったように微かに震えた。
触れたいという衝動と、触れてしまえばこの心地よい熱が形を変えてしまうのではないかという怖れが彼の内側でせめぎ合っている。
「ただ、お前がオレだけを見て、オレの名前を呼んでくれたら、それだけでいいような気がするんだ。そんなの変だよな」
「カリム先輩」
「あはは、変だよな。オレ、何言ってるんだろうな」
カリムは自嘲気味に笑う。
しかし、その表情はいつもの天真爛漫なものとは明らかに違っていた。
生まれて初めて金貨の価値が一切通用しない領域に足を踏み入れている。
「でもさ、この胸の奥がぎゅうってなる感じ、嫌じゃないんだ。むしろ、すごく愛おしいっていうか……」
カリムの視線が真っ直ぐに注がれる。
そこにあるのは言葉にできないほどの純粋な熱量だった。
彼はまだ、自分の中に芽生えた感情の正体を正確には理解していない。
「ななし。オレ、もっとお前のことが知りたい。お前が何を見て、何を考えているのか全部知りたいんだ」
一歩、カリムが足を踏み出す。
二人の距離が夜の静寂の中で劇的に縮まる。
互いの吐息が届きそうなほどの距離で、カリムはただ、その存在を強く深く確かめるように見つめ続けていた。
賑やかな声が中庭に響く。
声の主はカリムだった。
両手いっぱいに抱えきれないほどの果物や、きらびやかな布地を抱えている。
「カリム先輩。またそんなにたくさん荷物を抱えて、どうしたんですか」
「さっき購買に行ったらさ、美味そうなものがいっぱいあって、つい買いすぎちまったんだ。そうだ、これもお前に分けるよ!」
カリムは満面の笑みを浮かべ、抱えていた大きなリンゴをひとつ差し出してきた。手渡す瞬間に、互いの指先がほんの少しだけ触れ合う。
「ありがとうございます。でも、いつもこんなに貰ってばかりでは申し訳ないです」
「気にするなよ! オレは、お前にも食べてほしいだけなんだからさ」
カリムはそう言って悪びれもせずに笑う。
その笑顔には一点の曇りもない。
彼はいつも、自分が持っているものを他人に分かち合うことを躊躇わない。
「ジャミル先輩にまた怒られますよ」
「うっ……それはそうかも。でもさ、お前が喜んでくれるなら少しくらい怒られても平気だぞ」
カリムは頭を掻きながら、少しだけ困ったように眉を下げた。
しかし、すぐにまた明るい表情に戻る。
その様子はどこまでも屈託がない。
「ななしはさ、今欲しいものとかないのか? なんでも言ってくれよ。オレ大抵のものは用意できるからさ」
「欲しいもの、ですか。特に思い浮かばないですね」
「えー、本当にないのか? 絨毯でも、宝石でも、珍しいお菓子でも、何でもいいんだぞ?」
カリムは不思議そうに小首を傾げる。
彼にとって、欲しいものを手に入れることはとても簡単なことだった。
大抵のものは、彼の家が持つ財力で解決できる。
「今の生活で満足していますから。それに、自分で少しずつ集めるのが楽しいんです」
「そういうものなのか? オレにはよく分からないけど……お前がそう言うなら、そういうものなのかもしれないな」
カリムは納得したように頷く。
しかし、その表情には少しだけ寂しそうな色が混じっていた。
「オレさ、お前が困ってる顔とか寂しそうな顔を見るのが嫌なんだ。だからオレができることなら何でもしたいって思うんだよな」
「先輩は優しいですね」
「優しいっていうか……ただ、お前に笑っていてほしいだけだよ」
カリムの言葉は真っ直ぐで、飾るということを知らない。
その素直な視線が真っ直ぐに向けられる。
「あ、そうだ。今度、オレの寮で宴があるんだ。お前も来いよ。ジャミルが作る料理は最高だぞ」
「楽しそうですね。ぜひ行きたいです」
「よし、決まりだな! 絶対に招待するから、予定空けておいてくれよな」
カリムは嬉しそうに飛び跳ねるようにして笑った。
差し出されたリンゴは、西日に照らされて赤く輝いている。
「じゃあ、オレはこれジャミルに届けてくるから!またな、ななし!」
大きな荷物を抱えたままカリムは賑やかに去っていく。
その後ろ姿から手元にあるリンゴへと視線が落ちる。
カリムは何でも持っている。
彼が望めば手に入らないものなど、この世界に存在しないかのように見える。しかし彼が本当に求めているものが何なのかは、まだ誰の目にも見えていない。
賑やかな宴の喧騒から少し離れた場所に二人の影があった。
宴の熱気を含んだ風が夜の帳を揺らしている。
「ここにいたのか、ななし。ジャミルの料理、口に合ったか?」
カリムが背後から声をかける。
その手には宴の席から持ち出してきたらしいガラスの器が握られていた。
「はい、とても美味しかったです。カリム先輩は、もう中には戻らないんですか」
「ああ、お前が外に出るのが見えたからさ。ちょっと一息つきたくてな」
カリムはそう言って隣の欄干に背中を預けた。
いつもなら大勢に囲まれて笑っている彼が、今は静かに佇んでいる。
その境界線は曖昧で夜の空気に溶け込んでしまいそうなほどに静かだった。
「いつも賑やかだから、こういう静かなのも悪くないな。……お前と二人きりだしさ」
「先輩?」
「いや、なんでもない。ただ、こうしてお前の近くにいると、なんか胸のあたりが妙に熱くなるんだよ」
カリムは自分の胸元にそっと手を当てた。
心臓の鼓動が衣服の布地を押し上げるようにして刻まれている。
それはどれほど豪華な宴で踊っても、どれほど高価な楽器を鳴らしても得られない、ひどく不規則で激しい皮膚の感覚だった。
「疲れているんじゃないですか。今日は朝から準備で忙しそうでしたし」
「違うんだ。疲れとかそういうのじゃなくて……。上手く言えないんだけどさ」
カリムは言葉を濁し視線を彷徨わせる。
これまでに数え切れないほどの富を与えられてきたはずだった。しかし今、目の前にいる存在に対して抱くこの渇望を何と呼べばいいのかが分からない。
「オレさ、オレができることなら何でもしたいって前に言っただろ?」
「はい、覚えています」
「だけど最近それだけじゃ足りない気がするんだ。お前に何かをあげるんじゃなくて、お前から何かを貰いたいわけでもなくて。ただ……」
カリムの言葉が途切れる。
伸ばしかけた掌が夜の空気の中で行き場を失ったように微かに震えた。
触れたいという衝動と、触れてしまえばこの心地よい熱が形を変えてしまうのではないかという怖れが彼の内側でせめぎ合っている。
「ただ、お前がオレだけを見て、オレの名前を呼んでくれたら、それだけでいいような気がするんだ。そんなの変だよな」
「カリム先輩」
「あはは、変だよな。オレ、何言ってるんだろうな」
カリムは自嘲気味に笑う。
しかし、その表情はいつもの天真爛漫なものとは明らかに違っていた。
生まれて初めて金貨の価値が一切通用しない領域に足を踏み入れている。
「でもさ、この胸の奥がぎゅうってなる感じ、嫌じゃないんだ。むしろ、すごく愛おしいっていうか……」
カリムの視線が真っ直ぐに注がれる。
そこにあるのは言葉にできないほどの純粋な熱量だった。
彼はまだ、自分の中に芽生えた感情の正体を正確には理解していない。
「ななし。オレ、もっとお前のことが知りたい。お前が何を見て、何を考えているのか全部知りたいんだ」
一歩、カリムが足を踏み出す。
二人の距離が夜の静寂の中で劇的に縮まる。
互いの吐息が届きそうなほどの距離で、カリムはただ、その存在を強く深く確かめるように見つめ続けていた。
