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「おやおや、こんな時間まで残っているなんて。感心ですねえ、と言いたいところですが、夜道は危険ですよ」
「すみません、少し調べ物に夢中になってしまって。でも、もう帰るところです」
「そうですか。ですがその手、少し赤くなっていませんか。さては冷え込みのせいでかじかんでいますね?」
「あ、本当だ。言われるまで気づきませんでした。でも、大丈夫です。歩けばすぐに温まりますから」
「何を言っているんですか。私は優しいですからね、学園長として生徒の健康管理を見過ごすわけにはいきません。さあ、そこの椅子に掛けなさい」
「え、でも……もう遅いですし、悪いので」
「命令ではありませんが、私の制止を振り切って夜道に飛び出すのは感心しませんね。ほら、温かいお茶を淹れてあげました」
「ありがとうございます。……あ、本当だ。すごく温かいです」
「そうでしょう、そうでしょう。冷えは万病の元ですからね。特にあなたのような人間は私が目を光らせておかないと、いつの間にか体調を崩してしまいそうです」
「そんなに子ども扱いしなくても大丈夫ですよ。これでも一応なんとかやれていますし」
「おやおや、生意気な口を叩く。ですが、どう見てもまだまだ庇護が必要な生徒そのものですがねえ」
「もう……からかわないでください。でもこのお茶、すごく良い香りがします。なんだか学園長室に来た時にいつもするような……」
「おや、私の部屋の香りが分かりますか? それは光栄ですね。ですが、お茶の香りに紛れて私の私生活の気配までそんなに意識してくれているとは」
「……っ、そういう意味じゃなくて! ただ、落ち着く空間だなと思っただけです」
「おやおや、顔まで赤くなってしまいました。お茶の湯気のせいでしょうか。それとも私の言葉が少々指導を逸脱していましたかね?」
「湯気のせいです。絶対に湯気のせいですから」
「ふふ、そういうことにしておきましょう。まあ、あなたがそうやって私の用意した席で大人しく暖を取ってくれているだけで、管理者としては一安心ですよ」
「学園長はいつもそうやって思わせぶりな言い方をしますよね。他の生徒にもそんな風に親切なんですか?」
「まさか。私がこれほどまでに個人の時間を割いて、直々にお茶を振る舞う相手など、学園広しと言えどもあなたくらいなものですよ。何しろ私は、これでも非常に多忙な身ですからね?」
「それは……知ってますけど。でも、なんだか調子が狂います。いつもはもっと厄介事を押し付けてくるのに」
「それは人聞きが悪い。私は常にあなたに期待を寄せているからこそ、特別な役割を与えているのですよ。それに……こうして教師と生徒として過ごす静かな時間も、その日頃の努力への正当な報酬だと思ってくれれば良いのです」
「報酬、ですか。私にとっては、ちょっと緊張する時間なんですけど」
「おや、緊張しているのですか? 確かに少し肩に力が入っているようだ。机を挟んでこれだけ距離があっても、あなたという生徒は実に分かりやすい」
「それは学園長が急にそういう、特別扱いみたいなことを言うからで……。じっと見られると次の課題でも言い渡されるんじゃないかと身構えてしまいます」
「なるほど。私はあなたにとって、それほどまでに油断ならない教育者というわけですか。少し傷つきますねえ。私はただ異世界から迷い込んだ哀れな仔羊が、この学園で正しく健やかに過ごせているかを温かい目で見守っているだけですよ」
「その割には、すべて見透かされているような感じがします。私のやっていることなんて学園長を満足させるような大層な秘密もないのに」
「秘密などなくても構いません。あなたがそこにいて、私のお茶を飲み、そうして少しだけ耳を赤くしている。その事実だけで十分に私の知的好奇心――いえ、庇護欲は満たされますから」
「……やっぱり、からかってるじゃないですか。もう、お茶がなくなったらすぐに帰ります」
「おやおや、つれないですねえ。ですが、そう言って急いでお茶を口に運ぶと火傷をしますよ。まだそんなに焦る時間ではありません」
「火傷なんてしませんよ」
「それは結構。ですが、そうやって意地を張って大口を開けるのはあまり褒められた行儀ではありませんねえ」
「っ……、子ども扱いしないでください、ってさっきも言いました」
「おや、そうでしたかね。ですが私の前でそうやって感情を露わにする生徒は、あなたくらいのものですよ。皆、私を前にするともう少し恐縮するか、あるいは裏で文句を言うものですから」
「それは学園長がいつも突拍子もないことを言うからです。みんな、どう対応していいか困っているんですよ」
「ふふ、なるほど。では、あなたは私への対応をもう心得ていると?」
「心得てはいません。ただ、こうして真っ正面から話していると、少しだけ……本当の学園長がどこにいるのか、分からなくなる時はあります」
「ほう? 本当の私ですか。面白いことを言いますね。私の全ては今あなたの目の前にいる、この親切で慈悲深い学園長そのものですよ?」
「そういう自分で言うところが一番怪しいんです。でも……今日の学園長は、いつもより少しだけ静かですね」
「……おや」
「いつもならもっと大袈裟に身振りを交えたり、自分の偉大さを語ったりするのに。今日はお茶を淹れてくれてから、ずっと落ち着いているというか」
「それは……そうですね。せっかくの静かな放課後です。騒がしい問題児たちもいないこの空間で、わざわざ私が大声を出す必要もないでしょう」
「そうですけど。なんだか別の人の部屋に迷い込んだみたいです」
「別の人の部屋、ですか。では今の私は、あなたの知っている学園長ではないと?」
「そういうわけじゃ、ないです。ただ……」
「ただ……?」
「今の学園長の方が、なんだか近くに感じます。机を挟んでいるのに、いつもより、ずっと」
「……なるほど。それは少々困りました。私がこれでも必死に教育者としての境界線を保とうとしている努力が、あなたには筒抜けというわけですか」
「え……? 努力、ですか?」
「ええ、そうですよ。私は優しいですからね、あなたのような無防備な生徒を前にして、あまり大人の余裕を無くした姿は見せたくないのです。ですが……あなたがそうやって私の領域にほんの少しだけ踏み込んでくるような目を強いるなら、私もいつまで学園長の顔をしていられるか自信がなくなってしまいますねえ」
「学園長……?」
「ほら、お茶が空になりましたね。今日の面談――いえ、放課後の防犯指導は、ここまでにしましょう。これ以上、あなたが私を観察する前にね」
そうして、カラスの羽が静かに落ちるような沈黙が二人の間に確かな境界線を残したまま、部屋の影がいっそう濃く包み込んでいった。
「すみません、少し調べ物に夢中になってしまって。でも、もう帰るところです」
「そうですか。ですがその手、少し赤くなっていませんか。さては冷え込みのせいでかじかんでいますね?」
「あ、本当だ。言われるまで気づきませんでした。でも、大丈夫です。歩けばすぐに温まりますから」
「何を言っているんですか。私は優しいですからね、学園長として生徒の健康管理を見過ごすわけにはいきません。さあ、そこの椅子に掛けなさい」
「え、でも……もう遅いですし、悪いので」
「命令ではありませんが、私の制止を振り切って夜道に飛び出すのは感心しませんね。ほら、温かいお茶を淹れてあげました」
「ありがとうございます。……あ、本当だ。すごく温かいです」
「そうでしょう、そうでしょう。冷えは万病の元ですからね。特にあなたのような人間は私が目を光らせておかないと、いつの間にか体調を崩してしまいそうです」
「そんなに子ども扱いしなくても大丈夫ですよ。これでも一応なんとかやれていますし」
「おやおや、生意気な口を叩く。ですが、どう見てもまだまだ庇護が必要な生徒そのものですがねえ」
「もう……からかわないでください。でもこのお茶、すごく良い香りがします。なんだか学園長室に来た時にいつもするような……」
「おや、私の部屋の香りが分かりますか? それは光栄ですね。ですが、お茶の香りに紛れて私の私生活の気配までそんなに意識してくれているとは」
「……っ、そういう意味じゃなくて! ただ、落ち着く空間だなと思っただけです」
「おやおや、顔まで赤くなってしまいました。お茶の湯気のせいでしょうか。それとも私の言葉が少々指導を逸脱していましたかね?」
「湯気のせいです。絶対に湯気のせいですから」
「ふふ、そういうことにしておきましょう。まあ、あなたがそうやって私の用意した席で大人しく暖を取ってくれているだけで、管理者としては一安心ですよ」
「学園長はいつもそうやって思わせぶりな言い方をしますよね。他の生徒にもそんな風に親切なんですか?」
「まさか。私がこれほどまでに個人の時間を割いて、直々にお茶を振る舞う相手など、学園広しと言えどもあなたくらいなものですよ。何しろ私は、これでも非常に多忙な身ですからね?」
「それは……知ってますけど。でも、なんだか調子が狂います。いつもはもっと厄介事を押し付けてくるのに」
「それは人聞きが悪い。私は常にあなたに期待を寄せているからこそ、特別な役割を与えているのですよ。それに……こうして教師と生徒として過ごす静かな時間も、その日頃の努力への正当な報酬だと思ってくれれば良いのです」
「報酬、ですか。私にとっては、ちょっと緊張する時間なんですけど」
「おや、緊張しているのですか? 確かに少し肩に力が入っているようだ。机を挟んでこれだけ距離があっても、あなたという生徒は実に分かりやすい」
「それは学園長が急にそういう、特別扱いみたいなことを言うからで……。じっと見られると次の課題でも言い渡されるんじゃないかと身構えてしまいます」
「なるほど。私はあなたにとって、それほどまでに油断ならない教育者というわけですか。少し傷つきますねえ。私はただ異世界から迷い込んだ哀れな仔羊が、この学園で正しく健やかに過ごせているかを温かい目で見守っているだけですよ」
「その割には、すべて見透かされているような感じがします。私のやっていることなんて学園長を満足させるような大層な秘密もないのに」
「秘密などなくても構いません。あなたがそこにいて、私のお茶を飲み、そうして少しだけ耳を赤くしている。その事実だけで十分に私の知的好奇心――いえ、庇護欲は満たされますから」
「……やっぱり、からかってるじゃないですか。もう、お茶がなくなったらすぐに帰ります」
「おやおや、つれないですねえ。ですが、そう言って急いでお茶を口に運ぶと火傷をしますよ。まだそんなに焦る時間ではありません」
「火傷なんてしませんよ」
「それは結構。ですが、そうやって意地を張って大口を開けるのはあまり褒められた行儀ではありませんねえ」
「っ……、子ども扱いしないでください、ってさっきも言いました」
「おや、そうでしたかね。ですが私の前でそうやって感情を露わにする生徒は、あなたくらいのものですよ。皆、私を前にするともう少し恐縮するか、あるいは裏で文句を言うものですから」
「それは学園長がいつも突拍子もないことを言うからです。みんな、どう対応していいか困っているんですよ」
「ふふ、なるほど。では、あなたは私への対応をもう心得ていると?」
「心得てはいません。ただ、こうして真っ正面から話していると、少しだけ……本当の学園長がどこにいるのか、分からなくなる時はあります」
「ほう? 本当の私ですか。面白いことを言いますね。私の全ては今あなたの目の前にいる、この親切で慈悲深い学園長そのものですよ?」
「そういう自分で言うところが一番怪しいんです。でも……今日の学園長は、いつもより少しだけ静かですね」
「……おや」
「いつもならもっと大袈裟に身振りを交えたり、自分の偉大さを語ったりするのに。今日はお茶を淹れてくれてから、ずっと落ち着いているというか」
「それは……そうですね。せっかくの静かな放課後です。騒がしい問題児たちもいないこの空間で、わざわざ私が大声を出す必要もないでしょう」
「そうですけど。なんだか別の人の部屋に迷い込んだみたいです」
「別の人の部屋、ですか。では今の私は、あなたの知っている学園長ではないと?」
「そういうわけじゃ、ないです。ただ……」
「ただ……?」
「今の学園長の方が、なんだか近くに感じます。机を挟んでいるのに、いつもより、ずっと」
「……なるほど。それは少々困りました。私がこれでも必死に教育者としての境界線を保とうとしている努力が、あなたには筒抜けというわけですか」
「え……? 努力、ですか?」
「ええ、そうですよ。私は優しいですからね、あなたのような無防備な生徒を前にして、あまり大人の余裕を無くした姿は見せたくないのです。ですが……あなたがそうやって私の領域にほんの少しだけ踏み込んでくるような目を強いるなら、私もいつまで学園長の顔をしていられるか自信がなくなってしまいますねえ」
「学園長……?」
「ほら、お茶が空になりましたね。今日の面談――いえ、放課後の防犯指導は、ここまでにしましょう。これ以上、あなたが私を観察する前にね」
そうして、カラスの羽が静かに落ちるような沈黙が二人の間に確かな境界線を残したまま、部屋の影がいっそう濃く包み込んでいった。
