ハーツラビュル
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「リドル先輩、それ、代わりにやっておいたよって言おうとしました?」
放課後の柔らかな光が差し込む部屋で、驚いたように瞬きをしたのはリドルだった。手元にあった書類を覗き込んできた少女、ななしに向けてわずかに眉を寄せる。
「どうして分かったんだい? まだ何も言っていないはずだけど」
「なんとなく、です。最近のリドル先輩は、わたしが何かを始める前に先回りしようとすることが多いですから」
ななしは机の端に腰掛け小さく笑った。
その屈託のない笑顔にリドルの胸の奥がわずかに騒ぐ。
規律を重んじ、常に厳格であることを自他に求めてきたはずの自分が、彼女の前ではどうにも調子を狂わされてしまう。
「それは……キミがいつも危なっかしい動きをするからだよ。オンボロ寮の管理だけでも大変だろうに、これ以上仕事を抱え込んで倒れでもしたらハーツラビュル寮長として見過ごせない」
「でも、これはハーツラビュルの仕事ではなくて、学園長から頼まれた雑務ですよ? 先輩には関係ないはずです」
「関係なくはないさ。ボクが手伝いたいと思ったら、それはボクの問題だ」
リドルは少しだけ早口になりながら手元にあったペンを綺麗に並べ替えた。指先が微かに震えているのを隠すように書類の束をトントンと机に打ち付ける。
「ありがとうございます。じゃあ、このページの見出しの整理お願いしてもいいですか?」
「それくらいお安い御免だよ。キミはそっちの資料をまとめてくれるかい」
「はい!」
二人の間に居心地の良い沈黙が流れる。
窓の外からは部活動に励む生徒たちの遠い声が聞こえていた。リドルは視線を書類に落としながらも、意識の数パーセントがどうしても隣の少女に向いてしまうのを自覚していた。
彼女が動くたびにわずかに空気が揺れる。
その空気は言葉にできないほど穏やかで、リドルがこれまで生きてきた厳格な世界とは全く異なる色を持っていた。
「リドル先輩、ペン、赤で大丈夫ですか?」
「ん? ああ、問題ないよ。ボクにとって赤は、一番見慣れた色だからね」
「確かに、先輩には赤が一番似合います。真っ赤な薔薇みたいで、すごく綺麗です」
「き、綺麗だなんて、男に向かって言う言葉じゃないだろう」
ふいに出された言葉にリドルの頬がカッと熱くなる。
彼女は他意なく、ただ純粋な事実として褒めているのだろう。
それが分かっているからこそ余計に動揺が隠せない。
「事実ですよ。エースやデュースも、きっとそう思ってます」
「あいつらのことだ、どうせ何かボクの目を盗んで悪巧みでもしているんだろう」
「そんなことないです。みんな、先輩のことを尊敬してるんですよ」
ななしは資料をまとめる手を止め、まっすぐにリドルを見た。
その視線を受け止めた瞬間、リドルの心臓がドクンと嫌な音を立てる。
嫌な音ではない。
むしろ鼓動が早くなるのを心地よいとさえ感じてしまっている自分に気づき、リドルは内心で深く息を吐いた。
「キミは……本当に、人を調子に乗せるのが上手いね」
「褒めてるんです。素直に受け取ってください」
「分かったよ。ありがとう、ななし」
名前を呼ぶと彼女は嬉しそうに目を細めた。
ただそれだけのことでリドルの頭の中にあった厳格な思考が綺麗に霧散していく。
以前の自分なら、こんな風に作業中に私情を挟むことも、集中を乱されることも許さなかったはずだった。法律のように絶対的なルールの中で生きることが自分のすべてだった。
しかし今はどうだろう。
目の前で楽しそうに書類をめくる彼女の姿を見ているだけで、世界の中心が、自分の軸が、じわじわと彼女の方へ傾いていくような奇妙な感覚に囚われる。
「……リドル先輩? 手が止まってますよ」
「あ、ああ、すまない。少し考え事をしていてね」
「お疲れですか? 糖分、補給します?」
ななしは制服のポケットをごそごそと探り、小さな包みを取り出した。手のひらに乗せられたのは可愛らしいイチゴ味のキャンディだった。
「これ、ハーツラビュルの規則には違反してませんよね?」
「ふっ、学園内での常識的な間食なら、何の問題もないさ」
リドルはキャンディを受け取り、ゆっくりと包みを開いた。
甘い香りが二人の間のわずかな隙間を満たしていく。
「リドル先輩、そっちの書類もう終わりそうですか?」
「いや、あと数行というところだ。キミの方は?」
「わたしの方はこの束で最後です」
ななしの指先をリドルは無意識に目で追っていた。
白くて自分よりも少し細い指。
それが動くたびに、なぜかリドルの心音と同調していくような錯覚を覚えた。
「よし、これで終わりです!」
「お疲れ様。よく頑張ったね、ななし」
「リドル先輩もお疲れ様でした。先輩が手伝ってくれなかったら、きっと日が暮れてましたよ」
「大袈裟だな。ボクはただ、効率の悪いやり方を見過ごせなかっただけさ」
「またそういうこと言う。本当は優しいくせに」
ななしはふふっと笑いながら、綺麗に重なった書類の端をトントンと揃えた。その距離が、先ほどよりも一段と近くなる。ほんの数十センチの隙間。お互いの吐息が届きそうなその空間でリドルは自分の身体がじわじわと熱を帯びていくのを感じていた。
なんだろう、この感覚は。
熱病にでもかかったかのように胸の奥が熱い。彼女が腕を伸ばすたびに、すぐ傍をかすめる衣服の擦れる音が鼓膜の奥で妙に大きく響く。
「リドル先輩? どうかしました?」
「え……? ああ、いや、なんでもない」
「そうですか?」
ななしは不思議そうに首を傾げリドルの顔を覗き込んできた。
まっすぐな視線がリドルの輪郭をなぞるように注がれる。
その瞬間リドルの喉の奥が小さく鳴った。
近づきすぎだ。
そう言って一歩下がればいいハズなのに、足が床に縫い付けられたように動かない。それどころか、もっと近くで彼女の呼吸を感じていたいと思ってしまう自分がいる。
「本当に大丈夫ですか?」
ななしが自身の両手をリドルの頬にそっと近づけた。
触れるか触れないか、そんな微かな距離。
手のひらから伝わってくる彼女自身の体温。それはリドルにとって、どんな厳格な規則よりも強烈に理性を揺さぶるものだった。
「ななし……」
「はい?」
「キミは、ボクをどうしたいんだい」
ぽつりと言葉が零れ落ちる。
いつの間にかキャンディの甘さは完全に消えていた。代わりに言葉にできない熱い何かが二人の間に確かな質量を持って居座っている。
「どうしたい、って……わたしはただ、先輩が心配で」
「ボクの心配なら、しなくていい。それよりも……」
リドルはゆっくりと手を伸ばし、自分の頬の近くにあった彼女の手首をそっと優しく包み込んだ。
触れた瞬間に伝わる柔らかい皮膚の感触と、ドクドクと脈打つ確かな鼓動。それが自分のものなのか、それとも彼女のものなのか、もう判別がつかなくなっていた。
「あ……」
ななしが小さく息を呑む。
部屋の隅に落ちる影が夕暮れの光に追われて少しずつ長くなっていく。二人の視線は交わったまま外すことができなくなっていた。
お互いの体温を確かめ合うような静寂の後、リドルはふっと小さく息を吐いた。少しだけおそるおそる重ねられていたななしの手のひらへ、今度は自分からそっと力を込めて握り直す。
「リドル先輩……?」
「……なんだい。ボクがキミの手を握ったら、そんなに不思議そうな顔をするのかい」
「いえ、そういうわけじゃ……ただ、ちょっとびっくりしただけです」
少しだけきまり悪そうに視線を逸らしたリドルの耳尖は、夕暮れの光も手伝ってか、ほんのりと赤く染まっている。
寮長としての顔ではなく、等身大の男の子としての表情がそこにはあった。すべてを投げ出すような重い執着ではなく、ただ純粋に目の前の少女が愛おしくてたまらないという初々しい感情が、二人の間に心地よい風を吹かせる。
「キミのせいで、ボクのペースはすっかり乱されっぱなしだ。……でも、不思議と嫌な気分じゃないんだ」
「それなら良かったです。リドル先輩、いつも頑張りすぎですから」
「キミに言われたくはないさ。ボクから見れば、キミだって相当な無理をしている」
「お互い様、ですね」
ななしがいたずらっぽく笑うと、リドルもつられて柔らかく微笑んだ。
自分の世界の中心に彼女がストンと収まった感覚。
それは窮屈なものではなく、むしろ今まで縛られていた頑なな心を、そっと外へ連れ出してくれるような解放感に満ちていた。
「さあ、お喋りはここまでだ。書類も片付いたことだし、そろそろ戻ろうか」
「はい! あ、でも、その前に……」
「なんだい?」
「そのイチゴのキャンディ、もう一個あるんですけど、食べます?」
ポケットから再び差し出された小さな包みにリドルは今度は迷わずに手を伸ばした。
「いただくよ。ハーツラビュルの規則にも、キミからの贈り物を断るなんてルールは存在しないからね」
繋いでいた手を名残惜しそうに離しながらも二人の足取りは驚くほど軽かった。窓の外に広がる夕焼け空はどこまでも澄み渡り、二人の未来を祝福するように爽やかなオレンジ色に輝いていた。
放課後の柔らかな光が差し込む部屋で、驚いたように瞬きをしたのはリドルだった。手元にあった書類を覗き込んできた少女、ななしに向けてわずかに眉を寄せる。
「どうして分かったんだい? まだ何も言っていないはずだけど」
「なんとなく、です。最近のリドル先輩は、わたしが何かを始める前に先回りしようとすることが多いですから」
ななしは机の端に腰掛け小さく笑った。
その屈託のない笑顔にリドルの胸の奥がわずかに騒ぐ。
規律を重んじ、常に厳格であることを自他に求めてきたはずの自分が、彼女の前ではどうにも調子を狂わされてしまう。
「それは……キミがいつも危なっかしい動きをするからだよ。オンボロ寮の管理だけでも大変だろうに、これ以上仕事を抱え込んで倒れでもしたらハーツラビュル寮長として見過ごせない」
「でも、これはハーツラビュルの仕事ではなくて、学園長から頼まれた雑務ですよ? 先輩には関係ないはずです」
「関係なくはないさ。ボクが手伝いたいと思ったら、それはボクの問題だ」
リドルは少しだけ早口になりながら手元にあったペンを綺麗に並べ替えた。指先が微かに震えているのを隠すように書類の束をトントンと机に打ち付ける。
「ありがとうございます。じゃあ、このページの見出しの整理お願いしてもいいですか?」
「それくらいお安い御免だよ。キミはそっちの資料をまとめてくれるかい」
「はい!」
二人の間に居心地の良い沈黙が流れる。
窓の外からは部活動に励む生徒たちの遠い声が聞こえていた。リドルは視線を書類に落としながらも、意識の数パーセントがどうしても隣の少女に向いてしまうのを自覚していた。
彼女が動くたびにわずかに空気が揺れる。
その空気は言葉にできないほど穏やかで、リドルがこれまで生きてきた厳格な世界とは全く異なる色を持っていた。
「リドル先輩、ペン、赤で大丈夫ですか?」
「ん? ああ、問題ないよ。ボクにとって赤は、一番見慣れた色だからね」
「確かに、先輩には赤が一番似合います。真っ赤な薔薇みたいで、すごく綺麗です」
「き、綺麗だなんて、男に向かって言う言葉じゃないだろう」
ふいに出された言葉にリドルの頬がカッと熱くなる。
彼女は他意なく、ただ純粋な事実として褒めているのだろう。
それが分かっているからこそ余計に動揺が隠せない。
「事実ですよ。エースやデュースも、きっとそう思ってます」
「あいつらのことだ、どうせ何かボクの目を盗んで悪巧みでもしているんだろう」
「そんなことないです。みんな、先輩のことを尊敬してるんですよ」
ななしは資料をまとめる手を止め、まっすぐにリドルを見た。
その視線を受け止めた瞬間、リドルの心臓がドクンと嫌な音を立てる。
嫌な音ではない。
むしろ鼓動が早くなるのを心地よいとさえ感じてしまっている自分に気づき、リドルは内心で深く息を吐いた。
「キミは……本当に、人を調子に乗せるのが上手いね」
「褒めてるんです。素直に受け取ってください」
「分かったよ。ありがとう、ななし」
名前を呼ぶと彼女は嬉しそうに目を細めた。
ただそれだけのことでリドルの頭の中にあった厳格な思考が綺麗に霧散していく。
以前の自分なら、こんな風に作業中に私情を挟むことも、集中を乱されることも許さなかったはずだった。法律のように絶対的なルールの中で生きることが自分のすべてだった。
しかし今はどうだろう。
目の前で楽しそうに書類をめくる彼女の姿を見ているだけで、世界の中心が、自分の軸が、じわじわと彼女の方へ傾いていくような奇妙な感覚に囚われる。
「……リドル先輩? 手が止まってますよ」
「あ、ああ、すまない。少し考え事をしていてね」
「お疲れですか? 糖分、補給します?」
ななしは制服のポケットをごそごそと探り、小さな包みを取り出した。手のひらに乗せられたのは可愛らしいイチゴ味のキャンディだった。
「これ、ハーツラビュルの規則には違反してませんよね?」
「ふっ、学園内での常識的な間食なら、何の問題もないさ」
リドルはキャンディを受け取り、ゆっくりと包みを開いた。
甘い香りが二人の間のわずかな隙間を満たしていく。
「リドル先輩、そっちの書類もう終わりそうですか?」
「いや、あと数行というところだ。キミの方は?」
「わたしの方はこの束で最後です」
ななしの指先をリドルは無意識に目で追っていた。
白くて自分よりも少し細い指。
それが動くたびに、なぜかリドルの心音と同調していくような錯覚を覚えた。
「よし、これで終わりです!」
「お疲れ様。よく頑張ったね、ななし」
「リドル先輩もお疲れ様でした。先輩が手伝ってくれなかったら、きっと日が暮れてましたよ」
「大袈裟だな。ボクはただ、効率の悪いやり方を見過ごせなかっただけさ」
「またそういうこと言う。本当は優しいくせに」
ななしはふふっと笑いながら、綺麗に重なった書類の端をトントンと揃えた。その距離が、先ほどよりも一段と近くなる。ほんの数十センチの隙間。お互いの吐息が届きそうなその空間でリドルは自分の身体がじわじわと熱を帯びていくのを感じていた。
なんだろう、この感覚は。
熱病にでもかかったかのように胸の奥が熱い。彼女が腕を伸ばすたびに、すぐ傍をかすめる衣服の擦れる音が鼓膜の奥で妙に大きく響く。
「リドル先輩? どうかしました?」
「え……? ああ、いや、なんでもない」
「そうですか?」
ななしは不思議そうに首を傾げリドルの顔を覗き込んできた。
まっすぐな視線がリドルの輪郭をなぞるように注がれる。
その瞬間リドルの喉の奥が小さく鳴った。
近づきすぎだ。
そう言って一歩下がればいいハズなのに、足が床に縫い付けられたように動かない。それどころか、もっと近くで彼女の呼吸を感じていたいと思ってしまう自分がいる。
「本当に大丈夫ですか?」
ななしが自身の両手をリドルの頬にそっと近づけた。
触れるか触れないか、そんな微かな距離。
手のひらから伝わってくる彼女自身の体温。それはリドルにとって、どんな厳格な規則よりも強烈に理性を揺さぶるものだった。
「ななし……」
「はい?」
「キミは、ボクをどうしたいんだい」
ぽつりと言葉が零れ落ちる。
いつの間にかキャンディの甘さは完全に消えていた。代わりに言葉にできない熱い何かが二人の間に確かな質量を持って居座っている。
「どうしたい、って……わたしはただ、先輩が心配で」
「ボクの心配なら、しなくていい。それよりも……」
リドルはゆっくりと手を伸ばし、自分の頬の近くにあった彼女の手首をそっと優しく包み込んだ。
触れた瞬間に伝わる柔らかい皮膚の感触と、ドクドクと脈打つ確かな鼓動。それが自分のものなのか、それとも彼女のものなのか、もう判別がつかなくなっていた。
「あ……」
ななしが小さく息を呑む。
部屋の隅に落ちる影が夕暮れの光に追われて少しずつ長くなっていく。二人の視線は交わったまま外すことができなくなっていた。
お互いの体温を確かめ合うような静寂の後、リドルはふっと小さく息を吐いた。少しだけおそるおそる重ねられていたななしの手のひらへ、今度は自分からそっと力を込めて握り直す。
「リドル先輩……?」
「……なんだい。ボクがキミの手を握ったら、そんなに不思議そうな顔をするのかい」
「いえ、そういうわけじゃ……ただ、ちょっとびっくりしただけです」
少しだけきまり悪そうに視線を逸らしたリドルの耳尖は、夕暮れの光も手伝ってか、ほんのりと赤く染まっている。
寮長としての顔ではなく、等身大の男の子としての表情がそこにはあった。すべてを投げ出すような重い執着ではなく、ただ純粋に目の前の少女が愛おしくてたまらないという初々しい感情が、二人の間に心地よい風を吹かせる。
「キミのせいで、ボクのペースはすっかり乱されっぱなしだ。……でも、不思議と嫌な気分じゃないんだ」
「それなら良かったです。リドル先輩、いつも頑張りすぎですから」
「キミに言われたくはないさ。ボクから見れば、キミだって相当な無理をしている」
「お互い様、ですね」
ななしがいたずらっぽく笑うと、リドルもつられて柔らかく微笑んだ。
自分の世界の中心に彼女がストンと収まった感覚。
それは窮屈なものではなく、むしろ今まで縛られていた頑なな心を、そっと外へ連れ出してくれるような解放感に満ちていた。
「さあ、お喋りはここまでだ。書類も片付いたことだし、そろそろ戻ろうか」
「はい! あ、でも、その前に……」
「なんだい?」
「そのイチゴのキャンディ、もう一個あるんですけど、食べます?」
ポケットから再び差し出された小さな包みにリドルは今度は迷わずに手を伸ばした。
「いただくよ。ハーツラビュルの規則にも、キミからの贈り物を断るなんてルールは存在しないからね」
繋いでいた手を名残惜しそうに離しながらも二人の足取りは驚くほど軽かった。窓の外に広がる夕焼け空はどこまでも澄み渡り、二人の未来を祝福するように爽やかなオレンジ色に輝いていた。
