ポムフィオーレ
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「おや、そこにいるのは愛しのトリックスターじゃないか!」
廊下に響く朗らかな声と同時に軽快な足音が近づいてくる。振り返るよりも早く頭上から華やかな気配が降り注いだ。ルークはいつも通りの美しい微笑みを浮かべ、こちらを覗き込んでいる。
「こんにちは、ルーク先輩。今日も元気そうですね」
「元気とも! キミの姿をこうして視界に収めることができたのだからね。あぁ、今日のキミもまるで朝露に濡れた若葉のように瑞々しく、私の心を躍らせてくれる」
「ありがとうございます。いつも褒めてくれて嬉しいです」
「おやおや、ずいぶんとあっさりとした返事だね? 私は大真面目にキミへの愛を叫んでいるのだけど、どうやらキミの胸の奥までは届いていないらしい」
ルークはわざとらしく肩を落とし、大袈裟にため息をついてみせる。しかし、その瞳の奥にある光は少しも翳っていない。むしろ面白がるような、観察するような鋭さが瞬いた。
「ルーク先輩の愛は、いつもスケールが大きいですから。みんなにそうやって声をかけているの本当にすごいと思います」
「ノン! 誰にでもだなんて誤解をしてはいけないよ。私は美しいものを美しいと称えているだけさ。そして今の私にとって最も情熱を傾けたい対象が誰であるか、キミはまだ気づかないのかい?」
「私ですか? 毎日こうして声をかけてもらえるのは光栄です。おかげで今日も一日頑張れそうな気がします」
「ふふ、そういう前向きなところもキミの美徳だ。だが、私の言葉をただの挨拶代わりにされてしまうのは少々寂しいものがあるね」
ルークは一歩、距離を詰めてくる。ほんの少しだけ視線が重なり、相手のまとっている特有の空気感が肌に触れる。それは決して不快なものではなく、どこか心地よい緊張感を伴うものだった。
「寂しいだなんて、そんなこと言わないでください。私はルーク先輩の話を聞くの、すごく楽しいですよ」
「おや、本当に? それは嬉しい言葉だ。では、今日の放課後は私のために時間を割いてはくれないだろうか。キミと一緒に初夏の風を感じながら散歩でもしたい気分なのだよ」
「放課後ですか? すみません、今日は食堂の手伝いと、その後に図書室で調べ物があるんです。また今度でもいいですか?」
「おやおや、それは残念だ。トリックスターは今日も大忙しというわけだね。学園のために奔走する姿も健気で美しいが、あまり無理をしてはいけないよ」
「大丈夫です。慣れていますから」
「キミがそうやって笑うたびに、私の胸には小さな矢が突き刺さる。狩人たる私が、まさか逆に射抜かれ続けることになるなんて、人生は本当に予測不可能で素晴らしい!」
ルークは胸に手を当てて大袈裟に天を仰ぐ。その一連の動作はいつ見てもどこまでが本気で、どこからが冗談なのか判別がつかない。
「ルーク先輩って、本当に表現が豊かですよね」
「私の言葉がキミの心に少しでも引っかかってくれているなら、これ以上の喜びはないよ。ところで、図書室の調べ物というのは課題のことかい? もしそうなら、私に手伝えることがあれば何でも言ってほしい」
「いえ、自分でやらないと意味がないので。でも、どうしても分からなくなったら、その時は頼らせてください」
「あぁ、いつでも歓迎するよ。私の知識も私の時間も、すべてはキミのためにあるのだから。いつでも私を呼び出して好きなように使ってくれて構わない」
ルークは悪戯っぽく微笑みながら、そっと手を伸ばしてくる。その指先がこちらの制服の襟元を優しく整えた。指がわずかに触れた瞬間、どこか捕食者を思わせるような確かな熱が微かに伝わってくる。
「……あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。さて、私はそろそろ次の教室へ向かわねばならない時間だ。愛しのトリックスター、また後で。キミの行く道に溢れんばかりの光があらんことを!」
ルークは華麗に身を翻すと、髪を揺らしながら歩き去っていく。その背中を見送りながら、少しだけいつもとは違う胸のざわつきを覚える。しかしそれが何であるかを深く考える前に、次の予定を告げる鐘の音が静かに響き渡った。
◇
「おや、まさかこんな時間に図書室でキミと二人きりになれるなんて。今日の私は世界で一番の幸運に恵まれているようだ」
静まり返った室内で、背後から滑り込んできた声はいつもよりずっと低く耳の奥に直接届いた。驚いて振り返ると、すぐ近くにルークの姿がある。
「ルーク先輩。調べ物は終わったんですか?」
「あぁ、私の用事はすっかり済んでしまったよ。それよりもキミだ。そんなに眉間に皺を寄せて古い書物とにらめっこをしていては、せっかくの愛らしい顔が台無しになってしまうよ」
ルークは隣の席に音もなく腰を下ろす。机を挟まないその距離は、昼間の廊下で話していた時よりも明らかに近かった。彼が動くたびに、微かな衣擦れの音と体温の気配がこちらへ流れてくる。
「どうしてもこの魔術史の記述が理解できなくて。翻訳の仕方が間違っているんでしょうか」
「私に見せてごらん。ふむ……なるほどね。これは古い時代の独特な比喩表現が使われているのだよ。彼らは直接的な言葉を嫌い、すべてを天体や狩猟の儀式に喩えて書き残した」
ルークが手元を覗き込んできた。肩と肩が触れ合いそうなほど距離が縮まり、彼の呼吸のテンポが自分のそれと重なるのを感じる。なぜだか少し喉の奥が渇くような感覚がした。
「天体や、狩猟……ですか?」
「そうさ。例えばこの一節、これは単なる自然描写ではなく、張り詰めた魂が愛する存在によって満たされる瞬間を表している。ロマンチックだと思わないかい?」
「そう言われると、そう見えてきますね。ルーク先輩は本当に何でも知っていますね」
「私が知っているのは、美しいものへと至る道筋だけさ。そして今、私のすぐ隣には、その何よりも解き明かしたい謎がある」
ルークの視線が、開かれた頁からこちらへと移る。
まっすぐに見つめられると、体の中の血の巡りが急に早くなるような不思議な熱さがじわじわと広がっていく。
「あの、ルーク先輩? 私の顔に何かついていますか?」
「ノン。何もついていないよ。ただ、キミのまっすぐな瞳が私を映している、その事実があまりにも眩しくてね。キミはいつも私の言葉を冗談のように受け流すが、私の心臓がキミの仕草ひとつでどれほど激しく脈打っているか想像したことはあるかい?」
「ルーク先輩の冗談は、いつも迫真ですから。でも、そうやって褒めてもらえると、なんだか照れます」
「ふふ、照れているのかい? 確かに今のキミの耳は、夕暮れ時の果実のように愛らしい色に染まっている」
ルークがふっと目を細め細い指先を伸ばしてきた。触れられると思った瞬間に指は手前で止まり、机の上に置かれていた自分の手へと向かう。彼の指先がこちらの甲をなぞるようにしてゆっくりと重ねられた。
「あ……」
肌と肌が合わさった場所から、容赦のない熱が伝わってくる。ルークの手は、いつも見せる優雅な挙動からは想像できないほど熱く、そして強固だった。逃げることを許さないような確かな力強さがそこにある。
「ルーク、先輩?」
「私はいつだって本気だよ。キミがどれだけ鈍く、どれだけはぐらかそうとも、私の放った矢はすでにキミの胸元へ届いているはずだ。聞こえるかい? 私の胸の鼓動が。キミを求める、この確かなリズムが」
重なる手のひらから彼の鼓動が自分の脈拍と混ざり合っていく。それは日常の穏やかなやり取りとは一線を画す、じっとりとした熱を帯びていた。頭の芯が少しだけ痺れたように重くなり次の言葉がうまく見つからない。
「……静かにしないと、怒られてしまいます」
「おや、それは困るね。では、この話の続きは、もっと静かで二人きりになれる場所へ持ち越すとしようか」
ルークは声をさらに潜め妖しく微笑んだ。
重ねられた手の力がわずかに強まり、彼の体温がじわじわと肌の奥深くまで浸透していく。放課後の図書室を包む静寂が急に息苦しいほどの密度を持って二人を閉じ込め始めていた。
「驚いた顔も本当に愛らしいね。まるで森の中で不意に光を浴びた小鳥のようだ」
囁きは鼓膜を甘く揺らし意識の深いところへと沈み込んでいく。ルークの指先が重ねられた手のひらから滑るようにして、今度は手首の細い部分を捉えた。
脈打つ場所を正確に指で押さえられ、自らの心臓の音が彼の手を介して外へと漏れ聞こえているような錯覚に陥る。
「ルーク先輩、あの、近いです……」
「近いかい? だが、私にとってはこれでもまだ、遠くて仕方が無いのさ。キミの心のいちばん深い場所に触れるには、この肉体という器は少々もどかしい」
彼の吐息が頬のすぐ近くをかすめていく。
いつもなら朗らかに響くはずのその声は、今は低く湿り気を帯びて室内の空気をじっとりと満たしていた。
なぜだか指先ひとつ動かすことができず、ただ彼から発せられる圧倒的な存在感に全身の感覚が支配されていく。
「いつも、冗談ばかりだと思っていました。みんなに、綺麗だとか、愛しているとか、言っているから」
「あぁ、確かに私は世界中の美を愛している。それは偽りのない事実だ。けれどねトリックスター。胸が締め付けられるような、喉が激しく渇くような、そんな焦燥を伴う感情を教えてくれたのは、後にも先にもキミだけなのだよ」
ルークの瞳が至近距離で怪しく光を放った。
その中に、ひどく熱く歪んだ情熱がゆらめいているのがはっきりと見える。彼はただの優しい先輩でも風変わりな芸術家でもない。獲物を確実に追い詰める獰猛な狩人の本性がそこにあった。
「……私の、どこがそんなに、」
「すべてさ。私の言葉に首を傾げるその仕草も、私をただの先輩として信頼しきっているその無防備さも。キミが私を拒まないたびに、私の内側でどれほどの獣が暴れ狂っているか、キミは本当に何も知らなかったのだろうね」
ルークの手がそっとこちらの頬に触れた。熱い指先が輪郭をなぞるようにして耳の後ろ、そして首筋へと滑り降りていく。
触れられた場所がじりじりと焼けるように熱い。
彼の体温が衣服を透過し肌の奥の細胞ひとつひとつにまで染み込んでいくような恐怖と、それ以上の抗えない高揚感が、頭の中を白く染めていく。
「ルーク、先輩、わたし、」
「あぁ、もっと名前を呼んでおくれ。もっとその声で、私を狂わせてほしい。キミがそうして熱い吐息を漏らすだけで、私は自分の理性を繋ぎ止めるのに必死になるのだから」
ルークの顔がさらに近づき、視界のすべてが彼の色で埋め尽くされる。逃げ場のない静寂の中、二人の呼吸の音だけがやけに大きく重なり合っていた。彼の手のひらが首筋に留まり親指がそっと顎を持ち上げる。
「トリックスター。……いや、ななしくん。もう冗談だなんて言わせないよ」
完全に退路を断たれたその瞬間、ルークの唇が触れ合いそうなほど至近距離で弧を描いた。図書室の冷ややかな空気の中で、二人だけの空間だけがまるで沸騰したかのように濃密な熱を放ち続けていた。
廊下に響く朗らかな声と同時に軽快な足音が近づいてくる。振り返るよりも早く頭上から華やかな気配が降り注いだ。ルークはいつも通りの美しい微笑みを浮かべ、こちらを覗き込んでいる。
「こんにちは、ルーク先輩。今日も元気そうですね」
「元気とも! キミの姿をこうして視界に収めることができたのだからね。あぁ、今日のキミもまるで朝露に濡れた若葉のように瑞々しく、私の心を躍らせてくれる」
「ありがとうございます。いつも褒めてくれて嬉しいです」
「おやおや、ずいぶんとあっさりとした返事だね? 私は大真面目にキミへの愛を叫んでいるのだけど、どうやらキミの胸の奥までは届いていないらしい」
ルークはわざとらしく肩を落とし、大袈裟にため息をついてみせる。しかし、その瞳の奥にある光は少しも翳っていない。むしろ面白がるような、観察するような鋭さが瞬いた。
「ルーク先輩の愛は、いつもスケールが大きいですから。みんなにそうやって声をかけているの本当にすごいと思います」
「ノン! 誰にでもだなんて誤解をしてはいけないよ。私は美しいものを美しいと称えているだけさ。そして今の私にとって最も情熱を傾けたい対象が誰であるか、キミはまだ気づかないのかい?」
「私ですか? 毎日こうして声をかけてもらえるのは光栄です。おかげで今日も一日頑張れそうな気がします」
「ふふ、そういう前向きなところもキミの美徳だ。だが、私の言葉をただの挨拶代わりにされてしまうのは少々寂しいものがあるね」
ルークは一歩、距離を詰めてくる。ほんの少しだけ視線が重なり、相手のまとっている特有の空気感が肌に触れる。それは決して不快なものではなく、どこか心地よい緊張感を伴うものだった。
「寂しいだなんて、そんなこと言わないでください。私はルーク先輩の話を聞くの、すごく楽しいですよ」
「おや、本当に? それは嬉しい言葉だ。では、今日の放課後は私のために時間を割いてはくれないだろうか。キミと一緒に初夏の風を感じながら散歩でもしたい気分なのだよ」
「放課後ですか? すみません、今日は食堂の手伝いと、その後に図書室で調べ物があるんです。また今度でもいいですか?」
「おやおや、それは残念だ。トリックスターは今日も大忙しというわけだね。学園のために奔走する姿も健気で美しいが、あまり無理をしてはいけないよ」
「大丈夫です。慣れていますから」
「キミがそうやって笑うたびに、私の胸には小さな矢が突き刺さる。狩人たる私が、まさか逆に射抜かれ続けることになるなんて、人生は本当に予測不可能で素晴らしい!」
ルークは胸に手を当てて大袈裟に天を仰ぐ。その一連の動作はいつ見てもどこまでが本気で、どこからが冗談なのか判別がつかない。
「ルーク先輩って、本当に表現が豊かですよね」
「私の言葉がキミの心に少しでも引っかかってくれているなら、これ以上の喜びはないよ。ところで、図書室の調べ物というのは課題のことかい? もしそうなら、私に手伝えることがあれば何でも言ってほしい」
「いえ、自分でやらないと意味がないので。でも、どうしても分からなくなったら、その時は頼らせてください」
「あぁ、いつでも歓迎するよ。私の知識も私の時間も、すべてはキミのためにあるのだから。いつでも私を呼び出して好きなように使ってくれて構わない」
ルークは悪戯っぽく微笑みながら、そっと手を伸ばしてくる。その指先がこちらの制服の襟元を優しく整えた。指がわずかに触れた瞬間、どこか捕食者を思わせるような確かな熱が微かに伝わってくる。
「……あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。さて、私はそろそろ次の教室へ向かわねばならない時間だ。愛しのトリックスター、また後で。キミの行く道に溢れんばかりの光があらんことを!」
ルークは華麗に身を翻すと、髪を揺らしながら歩き去っていく。その背中を見送りながら、少しだけいつもとは違う胸のざわつきを覚える。しかしそれが何であるかを深く考える前に、次の予定を告げる鐘の音が静かに響き渡った。
◇
「おや、まさかこんな時間に図書室でキミと二人きりになれるなんて。今日の私は世界で一番の幸運に恵まれているようだ」
静まり返った室内で、背後から滑り込んできた声はいつもよりずっと低く耳の奥に直接届いた。驚いて振り返ると、すぐ近くにルークの姿がある。
「ルーク先輩。調べ物は終わったんですか?」
「あぁ、私の用事はすっかり済んでしまったよ。それよりもキミだ。そんなに眉間に皺を寄せて古い書物とにらめっこをしていては、せっかくの愛らしい顔が台無しになってしまうよ」
ルークは隣の席に音もなく腰を下ろす。机を挟まないその距離は、昼間の廊下で話していた時よりも明らかに近かった。彼が動くたびに、微かな衣擦れの音と体温の気配がこちらへ流れてくる。
「どうしてもこの魔術史の記述が理解できなくて。翻訳の仕方が間違っているんでしょうか」
「私に見せてごらん。ふむ……なるほどね。これは古い時代の独特な比喩表現が使われているのだよ。彼らは直接的な言葉を嫌い、すべてを天体や狩猟の儀式に喩えて書き残した」
ルークが手元を覗き込んできた。肩と肩が触れ合いそうなほど距離が縮まり、彼の呼吸のテンポが自分のそれと重なるのを感じる。なぜだか少し喉の奥が渇くような感覚がした。
「天体や、狩猟……ですか?」
「そうさ。例えばこの一節、これは単なる自然描写ではなく、張り詰めた魂が愛する存在によって満たされる瞬間を表している。ロマンチックだと思わないかい?」
「そう言われると、そう見えてきますね。ルーク先輩は本当に何でも知っていますね」
「私が知っているのは、美しいものへと至る道筋だけさ。そして今、私のすぐ隣には、その何よりも解き明かしたい謎がある」
ルークの視線が、開かれた頁からこちらへと移る。
まっすぐに見つめられると、体の中の血の巡りが急に早くなるような不思議な熱さがじわじわと広がっていく。
「あの、ルーク先輩? 私の顔に何かついていますか?」
「ノン。何もついていないよ。ただ、キミのまっすぐな瞳が私を映している、その事実があまりにも眩しくてね。キミはいつも私の言葉を冗談のように受け流すが、私の心臓がキミの仕草ひとつでどれほど激しく脈打っているか想像したことはあるかい?」
「ルーク先輩の冗談は、いつも迫真ですから。でも、そうやって褒めてもらえると、なんだか照れます」
「ふふ、照れているのかい? 確かに今のキミの耳は、夕暮れ時の果実のように愛らしい色に染まっている」
ルークがふっと目を細め細い指先を伸ばしてきた。触れられると思った瞬間に指は手前で止まり、机の上に置かれていた自分の手へと向かう。彼の指先がこちらの甲をなぞるようにしてゆっくりと重ねられた。
「あ……」
肌と肌が合わさった場所から、容赦のない熱が伝わってくる。ルークの手は、いつも見せる優雅な挙動からは想像できないほど熱く、そして強固だった。逃げることを許さないような確かな力強さがそこにある。
「ルーク、先輩?」
「私はいつだって本気だよ。キミがどれだけ鈍く、どれだけはぐらかそうとも、私の放った矢はすでにキミの胸元へ届いているはずだ。聞こえるかい? 私の胸の鼓動が。キミを求める、この確かなリズムが」
重なる手のひらから彼の鼓動が自分の脈拍と混ざり合っていく。それは日常の穏やかなやり取りとは一線を画す、じっとりとした熱を帯びていた。頭の芯が少しだけ痺れたように重くなり次の言葉がうまく見つからない。
「……静かにしないと、怒られてしまいます」
「おや、それは困るね。では、この話の続きは、もっと静かで二人きりになれる場所へ持ち越すとしようか」
ルークは声をさらに潜め妖しく微笑んだ。
重ねられた手の力がわずかに強まり、彼の体温がじわじわと肌の奥深くまで浸透していく。放課後の図書室を包む静寂が急に息苦しいほどの密度を持って二人を閉じ込め始めていた。
「驚いた顔も本当に愛らしいね。まるで森の中で不意に光を浴びた小鳥のようだ」
囁きは鼓膜を甘く揺らし意識の深いところへと沈み込んでいく。ルークの指先が重ねられた手のひらから滑るようにして、今度は手首の細い部分を捉えた。
脈打つ場所を正確に指で押さえられ、自らの心臓の音が彼の手を介して外へと漏れ聞こえているような錯覚に陥る。
「ルーク先輩、あの、近いです……」
「近いかい? だが、私にとってはこれでもまだ、遠くて仕方が無いのさ。キミの心のいちばん深い場所に触れるには、この肉体という器は少々もどかしい」
彼の吐息が頬のすぐ近くをかすめていく。
いつもなら朗らかに響くはずのその声は、今は低く湿り気を帯びて室内の空気をじっとりと満たしていた。
なぜだか指先ひとつ動かすことができず、ただ彼から発せられる圧倒的な存在感に全身の感覚が支配されていく。
「いつも、冗談ばかりだと思っていました。みんなに、綺麗だとか、愛しているとか、言っているから」
「あぁ、確かに私は世界中の美を愛している。それは偽りのない事実だ。けれどねトリックスター。胸が締め付けられるような、喉が激しく渇くような、そんな焦燥を伴う感情を教えてくれたのは、後にも先にもキミだけなのだよ」
ルークの瞳が至近距離で怪しく光を放った。
その中に、ひどく熱く歪んだ情熱がゆらめいているのがはっきりと見える。彼はただの優しい先輩でも風変わりな芸術家でもない。獲物を確実に追い詰める獰猛な狩人の本性がそこにあった。
「……私の、どこがそんなに、」
「すべてさ。私の言葉に首を傾げるその仕草も、私をただの先輩として信頼しきっているその無防備さも。キミが私を拒まないたびに、私の内側でどれほどの獣が暴れ狂っているか、キミは本当に何も知らなかったのだろうね」
ルークの手がそっとこちらの頬に触れた。熱い指先が輪郭をなぞるようにして耳の後ろ、そして首筋へと滑り降りていく。
触れられた場所がじりじりと焼けるように熱い。
彼の体温が衣服を透過し肌の奥の細胞ひとつひとつにまで染み込んでいくような恐怖と、それ以上の抗えない高揚感が、頭の中を白く染めていく。
「ルーク、先輩、わたし、」
「あぁ、もっと名前を呼んでおくれ。もっとその声で、私を狂わせてほしい。キミがそうして熱い吐息を漏らすだけで、私は自分の理性を繋ぎ止めるのに必死になるのだから」
ルークの顔がさらに近づき、視界のすべてが彼の色で埋め尽くされる。逃げ場のない静寂の中、二人の呼吸の音だけがやけに大きく重なり合っていた。彼の手のひらが首筋に留まり親指がそっと顎を持ち上げる。
「トリックスター。……いや、ななしくん。もう冗談だなんて言わせないよ」
完全に退路を断たれたその瞬間、ルークの唇が触れ合いそうなほど至近距離で弧を描いた。図書室の冷ややかな空気の中で、二人だけの空間だけがまるで沸騰したかのように濃密な熱を放ち続けていた。
