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「あの、ジェイド先輩」
「はい、何でしょう」
「いえ、その、少し距離が近いような気がしまして」
「そうですか? いつも通りだと思いますが」
窓の外には夕暮れが迫っている。ジェイドは穏やかに微笑んだまま一歩も引く様子がない。むしろ影が重なるほどに距離を詰めてくる。
「気のせい、でしょうか」
「ええ、きっと気のせいですよ。それとも、僕のことが気になりますか?」
「状況という意味じゃなくて。ただその、影が」
「影、ですか」
ジェイドが自身の足元に目を落とす。
二人の影は床の上で完全に一つに溶け合っていた。
「本当ですね。まるで最初からひとつの境界線しか持たない生き物のようです」
「……からかわないでください」
「からかってなどいませんよ。僕はいつでも大真面目です」
ふわりとジェイドの制服から微かに香る匂いが鼻腔をくすぐった。それは彼がよく好む、どこか冷ややかで、けれど落ち着く不思議な香りだった。
「ななしさん、手元が少しお留守になっています。この書類、次の式典で使うものですから順番を間違えると大変なことになりますよ」
「あ、すみません。ええと、これがこっちで」
「違います。それはアズールの手元に回す分です。あなたが持つべきなのはそちらの青いファイルの方ですね」
ジェイドの指先がななしの手元へ伸びる。
ジェイドの指がほんの一瞬、ななしの指背を掠めた。カサリと紙の擦れる音が妙に大きく響く。
「あ……」
「おや、冷たい手ですね。オンボロ寮は、もう冷え込みますか?」
「いえ、そんなことは。最近は温かくなってきましたし」
「なら、どうしてそんなに強張っているのでしょう」
覗き込んでくる瞳が夕暮れの光を反射して怪しく煌めく。すべてを見透かしているような、あるいは見透かした上で楽しんでいるような、そんな視線だった。
「ジェイド先輩が見つめるからです」
「僕があなたを見るのは、ごく自然なことだと思うのですが」
「自然、ですか?」
「ええ。目の前に愛らしい後輩がいれば視線を奪われるのは当然でしょう?」
ジェイドは事も無げに言ってみせる。その声音には嘘も気負いも感じられない。だからこそ受け取る側は言葉の重さに迷うことになる。
「また、そうやって先輩は」
「おや、信用されていませんね。悲しいことです。僕の言葉はいつだって本心から紡がれているというのに」
「本心がどこにあるか分からないから、みんな困るんですよ。アズールさんもよく言っています」
「おや、アズールを引き合いに出しますか。彼と僕とでは、あなたに対する態度が全く異なると思うのですがね」
ジェイドの言葉が少しだけ低くなった気がした。
耳元に届くその声の低さにななしの背中が小さく震える。
「どう、違うんですか」
「アズールはあなたを有能な人材として見ている部分が大きい。ですが、僕は――」
言葉が途切れる。
ジェイドはななしの手元から書類をそっと取り上げ近くの棚へと置いた。完全に両手が自由になったななしの前に再びその大きな身体が立ちはだかる。
「僕は、ただのななしさんとして、あなたを見ていますよ」
「ただの、わたし」
「ええ。監督生という肩書も異世界から来た迷い人という境遇も関係なく。ただのあなたに興味があるのです」
「……ずるいです」
「ずるい、とは心外ですね。僕はこれでも、かなり分かりやすくアプローチをしているつもりなのですが」
「それが冗談か本気か分からないからずるいんです」
「では、確かめてみますか?」
ジェイドが僅かに身を屈め視線の高さを合わせてくる。
彼の長い前髪が揺れ、隙間から覗く瞳がこちらの反応を値踏みするように固定された。
「どうやって、確かめるんですか」
「簡単ですよ。僕がこれからすることに、あなたがどう反応するか。それで答えは出ます」
ジェイドの手がななしの頬へと伸びる。
触れるか触れないかの距離で止まっていた彼の指先が、今度は躊躇いなく動き、顎の輪郭をそっと撫でた。ひんやりとした皮膚の感覚が、じわりと熱を帯びたななしの肌に染み込んでいく。
「ジェイド先輩」
「はい」
「やっぱり、近いです」
「知っています。僕が近づいているのですから」
悪びれる風もなく笑う彼の表情は酷く優しく、そしてどこか酷薄だった。
夕闇が完全に廊下を支配し始め、窓外からは夜の虫の声が微かに届き始めている。
「緊張していますね、ななしさん」
「……ジェイド先輩が、そういう空気にするからです」
「おや、僕のせいにしますか。僕はただ、あなたの傍にいたいだけなのですが」
「その言い方が、もう」
言葉を詰まらせるななしを見てジェイドは喉の奥で低く笑った。
彼の胸元が小さく上下する。その動きに合わせてジェイドの香りが一段と濃く漂い、廊下の空気を満たしていく。
「呼吸が浅くなっていますよ。そんなに身構えなくとも、あなたを捕まえて食べたりはしません」
「本当ですか? 人魚は人間を惑わすって、本で読んだことがあります」
「それは偏見というものです。僕たちが陸のルールに従っている以上、そんな野蛮な真似はしませんよ。……まあ、あなたが望むなら話は別ですが」
「望みません」
即座に返すと、ジェイドは満足そうに目を細めた。
彼の親指がななしの下唇の端を優しく、まるでお気に入りのガラス細工の汚れを拭うように滑る。その皮膚の柔らかさと裏側に隠された骨の硬さがダイレクトに伝ってくる。
「ふふ、良い返事です。ですが、その割には僕から逃げようとはなさいませんね」
「それは、その……」
「書類なら、もう棚に置きましたよ。いつでもそこから立ち去ることはできるはずです」
ジェイドの言う通りだった。
体はどこも拘束されていない。彼の腕が壁を塞いでいるわけでも、退路を断たれているわけでもない。それなのに、ななしの足元は床に縫い付けられたように動かなかった。
「……動いたら、追いかけてくるでしょう?」
「ええ、もちろん。地の果てまで、海の底まで、あなたの影を追うように」
冗談めかした口調の裏に本物の質量を持った執着が透けて見える。
ジェイドの瞳の奥が、じっとななしの瞳を捉えて離さない。見つめられているだけで胸の奥が切なく収縮する。
「ジェイド先輩、ちょっと意地悪が過ぎます」
「意地悪、ですか。僕はあなたに対して、いつでも誠実でありたいと思っているのですがね」
「嘘です。今だって、こちらが困るのを楽しんでいます」
「困っているあなたを見るのが好きだというのは認めましょう。ですが、それはあなたが僕の前でしか見せない顔だからですよ」
ジェイドの顔がさらに一寸近づいた。
彼の吐息がななしの鼻先を掠めていく。それは冷ややかな彼の体温に反して驚くほど熱を持っていた。
「学園の他のみなさんに向けるような、ありきたりな笑顔はいりません。僕が欲しいのは、僕の言葉に揺さぶられ、僕の手のひらで呼吸を乱す、あなただけです」
「それって、ただの……」
「ただの、何ですか?」
「……なんでも、ないです」
独占欲、という言葉が喉まで出かかってななしはそれを飲み込んだ。そんな大それた言葉を口にして、もし違ったらという恐怖が頭をもたげる。けれど、その唇を弄ぶジェイドの指先は言葉以上の熱を雄弁に物語っていた。
「言いたいことがあるなら、どうぞ。僕はあなたの言葉なら、どんなに小さな呟きでも拾い上げますよ」
「……言いません。これ以上、翻弄されたくないですから」
「頑なですね。そういうところも酷く愛らしいですが」
ジェイドが小さく息を吐き出し、顎に触れていた手を、ゆっくりとななしの髪へと移動させた。
指先が髪の隙間に潜り込み地肌に触れる。その瞬間、ゾクリとした戦慄が背筋を駆け抜けた。
「ななしさん」
「はい」
「あなたの心音が、ここまで聞こえてきそうですよ」
「聞こえるわけ、ないです。そんなの、大袈裟です」
「いいえ。僕にはハッキリと聞こえます。あなたの血が巡る音も僕を呼ぶ声も」
幻聴の網を張るようにジェイドの声が鼓膜の奥へと染み渡っていく。
境界線が完全に融解していくのを、お互いの距離が証明していた。
ジェイドの指先が髪の奥へと滑り込むたび、ななしの小さな肩が微かに跳ねる。その反応を一つも見落とさないように、ジェイドは至近距離から視線を固定し続けていた。
「ジェイド先輩、もう、夜になります」
「ええ、そうですね。誰も来ない僕たちだけの時間です」
「帰らないと。アズールさんたちが待っています」
「彼らのことは気にしなくていいのですよ。今は僕のことだけを考えてください」
ジェイドの声音から、いつも崩さない丁寧なだけの響きが消えかけていた。低く絡みつくような響きが、ななしの耳元を直接揺らす。向けられる感情の重さに気圧されながらも、ななしはその場から一歩も退くことができない。
「……そういうの、本当に困ります」
「困っている割には、僕の胸元を掴む手に随分と力がこもっていますが」
「それは、あなたが」
「僕が、何ですか?」
指摘されて初めてななしは自分の指先が彼の制服の生地を固く握りしめていることに気づいた。逃げるためではなく、まるでこれ以上離れてしまわないように繋ぎ止めるかのような無意識の拒絶と依存。ジェイドはそれを見つめ、酷く愛おしそうに目を細める。
「自覚はありませんでしたか。可愛い人だ」
「本気なのか分からないから、訊いているんです」
「からかってなどいませんよ。これほど必死にあなたを求めている僕が、見えませんか」
ジェイドの手のひらがななしの頬を包み込む。
その手の熱は、確かな熱情を帯びていた。互いの呼吸が完全に混ざり合い、熱を帯びた空気が二人の間を行き来する。
「ジェイド先輩は、わたしのことが、その……」
「ええ、好きですよ。言葉にしなければ、伝わりませんか?」
「嘘、みたいだから」と、ななしは小さく零した。
「では、嘘ではないと証明しましょう」
ジェイドの顔が、ついに言い訳の立たない距離まで近づいた。
彼の唇がななしの唇に触れるか触れないかの位置で止まる。躊躇っているのではなくななしが受け入れるのを待っているような、残酷なほどの猶予だった。
「ななしさん。嫌なら、僕を突き放してください」
「そんなこと、できるわけないです」
「ふふ、それはよかった」
重なる唇は驚くほど柔らかく、そして互いの輪郭を確かめ合うように深い。どちらからともなく重ねられた体温は、夜の闇の中でどこまでも濃密に混ざり合っていった。
「はい、何でしょう」
「いえ、その、少し距離が近いような気がしまして」
「そうですか? いつも通りだと思いますが」
窓の外には夕暮れが迫っている。ジェイドは穏やかに微笑んだまま一歩も引く様子がない。むしろ影が重なるほどに距離を詰めてくる。
「気のせい、でしょうか」
「ええ、きっと気のせいですよ。それとも、僕のことが気になりますか?」
「状況という意味じゃなくて。ただその、影が」
「影、ですか」
ジェイドが自身の足元に目を落とす。
二人の影は床の上で完全に一つに溶け合っていた。
「本当ですね。まるで最初からひとつの境界線しか持たない生き物のようです」
「……からかわないでください」
「からかってなどいませんよ。僕はいつでも大真面目です」
ふわりとジェイドの制服から微かに香る匂いが鼻腔をくすぐった。それは彼がよく好む、どこか冷ややかで、けれど落ち着く不思議な香りだった。
「ななしさん、手元が少しお留守になっています。この書類、次の式典で使うものですから順番を間違えると大変なことになりますよ」
「あ、すみません。ええと、これがこっちで」
「違います。それはアズールの手元に回す分です。あなたが持つべきなのはそちらの青いファイルの方ですね」
ジェイドの指先がななしの手元へ伸びる。
ジェイドの指がほんの一瞬、ななしの指背を掠めた。カサリと紙の擦れる音が妙に大きく響く。
「あ……」
「おや、冷たい手ですね。オンボロ寮は、もう冷え込みますか?」
「いえ、そんなことは。最近は温かくなってきましたし」
「なら、どうしてそんなに強張っているのでしょう」
覗き込んでくる瞳が夕暮れの光を反射して怪しく煌めく。すべてを見透かしているような、あるいは見透かした上で楽しんでいるような、そんな視線だった。
「ジェイド先輩が見つめるからです」
「僕があなたを見るのは、ごく自然なことだと思うのですが」
「自然、ですか?」
「ええ。目の前に愛らしい後輩がいれば視線を奪われるのは当然でしょう?」
ジェイドは事も無げに言ってみせる。その声音には嘘も気負いも感じられない。だからこそ受け取る側は言葉の重さに迷うことになる。
「また、そうやって先輩は」
「おや、信用されていませんね。悲しいことです。僕の言葉はいつだって本心から紡がれているというのに」
「本心がどこにあるか分からないから、みんな困るんですよ。アズールさんもよく言っています」
「おや、アズールを引き合いに出しますか。彼と僕とでは、あなたに対する態度が全く異なると思うのですがね」
ジェイドの言葉が少しだけ低くなった気がした。
耳元に届くその声の低さにななしの背中が小さく震える。
「どう、違うんですか」
「アズールはあなたを有能な人材として見ている部分が大きい。ですが、僕は――」
言葉が途切れる。
ジェイドはななしの手元から書類をそっと取り上げ近くの棚へと置いた。完全に両手が自由になったななしの前に再びその大きな身体が立ちはだかる。
「僕は、ただのななしさんとして、あなたを見ていますよ」
「ただの、わたし」
「ええ。監督生という肩書も異世界から来た迷い人という境遇も関係なく。ただのあなたに興味があるのです」
「……ずるいです」
「ずるい、とは心外ですね。僕はこれでも、かなり分かりやすくアプローチをしているつもりなのですが」
「それが冗談か本気か分からないからずるいんです」
「では、確かめてみますか?」
ジェイドが僅かに身を屈め視線の高さを合わせてくる。
彼の長い前髪が揺れ、隙間から覗く瞳がこちらの反応を値踏みするように固定された。
「どうやって、確かめるんですか」
「簡単ですよ。僕がこれからすることに、あなたがどう反応するか。それで答えは出ます」
ジェイドの手がななしの頬へと伸びる。
触れるか触れないかの距離で止まっていた彼の指先が、今度は躊躇いなく動き、顎の輪郭をそっと撫でた。ひんやりとした皮膚の感覚が、じわりと熱を帯びたななしの肌に染み込んでいく。
「ジェイド先輩」
「はい」
「やっぱり、近いです」
「知っています。僕が近づいているのですから」
悪びれる風もなく笑う彼の表情は酷く優しく、そしてどこか酷薄だった。
夕闇が完全に廊下を支配し始め、窓外からは夜の虫の声が微かに届き始めている。
「緊張していますね、ななしさん」
「……ジェイド先輩が、そういう空気にするからです」
「おや、僕のせいにしますか。僕はただ、あなたの傍にいたいだけなのですが」
「その言い方が、もう」
言葉を詰まらせるななしを見てジェイドは喉の奥で低く笑った。
彼の胸元が小さく上下する。その動きに合わせてジェイドの香りが一段と濃く漂い、廊下の空気を満たしていく。
「呼吸が浅くなっていますよ。そんなに身構えなくとも、あなたを捕まえて食べたりはしません」
「本当ですか? 人魚は人間を惑わすって、本で読んだことがあります」
「それは偏見というものです。僕たちが陸のルールに従っている以上、そんな野蛮な真似はしませんよ。……まあ、あなたが望むなら話は別ですが」
「望みません」
即座に返すと、ジェイドは満足そうに目を細めた。
彼の親指がななしの下唇の端を優しく、まるでお気に入りのガラス細工の汚れを拭うように滑る。その皮膚の柔らかさと裏側に隠された骨の硬さがダイレクトに伝ってくる。
「ふふ、良い返事です。ですが、その割には僕から逃げようとはなさいませんね」
「それは、その……」
「書類なら、もう棚に置きましたよ。いつでもそこから立ち去ることはできるはずです」
ジェイドの言う通りだった。
体はどこも拘束されていない。彼の腕が壁を塞いでいるわけでも、退路を断たれているわけでもない。それなのに、ななしの足元は床に縫い付けられたように動かなかった。
「……動いたら、追いかけてくるでしょう?」
「ええ、もちろん。地の果てまで、海の底まで、あなたの影を追うように」
冗談めかした口調の裏に本物の質量を持った執着が透けて見える。
ジェイドの瞳の奥が、じっとななしの瞳を捉えて離さない。見つめられているだけで胸の奥が切なく収縮する。
「ジェイド先輩、ちょっと意地悪が過ぎます」
「意地悪、ですか。僕はあなたに対して、いつでも誠実でありたいと思っているのですがね」
「嘘です。今だって、こちらが困るのを楽しんでいます」
「困っているあなたを見るのが好きだというのは認めましょう。ですが、それはあなたが僕の前でしか見せない顔だからですよ」
ジェイドの顔がさらに一寸近づいた。
彼の吐息がななしの鼻先を掠めていく。それは冷ややかな彼の体温に反して驚くほど熱を持っていた。
「学園の他のみなさんに向けるような、ありきたりな笑顔はいりません。僕が欲しいのは、僕の言葉に揺さぶられ、僕の手のひらで呼吸を乱す、あなただけです」
「それって、ただの……」
「ただの、何ですか?」
「……なんでも、ないです」
独占欲、という言葉が喉まで出かかってななしはそれを飲み込んだ。そんな大それた言葉を口にして、もし違ったらという恐怖が頭をもたげる。けれど、その唇を弄ぶジェイドの指先は言葉以上の熱を雄弁に物語っていた。
「言いたいことがあるなら、どうぞ。僕はあなたの言葉なら、どんなに小さな呟きでも拾い上げますよ」
「……言いません。これ以上、翻弄されたくないですから」
「頑なですね。そういうところも酷く愛らしいですが」
ジェイドが小さく息を吐き出し、顎に触れていた手を、ゆっくりとななしの髪へと移動させた。
指先が髪の隙間に潜り込み地肌に触れる。その瞬間、ゾクリとした戦慄が背筋を駆け抜けた。
「ななしさん」
「はい」
「あなたの心音が、ここまで聞こえてきそうですよ」
「聞こえるわけ、ないです。そんなの、大袈裟です」
「いいえ。僕にはハッキリと聞こえます。あなたの血が巡る音も僕を呼ぶ声も」
幻聴の網を張るようにジェイドの声が鼓膜の奥へと染み渡っていく。
境界線が完全に融解していくのを、お互いの距離が証明していた。
ジェイドの指先が髪の奥へと滑り込むたび、ななしの小さな肩が微かに跳ねる。その反応を一つも見落とさないように、ジェイドは至近距離から視線を固定し続けていた。
「ジェイド先輩、もう、夜になります」
「ええ、そうですね。誰も来ない僕たちだけの時間です」
「帰らないと。アズールさんたちが待っています」
「彼らのことは気にしなくていいのですよ。今は僕のことだけを考えてください」
ジェイドの声音から、いつも崩さない丁寧なだけの響きが消えかけていた。低く絡みつくような響きが、ななしの耳元を直接揺らす。向けられる感情の重さに気圧されながらも、ななしはその場から一歩も退くことができない。
「……そういうの、本当に困ります」
「困っている割には、僕の胸元を掴む手に随分と力がこもっていますが」
「それは、あなたが」
「僕が、何ですか?」
指摘されて初めてななしは自分の指先が彼の制服の生地を固く握りしめていることに気づいた。逃げるためではなく、まるでこれ以上離れてしまわないように繋ぎ止めるかのような無意識の拒絶と依存。ジェイドはそれを見つめ、酷く愛おしそうに目を細める。
「自覚はありませんでしたか。可愛い人だ」
「本気なのか分からないから、訊いているんです」
「からかってなどいませんよ。これほど必死にあなたを求めている僕が、見えませんか」
ジェイドの手のひらがななしの頬を包み込む。
その手の熱は、確かな熱情を帯びていた。互いの呼吸が完全に混ざり合い、熱を帯びた空気が二人の間を行き来する。
「ジェイド先輩は、わたしのことが、その……」
「ええ、好きですよ。言葉にしなければ、伝わりませんか?」
「嘘、みたいだから」と、ななしは小さく零した。
「では、嘘ではないと証明しましょう」
ジェイドの顔が、ついに言い訳の立たない距離まで近づいた。
彼の唇がななしの唇に触れるか触れないかの位置で止まる。躊躇っているのではなくななしが受け入れるのを待っているような、残酷なほどの猶予だった。
「ななしさん。嫌なら、僕を突き放してください」
「そんなこと、できるわけないです」
「ふふ、それはよかった」
重なる唇は驚くほど柔らかく、そして互いの輪郭を確かめ合うように深い。どちらからともなく重ねられた体温は、夜の闇の中でどこまでも濃密に混ざり合っていった。
