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始まりはほんの些細なことだった。
一冊の古びた学術書をジャミルに手渡す。
「これ、頼まれていた資料です。でも、なんでわたしがジャミル先輩に直接届けなきゃいけないんですか」
「俺が知るか。そんな気まぐれに付き合うほど俺は暇じゃないんだ。そこに置いておくか、お前が自分で持ち帰ればいいだろう」
ジャミルは手元に広げた別の書物から視線を外さないまま淡々と言い放つ。その視線は差し出された年季の入った装丁ではなく、ただ並んだ文字だけを追っている。
「わたしだって暇じゃありません。ただでさえ明日の課題が終わらなくて焦っているのに」
「文句を言うだけの時間があるなら、さっさと自分の机に向かったらどうだ。」
「……! いつもそうです。ジャミル先輩はそうやって正論でわたしを追い出す。少しは労いの言葉があってもいいじゃないですか」
「なぜ俺が、頼んでもいない使い走りに感謝しなければならない。お前が勝手に引き受けたことだ」
パタンと硬い表紙が閉じる音が静かに響く。ジャミルはようやく顔を上げると正面に立つ姿を射すくめた。
「効率の悪い動き方をしている自覚を持て。だからいつまでも終わらないんだ」
「効率効率って……わたしはただ、先輩の顔を見たら少しは気が楽になるかもって思っただけです!」
「それが甘えだと言っている」
声のトーンは低いまま。しかし言葉の端々に含まれる拒絶の響きが、二人の間の空気をじわじわと侵食していく。
「お前のその、誰にでも良い顔をしようとする悪癖には辟易する」
「誰にでもじゃありません。わたしは、ジャミル先輩だから……」
「だから何だ。俺に特別な対応でも期待していたのか? 買いかぶりすぎだ」
感情を剥き出しにするわけではない。むしろ徹底して冷静であろうとするジャミルの態度がかえって挑発的に映る。
「……もういいです。勝手にすればいいじゃないですか」
「ああ、そうさせてもらう。その資料は置いていけ」
「結構です! これはわたしが自分で戻してきます!」
踵を返し足早にその場を離れようとする。背後から聞こえるはずの引き留める声はやはり聞こえない。ただ重苦しい静寂だけが背中に突き刺さる。
「待て」
歩みを止めようとした瞬間、低く鋭い声が空間を制した。
「なんだ、結局用事があるんじゃないですか」
「出来の悪い課題のノート、忘れてるぞ」
「……っ」
振り返ると、ジャミルの指先が取り残されたノートをトントンと叩いている。その勝ち誇ったような、だがどこか苛立ちを孕んだ視線が全体の温度を確実に数度押し上げていた。
「どこまで手がかかるんだ、お前は」
「ジャミル先輩には関係ありません!」
「関係大ありだ。俺の視界に入る場所でそんな無様な真似をされるのは不愉快極まりない」
一歩、また一歩とジャミルが距離を詰めてくる。
その足音は静かだが確実な圧迫感を持って迫る。
「不愉快なら見なければいいでしょう。先輩には関係ないはずです」
「そうだな。だが、お前が俺の領域に踏み込んできたんだ」
至近距離で立ち塞がるジャミルの体躯が視界の大部分を占拠する。
「……なんですか、どいてください」
「断る。お前がその意固地な態度を改めるまで、ここを通すつもりはない」
「先輩こそ、どうしてそんなに意地悪ばかり言うんですか。わたしのことなんてどうでもいいくせに」
「どうでもいい相手に時間を割くほど俺は優しくない。それくらい、お前だって分かっているはずだ」
ジャミルの手が伸び、逃げ道を塞ぐように位置を固定される。遮られた空間の中で二人の呼吸だけが妙に大きく響き始めた。
「分かっている、なんて……簡単に言わないでください」
至近距離から見下ろすジャミルの瞳に強い光が灯る。いつもの冷静な彼なら、ここまで感情を露わにして他者を組み敷くような真似はしないはずだった。しかし今の彼からは自制の糸が僅かに軋むような、張り詰めた熱が伝わってくる。
「言わなければ、お前は何も理解しないだろう。自分のしていることが、どれだけ他人の計算を狂わせているかも」
「計算って、何ですか……。わたしはただ先輩に会いたくて、少しでも役に立ちたくて……!」
「それが計算違いだと言っているんだ」
ジャミルの声が一段と低く沈む。
「お前がそうやって、無防備に俺の領域へ踏み込んでくるたびに、俺がどれだけの労力を割いて自分を律しているか、考えたこともないだろう」
「律するって……何を、ですか」
「はあ……、全部言わなきゃわからないのか?」
ジャミルの指先がそっと顎を持ち上げる。皮膚と皮膚が触れ合った瞬間、驚くほどの熱が伝わってきた。
「ジャミル、先輩……」
「いつもは上手く隠せているはずなんだ。なのに、なぜお前はそうやって簡単に俺の平穏を掻き乱す」
彼の親指が小さく震えながら唇の端をなぞる。
「……意地悪を言っているわけじゃない、お前が俺にそうさせているんだ」
「そんなの……わたしは、ただ……」
「何だ? 言ってみろ。お前の口から直接聞きたい」
ジャミルの呼吸がすぐ近くで重なる。
彼の視線はもう、書物にも周囲の空間にも向いていない。
ただ目の前にいる存在だけを、深く狂おしいほどの熱量で捉えていた。
「わたしは……先輩に、嫌われたくなくて。でも優しくされないと、不安で……」
「嫌うわけがないだろう。これほど、お前に執着しているというのに」
吐き出された言葉は、本音の形をした質量を持って二人の間に溢れる。ジャミルの瞳の奥にある剥き出しの感情。それがじりじりと音を立ててこちらの肌を焦がしていく。
「お前はいつも、俺の理性を試すような真似ばかりする」
「そんなつもり、ありません……っ」
「自覚がないなら、今ここで教えてやる。お前が俺をどう狂わせているか、その身に分からせてやるから、よく見ていろ」
腕の力が強まり、さらに密着した距離へと引き寄せられる。衣服越しに伝わる彼の鼓動は驚くほど速く力強い。逃げ場のない空間の中で、二人の境界線がその熱によってゆっくりと溶け始めていた。
重なり合う呼吸の合間で、胸の鼓動さえもジャミルに支配されているような錯覚に陥る。強固な腕に囚われたまま、指先一つ動かすことすらままならない。
向けてくる感情の質量があまりにも重く濃密で、頭の芯が痺れていく。ただの意地の張り合いだったはずなのに、いつの間にか互いの内側を曝け出すような、引き返せない領域へと足を踏み入れていた。
「……っ、ジャミル先輩」
降伏を示すように小さく身を縮めると、ジャミルは「今更命乞いでもする気か」と凄んでみせた。
確かにその顔は威圧的で、いつも通り冷徹に見える。――しかし、至近距離だからこそ見えてしまった。
彼の形の良い耳朶が、ほんのりと赤く染まっていることに。
「それって、要するに……」
こちらの視線に気づいたのか、ジャミルが僅かに眉をひそめた。
「最初から、ただの余裕の裏返しだったってことですか?」
「……は?」
ジャミルの思考が一瞬停止する。
完璧に整えられていた彼の表情が、みるみるうちに固まっていく。
「お前、何を――」
「図星ですか?」
クス、と思わず笑みが溢れてしまう。先ほどまでの押し潰されそうだった空気はどこへやら、二人の立場は一瞬にして逆転していた。
「……お前、本当にいい度胸をしているな」
ジャミルは片手で自身の額を押さえ、深く重い溜息を吐き出した。
「誰が照れ隠しなど。俺はただ、お前の要領の悪さに、その……」
「要領の悪さに?」
「……もういい。これ以上言わせるな」
「ふふ、やっぱりそうじゃないですか」
「うるさい。……だが、そうだな。お前の前でだけは、どうにも上手く立ち回れないのは事実だ」
耳元で囁かれた声はいつになく甘く、そして心地よい敗北感を孕んでいた。意地を張り合っていた時間さえも、今では愛おしい温度となって二人の間に静かに満ちていく。
「明日の課題、俺が付き合ってやる。……だから今日はもう、どこにも行くな」
降参とでも言うように、ジャミルの手が髪を優しく撫でる。その甘やかな香りに包まれながら、今度は心からの安心感と共にその温もりに身を委ねた。
一冊の古びた学術書をジャミルに手渡す。
「これ、頼まれていた資料です。でも、なんでわたしがジャミル先輩に直接届けなきゃいけないんですか」
「俺が知るか。そんな気まぐれに付き合うほど俺は暇じゃないんだ。そこに置いておくか、お前が自分で持ち帰ればいいだろう」
ジャミルは手元に広げた別の書物から視線を外さないまま淡々と言い放つ。その視線は差し出された年季の入った装丁ではなく、ただ並んだ文字だけを追っている。
「わたしだって暇じゃありません。ただでさえ明日の課題が終わらなくて焦っているのに」
「文句を言うだけの時間があるなら、さっさと自分の机に向かったらどうだ。」
「……! いつもそうです。ジャミル先輩はそうやって正論でわたしを追い出す。少しは労いの言葉があってもいいじゃないですか」
「なぜ俺が、頼んでもいない使い走りに感謝しなければならない。お前が勝手に引き受けたことだ」
パタンと硬い表紙が閉じる音が静かに響く。ジャミルはようやく顔を上げると正面に立つ姿を射すくめた。
「効率の悪い動き方をしている自覚を持て。だからいつまでも終わらないんだ」
「効率効率って……わたしはただ、先輩の顔を見たら少しは気が楽になるかもって思っただけです!」
「それが甘えだと言っている」
声のトーンは低いまま。しかし言葉の端々に含まれる拒絶の響きが、二人の間の空気をじわじわと侵食していく。
「お前のその、誰にでも良い顔をしようとする悪癖には辟易する」
「誰にでもじゃありません。わたしは、ジャミル先輩だから……」
「だから何だ。俺に特別な対応でも期待していたのか? 買いかぶりすぎだ」
感情を剥き出しにするわけではない。むしろ徹底して冷静であろうとするジャミルの態度がかえって挑発的に映る。
「……もういいです。勝手にすればいいじゃないですか」
「ああ、そうさせてもらう。その資料は置いていけ」
「結構です! これはわたしが自分で戻してきます!」
踵を返し足早にその場を離れようとする。背後から聞こえるはずの引き留める声はやはり聞こえない。ただ重苦しい静寂だけが背中に突き刺さる。
「待て」
歩みを止めようとした瞬間、低く鋭い声が空間を制した。
「なんだ、結局用事があるんじゃないですか」
「出来の悪い課題のノート、忘れてるぞ」
「……っ」
振り返ると、ジャミルの指先が取り残されたノートをトントンと叩いている。その勝ち誇ったような、だがどこか苛立ちを孕んだ視線が全体の温度を確実に数度押し上げていた。
「どこまで手がかかるんだ、お前は」
「ジャミル先輩には関係ありません!」
「関係大ありだ。俺の視界に入る場所でそんな無様な真似をされるのは不愉快極まりない」
一歩、また一歩とジャミルが距離を詰めてくる。
その足音は静かだが確実な圧迫感を持って迫る。
「不愉快なら見なければいいでしょう。先輩には関係ないはずです」
「そうだな。だが、お前が俺の領域に踏み込んできたんだ」
至近距離で立ち塞がるジャミルの体躯が視界の大部分を占拠する。
「……なんですか、どいてください」
「断る。お前がその意固地な態度を改めるまで、ここを通すつもりはない」
「先輩こそ、どうしてそんなに意地悪ばかり言うんですか。わたしのことなんてどうでもいいくせに」
「どうでもいい相手に時間を割くほど俺は優しくない。それくらい、お前だって分かっているはずだ」
ジャミルの手が伸び、逃げ道を塞ぐように位置を固定される。遮られた空間の中で二人の呼吸だけが妙に大きく響き始めた。
「分かっている、なんて……簡単に言わないでください」
至近距離から見下ろすジャミルの瞳に強い光が灯る。いつもの冷静な彼なら、ここまで感情を露わにして他者を組み敷くような真似はしないはずだった。しかし今の彼からは自制の糸が僅かに軋むような、張り詰めた熱が伝わってくる。
「言わなければ、お前は何も理解しないだろう。自分のしていることが、どれだけ他人の計算を狂わせているかも」
「計算って、何ですか……。わたしはただ先輩に会いたくて、少しでも役に立ちたくて……!」
「それが計算違いだと言っているんだ」
ジャミルの声が一段と低く沈む。
「お前がそうやって、無防備に俺の領域へ踏み込んでくるたびに、俺がどれだけの労力を割いて自分を律しているか、考えたこともないだろう」
「律するって……何を、ですか」
「はあ……、全部言わなきゃわからないのか?」
ジャミルの指先がそっと顎を持ち上げる。皮膚と皮膚が触れ合った瞬間、驚くほどの熱が伝わってきた。
「ジャミル、先輩……」
「いつもは上手く隠せているはずなんだ。なのに、なぜお前はそうやって簡単に俺の平穏を掻き乱す」
彼の親指が小さく震えながら唇の端をなぞる。
「……意地悪を言っているわけじゃない、お前が俺にそうさせているんだ」
「そんなの……わたしは、ただ……」
「何だ? 言ってみろ。お前の口から直接聞きたい」
ジャミルの呼吸がすぐ近くで重なる。
彼の視線はもう、書物にも周囲の空間にも向いていない。
ただ目の前にいる存在だけを、深く狂おしいほどの熱量で捉えていた。
「わたしは……先輩に、嫌われたくなくて。でも優しくされないと、不安で……」
「嫌うわけがないだろう。これほど、お前に執着しているというのに」
吐き出された言葉は、本音の形をした質量を持って二人の間に溢れる。ジャミルの瞳の奥にある剥き出しの感情。それがじりじりと音を立ててこちらの肌を焦がしていく。
「お前はいつも、俺の理性を試すような真似ばかりする」
「そんなつもり、ありません……っ」
「自覚がないなら、今ここで教えてやる。お前が俺をどう狂わせているか、その身に分からせてやるから、よく見ていろ」
腕の力が強まり、さらに密着した距離へと引き寄せられる。衣服越しに伝わる彼の鼓動は驚くほど速く力強い。逃げ場のない空間の中で、二人の境界線がその熱によってゆっくりと溶け始めていた。
重なり合う呼吸の合間で、胸の鼓動さえもジャミルに支配されているような錯覚に陥る。強固な腕に囚われたまま、指先一つ動かすことすらままならない。
向けてくる感情の質量があまりにも重く濃密で、頭の芯が痺れていく。ただの意地の張り合いだったはずなのに、いつの間にか互いの内側を曝け出すような、引き返せない領域へと足を踏み入れていた。
「……っ、ジャミル先輩」
降伏を示すように小さく身を縮めると、ジャミルは「今更命乞いでもする気か」と凄んでみせた。
確かにその顔は威圧的で、いつも通り冷徹に見える。――しかし、至近距離だからこそ見えてしまった。
彼の形の良い耳朶が、ほんのりと赤く染まっていることに。
「それって、要するに……」
こちらの視線に気づいたのか、ジャミルが僅かに眉をひそめた。
「最初から、ただの余裕の裏返しだったってことですか?」
「……は?」
ジャミルの思考が一瞬停止する。
完璧に整えられていた彼の表情が、みるみるうちに固まっていく。
「お前、何を――」
「図星ですか?」
クス、と思わず笑みが溢れてしまう。先ほどまでの押し潰されそうだった空気はどこへやら、二人の立場は一瞬にして逆転していた。
「……お前、本当にいい度胸をしているな」
ジャミルは片手で自身の額を押さえ、深く重い溜息を吐き出した。
「誰が照れ隠しなど。俺はただ、お前の要領の悪さに、その……」
「要領の悪さに?」
「……もういい。これ以上言わせるな」
「ふふ、やっぱりそうじゃないですか」
「うるさい。……だが、そうだな。お前の前でだけは、どうにも上手く立ち回れないのは事実だ」
耳元で囁かれた声はいつになく甘く、そして心地よい敗北感を孕んでいた。意地を張り合っていた時間さえも、今では愛おしい温度となって二人の間に静かに満ちていく。
「明日の課題、俺が付き合ってやる。……だから今日はもう、どこにも行くな」
降参とでも言うように、ジャミルの手が髪を優しく撫でる。その甘やかな香りに包まれながら、今度は心からの安心感と共にその温もりに身を委ねた。
