ディアソムニア
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夕暮れ時のオンボロ寮談話室。
セベクとななしは机を挟んで次の実技試験に向けたレポートの資料を広げていた。
ギィ…と古びた木が軋む音がした瞬間、雷鳴のような声が部屋に響き渡る。
「おい、ななし! なぜ僕の忠告を無視してその破れた椅子を使い続けるのだ! 怪我でもしたらどうする!」
セベクは髪を激しく揺らしながらガタついた机を叩いた。対面で古い魔導書を広げていたななしは慣れた手つきで耳を塞ぎ、ため息をつく。
「声が大きいよ、セベク。それにこれは座面が少し擦れているだけで、壊れてはいないし、まだ十分に使えるから」
「お前はいつもそうだ、僕の言葉に口答えするな! 人間!」
「また人間って言った。セベクだって半分は人間でしょう? だいたい、何を使おうがわたしの自由じゃん」
ななしがふいと顔を背けると、セベクはぐっと言葉に詰まった。その端正な顔が怒りとは違う理由でわずかに赤く染まる。
「な、何だと……! 僕は若様にお仕えする身として、身の回りの危機管理を徹底しているだけだ! お前のような脆弱な生き物が、不用意に怪我をするのが目に見えているから言っているのだ!」
「はいはい、心配してくれてありがとう」
「心配などしていない! 勘違いするな!」
さらに声を張り上げるセベクだったが、その視線はななしの顔から彼女が握るペンの手元へと所在なさげに泳いでいた。
顔を合わせればすぐに言い合いが始まる。それが、いつの間にか構築された二人の日常だった。
「……フン、そんなことよりこの記述は間違っているぞ。魔力の流動性を考慮するならば、こちらの術式を引用すべきだ」
セベクは気まずさを誤魔化すように、ななしの手元へぐっと身を乗り出した。
「あ、本当だ。ありがとう、セベク」
素直に感心して微笑むと、セベクは急に言葉を詰まらせ、手元の本に視線を落とした。
資料をめくろうとしたななしの指先が、偶然セベクの触れていたページの端で重なる。ほんの一瞬、指先と指先がかすり合った。ただそれだけのことだったのにセベクの大きな身体がびくりと跳ねる。
「っ……!」
「どうしたの?」
顔を上げると至近距離にセベクの顔があった。いつもは傲然と輝く切れ上がった瞳が、今はひどく潤んで動揺に揺れている。
「な、何でもない! お前が不用意に近づくからだ!」
勢いよく立ち上がったセベクの椅子が床を擦って大きな音を立てた。セベクの顔は耳の裏から首筋にかけて隠しようもないほど真っ赤に染まっている。
「もー、落ち着きなよ」
「うるさい! 僕はいつだって冷静だ!」
そう言いながらも、セベクの胸は激しく上下していた。先ほどななしの肌が触れた指先を隠すようにきつく握りしめている。その強い視線が、ななしの唇や鎖骨のあたりを無意識に彷徨い――弾かれたように逸らされた。
空気の中に息苦しいほどの熱が満ちていく。
セベクは視線を斜め下に落としたまま、少しだけ声を潜めた。それでも普通の人間よりは大きい声だが、彼にしては最大限の密やかさだった。
「……お前は、いつもエースやデュースとばかり行動しているな」
「え? エースとデュース? まあ同じクラスだし、よく課題を一緒にやるけど」
「……馴れ馴れしいのだ、お前たちは。お前はもっと規律正しく、誰に対しても等しく距離を保つべきだ!」
「誰に対してもって、セベクに対しても?」
少し挑むような目でセベクを見上げる。その瞬間、セベクの呼吸が一瞬だけ止まった。大きな身体がかすかに強張る。
「……お前は本当に…………もういい! 僕は帰る!」
大きな足音を立ててセベクは談話室を飛び出していった。残されたななしは自分の胸が高鳴っていることに気づき、刻まれる鼓動の音を静まり返った部屋の中で一人聴いていた。
◇
その日の夜。
夕方に飛び出していったはずのセベクが、約束していたわけでもないのに再びオンボロ寮の前に立っていた。
忘れ物でもあったのだろうか。迎え出たななしの姿を見た瞬間、セベクの声のトーンが目に見えて落ちた。
「……お前、その格好は何だ!」
ななしは寝支度の途中の、ひどく薄着な部屋着姿だった。首元が大きく開き、肩のラインが夜風に晒されている。
「え? 部屋着だけど……もう寝ようと思って」
「防犯意識が低すぎる! 相手が僕だから良いものの、もし他の男だったらどうするつもりだ!」
「えっ……急に何? だいたい、こんな夜中にセベク以外誰も来ないよ」
少し拗ねたように見上げるななし。
「……僕以外は、だと?」
セベクの声から、いつもの大声が完全に消えた。
低く地を走るような熱を孕んだ声音が耳腔を震わせる。
一歩、敷居を跨いだセベクの大きな体躯がななしの視界を完全に塞いだ。
「セベク…どうしたの?」
伸びてきた大きな手がななしの肩を掴む。
薄い布地を通して直接伝わる驚くほどの熱。
男らしい硬く骨張った指の感触にななしの身体が強張る。
「全部お前のせいだ」
じっと見下ろすセベクの瞳の奥に、強烈な独占欲と、それを必死に抑え込もうとする葛藤がギラりと光った。互いの吐息が完全に混ざり合うほどの距離。セベクの速い呼吸と激しい鼓動が衣服越しに響いてくる。
「お前は、いつも僕を苛立たせる」
セベクの指先が肩から、すうっと首筋へと這い上がった。
「他の奴と話しているのを見るのも、その無防備な姿を晒すのも、全てが気に入らない。僕の頭はお前のせいで、ずっと……」
「それって、つまり……」
ななしが言葉を紡ごうとした瞬間、セベクの顔がさらに近づいた。その端正な顔立ちが苦しげに歪んでいる。
「言わせるな、人間……! いや、ななし」
高い鼻梁がななしの頬をかすめ、唇がすぐ目の前で止まる。溢れんばかりの熱量と互いの境界線が崩壊していくような濃密な感覚が、狭い玄関を満たしていく。
「僕は、お前が……」
言いかけた言葉は重なる唇の動きと共に、最も深い場所へと吸い込まれていった。静まり返った夜の中、これまで重ねてきたどんな大声よりも確かな音が二人の間で鳴り響いていた。
ほんの少しだけ唇が離れる。
至近距離で互いの熱い吐息がまだ激しく行き交っている。ななしの肩を掴むセベクの指先は微かに震えていた。彼の切れ上がった瞳は完全に潤み、そこには深い情熱と一線を越えてしまったことへの驚きが混ざり合っている。
「セベク……」
ななしが掠れた声でその名を呼ぶと、セベクはハッと弾かれたように我に返った。みるみるうちに彼の顔が耳の裏から首筋まで、隠しようもないほど真っ赤に染まっていく。
「な、何だその目は……! 僕は、僕はただ……!」
慌てて一歩下がったセベクは、いつもの大声を取り戻そうとする。けれどその声はどこか上ずっていて、いつもの威厳はどこにもない。
「お前が、不用意に僕を煽るからだ! 脆弱な人間のくせに、僕の頭をこれほど狂わせるなど……!」
「……怒鳴らなくても聞こえてるよ。セベクこそ、わたしのことばっかり見てるじゃん」
ななしが少し潤んだ瞳のまま唇を尖らせると、セベクはぐっと言葉を詰まらせた。彼は大きな手のひらで自分の口元を覆い視線を激しく泳がせる。
「……うるさい。口答えするな」
低く、けれど今度は明確な甘さを孕んだ声音。
セベクはふいと顔を背けたが、その長い指の間から覗く耳の先端は今にもはち切れそうなほど赤かった。彼はひとしきり視線を彷徨わせたあと、意を決したように再びななしを強く睨みつける。
男らしい硬く骨張った大きな手が、今度はそっとななしの頬を包み込む。その手のひらから伝わる熱は、夜風の冷たさを一瞬で忘れさせるほどに熱かった。
「お前が好きだ、ななし。……僕だけを見てほしい」
傲然とした彼の瞳の中に、確かな熱と切ないほどの独占欲が揺らめいている。これ以上ないほど素直な言葉をぶつけておきながら、セベクは急に我に返ったように息を呑み、自らの顔の熱さに耐えかねたようにパッと手を離した。
「――今日はもう遅い! 早く中に入れ!」
それだけ叫ぶと、セベクは大きな足音を立てて逃げるようにオンボロ寮の門へと走っていった。
夜風に揺れる彼の緑色の髪が闇の中に消えていく。
残されたななしは、今さっきまで触れられていた頬と彼の手の熱をそっと指先でなぞった。トクトクと早く刻まれる胸の鼓動を、静まり返った夜の空気の中で愛おしく聴いていた。
セベクとななしは机を挟んで次の実技試験に向けたレポートの資料を広げていた。
ギィ…と古びた木が軋む音がした瞬間、雷鳴のような声が部屋に響き渡る。
「おい、ななし! なぜ僕の忠告を無視してその破れた椅子を使い続けるのだ! 怪我でもしたらどうする!」
セベクは髪を激しく揺らしながらガタついた机を叩いた。対面で古い魔導書を広げていたななしは慣れた手つきで耳を塞ぎ、ため息をつく。
「声が大きいよ、セベク。それにこれは座面が少し擦れているだけで、壊れてはいないし、まだ十分に使えるから」
「お前はいつもそうだ、僕の言葉に口答えするな! 人間!」
「また人間って言った。セベクだって半分は人間でしょう? だいたい、何を使おうがわたしの自由じゃん」
ななしがふいと顔を背けると、セベクはぐっと言葉に詰まった。その端正な顔が怒りとは違う理由でわずかに赤く染まる。
「な、何だと……! 僕は若様にお仕えする身として、身の回りの危機管理を徹底しているだけだ! お前のような脆弱な生き物が、不用意に怪我をするのが目に見えているから言っているのだ!」
「はいはい、心配してくれてありがとう」
「心配などしていない! 勘違いするな!」
さらに声を張り上げるセベクだったが、その視線はななしの顔から彼女が握るペンの手元へと所在なさげに泳いでいた。
顔を合わせればすぐに言い合いが始まる。それが、いつの間にか構築された二人の日常だった。
「……フン、そんなことよりこの記述は間違っているぞ。魔力の流動性を考慮するならば、こちらの術式を引用すべきだ」
セベクは気まずさを誤魔化すように、ななしの手元へぐっと身を乗り出した。
「あ、本当だ。ありがとう、セベク」
素直に感心して微笑むと、セベクは急に言葉を詰まらせ、手元の本に視線を落とした。
資料をめくろうとしたななしの指先が、偶然セベクの触れていたページの端で重なる。ほんの一瞬、指先と指先がかすり合った。ただそれだけのことだったのにセベクの大きな身体がびくりと跳ねる。
「っ……!」
「どうしたの?」
顔を上げると至近距離にセベクの顔があった。いつもは傲然と輝く切れ上がった瞳が、今はひどく潤んで動揺に揺れている。
「な、何でもない! お前が不用意に近づくからだ!」
勢いよく立ち上がったセベクの椅子が床を擦って大きな音を立てた。セベクの顔は耳の裏から首筋にかけて隠しようもないほど真っ赤に染まっている。
「もー、落ち着きなよ」
「うるさい! 僕はいつだって冷静だ!」
そう言いながらも、セベクの胸は激しく上下していた。先ほどななしの肌が触れた指先を隠すようにきつく握りしめている。その強い視線が、ななしの唇や鎖骨のあたりを無意識に彷徨い――弾かれたように逸らされた。
空気の中に息苦しいほどの熱が満ちていく。
セベクは視線を斜め下に落としたまま、少しだけ声を潜めた。それでも普通の人間よりは大きい声だが、彼にしては最大限の密やかさだった。
「……お前は、いつもエースやデュースとばかり行動しているな」
「え? エースとデュース? まあ同じクラスだし、よく課題を一緒にやるけど」
「……馴れ馴れしいのだ、お前たちは。お前はもっと規律正しく、誰に対しても等しく距離を保つべきだ!」
「誰に対してもって、セベクに対しても?」
少し挑むような目でセベクを見上げる。その瞬間、セベクの呼吸が一瞬だけ止まった。大きな身体がかすかに強張る。
「……お前は本当に…………もういい! 僕は帰る!」
大きな足音を立ててセベクは談話室を飛び出していった。残されたななしは自分の胸が高鳴っていることに気づき、刻まれる鼓動の音を静まり返った部屋の中で一人聴いていた。
◇
その日の夜。
夕方に飛び出していったはずのセベクが、約束していたわけでもないのに再びオンボロ寮の前に立っていた。
忘れ物でもあったのだろうか。迎え出たななしの姿を見た瞬間、セベクの声のトーンが目に見えて落ちた。
「……お前、その格好は何だ!」
ななしは寝支度の途中の、ひどく薄着な部屋着姿だった。首元が大きく開き、肩のラインが夜風に晒されている。
「え? 部屋着だけど……もう寝ようと思って」
「防犯意識が低すぎる! 相手が僕だから良いものの、もし他の男だったらどうするつもりだ!」
「えっ……急に何? だいたい、こんな夜中にセベク以外誰も来ないよ」
少し拗ねたように見上げるななし。
「……僕以外は、だと?」
セベクの声から、いつもの大声が完全に消えた。
低く地を走るような熱を孕んだ声音が耳腔を震わせる。
一歩、敷居を跨いだセベクの大きな体躯がななしの視界を完全に塞いだ。
「セベク…どうしたの?」
伸びてきた大きな手がななしの肩を掴む。
薄い布地を通して直接伝わる驚くほどの熱。
男らしい硬く骨張った指の感触にななしの身体が強張る。
「全部お前のせいだ」
じっと見下ろすセベクの瞳の奥に、強烈な独占欲と、それを必死に抑え込もうとする葛藤がギラりと光った。互いの吐息が完全に混ざり合うほどの距離。セベクの速い呼吸と激しい鼓動が衣服越しに響いてくる。
「お前は、いつも僕を苛立たせる」
セベクの指先が肩から、すうっと首筋へと這い上がった。
「他の奴と話しているのを見るのも、その無防備な姿を晒すのも、全てが気に入らない。僕の頭はお前のせいで、ずっと……」
「それって、つまり……」
ななしが言葉を紡ごうとした瞬間、セベクの顔がさらに近づいた。その端正な顔立ちが苦しげに歪んでいる。
「言わせるな、人間……! いや、ななし」
高い鼻梁がななしの頬をかすめ、唇がすぐ目の前で止まる。溢れんばかりの熱量と互いの境界線が崩壊していくような濃密な感覚が、狭い玄関を満たしていく。
「僕は、お前が……」
言いかけた言葉は重なる唇の動きと共に、最も深い場所へと吸い込まれていった。静まり返った夜の中、これまで重ねてきたどんな大声よりも確かな音が二人の間で鳴り響いていた。
ほんの少しだけ唇が離れる。
至近距離で互いの熱い吐息がまだ激しく行き交っている。ななしの肩を掴むセベクの指先は微かに震えていた。彼の切れ上がった瞳は完全に潤み、そこには深い情熱と一線を越えてしまったことへの驚きが混ざり合っている。
「セベク……」
ななしが掠れた声でその名を呼ぶと、セベクはハッと弾かれたように我に返った。みるみるうちに彼の顔が耳の裏から首筋まで、隠しようもないほど真っ赤に染まっていく。
「な、何だその目は……! 僕は、僕はただ……!」
慌てて一歩下がったセベクは、いつもの大声を取り戻そうとする。けれどその声はどこか上ずっていて、いつもの威厳はどこにもない。
「お前が、不用意に僕を煽るからだ! 脆弱な人間のくせに、僕の頭をこれほど狂わせるなど……!」
「……怒鳴らなくても聞こえてるよ。セベクこそ、わたしのことばっかり見てるじゃん」
ななしが少し潤んだ瞳のまま唇を尖らせると、セベクはぐっと言葉を詰まらせた。彼は大きな手のひらで自分の口元を覆い視線を激しく泳がせる。
「……うるさい。口答えするな」
低く、けれど今度は明確な甘さを孕んだ声音。
セベクはふいと顔を背けたが、その長い指の間から覗く耳の先端は今にもはち切れそうなほど赤かった。彼はひとしきり視線を彷徨わせたあと、意を決したように再びななしを強く睨みつける。
男らしい硬く骨張った大きな手が、今度はそっとななしの頬を包み込む。その手のひらから伝わる熱は、夜風の冷たさを一瞬で忘れさせるほどに熱かった。
「お前が好きだ、ななし。……僕だけを見てほしい」
傲然とした彼の瞳の中に、確かな熱と切ないほどの独占欲が揺らめいている。これ以上ないほど素直な言葉をぶつけておきながら、セベクは急に我に返ったように息を呑み、自らの顔の熱さに耐えかねたようにパッと手を離した。
「――今日はもう遅い! 早く中に入れ!」
それだけ叫ぶと、セベクは大きな足音を立てて逃げるようにオンボロ寮の門へと走っていった。
夜風に揺れる彼の緑色の髪が闇の中に消えていく。
残されたななしは、今さっきまで触れられていた頬と彼の手の熱をそっと指先でなぞった。トクトクと早く刻まれる胸の鼓動を、静まり返った夜の空気の中で愛おしく聴いていた。
