ハーツラビュル
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放課後のハーツラビュル寮のキッチンには、香ばしいバターの香りと少し焦げた砂糖の甘い匂いが充満している。
ピカピカに磨かれた作業台の上には丁寧にラッピングされた焼き菓子。工程を終えたばかりの静かな空間で、その前で頭を抱えて唸るななしの姿があった。
「どうしたななし。そんなに険しい顔をしてクッキーを睨みつけて」
ハーツラビュル副寮長トレイ・クローバーは使い込まれたボウルを棚に片付けながら苦笑する。眼鏡の奥の瞳は困惑する後輩の姿を穏やかに捉えていた。
「トレイ先輩……。これ、すごく美味しそうなんです。本当に、いつも試食に呼んでくださってありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃないさ。今回も試作に付き合ってもらっただけだからな。口に合えばいいんだが」
「合うに決まってます! トレイ先輩のお菓子が美味しくないわけないです。でも……でも、今はちょっと本当にタイミングが悪くて」
ななしは包み紙の上からでもわかるクッキーのサクサクとした質感を指先でなぞり深くため息をつく。
「タイミング? 体調でも悪いのか? それなら無理にとは言わないが」
「違います、体調は万全です。むしろ元気すぎて困るくらいで……。そうじゃなくて実は…最近少し、制服のウエストがきつくなったような気がするんです」
「気のせいじゃないか? 毎日あれだけ学園内を走り回っているんだ、太る要素なんてないと思うが」
トレイは自分の顎に手を当て、ななしの姿を上から下へと品定めするように見つめる。
「気のせいじゃないんです。昨日の体力育成の授業の時も、なんだか体が重くて。だからダイエットを始めようって決心したばかりなんです」
「なるほどな。ダイエット、か」
トレイは小さく呟き作業台に軽く腰を預ける。緑色の髪が窓から差し込む夕日に照らされてきらりと光った。
「だからこのクッキーは今食べるべきじゃないってわかってるんです。わかってるんですけど……でもトレイ先輩がせっかく作ってくれたものですし、無駄にしたくないし、何より今すぐ食べたい誘惑と戦っていて」
「はは、大袈裟だな。別に明日食べたって、俺は怒らないぞ?」
「明日になったら、もっと食べたくなっちゃいます! それに一度食べ始めたら止まらなくなるかもしれないし、でも食べずに置いておいておくのも勿体無いし……」
ななしの手が作業台の上で泳ぐ。クッキーに触れようとしては引っ込め、また触れようとしては躊躇う。
トレイはその様子をじっと見つめていたが低く甘い声で笑った。
「じゃあ、こうしたらどうだ? ななし」
「え?」
トレイは腰を上げななしのすぐ隣へと一歩歩み寄る。驚いて見上げるななしの視線を真っ向から受け止めながら、彼はラッピングの厳重なリボンに手をかけた。
「全部食べるのが心配なら、今ここで俺と一緒に半分だけ食べればいい。それならカロリーも半分だろ?」
「半分、ですか?」
「そう。残りの半分は俺が引き取る。これなら無駄にもならないし、お前のダイエットの邪魔にもならないはずだ」
「でも……半分でも、ダイエット中にお菓子を食べるのは良くないんじゃ……」
「完全に断つだけがダイエットじゃないさ。急にゼロにするとストレスが溜まった反動で食べすぎてしてしまうこともある。それよりは少しだけ食べて満足感を補給しておく方が、結果的に長続きするもんだぞ」
「それは……確かに、一理あるような気がします。でも、トレイ先輩の分の試作が減っちゃいませんか?」
「俺の分なら厨房にいくらでもあるさ。これは元々、お前のために包んだものだからな」
トレイの指先が器用にリボンを解いていく。カサリと音を立てて開かれた透明な袋の中から、先ほどよりも一層強い濃厚なバニラの香りが弾けた。
「一番小さそうなやつを選んでやるから、ほら、口開けろ」
「えっ、あ、自分で食べます!」
「いいから。ほら、手が汚れるだろ」
トレイはクッキーをひとつ指先でつまみ、ななしの唇の前に差し出す。
断るべきだという理性が、甘い香りとトレイのどこか拒絶を許さない空気によって容易く揺らいでいく。ななしは差し出された指先と、その先にある焼き菓子を交互に見つめ、結局抗うことができずに小さく口を開けた。
サク、と軽い音が広い厨房に響く。
「……美味しい、です」
「そうか。良かった。バターの量を少し調整したんだが、物足りなくはなかったか?」
「全然そんなことないです。すごく濃厚で、でもしつこくなくて……いくらでも食べられそうです」
「おっと、いくらでも食べられたら、それこそダイエットの邪魔になってしまうな」
トレイは悪戯っぽく笑いながら、自分の指先に残った小さなクッキーの欠片を自身の口へと運んだ。その一連の動きがなぜだか酷く艶っぽく見えてななしは思わず唾を飲み込む。
「美味しいものを食べている時の顔は、見ているこちらも気分がいい。無理に我慢する必要なんて、ないんじゃないか?」
「でも本当に最近お腹のまわりが……」
「どれ、見せてみろ」
「え!?」
トレイの手が、躊躇いなくななしの腰のあたりへと伸びる。上着の上から大きな体温の高い手のひらがそっと添えられた。
「ちょちょちょ! な、何をするんですか、トレイ先輩!」
「何って、本当に太ったのかどうか確かめてやろうと思ってな」
トレイの親指が制服の生地越しにななしの腰のラインをゆっくりとなぞる。
厚い手のひらから伝わる熱が衣服を透過して直接肌に触れているかのような錯覚を抱かせる。ななしの身体が緊張で微かに強張った。
「……うん、別に肉がついたようには思えないが」
「そんなわけないです。絶対に気のせいです」
「そうか?」
トレイの手は腰に添えられたまま離れない。それどころか、じわじわと指先に力が込められななしの身体を自分の方へと僅かに引き寄せる。
「トレイ、先輩……。あの……手が、」
「ん? どうした?」
トレイの眼鏡の奥の瞳が、いつもより暗く深い色を帯びているように見える。彼の呼気には、先ほど口にしたクッキーの甘いバニラと砂糖の匂いが混ざり合っていた。それがななしの顔のすぐ近くで揺れている。
「ななし。本当にダイエット必要なのか?」
「それは……必要だと思うんですけど……」
「俺は今のままのお前が一番いいと思う。これ以上痩せたら、抱き心地が悪くなりそうだしな」
「え……?」
さらりと告げられた言葉の意味を理解するよりも早く、トレイの指先がななしの顎を優しく確実な力で上向かせた。
夕暮れの光が遮られ、トレイの大きな影がななしの視界を覆い尽くしていく。厨房の空気は甘く熱い何かに支配されようとしていた。
顎を捉えた指先からトレイの熱が伝わってくる。
ななしの視界はトレイの広い肩と夕闇に沈みかけた緑色の髪で完全に塞がれていた。逃げ場をなくした意識の真ん中で、トレイの眼鏡のフレームが頼りない西日を反射して冷たく光る。
「トレイ、先輩……」
喉の奥から絞り出した声は驚くほど小さく掠れている。
「なんだ?」
トレイの声はどこまでも低く、耳の奥に直接響くような響きを持っていた。彼は指先の力を緩めることなく、むしろ親指でななしの柔らかい下唇をそっとなぞる。そこには先ほど与えたクッキーの甘い香りがまだ微かに残っているはずだった。
「あの、その……本当に、近いです。息が、苦しくて」
「そうか。お前がそんな顔をするから、つい距離を詰めすぎたかもしれないな」
口ではそう言いながらもトレイが身体を引く気配は微塵もなかった。
それどころかななしの腰を支える彼の左手に、じわりと強い力がこめられる。制服の生地を軽々と飛び越えてトレイの体温がななしの肌へと染み込んでいく。大柄な彼の胸元がすぐ目の前に迫り、少しだけ速い鼓動が伝わってくるようだった。
「お前が気にしているその身体も、俺にとっては……少しでも目を離したら、どこかに消えてしまいそうで十分に心許ない」
トレイの言葉が耳のすぐ傍で熱い吐息と共に零れ落ちる。
緻密で、冷静で、誰にでも優しい、そんな彼が今、計量スプーンの目盛りを狂わせるような、酷く曖昧で激情を孕んだ視線を自分だけに向けている。
「わたし……少しでも格好いい先輩たちと並んでも、恥ずかしくないようにって」
「誰と並ぶって?」
トレイの声音が一瞬で低さを増した。
顎を固定されたままのななしの瞳に、トレイの普段の温厚な笑みを完全に消し去った顔が映る。眼鏡の奥の瞳は、まるで獲物を追い詰めた猛獣のように鋭く深い。
「エースやデュースか? それとも、リドルか?」
「違っ、違います! そういう意味じゃなくて……ただ、みんな、ちゃんとしてるから」
「お前も充分ちゃんとしてると思うんだが」
トレイは小さくため息をつくように呟くと、ななしの唇を弄んでいた親指をそのまま頬へと滑らせた。熱を持った手のひらがななしの緊張で強張った顔を包み込む。そのあまりの大きさと男らしさに、ななしの心臓は破裂しそうなほどの音を立てて暴れだしていた。
身体中の血液がトレイに触れられている部分へと一斉に集まっていくような感覚。じわじわと確実に理性の輪郭が溶けていく。
「お前は少し隙があるくらいでいいんだ。甘いものが食べたいなら俺の目の前で、俺の作ったものを、好きなだけ食べればいいさ。我慢なんてしなくていい」
「それじゃあ、わたし、本当に駄目になっちゃいます……」
「駄目になればいいさ。俺以外の前で、そんなに思い悩む暇がなくなるくらいにな」
トレイの顔が、さらに近づく。
鼻先が触れ合うほどの距離で、彼の纏う匂いがななしの嗅覚を完全に麻痺させた。甘いクッキーの味はもうとうに消え失せ、代わりにトレイという存在そのものがななしの味覚と身体感覚のすべてを塗り替えていく。
「ななし。もう一度、聞くぞ」
トレイの低い声がななしの唇のすぐ上で囁かれる。彼の熱い唇が言葉を紡ぐたびにななしの唇に微かに触れた。
「まだ、ダイエット続けるつもりか?」
「うっ……、でも……」
「ははっ、悪い悪い。困らせたいわけじゃないんだ」
トレイは満足そうに、しかしどこか酷く飢えたような歪んだ笑みを浮かべゆっくりと目を閉じた。
完全に光を失った視界の中で、ななしの唇にはクッキーよりもずっと濃厚で、決して逃れることのできない熱い質量が押し当てられた。
◇
それから数日後の放課後もななしはハーツラビュル寮の厨房にいた。
作業台の上には可愛らしくデコレーションされたカップケーキがいくつか並んでいる。その横でななしはまたしても小さなため息をついていた。
「どうした、ななし。カップケーキ気に入らなかったか?」
道具を片付け終えたトレイが、タオルで手を拭きながら歩み寄ってくる。その足取りはどこか弾んでおり、眼鏡の奥の瞳には隠しきれない愉悦の色が浮かんでいた。
「最高です。本当にものすごく美味しいです……。でも、トレイ先輩」
「うん?」
「体重計に乗るたびにトレイ先輩の顔が浮かんで、なんだかすごく罪悪感というか……」
ななしはカップケーキの上のクリームをフォークの先で弄びながら視線を泳がせる。
あの日あの薄暗い厨房で交わした口づけは確かに甘美な救いだったが、いざ日常に戻ってみると、ただただトレイに甘やかされ順調にカロリーを摂取し続けている現状に優柔不断な心は再び揺れ動いていた。
「罪悪感か。俺の顔が浮かぶのは光栄だが」
トレイはななしの背後に回り込み、その肩にぽんと手を置いた。
大きな手のひらの重みと、そこから伝わる確かな体温。それだけで、あの夕暮れの濃密な空気感が一瞬にして脳裏に蘇り、ななしの耳の裏がカッと熱くなる。
「でもやっぱり、少しは動かないと……」
「食べた分のカロリーは、どこかで消費しないと身体に溜まる一方だからな」
トレイはふっと低く笑うと、背後からななしの腰に手を回した。あの日上着越しになぞられた場所に、今度は躊躇いなく強い力が込められ、そのまま作業台の上へと強引に押し上げられる。
「……!? トレイ、先輩……っ?」
作業台の冷たさと裏腹にななしの身体を挟み込むトレイの熱い体温が同時に肌へと伝わってくる。トレイはななしの逃げ道を塞ぐように作業台に両手を突き完全にその身体を閉じ込めた。
「運動したいんだろ? だったら効率のいい方法がある」
「え……?」
トレイの手が制服のシャツの裾から躊躇いなく内側へと滑り込んできた。
肌に直接触れる大きな少し荒れた手のひら。その熱さにななしの背筋がびくりと跳ね上がる。トレイの親指がお腹の柔らかい膨らみを慈しむように酷く色気を含んだ手つきでゆっくりとなぞり上げた。
「な、何を……」
「何って、お前の希望通りダイエットに付き合ってやろうと思ってな。これでもかなり汗をかけるはずだ」
トレイの顔が耳元へと寄せられる。熱い呼気が首筋を擽るたびに、ななしの身体は緊張と熱を帯びていった。
「トレイ先輩、ここ厨房ですから……誰か来たら……っ」
「鍵はもう閉めてある。誰も入ってこられないさ」
眼鏡の奥の瞳が暗い独占欲に濡れてギラりと光る。
ななしはトレイの大きな身体に完全に包み込まれながら、ただなす術もなく溺れていくことしかできなかった。
ピカピカに磨かれた作業台の上には丁寧にラッピングされた焼き菓子。工程を終えたばかりの静かな空間で、その前で頭を抱えて唸るななしの姿があった。
「どうしたななし。そんなに険しい顔をしてクッキーを睨みつけて」
ハーツラビュル副寮長トレイ・クローバーは使い込まれたボウルを棚に片付けながら苦笑する。眼鏡の奥の瞳は困惑する後輩の姿を穏やかに捉えていた。
「トレイ先輩……。これ、すごく美味しそうなんです。本当に、いつも試食に呼んでくださってありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃないさ。今回も試作に付き合ってもらっただけだからな。口に合えばいいんだが」
「合うに決まってます! トレイ先輩のお菓子が美味しくないわけないです。でも……でも、今はちょっと本当にタイミングが悪くて」
ななしは包み紙の上からでもわかるクッキーのサクサクとした質感を指先でなぞり深くため息をつく。
「タイミング? 体調でも悪いのか? それなら無理にとは言わないが」
「違います、体調は万全です。むしろ元気すぎて困るくらいで……。そうじゃなくて実は…最近少し、制服のウエストがきつくなったような気がするんです」
「気のせいじゃないか? 毎日あれだけ学園内を走り回っているんだ、太る要素なんてないと思うが」
トレイは自分の顎に手を当て、ななしの姿を上から下へと品定めするように見つめる。
「気のせいじゃないんです。昨日の体力育成の授業の時も、なんだか体が重くて。だからダイエットを始めようって決心したばかりなんです」
「なるほどな。ダイエット、か」
トレイは小さく呟き作業台に軽く腰を預ける。緑色の髪が窓から差し込む夕日に照らされてきらりと光った。
「だからこのクッキーは今食べるべきじゃないってわかってるんです。わかってるんですけど……でもトレイ先輩がせっかく作ってくれたものですし、無駄にしたくないし、何より今すぐ食べたい誘惑と戦っていて」
「はは、大袈裟だな。別に明日食べたって、俺は怒らないぞ?」
「明日になったら、もっと食べたくなっちゃいます! それに一度食べ始めたら止まらなくなるかもしれないし、でも食べずに置いておいておくのも勿体無いし……」
ななしの手が作業台の上で泳ぐ。クッキーに触れようとしては引っ込め、また触れようとしては躊躇う。
トレイはその様子をじっと見つめていたが低く甘い声で笑った。
「じゃあ、こうしたらどうだ? ななし」
「え?」
トレイは腰を上げななしのすぐ隣へと一歩歩み寄る。驚いて見上げるななしの視線を真っ向から受け止めながら、彼はラッピングの厳重なリボンに手をかけた。
「全部食べるのが心配なら、今ここで俺と一緒に半分だけ食べればいい。それならカロリーも半分だろ?」
「半分、ですか?」
「そう。残りの半分は俺が引き取る。これなら無駄にもならないし、お前のダイエットの邪魔にもならないはずだ」
「でも……半分でも、ダイエット中にお菓子を食べるのは良くないんじゃ……」
「完全に断つだけがダイエットじゃないさ。急にゼロにするとストレスが溜まった反動で食べすぎてしてしまうこともある。それよりは少しだけ食べて満足感を補給しておく方が、結果的に長続きするもんだぞ」
「それは……確かに、一理あるような気がします。でも、トレイ先輩の分の試作が減っちゃいませんか?」
「俺の分なら厨房にいくらでもあるさ。これは元々、お前のために包んだものだからな」
トレイの指先が器用にリボンを解いていく。カサリと音を立てて開かれた透明な袋の中から、先ほどよりも一層強い濃厚なバニラの香りが弾けた。
「一番小さそうなやつを選んでやるから、ほら、口開けろ」
「えっ、あ、自分で食べます!」
「いいから。ほら、手が汚れるだろ」
トレイはクッキーをひとつ指先でつまみ、ななしの唇の前に差し出す。
断るべきだという理性が、甘い香りとトレイのどこか拒絶を許さない空気によって容易く揺らいでいく。ななしは差し出された指先と、その先にある焼き菓子を交互に見つめ、結局抗うことができずに小さく口を開けた。
サク、と軽い音が広い厨房に響く。
「……美味しい、です」
「そうか。良かった。バターの量を少し調整したんだが、物足りなくはなかったか?」
「全然そんなことないです。すごく濃厚で、でもしつこくなくて……いくらでも食べられそうです」
「おっと、いくらでも食べられたら、それこそダイエットの邪魔になってしまうな」
トレイは悪戯っぽく笑いながら、自分の指先に残った小さなクッキーの欠片を自身の口へと運んだ。その一連の動きがなぜだか酷く艶っぽく見えてななしは思わず唾を飲み込む。
「美味しいものを食べている時の顔は、見ているこちらも気分がいい。無理に我慢する必要なんて、ないんじゃないか?」
「でも本当に最近お腹のまわりが……」
「どれ、見せてみろ」
「え!?」
トレイの手が、躊躇いなくななしの腰のあたりへと伸びる。上着の上から大きな体温の高い手のひらがそっと添えられた。
「ちょちょちょ! な、何をするんですか、トレイ先輩!」
「何って、本当に太ったのかどうか確かめてやろうと思ってな」
トレイの親指が制服の生地越しにななしの腰のラインをゆっくりとなぞる。
厚い手のひらから伝わる熱が衣服を透過して直接肌に触れているかのような錯覚を抱かせる。ななしの身体が緊張で微かに強張った。
「……うん、別に肉がついたようには思えないが」
「そんなわけないです。絶対に気のせいです」
「そうか?」
トレイの手は腰に添えられたまま離れない。それどころか、じわじわと指先に力が込められななしの身体を自分の方へと僅かに引き寄せる。
「トレイ、先輩……。あの……手が、」
「ん? どうした?」
トレイの眼鏡の奥の瞳が、いつもより暗く深い色を帯びているように見える。彼の呼気には、先ほど口にしたクッキーの甘いバニラと砂糖の匂いが混ざり合っていた。それがななしの顔のすぐ近くで揺れている。
「ななし。本当にダイエット必要なのか?」
「それは……必要だと思うんですけど……」
「俺は今のままのお前が一番いいと思う。これ以上痩せたら、抱き心地が悪くなりそうだしな」
「え……?」
さらりと告げられた言葉の意味を理解するよりも早く、トレイの指先がななしの顎を優しく確実な力で上向かせた。
夕暮れの光が遮られ、トレイの大きな影がななしの視界を覆い尽くしていく。厨房の空気は甘く熱い何かに支配されようとしていた。
顎を捉えた指先からトレイの熱が伝わってくる。
ななしの視界はトレイの広い肩と夕闇に沈みかけた緑色の髪で完全に塞がれていた。逃げ場をなくした意識の真ん中で、トレイの眼鏡のフレームが頼りない西日を反射して冷たく光る。
「トレイ、先輩……」
喉の奥から絞り出した声は驚くほど小さく掠れている。
「なんだ?」
トレイの声はどこまでも低く、耳の奥に直接響くような響きを持っていた。彼は指先の力を緩めることなく、むしろ親指でななしの柔らかい下唇をそっとなぞる。そこには先ほど与えたクッキーの甘い香りがまだ微かに残っているはずだった。
「あの、その……本当に、近いです。息が、苦しくて」
「そうか。お前がそんな顔をするから、つい距離を詰めすぎたかもしれないな」
口ではそう言いながらもトレイが身体を引く気配は微塵もなかった。
それどころかななしの腰を支える彼の左手に、じわりと強い力がこめられる。制服の生地を軽々と飛び越えてトレイの体温がななしの肌へと染み込んでいく。大柄な彼の胸元がすぐ目の前に迫り、少しだけ速い鼓動が伝わってくるようだった。
「お前が気にしているその身体も、俺にとっては……少しでも目を離したら、どこかに消えてしまいそうで十分に心許ない」
トレイの言葉が耳のすぐ傍で熱い吐息と共に零れ落ちる。
緻密で、冷静で、誰にでも優しい、そんな彼が今、計量スプーンの目盛りを狂わせるような、酷く曖昧で激情を孕んだ視線を自分だけに向けている。
「わたし……少しでも格好いい先輩たちと並んでも、恥ずかしくないようにって」
「誰と並ぶって?」
トレイの声音が一瞬で低さを増した。
顎を固定されたままのななしの瞳に、トレイの普段の温厚な笑みを完全に消し去った顔が映る。眼鏡の奥の瞳は、まるで獲物を追い詰めた猛獣のように鋭く深い。
「エースやデュースか? それとも、リドルか?」
「違っ、違います! そういう意味じゃなくて……ただ、みんな、ちゃんとしてるから」
「お前も充分ちゃんとしてると思うんだが」
トレイは小さくため息をつくように呟くと、ななしの唇を弄んでいた親指をそのまま頬へと滑らせた。熱を持った手のひらがななしの緊張で強張った顔を包み込む。そのあまりの大きさと男らしさに、ななしの心臓は破裂しそうなほどの音を立てて暴れだしていた。
身体中の血液がトレイに触れられている部分へと一斉に集まっていくような感覚。じわじわと確実に理性の輪郭が溶けていく。
「お前は少し隙があるくらいでいいんだ。甘いものが食べたいなら俺の目の前で、俺の作ったものを、好きなだけ食べればいいさ。我慢なんてしなくていい」
「それじゃあ、わたし、本当に駄目になっちゃいます……」
「駄目になればいいさ。俺以外の前で、そんなに思い悩む暇がなくなるくらいにな」
トレイの顔が、さらに近づく。
鼻先が触れ合うほどの距離で、彼の纏う匂いがななしの嗅覚を完全に麻痺させた。甘いクッキーの味はもうとうに消え失せ、代わりにトレイという存在そのものがななしの味覚と身体感覚のすべてを塗り替えていく。
「ななし。もう一度、聞くぞ」
トレイの低い声がななしの唇のすぐ上で囁かれる。彼の熱い唇が言葉を紡ぐたびにななしの唇に微かに触れた。
「まだ、ダイエット続けるつもりか?」
「うっ……、でも……」
「ははっ、悪い悪い。困らせたいわけじゃないんだ」
トレイは満足そうに、しかしどこか酷く飢えたような歪んだ笑みを浮かべゆっくりと目を閉じた。
完全に光を失った視界の中で、ななしの唇にはクッキーよりもずっと濃厚で、決して逃れることのできない熱い質量が押し当てられた。
◇
それから数日後の放課後もななしはハーツラビュル寮の厨房にいた。
作業台の上には可愛らしくデコレーションされたカップケーキがいくつか並んでいる。その横でななしはまたしても小さなため息をついていた。
「どうした、ななし。カップケーキ気に入らなかったか?」
道具を片付け終えたトレイが、タオルで手を拭きながら歩み寄ってくる。その足取りはどこか弾んでおり、眼鏡の奥の瞳には隠しきれない愉悦の色が浮かんでいた。
「最高です。本当にものすごく美味しいです……。でも、トレイ先輩」
「うん?」
「体重計に乗るたびにトレイ先輩の顔が浮かんで、なんだかすごく罪悪感というか……」
ななしはカップケーキの上のクリームをフォークの先で弄びながら視線を泳がせる。
あの日あの薄暗い厨房で交わした口づけは確かに甘美な救いだったが、いざ日常に戻ってみると、ただただトレイに甘やかされ順調にカロリーを摂取し続けている現状に優柔不断な心は再び揺れ動いていた。
「罪悪感か。俺の顔が浮かぶのは光栄だが」
トレイはななしの背後に回り込み、その肩にぽんと手を置いた。
大きな手のひらの重みと、そこから伝わる確かな体温。それだけで、あの夕暮れの濃密な空気感が一瞬にして脳裏に蘇り、ななしの耳の裏がカッと熱くなる。
「でもやっぱり、少しは動かないと……」
「食べた分のカロリーは、どこかで消費しないと身体に溜まる一方だからな」
トレイはふっと低く笑うと、背後からななしの腰に手を回した。あの日上着越しになぞられた場所に、今度は躊躇いなく強い力が込められ、そのまま作業台の上へと強引に押し上げられる。
「……!? トレイ、先輩……っ?」
作業台の冷たさと裏腹にななしの身体を挟み込むトレイの熱い体温が同時に肌へと伝わってくる。トレイはななしの逃げ道を塞ぐように作業台に両手を突き完全にその身体を閉じ込めた。
「運動したいんだろ? だったら効率のいい方法がある」
「え……?」
トレイの手が制服のシャツの裾から躊躇いなく内側へと滑り込んできた。
肌に直接触れる大きな少し荒れた手のひら。その熱さにななしの背筋がびくりと跳ね上がる。トレイの親指がお腹の柔らかい膨らみを慈しむように酷く色気を含んだ手つきでゆっくりとなぞり上げた。
「な、何を……」
「何って、お前の希望通りダイエットに付き合ってやろうと思ってな。これでもかなり汗をかけるはずだ」
トレイの顔が耳元へと寄せられる。熱い呼気が首筋を擽るたびに、ななしの身体は緊張と熱を帯びていった。
「トレイ先輩、ここ厨房ですから……誰か来たら……っ」
「鍵はもう閉めてある。誰も入ってこられないさ」
眼鏡の奥の瞳が暗い独占欲に濡れてギラりと光る。
ななしはトレイの大きな身体に完全に包み込まれながら、ただなす術もなく溺れていくことしかできなかった。
