オクタビネル
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始まりは、ほんの小さな違和感だった。
購買部で最後の一つのパンを買い損ねた日の夕方「お裾分けです」と笑顔でそれを差し出してきたオクタヴィネル副寮長ジェイド・リーチ。
彼の親切はいつも完璧で、そしてどこか奇妙なほどタイミングが良かった。
「おや、ななしさん。こんなところで奇遇ですね」
夕暮れ時の図書室。
古い魔導書の背表紙を眺めていたななしの背後に影が落ちた。
振り返ると、非対称の髪を揺らしたジェイドが穏やかに微笑んでいる。
その手には、ななしが先ほどまで探していた植物図鑑の古い複写版が握られていた。
「ジェイド先輩。あ、その本……」
「ええ。あなたが昨日、熱心に探していらっしゃると小耳に挟みまして。少し気になって探してみたのですが、やはりここにありました」
「昨日……? わたし、誰にも言っていなかった気がするんですけど」
「おや、そうでしたか? 僕の勘違いかもしれません。ですが、お役に立てたのなら光栄です」
ジェイドは流れるような動作で本を差し出す。
その指先がななしの手袋越しに微かに触れた。
ほんの一瞬。けれど彼の長い指が驚くほど正確にななしの手の甲の輪郭をなぞったような感覚が残る。
「ありがとうございます、助かりました」
「いえいえ。あなたの困り顔を見るのは、僕も本意ではありませんから。……おや、少し髪が乱れていますよ」
ジェイドが自然に手を伸ばす。
ななしの耳元に落ちていた一房の髪を、彼は長い指で優しく掬い上げた。耳の裏に指先がかすめる。ひやりとした冷たさが肌に伝わり、ななしの背筋に小さな粟立ちが走った。
「あ、すみません。自分でやります」
「おっと、失礼。僕の悪い癖です」
ジェイドは悪びれもせず、むしろ楽しそうに目を細めて手を引いた。
その手はポケットに仕舞われる。
ななしの髪に触れた人差し指と親指が、ポケットの中でそっと擦り合わせられていることにななしは気づかない。
「では、僕はこれで。あまり遅くまで残っていると誰かさんがうるさいですからね。気をつけてお帰りください、ななしさん」
「はい。ジェイド先輩も」
背を向けて去っていく彼の背中はどこまでも紳士的で、頼れる先輩のそれだった。しかし、ななしが座り直して本を開いたとき、一通の小さな紙切れがページの間から滑り落ちた。
そこには美しい流麗な文字で、ただ一言。
『今日の香水は、少し甘めですね』
ななしは息を呑んだ。
誰かがすれ違いざまに落としたものだろうか。
それにしては文字のインクがまだ新しく、そしてどこかあの先輩の署名に似ている気がして、ななしは急に図書室の冷気が肌に染みるのを感じた。
◇
数日後、違和感は確信へと変わり始める。
ななしがオンボロ寮の庭で、枯れ葉を掃いていたときのことだった。
カサリ、と背後で大きな音がして振り返る。
そこには誰もいない。
ただ、いつもは閉まっているはずの寮の裏手へと続く古い鉄門がほんの少しだけ開いていた。
「……気のせい、だよね」
自分に言い聞せるように呟き、作業に戻ろうとした瞬間、頭上から声が降ってきた。
「いいえ、気のせいではありませんよ」
「ひっ!?」
驚いて見上げると、そこには大樹の枝に腰掛け長い脚を優雅に組んだジェイドがいた。彼はいつもの制服姿ではなく、少し着崩したシャツ姿で、手には小さな剪定ばさみを持っている。
「ジェイド先輩! どうしてそんなところに……びっくりしました」
「驚かせてしまい、申し訳ありません。このあたりに珍しい山菜が自生していると聞きまして、少し採取に伺ったのです。無断で敷地に入った無礼をお許しください」
ジェイドは軽やかに枝から飛び降りた。
着地の音は驚くほど静かで、まるで水面に着地する水鳥のようだった。
彼はななしの目の前に立つと、じっとその顔を覗き込んできた。
「それにしても、ななしさん。少し顔色が悪いようですが……よく眠れていませんね?」
「え? あ、わかりますか? 最近、夜中に変な音が聞こえる気がして、あまり熟睡できなくて」
「おや、それは穏やかではありませんね。具体的には、どのような音ですか?」
ジェイドの問いかけは親身になって心配しているようだった。
しかし、その瞳の奥にある光はどこか観察者が被験者を観察するときのそれによく似ていた。
ななしは少し身を引こうとしたが、ジェイドがさらに一歩距離を詰めてくる。
「なんていうか……窓を小さく叩くような音とか、床板が軋む音とか。グリムはあまり気にしていないみたいなので、わたしの気のせいだとは思うんですけど」
「なるほど。窓を叩く音ですか。……例えば、このような?」
ジェイドが手を伸ばし、ななしの持っていた竹箒の柄を彼の人差し指の爪でコンコン、と二回規則正しく叩いた。
その音は、昨夜の窓から聞こえた音と全く同じリズム、全く同じテンポだった。
「……え」
ななしの身体が凍りつく。
ジェイドは微笑んだまま、その指先を竹箒から滑らせななしが握っている手に重ねた。彼の皮膚は冷たく、けれど重ねられた部分から、じわりと奇妙な熱が染み込んでくるような錯覚を覚える。
「古い建物ですから、風の悪戯ということもあります。ですが……本当に風の悪戯でしょうか」
「ジェイド先輩、手が……」
「おっと、失礼しました。すみません、僕の体温は元々少し低めなのです。こうしてあなたの温かさに触れていると、心なしか安心するのです」
ジェイドは手を引かない。
それどころか、親指でななしの手首のあたりを優しく、しかし拒絶を許さない強さで圧迫してきた。ドクン、ドクンと、ななしの早鐘を打つ脈拍がジェイドの指先に直接伝わっている。
ジェイドの目がわずかに細められた。
その歓喜に満ちた、けれど底の知れない光にななしは声を失う。
「あなたの鼓動は、とても心地よいリズムを刻むのですね。……もっと近くで、聴かせていただきたいものです」
「あの、先輩……わたし、まだ掃除が残っているので…」
声を震わせながらそう言うと、ジェイドは「おや」とわざとらしく目を見開いた後、ふっと力を抜いた。
自由になった手を引き寄せ、ななしは自分の胸元でそれを抱きしめる。ジェイドの触れた場所が、まだじくじくと熱い。
「これは失礼いたしました。では僕はこれで。……今夜は、良い夢が見られるといいですね、ななしさん」
ジェイドは一礼をして去っていった。
開いたままの鉄門の向こうへと消えていく彼の後ろ姿を見送りながら、ななしは自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。
恐怖なのか、それとも彼の冷たい指先が残していった、あの這い上がるような熱のせいなのか。
その夜、ななしの部屋の窓を叩く音は、いつもより少しだけ激しかった。
◇
数日後、激しい雨音がオンボロ寮の古い屋根を叩いていた。
窓ガラスを打ち付ける水滴の音が不気味に響く。
湿った生温い空気が冷え切った廊下に淀みを作っていた。
ななしはあまりの気配の恐ろしさに耐えかね、自室のドアを開けて廊下へ出た。いつもなら、この心細い夜を吹き飛ばしてくれるような、騒がしい相棒がいるはずだった。
「グリム……?」
隣の部屋の扉を小さくノックする。
しかし返ってくるのは冷たい雨音だけだった。
ゆっくりと扉を押し開けても、そこに姿はない。
このだだっ広く、今にも底が抜けてしまいそうなオンボロ寮にななしは取り残されていた。
ひときわ大きく鳴り響いた雷鳴に肩を震わせ、ななしは逃げるように自室へと戻った。
急いで扉を閉め鍵をかける。
カチャリ、と小さな金属音が静まり返った部屋に虚しく響いた。
呼吸を整えようと机を振り返ったななしは、その場に縫い止められたように硬直した。
先ほどまで、そこには何もなかったはずだった。
しかし今、古びた木製の机の上には見慣れないガラスの小瓶がぽつりと置かれていた。
中には暗闇の中でも微かに発光しているかのような、透き通った深い青色の液体。美しい細密なラベルには端正な筆跡で『安眠のシロップ』とだけ書かれていた。
「やはり、お気に召しませんでしたか」
背後から不意に紡がれた声が鼓膜を震わせる。
振り返ると開けた覚えのない窓の傍らに、ジェイドが立っていた。
前髪から滴る雫が彼の白い頬を伝って床に落ちる。
部屋の鍵は、確かにかけてあったはずだった。
「ジェイド先輩……。どうして、鍵……閉めてたのに」
「おや、鍵なら開いていましたよ。不用心ですねななしさん。僕のような不届き者が、こうして容易く侵入できてしまう。……ああ、そんなに怯えた顔をしないでください。少し悲しくなってしまいます」
ジェイドは音もなく滑るように距離を詰める。
濡れた外套が擦れる湿った音が妙に生々しく部屋に響いた。
彼は机の上の小瓶を細い指先で軽々と拾い上げ、ランプの光に透かして見せる。
「眠れないあなたのために僕が調合したのです。ですが手をつけていただけていない。僕の贈り物は、それほど信用がありませんか?」
「いえ、そういうわけじゃ……。ただ、少し怖くて」
「怖い? 僕がですか? それとも、これを飲むことがですか?」
ジェイドは、くすりと小さく含み笑いをした。
その眼差しは獲物を射すくめるように冷徹で、同時に酷く熱を帯びていた。本能的な恐怖に駆られ、逃げようと足元を動かしたななしの行く手を遮るようにジェイドの手が壁につかれる。
退路を断たれ、ななしの背中が壁にぴたりと張り付いた。
「……ジェイド先輩……あの……」
「僕としては、これでも遠いと感じるほどにはあなたを求めていますよ。あなたが毎夜、窓を叩く音に怯え、僕の存在を脳裏に浮かべている。その姿を想像するだけで僕の胸はこれほどまでに高鳴る」
ジェイドがもう片方の手を伸ばしななしの顎をそっと持ち上げた。親指の腹が下唇を微かに割り、そのまま首筋へと愛おしむように滑り落ちていく。
彼の指先は氷のように冷たかった。
しかしその冷たさが触れた皮膚から、じわりと痺れるような狂おしい熱が全身へと広がっていく。
恐怖と目の前の圧倒的な存在感。
感情と身体感覚が混ざり合い視界がわずかに熱を帯びて霞む。
「ずいぶんと脈が速いですね。僕の手の冷たさに驚いているのでしょうか。それとも別の理由ですか?」
「やめて、ください……。わたし……もう、どうしたらいいのか分からなくて。グリムも……誰もいなくて」
ななしが縋るように頼るべき存在の名を零すと、ジェイドの瞳が一瞬、深く昏い色へと沈んだ。
「おや、グリムくんを頼りにしていたのですか? 残念ですが彼は今夜、ハーツラビュルで随分と楽しそうに騒いでいましたよ」
「え……?」
「あなたが呼んでも、ここには誰も来ません。今夜この場所であなたを救うのも、あなたに安らぎを与えるのも、全て僕一人だけです。……ねえ、ななしさん。あなたは本当に僕を狂わせるのが上手だ」
ジェイドの顔がさらに近づく。
彼の吸い込む吐息がななしの首筋にかかった。
冷たい雨の匂いと微かに苦い薬草の香りが鼻腔をくくすぐる。
ジェイドの唇が、ななしの耳元に触れるか触れないかの距離で止まった。
「あなたの全てを、僕の視界の中に閉じ込めたい。それはとても、心地よい支配だと思いませんか?」
「ジェイド先輩、わたしは、あなたのものじゃ……」
「いいえ。あなたはすでに僕の引いた境界線の内側にいますよ。僕がそう決めた瞬間から、あなたは逃げられない」
ジェイドは囁きながらななしの両手首を優しく、けれど強固に掴み、自分の胸元へと導いた。
制服の生地越しに伝わる彼の張り詰めた鼓動。
静かで狂おしいリズムを刻んでいる。ななしの指先が彼の冷たい熱に囚われ、二人の境界線だけが不自然に融解していく。
「あなたが拒めば拒むほど、僕はあなたの影を深く追う。あなたが眠るその瞬間まで、僕の目があなたを捉え続けていることを忘れないでください」
ジェイドの細められた瞳にランプの炎が妖しく反射した。
その瞳の深淵に引きずり込まれるような感覚に包まれながら、ななしは小さく呼吸を乱すことしかできなかった。
外の雨はさらに激しさを増し、二人の気配を完全に世界から遮断していく。もう誰も、これからこの部屋で起きる出来事を止めることはできなかった。
購買部で最後の一つのパンを買い損ねた日の夕方「お裾分けです」と笑顔でそれを差し出してきたオクタヴィネル副寮長ジェイド・リーチ。
彼の親切はいつも完璧で、そしてどこか奇妙なほどタイミングが良かった。
「おや、ななしさん。こんなところで奇遇ですね」
夕暮れ時の図書室。
古い魔導書の背表紙を眺めていたななしの背後に影が落ちた。
振り返ると、非対称の髪を揺らしたジェイドが穏やかに微笑んでいる。
その手には、ななしが先ほどまで探していた植物図鑑の古い複写版が握られていた。
「ジェイド先輩。あ、その本……」
「ええ。あなたが昨日、熱心に探していらっしゃると小耳に挟みまして。少し気になって探してみたのですが、やはりここにありました」
「昨日……? わたし、誰にも言っていなかった気がするんですけど」
「おや、そうでしたか? 僕の勘違いかもしれません。ですが、お役に立てたのなら光栄です」
ジェイドは流れるような動作で本を差し出す。
その指先がななしの手袋越しに微かに触れた。
ほんの一瞬。けれど彼の長い指が驚くほど正確にななしの手の甲の輪郭をなぞったような感覚が残る。
「ありがとうございます、助かりました」
「いえいえ。あなたの困り顔を見るのは、僕も本意ではありませんから。……おや、少し髪が乱れていますよ」
ジェイドが自然に手を伸ばす。
ななしの耳元に落ちていた一房の髪を、彼は長い指で優しく掬い上げた。耳の裏に指先がかすめる。ひやりとした冷たさが肌に伝わり、ななしの背筋に小さな粟立ちが走った。
「あ、すみません。自分でやります」
「おっと、失礼。僕の悪い癖です」
ジェイドは悪びれもせず、むしろ楽しそうに目を細めて手を引いた。
その手はポケットに仕舞われる。
ななしの髪に触れた人差し指と親指が、ポケットの中でそっと擦り合わせられていることにななしは気づかない。
「では、僕はこれで。あまり遅くまで残っていると誰かさんがうるさいですからね。気をつけてお帰りください、ななしさん」
「はい。ジェイド先輩も」
背を向けて去っていく彼の背中はどこまでも紳士的で、頼れる先輩のそれだった。しかし、ななしが座り直して本を開いたとき、一通の小さな紙切れがページの間から滑り落ちた。
そこには美しい流麗な文字で、ただ一言。
『今日の香水は、少し甘めですね』
ななしは息を呑んだ。
誰かがすれ違いざまに落としたものだろうか。
それにしては文字のインクがまだ新しく、そしてどこかあの先輩の署名に似ている気がして、ななしは急に図書室の冷気が肌に染みるのを感じた。
◇
数日後、違和感は確信へと変わり始める。
ななしがオンボロ寮の庭で、枯れ葉を掃いていたときのことだった。
カサリ、と背後で大きな音がして振り返る。
そこには誰もいない。
ただ、いつもは閉まっているはずの寮の裏手へと続く古い鉄門がほんの少しだけ開いていた。
「……気のせい、だよね」
自分に言い聞せるように呟き、作業に戻ろうとした瞬間、頭上から声が降ってきた。
「いいえ、気のせいではありませんよ」
「ひっ!?」
驚いて見上げると、そこには大樹の枝に腰掛け長い脚を優雅に組んだジェイドがいた。彼はいつもの制服姿ではなく、少し着崩したシャツ姿で、手には小さな剪定ばさみを持っている。
「ジェイド先輩! どうしてそんなところに……びっくりしました」
「驚かせてしまい、申し訳ありません。このあたりに珍しい山菜が自生していると聞きまして、少し採取に伺ったのです。無断で敷地に入った無礼をお許しください」
ジェイドは軽やかに枝から飛び降りた。
着地の音は驚くほど静かで、まるで水面に着地する水鳥のようだった。
彼はななしの目の前に立つと、じっとその顔を覗き込んできた。
「それにしても、ななしさん。少し顔色が悪いようですが……よく眠れていませんね?」
「え? あ、わかりますか? 最近、夜中に変な音が聞こえる気がして、あまり熟睡できなくて」
「おや、それは穏やかではありませんね。具体的には、どのような音ですか?」
ジェイドの問いかけは親身になって心配しているようだった。
しかし、その瞳の奥にある光はどこか観察者が被験者を観察するときのそれによく似ていた。
ななしは少し身を引こうとしたが、ジェイドがさらに一歩距離を詰めてくる。
「なんていうか……窓を小さく叩くような音とか、床板が軋む音とか。グリムはあまり気にしていないみたいなので、わたしの気のせいだとは思うんですけど」
「なるほど。窓を叩く音ですか。……例えば、このような?」
ジェイドが手を伸ばし、ななしの持っていた竹箒の柄を彼の人差し指の爪でコンコン、と二回規則正しく叩いた。
その音は、昨夜の窓から聞こえた音と全く同じリズム、全く同じテンポだった。
「……え」
ななしの身体が凍りつく。
ジェイドは微笑んだまま、その指先を竹箒から滑らせななしが握っている手に重ねた。彼の皮膚は冷たく、けれど重ねられた部分から、じわりと奇妙な熱が染み込んでくるような錯覚を覚える。
「古い建物ですから、風の悪戯ということもあります。ですが……本当に風の悪戯でしょうか」
「ジェイド先輩、手が……」
「おっと、失礼しました。すみません、僕の体温は元々少し低めなのです。こうしてあなたの温かさに触れていると、心なしか安心するのです」
ジェイドは手を引かない。
それどころか、親指でななしの手首のあたりを優しく、しかし拒絶を許さない強さで圧迫してきた。ドクン、ドクンと、ななしの早鐘を打つ脈拍がジェイドの指先に直接伝わっている。
ジェイドの目がわずかに細められた。
その歓喜に満ちた、けれど底の知れない光にななしは声を失う。
「あなたの鼓動は、とても心地よいリズムを刻むのですね。……もっと近くで、聴かせていただきたいものです」
「あの、先輩……わたし、まだ掃除が残っているので…」
声を震わせながらそう言うと、ジェイドは「おや」とわざとらしく目を見開いた後、ふっと力を抜いた。
自由になった手を引き寄せ、ななしは自分の胸元でそれを抱きしめる。ジェイドの触れた場所が、まだじくじくと熱い。
「これは失礼いたしました。では僕はこれで。……今夜は、良い夢が見られるといいですね、ななしさん」
ジェイドは一礼をして去っていった。
開いたままの鉄門の向こうへと消えていく彼の後ろ姿を見送りながら、ななしは自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。
恐怖なのか、それとも彼の冷たい指先が残していった、あの這い上がるような熱のせいなのか。
その夜、ななしの部屋の窓を叩く音は、いつもより少しだけ激しかった。
◇
数日後、激しい雨音がオンボロ寮の古い屋根を叩いていた。
窓ガラスを打ち付ける水滴の音が不気味に響く。
湿った生温い空気が冷え切った廊下に淀みを作っていた。
ななしはあまりの気配の恐ろしさに耐えかね、自室のドアを開けて廊下へ出た。いつもなら、この心細い夜を吹き飛ばしてくれるような、騒がしい相棒がいるはずだった。
「グリム……?」
隣の部屋の扉を小さくノックする。
しかし返ってくるのは冷たい雨音だけだった。
ゆっくりと扉を押し開けても、そこに姿はない。
このだだっ広く、今にも底が抜けてしまいそうなオンボロ寮にななしは取り残されていた。
ひときわ大きく鳴り響いた雷鳴に肩を震わせ、ななしは逃げるように自室へと戻った。
急いで扉を閉め鍵をかける。
カチャリ、と小さな金属音が静まり返った部屋に虚しく響いた。
呼吸を整えようと机を振り返ったななしは、その場に縫い止められたように硬直した。
先ほどまで、そこには何もなかったはずだった。
しかし今、古びた木製の机の上には見慣れないガラスの小瓶がぽつりと置かれていた。
中には暗闇の中でも微かに発光しているかのような、透き通った深い青色の液体。美しい細密なラベルには端正な筆跡で『安眠のシロップ』とだけ書かれていた。
「やはり、お気に召しませんでしたか」
背後から不意に紡がれた声が鼓膜を震わせる。
振り返ると開けた覚えのない窓の傍らに、ジェイドが立っていた。
前髪から滴る雫が彼の白い頬を伝って床に落ちる。
部屋の鍵は、確かにかけてあったはずだった。
「ジェイド先輩……。どうして、鍵……閉めてたのに」
「おや、鍵なら開いていましたよ。不用心ですねななしさん。僕のような不届き者が、こうして容易く侵入できてしまう。……ああ、そんなに怯えた顔をしないでください。少し悲しくなってしまいます」
ジェイドは音もなく滑るように距離を詰める。
濡れた外套が擦れる湿った音が妙に生々しく部屋に響いた。
彼は机の上の小瓶を細い指先で軽々と拾い上げ、ランプの光に透かして見せる。
「眠れないあなたのために僕が調合したのです。ですが手をつけていただけていない。僕の贈り物は、それほど信用がありませんか?」
「いえ、そういうわけじゃ……。ただ、少し怖くて」
「怖い? 僕がですか? それとも、これを飲むことがですか?」
ジェイドは、くすりと小さく含み笑いをした。
その眼差しは獲物を射すくめるように冷徹で、同時に酷く熱を帯びていた。本能的な恐怖に駆られ、逃げようと足元を動かしたななしの行く手を遮るようにジェイドの手が壁につかれる。
退路を断たれ、ななしの背中が壁にぴたりと張り付いた。
「……ジェイド先輩……あの……」
「僕としては、これでも遠いと感じるほどにはあなたを求めていますよ。あなたが毎夜、窓を叩く音に怯え、僕の存在を脳裏に浮かべている。その姿を想像するだけで僕の胸はこれほどまでに高鳴る」
ジェイドがもう片方の手を伸ばしななしの顎をそっと持ち上げた。親指の腹が下唇を微かに割り、そのまま首筋へと愛おしむように滑り落ちていく。
彼の指先は氷のように冷たかった。
しかしその冷たさが触れた皮膚から、じわりと痺れるような狂おしい熱が全身へと広がっていく。
恐怖と目の前の圧倒的な存在感。
感情と身体感覚が混ざり合い視界がわずかに熱を帯びて霞む。
「ずいぶんと脈が速いですね。僕の手の冷たさに驚いているのでしょうか。それとも別の理由ですか?」
「やめて、ください……。わたし……もう、どうしたらいいのか分からなくて。グリムも……誰もいなくて」
ななしが縋るように頼るべき存在の名を零すと、ジェイドの瞳が一瞬、深く昏い色へと沈んだ。
「おや、グリムくんを頼りにしていたのですか? 残念ですが彼は今夜、ハーツラビュルで随分と楽しそうに騒いでいましたよ」
「え……?」
「あなたが呼んでも、ここには誰も来ません。今夜この場所であなたを救うのも、あなたに安らぎを与えるのも、全て僕一人だけです。……ねえ、ななしさん。あなたは本当に僕を狂わせるのが上手だ」
ジェイドの顔がさらに近づく。
彼の吸い込む吐息がななしの首筋にかかった。
冷たい雨の匂いと微かに苦い薬草の香りが鼻腔をくくすぐる。
ジェイドの唇が、ななしの耳元に触れるか触れないかの距離で止まった。
「あなたの全てを、僕の視界の中に閉じ込めたい。それはとても、心地よい支配だと思いませんか?」
「ジェイド先輩、わたしは、あなたのものじゃ……」
「いいえ。あなたはすでに僕の引いた境界線の内側にいますよ。僕がそう決めた瞬間から、あなたは逃げられない」
ジェイドは囁きながらななしの両手首を優しく、けれど強固に掴み、自分の胸元へと導いた。
制服の生地越しに伝わる彼の張り詰めた鼓動。
静かで狂おしいリズムを刻んでいる。ななしの指先が彼の冷たい熱に囚われ、二人の境界線だけが不自然に融解していく。
「あなたが拒めば拒むほど、僕はあなたの影を深く追う。あなたが眠るその瞬間まで、僕の目があなたを捉え続けていることを忘れないでください」
ジェイドの細められた瞳にランプの炎が妖しく反射した。
その瞳の深淵に引きずり込まれるような感覚に包まれながら、ななしは小さく呼吸を乱すことしかできなかった。
外の雨はさらに激しさを増し、二人の気配を完全に世界から遮断していく。もう誰も、これからこの部屋で起きる出来事を止めることはできなかった。
