サバナクロー
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「子分ー!! どこにいるんだゾ!」
夜の帳が完全に降りたナイトレイブンカレッジ。
オンボロ寮の談話室で、グリムが短い足をバタつかせながら窓の外を睨みつけていた。
時計の針はとうに門限を過ぎている。いつもなら「ただいま、グリム」と静かな声が響くはずの玄関は、不気味なほどに静まり返っていた。
「おかしいんだゾ。いつもなら、どんなに遅くなってもオレ様のご飯の時間には帰ってくるのに」
暖炉の火がパチパチと音を立てて燃えている。その音さえも、今夜は妙に大きく聞こえた。
グリムはたまらずにソファから飛び降りると、玄関の扉を乱暴に開け放つ。向かった先は、灯りがまだ煌々とついているハーツラビュル寮だった。
「おい! エース! デュース! ななしもここにいるんだゾ!?」
ハーツラビュルの談話室に、グリムの切羽詰まった声が響く。
ソファでスマホをいじっていたエースが、怪訝そうに顔を上げた。
「あ? グリム? 何言ってんだよ、こんな夜中に。ななしなら、放課後に図書室に行くって言ってたろ」
「そこにはいなかったんだゾ! 学園中探したけど、どこにもいねえんだゾ!」
その言葉に、隣で真面目に課題をこなしていたデュースがガタリと椅子を引いて立ち上がる。
「ななしがまだ戻っていないのか? もう門限は過ぎているぞ。あいつが連絡もなしに遅れるなんて、何かトラブルに巻き込まれたんじゃ……」
「落ち着けって、デュース。ななしのことだ、案外どこかで居眠りでもしてんじゃないの?」
エースは楽観的に笑おうとしたが、グリムの怯え方に次第に表情を曇らせていく。
「……マジでどこにもいないのか?」
「連絡もつかないんだゾ。あいつのスマホ、寮に置いたままで……」
三人が顔を見合わせ言葉を失ったその時。
背後の重厚な扉が音もなく開いた。
「おいおい、夜中に色めき立って何事だ、草食動物ども」
低い地響きのような声。
振り返るとそこにはサバナクロー寮長レオナ・キングスカラーが立っていた。けだるげに髪をかきあげながら、鋭い瞳で一同を見下ろしている。
何かの用でハーツラビュルを訪れたのか、その足取りはどこか苛立ちを孕んでいた。
「レオナ! ちょうどいいところに! ななしが帰ってこないんだゾ!」
グリムが縋りつくように叫ぶ。
レオナの眉がわずかにピクリと動いた。
「……あ? あの草食動物が?」
「そうらしいんすよ。レオナ先輩、何か知ってます?」
エースが尋ねるが、レオナはフンと鼻を鳴らす。
「知るかよ。俺はあいつの飼い主か何かか? 迷子の一匹くらい、放っておけばそのうち泣きながら帰ってくるだろ」
「もし不審者に攫われたりでもしてたらどうするんですか!」
デュースが拳を握りしめて色めき立つ。
レオナはそんな後輩たちを一瞥し、深くため息をついた。
「あー、うるせえ。ったく、どいつもこいつも騒ぎやがって。……おい毛玉、あいつの匂いがついてるもん、なんか持ってるか」
「え? あ、子分の上着なら、オンボロ寮の玄関に……」
「じゃあ、それを取ってこい。俺が直々に探してやる」
「本当か!?」
レオナの言葉にグリムの目が輝く。
エースとデュースも、獣人の嗅覚がいかに優れているかを知っているため、一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。
「お前らはここで待ってろ。ぞろぞろついてこられたら、匂いが混ざって邪魔だ」
レオナはそう言い捨てると、翻ってハーツラビュル寮を後にした。
◇
数分後、オンボロ寮の前に立つレオナの姿があった。
グリムが引きずってきたななしの上着を受け取り、鼻先を寄せる。
かすかに残るななしの匂いが鼻腔をくすぐった。
「……ちっ、面倒な真似させやがって」
悪態をつきながらもレオナの足はすでに動き出していた。
匂いの主を求めて夜の闇へと滑り込むように歩き出す。
学園の敷地は広い。だがレオナの鋭い嗅覚は確実にななしの足跡を捉えていた。裏森の入り口、普段は誰も近づかないような深い茂みの奥へとその匂いは続いていた。
「おい、ななし。いるなら返事しやがれ」
レオナの声が夜の静寂に溶けていく。
ざわざわと風に揺れる木々の葉音が妙に胸をざわつかせた。
いつもなら、この声をかければすぐに駆け寄ってくるはずだった。
それがないという事実がレオナの胸の奥にある、名前のつかない焦燥をじわじわと刺激していく。
さらに奥へと進むと匂いが一段と強くなった。
同時にわずかな異変を鼻が感知する。
鉄の匂い。いや、血の匂いだ。ほんの数滴、けれど確実に夜の空気に混ざっている。
レオナの身体が一瞬で戦闘態勢へと切り替わる。
筋肉が緊張し瞳孔が細くなった。
けだるげな空気は完全に消え去り、そこには獲物を追う本物の捕食者の気配だけが残る。
「……いやがった」
大きな木の根元。
茂みの影に隠れるようにして、小さく丸まっている人影があった。
間違いない、探していたななしだ。
「ななし」
その名を呼ぶレオナの声はいつもよりずっと低く、そして微かに震えていた。
地面に座り込み、膝を抱えていたななしがゆっくりと顔を上げる。
月明かりに照らされたその顔は青白く額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
足首を不自然な方向に曲げ、手で押さえている。どうやら暗闇で足を踏み外し捻挫か何かをして動けなくなっていたらしい。
「あ……、レオナ、さん……?」
ななしの声は掠れていた。
見上げる瞳には恐怖とそれ以上の安堵が混ざり合っている。
その瞳と視線が交わった瞬間、レオナの心臓がどくんと大きく脈打った。
「何やってんだ、お前は。こんなところで」
レオナは足早に近づきななしの前に片膝をつく。
距離が縮まると、ただの匂いだったものが生々しい体温を伴ってレオナの五感を支配し始めた。
ななしが小さく息を呑む。
レオナの大きな手がななしの頬に触れた。
夜の冷気に晒されていた肌は驚くほど冷たく、けれどレオナの掌が触れた場所から、じわじわと熱が伝染していくようだった。
「……すみません、暗くて、道が見えなくなって……。スマホも忘れちゃって、動けなくて……」
「言い訳はいい。怪我を見せろ」
レオナはななしの手を退け足首に触れる。
痛みにななしの身体が小さく跳ねた。
その瞬間、ななしの呼気がレオナの首筋にかかる。
夜風はこんなにも冷たいのに互いの距離が近すぎるせいで、そこだけが異常な熱を帯びていく。
「痛むか」
「……少し、だけ」
嘘をつけ、とレオナは心の中で悪態をついた。
こんなに腫れ上がっている。痛くないはずがない。
けれど強がっているのか、それともレオナを目の前にして緊張しているのか、ななしの身体は小刻みに震えていた。
レオナはななしの腰に手を回し、もう片方の腕を膝裏に通す。
拒絶する隙も与えず、軽々とその身体を持ち上げた。
「わっ……! レ、レオナさん!?」
「暴れるな。落とすぞ」
「でも、重い、ですし……」
「お前みたいな草食動物が俺の重荷になるわけねえだろ。黙って掴まってろ」
有無を言わせぬ口調にななしは大人しくレオナの首に腕を回した。
密着した身体から、お互いの鼓動がダイレクトに伝わってくる。
ななしの心臓は、まるで捕えられた小鳥のように激しく速く打っていた。そしてレオナ自身の胸の奥でも、それと同調するように熱い塊がドクドクと暴れ狂っている。
ただの迷子探しだったはずだ。
見つけて連れて帰ればそれで終わるはずの、退屈な身辺世話。
それなのに腕の中に収まるこの小さな存在の温度が、匂いが、肌の柔らかさが、レオナの理性をじわじわと侵食していく。
ななしの顔がレオナの胸元に埋められる。
「ありがとうございます……」という小さな呟きが、布地を通してレオナの肌に直接届く。その瞬間レオナの腕に、ぐっと力がこもった。
渡したくない離したくない。本能が腕の中の獲物を完全に自分のものとして認識し始めていた。
夜の森を抜ける足取りは先ほどよりも心なしか遅い。
少しでも長く、この熱を感じていたいと思ってしまっている自分に、レオナは内心で苦笑する。
「……レオナさん、顔が、近いです」
ななしが上目遣いにレオナを見つめる。
その唇は微かに震え、吐き出される息はどこまでも甘く熱い。
レオナの視線がななしの唇へと吸い寄せられる。
「嫌なら目を閉じろ……俺がどうにかしちまう前にな」
低く掠れた声で囁きながらレオナはななしをさらに深く、己の身体へと抱き寄せた。二人の境界線が曖昧になるほどの密着感の中で、夜はさらに深く濃密に更けていく。
森からオンボロ寮へと続く夜道は静まり返っていた。
レオナの腕に抱えられたまま、ななしはその胸にそっと顔を埋める。衣服越しに伝わる鼓動は驚くほど高鳴っており、それが走ったせいでないことはレオナの落ち着いた足取りが証明していた。
「あの、レオナさん……」
「なんだ」
「どうして見つけられたんですか? わたしスマホも忘れて、夜の森の中でずっと動けなくて……誰にも場所を言ってなかったのに」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、レオナの歩みが一瞬だけ止まりかけた。だが彼はすぐに何食わぬ顔で歩を進める。
「あの毛玉が騒いでたから、上着の匂いを辿っただけだ」
「でも広い学園なのに……」
「お前は怪我人のくせに、いちいちうるせえな」
レオナの声が一段と低くなる。
それは怒っているというよりも何かを隠そうとしてはぐらかしている時の声音だった。見下ろす瞳が月光を反射して怪しく光る。ななしがその視線の強さに息を呑むとレオナはふっと鼻で笑った。
「……お前の気配が、夕方からどこにもしなかったからだ」
「え……?」
「放課後、いつもなら用がなくても俺の目の届くところにいるはずのお前が、どこ探しても見当たらねえ。てっきり、ハーツラビュルの1年坊主どものところで油でも売ってやがるんだと思って、あいつらの寮まで直接ツラを拝みに行ってやったら、中からあの毛玉が飛び出してきやがった」
すべてが繋がった瞬間だった。
ななしが森で孤立している間、レオナはすでに単独で動き回っていた。偶然ハーツラビュルでグリムの騒ぎに出くわしたのではなく、ななしを連れ戻すために、あのめんどくさがりな男が自ら夜の学園を捜索していたのだった。
「じゃあ、レオナさんは、最初からわたしを探しに……?」
「……チッ。うるせえな、怪我人は黙ってろ」
図星を指されたからかレオナの足取りがわずかに速くなる。
衣服越しに伝わる彼の鼓動が先ほどよりも微かに速く、強く脈打ち始めた。
◇
オンボロ寮の玄関が見えてくる。
だがレオナはそのまま中に入るのではなく、人気のない裏手のテラスの影へとななしを運んだ。
壁に背を預けさせられるようにして、そっと地面に下ろされる。怪我をした足に障らないよう、驚くほど丁寧な手つきだった。
「レオナ、さん……?」
「静かにしろ。中にあの毛玉がいるだろ。……今は呼びたくねえ」
目の前に覆い被さるようにしてレオナが両手を壁につく。
ななしは完全に彼の影に閉じ込められた。
周囲に漂うのは夜の草木の匂いと、レオナの狂おしいほどに濃厚な雄の気配。彼の吐き出す熱い息がななしの額や頬、そして唇に幾度も吹きかかる。
「お前、自分がどれだけ無防備か分かってんのか」
レオナの指先がななしの顎をくいと持ち上げた。
拒む隙など与えない。彼の大きな手のひらが首筋から鎖骨へとなぞるように滑り落ちていく。その指先が触れるたび、肌が電流を帯びたように微かに震えた。
「レオナさん、わたし……」
「嫌か? 俺にこんな風に探されて、囲い込まれるのは」
彼は顔をさらに近づけ、耳元で囁く。
低く掠れた声が鼓膜を直接揺らし、二人の距離を極限まで縮めていく。
ななしが小さく首を横に振ると、レオナの喉から満足げな、そしてどこか飢えたような低い唸り声が漏れた。
「なら、二度と俺の目の届かないところで迷子になるな……次、同じことをしたら、ただじゃおかないからな」
唇が頬を、そして耳の裏を熱く深く吸うように掠めていく。
衣服越しに感じる硬い胸板、お互いの肺が求める酸素の音、切ないほどに重なり合う二人の体温。すべてが混ざり合い境界線が溶けていくような錯覚に囚われる。
「ななし……」
名前を呼ぶレオナの声はこれまで聞いたどの声よりも優しく、そして容赦なくななしを縛り付けた。
「子分!! 帰ってきたのか!?」
その時、オンボロ寮の窓からグリムが飛び出してきた。
心配でじっとしていられずオンボロ寮の周りをぐるぐると探し回っていたらしい。現れたグリムは壁際に重なり合う二人を見て、ぱっと表情を明るくさせた。
「やっぱり子分なんだゾ! 帰ってこねえからオレ様心配したんだゾ!」
グリムの声にレオナはひどく不機嫌そうに舌打ちをひとつすると、ゆっくりとななしから身体を離した。まるで自分の獲物を隠すように、その広い背中でななしをグリムの視線から遮る。
「おい、毛玉。こいつは足に怪我してんだよ。部屋まで運んでやるから、とっとと鍵を開けろ」
「怪我!? まってろ、今すぐ開けるんだゾ!」
グリムは慌てて走り出していく。
レオナは再びななしを軽々と腕の中に抱え上げると、耳元にだけ聞こえる低い声で、いたずらっぽく、けれど有無を言わせぬ響きを込めて呟いた。
「続きは、あの毛玉が寝静まってからだ。覚悟しとけよ」
まだ消えない首筋の熱と彼の確かな腕の強さを感じながら、二人は夜のオンボロ寮の中へと足を踏み入れた。
夜の帳が完全に降りたナイトレイブンカレッジ。
オンボロ寮の談話室で、グリムが短い足をバタつかせながら窓の外を睨みつけていた。
時計の針はとうに門限を過ぎている。いつもなら「ただいま、グリム」と静かな声が響くはずの玄関は、不気味なほどに静まり返っていた。
「おかしいんだゾ。いつもなら、どんなに遅くなってもオレ様のご飯の時間には帰ってくるのに」
暖炉の火がパチパチと音を立てて燃えている。その音さえも、今夜は妙に大きく聞こえた。
グリムはたまらずにソファから飛び降りると、玄関の扉を乱暴に開け放つ。向かった先は、灯りがまだ煌々とついているハーツラビュル寮だった。
「おい! エース! デュース! ななしもここにいるんだゾ!?」
ハーツラビュルの談話室に、グリムの切羽詰まった声が響く。
ソファでスマホをいじっていたエースが、怪訝そうに顔を上げた。
「あ? グリム? 何言ってんだよ、こんな夜中に。ななしなら、放課後に図書室に行くって言ってたろ」
「そこにはいなかったんだゾ! 学園中探したけど、どこにもいねえんだゾ!」
その言葉に、隣で真面目に課題をこなしていたデュースがガタリと椅子を引いて立ち上がる。
「ななしがまだ戻っていないのか? もう門限は過ぎているぞ。あいつが連絡もなしに遅れるなんて、何かトラブルに巻き込まれたんじゃ……」
「落ち着けって、デュース。ななしのことだ、案外どこかで居眠りでもしてんじゃないの?」
エースは楽観的に笑おうとしたが、グリムの怯え方に次第に表情を曇らせていく。
「……マジでどこにもいないのか?」
「連絡もつかないんだゾ。あいつのスマホ、寮に置いたままで……」
三人が顔を見合わせ言葉を失ったその時。
背後の重厚な扉が音もなく開いた。
「おいおい、夜中に色めき立って何事だ、草食動物ども」
低い地響きのような声。
振り返るとそこにはサバナクロー寮長レオナ・キングスカラーが立っていた。けだるげに髪をかきあげながら、鋭い瞳で一同を見下ろしている。
何かの用でハーツラビュルを訪れたのか、その足取りはどこか苛立ちを孕んでいた。
「レオナ! ちょうどいいところに! ななしが帰ってこないんだゾ!」
グリムが縋りつくように叫ぶ。
レオナの眉がわずかにピクリと動いた。
「……あ? あの草食動物が?」
「そうらしいんすよ。レオナ先輩、何か知ってます?」
エースが尋ねるが、レオナはフンと鼻を鳴らす。
「知るかよ。俺はあいつの飼い主か何かか? 迷子の一匹くらい、放っておけばそのうち泣きながら帰ってくるだろ」
「もし不審者に攫われたりでもしてたらどうするんですか!」
デュースが拳を握りしめて色めき立つ。
レオナはそんな後輩たちを一瞥し、深くため息をついた。
「あー、うるせえ。ったく、どいつもこいつも騒ぎやがって。……おい毛玉、あいつの匂いがついてるもん、なんか持ってるか」
「え? あ、子分の上着なら、オンボロ寮の玄関に……」
「じゃあ、それを取ってこい。俺が直々に探してやる」
「本当か!?」
レオナの言葉にグリムの目が輝く。
エースとデュースも、獣人の嗅覚がいかに優れているかを知っているため、一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。
「お前らはここで待ってろ。ぞろぞろついてこられたら、匂いが混ざって邪魔だ」
レオナはそう言い捨てると、翻ってハーツラビュル寮を後にした。
◇
数分後、オンボロ寮の前に立つレオナの姿があった。
グリムが引きずってきたななしの上着を受け取り、鼻先を寄せる。
かすかに残るななしの匂いが鼻腔をくすぐった。
「……ちっ、面倒な真似させやがって」
悪態をつきながらもレオナの足はすでに動き出していた。
匂いの主を求めて夜の闇へと滑り込むように歩き出す。
学園の敷地は広い。だがレオナの鋭い嗅覚は確実にななしの足跡を捉えていた。裏森の入り口、普段は誰も近づかないような深い茂みの奥へとその匂いは続いていた。
「おい、ななし。いるなら返事しやがれ」
レオナの声が夜の静寂に溶けていく。
ざわざわと風に揺れる木々の葉音が妙に胸をざわつかせた。
いつもなら、この声をかければすぐに駆け寄ってくるはずだった。
それがないという事実がレオナの胸の奥にある、名前のつかない焦燥をじわじわと刺激していく。
さらに奥へと進むと匂いが一段と強くなった。
同時にわずかな異変を鼻が感知する。
鉄の匂い。いや、血の匂いだ。ほんの数滴、けれど確実に夜の空気に混ざっている。
レオナの身体が一瞬で戦闘態勢へと切り替わる。
筋肉が緊張し瞳孔が細くなった。
けだるげな空気は完全に消え去り、そこには獲物を追う本物の捕食者の気配だけが残る。
「……いやがった」
大きな木の根元。
茂みの影に隠れるようにして、小さく丸まっている人影があった。
間違いない、探していたななしだ。
「ななし」
その名を呼ぶレオナの声はいつもよりずっと低く、そして微かに震えていた。
地面に座り込み、膝を抱えていたななしがゆっくりと顔を上げる。
月明かりに照らされたその顔は青白く額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
足首を不自然な方向に曲げ、手で押さえている。どうやら暗闇で足を踏み外し捻挫か何かをして動けなくなっていたらしい。
「あ……、レオナ、さん……?」
ななしの声は掠れていた。
見上げる瞳には恐怖とそれ以上の安堵が混ざり合っている。
その瞳と視線が交わった瞬間、レオナの心臓がどくんと大きく脈打った。
「何やってんだ、お前は。こんなところで」
レオナは足早に近づきななしの前に片膝をつく。
距離が縮まると、ただの匂いだったものが生々しい体温を伴ってレオナの五感を支配し始めた。
ななしが小さく息を呑む。
レオナの大きな手がななしの頬に触れた。
夜の冷気に晒されていた肌は驚くほど冷たく、けれどレオナの掌が触れた場所から、じわじわと熱が伝染していくようだった。
「……すみません、暗くて、道が見えなくなって……。スマホも忘れちゃって、動けなくて……」
「言い訳はいい。怪我を見せろ」
レオナはななしの手を退け足首に触れる。
痛みにななしの身体が小さく跳ねた。
その瞬間、ななしの呼気がレオナの首筋にかかる。
夜風はこんなにも冷たいのに互いの距離が近すぎるせいで、そこだけが異常な熱を帯びていく。
「痛むか」
「……少し、だけ」
嘘をつけ、とレオナは心の中で悪態をついた。
こんなに腫れ上がっている。痛くないはずがない。
けれど強がっているのか、それともレオナを目の前にして緊張しているのか、ななしの身体は小刻みに震えていた。
レオナはななしの腰に手を回し、もう片方の腕を膝裏に通す。
拒絶する隙も与えず、軽々とその身体を持ち上げた。
「わっ……! レ、レオナさん!?」
「暴れるな。落とすぞ」
「でも、重い、ですし……」
「お前みたいな草食動物が俺の重荷になるわけねえだろ。黙って掴まってろ」
有無を言わせぬ口調にななしは大人しくレオナの首に腕を回した。
密着した身体から、お互いの鼓動がダイレクトに伝わってくる。
ななしの心臓は、まるで捕えられた小鳥のように激しく速く打っていた。そしてレオナ自身の胸の奥でも、それと同調するように熱い塊がドクドクと暴れ狂っている。
ただの迷子探しだったはずだ。
見つけて連れて帰ればそれで終わるはずの、退屈な身辺世話。
それなのに腕の中に収まるこの小さな存在の温度が、匂いが、肌の柔らかさが、レオナの理性をじわじわと侵食していく。
ななしの顔がレオナの胸元に埋められる。
「ありがとうございます……」という小さな呟きが、布地を通してレオナの肌に直接届く。その瞬間レオナの腕に、ぐっと力がこもった。
渡したくない離したくない。本能が腕の中の獲物を完全に自分のものとして認識し始めていた。
夜の森を抜ける足取りは先ほどよりも心なしか遅い。
少しでも長く、この熱を感じていたいと思ってしまっている自分に、レオナは内心で苦笑する。
「……レオナさん、顔が、近いです」
ななしが上目遣いにレオナを見つめる。
その唇は微かに震え、吐き出される息はどこまでも甘く熱い。
レオナの視線がななしの唇へと吸い寄せられる。
「嫌なら目を閉じろ……俺がどうにかしちまう前にな」
低く掠れた声で囁きながらレオナはななしをさらに深く、己の身体へと抱き寄せた。二人の境界線が曖昧になるほどの密着感の中で、夜はさらに深く濃密に更けていく。
森からオンボロ寮へと続く夜道は静まり返っていた。
レオナの腕に抱えられたまま、ななしはその胸にそっと顔を埋める。衣服越しに伝わる鼓動は驚くほど高鳴っており、それが走ったせいでないことはレオナの落ち着いた足取りが証明していた。
「あの、レオナさん……」
「なんだ」
「どうして見つけられたんですか? わたしスマホも忘れて、夜の森の中でずっと動けなくて……誰にも場所を言ってなかったのに」
ふと浮かんだ疑問を口にすると、レオナの歩みが一瞬だけ止まりかけた。だが彼はすぐに何食わぬ顔で歩を進める。
「あの毛玉が騒いでたから、上着の匂いを辿っただけだ」
「でも広い学園なのに……」
「お前は怪我人のくせに、いちいちうるせえな」
レオナの声が一段と低くなる。
それは怒っているというよりも何かを隠そうとしてはぐらかしている時の声音だった。見下ろす瞳が月光を反射して怪しく光る。ななしがその視線の強さに息を呑むとレオナはふっと鼻で笑った。
「……お前の気配が、夕方からどこにもしなかったからだ」
「え……?」
「放課後、いつもなら用がなくても俺の目の届くところにいるはずのお前が、どこ探しても見当たらねえ。てっきり、ハーツラビュルの1年坊主どものところで油でも売ってやがるんだと思って、あいつらの寮まで直接ツラを拝みに行ってやったら、中からあの毛玉が飛び出してきやがった」
すべてが繋がった瞬間だった。
ななしが森で孤立している間、レオナはすでに単独で動き回っていた。偶然ハーツラビュルでグリムの騒ぎに出くわしたのではなく、ななしを連れ戻すために、あのめんどくさがりな男が自ら夜の学園を捜索していたのだった。
「じゃあ、レオナさんは、最初からわたしを探しに……?」
「……チッ。うるせえな、怪我人は黙ってろ」
図星を指されたからかレオナの足取りがわずかに速くなる。
衣服越しに伝わる彼の鼓動が先ほどよりも微かに速く、強く脈打ち始めた。
◇
オンボロ寮の玄関が見えてくる。
だがレオナはそのまま中に入るのではなく、人気のない裏手のテラスの影へとななしを運んだ。
壁に背を預けさせられるようにして、そっと地面に下ろされる。怪我をした足に障らないよう、驚くほど丁寧な手つきだった。
「レオナ、さん……?」
「静かにしろ。中にあの毛玉がいるだろ。……今は呼びたくねえ」
目の前に覆い被さるようにしてレオナが両手を壁につく。
ななしは完全に彼の影に閉じ込められた。
周囲に漂うのは夜の草木の匂いと、レオナの狂おしいほどに濃厚な雄の気配。彼の吐き出す熱い息がななしの額や頬、そして唇に幾度も吹きかかる。
「お前、自分がどれだけ無防備か分かってんのか」
レオナの指先がななしの顎をくいと持ち上げた。
拒む隙など与えない。彼の大きな手のひらが首筋から鎖骨へとなぞるように滑り落ちていく。その指先が触れるたび、肌が電流を帯びたように微かに震えた。
「レオナさん、わたし……」
「嫌か? 俺にこんな風に探されて、囲い込まれるのは」
彼は顔をさらに近づけ、耳元で囁く。
低く掠れた声が鼓膜を直接揺らし、二人の距離を極限まで縮めていく。
ななしが小さく首を横に振ると、レオナの喉から満足げな、そしてどこか飢えたような低い唸り声が漏れた。
「なら、二度と俺の目の届かないところで迷子になるな……次、同じことをしたら、ただじゃおかないからな」
唇が頬を、そして耳の裏を熱く深く吸うように掠めていく。
衣服越しに感じる硬い胸板、お互いの肺が求める酸素の音、切ないほどに重なり合う二人の体温。すべてが混ざり合い境界線が溶けていくような錯覚に囚われる。
「ななし……」
名前を呼ぶレオナの声はこれまで聞いたどの声よりも優しく、そして容赦なくななしを縛り付けた。
「子分!! 帰ってきたのか!?」
その時、オンボロ寮の窓からグリムが飛び出してきた。
心配でじっとしていられずオンボロ寮の周りをぐるぐると探し回っていたらしい。現れたグリムは壁際に重なり合う二人を見て、ぱっと表情を明るくさせた。
「やっぱり子分なんだゾ! 帰ってこねえからオレ様心配したんだゾ!」
グリムの声にレオナはひどく不機嫌そうに舌打ちをひとつすると、ゆっくりとななしから身体を離した。まるで自分の獲物を隠すように、その広い背中でななしをグリムの視線から遮る。
「おい、毛玉。こいつは足に怪我してんだよ。部屋まで運んでやるから、とっとと鍵を開けろ」
「怪我!? まってろ、今すぐ開けるんだゾ!」
グリムは慌てて走り出していく。
レオナは再びななしを軽々と腕の中に抱え上げると、耳元にだけ聞こえる低い声で、いたずらっぽく、けれど有無を言わせぬ響きを込めて呟いた。
「続きは、あの毛玉が寝静まってからだ。覚悟しとけよ」
まだ消えない首筋の熱と彼の確かな腕の強さを感じながら、二人は夜のオンボロ寮の中へと足を踏み入れた。
