ディアソムニア
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マレウス・ドラコニアの周囲には常に冷たい威厳が漂っている。だが、オンボロ寮の庭先に現れる彼は、ただの少し風変わりな夜の住人だった。
いつものように月明かりだけが照らす古いベンチに、マレウスは腰掛けている。その傍らにななしが躊躇いなく歩み寄り、当然のように隣へ腰を下ろした。
「こんばんは、ツノ太郎。今日も散歩?」
「ななしか。相変わらず、僕の後ろから足音もなく近づくのが上手いな。他の人間なら、僕の気配を感じただけで逃げ出すものだが」
「ツノ太郎がここにいるって分かってて来てるんだから、逃げるわけないじゃない」
ななしは笑いながら、マレウスの顔を覗き込む。マレウスはほんの少しだけ意外そうに瞬きをし、それから小さく口元を緩めた。その表情にはほんのりと、だが確実に好意の色が滲んでいる。
「ふっ……。相変わらず、お前は肝が据わっているな。僕をツノ太郎と呼び、こうして平然と隣に座る。ヒトの子にしては、少々無防備が過ぎるのではないか?」
「無防備じゃないよ。相手がツノ太郎だから、こうしてるの」
「僕だから、か」
マレウスの声は静かだが、夜の空気に溶けるような心地よい低音だった。彼は長い指先で、自身の黒い衣類の裾を弄ぶ。ななしはその手をじっと見つめ、不意に自分の手を重ねた。
ぴくり、とマレウスの指が動く。しかし、拒絶するように引き剥がされることはない。
「手が冷たいね、夜風が強いからかな」
「……お前の手は、驚くほど温かいな。ななし、まるで小さな焚き火のようだ」
「じゃあ、もっと温めてあげる」
ななしは重ねた手の上に、もう片方の手も重ねて包み込む。マレウスは視線を落とし、二人の手が重なり合っている様子をじっと見つめた。彼の瞳の奥で小さな燐光が揺れる。
「お前はいつもそうだ。僕が距離を置こうとしても、境界線を踏み越えてくる。それがどれほど危ういことか、分かっていない」
「分かっててやってるよ。ツノ太郎ともっと近くにいたいから」
「……言うようになったな。だが僕の領域に深く入り込むということは、それ相応の覚悟が必要だぞ」
マレウスの言葉は警告のようでありながらどこか甘やかで、拒絶の響きは一切ない。むしろ、もっと踏み込んできてほしいと誘っているかのようだった。
夜が更けるにつれ、二人の間の空気は少しずつ熱を帯びていく。
マレウスの手から伝わる冷たさは、いつの間にかななしの体温に浸食され、微かな微熱へと変わっていた。触れ合っている手のひらから、ドクドクと力強い脈拍が互いの肌へと伝わる。それがどちらの鼓動なのか、もう判別がつかない。
「ななし、お前の体温が僕の肌に移っていくのが分かる。妙な感覚だ。胸の奥が熱くなる」
「私も同じだよ。こうして触れてると、なんだかドキドキして、身体の芯が熱くなってくる」
「お前のその真っ直ぐな視線は、時に僕を惑わせる。妖精の魔力すら跳ね返すような強い光だ」
マレウスは重ねられていた手を裏返し、今度は自分からななしの細い指を一本ずつ絡めとった。絡み合った手がお互いの皮膚を強く圧迫する。皮膚と皮膚が擦れ合うたびに、じりじりと焼けるような熱が指先から腕へ、そして全身へと駆け巡る。
「ツノ太郎、手が……」
「痛むか? ならば離すが……」
「ううん、離さないで。もっと強くてもいい」
ななしがそう言ってマレウスの顔を見上げると、彼の顔が予想以上に近いところにあった。マレウスの息遣いがななしの唇の端をかすめる。夜の冷気の中で二人の吐き出す息だけが白く、そして熱く混ざり合っていく。
「本当にお前は……。僕を恐れないだけでなく、さらに奥へ踏み込もうとする。この熱は僕の魔力が昂ぶっているせいかもしれない。人間の身体には、少々刺激が強すぎるのではないか?」
「大丈夫。ツノ太郎のなら、いくらでも欲しい」
「……。その言葉、後悔しても知らないぞ。僕の熱に浮かされ、二度と元の世界へ戻れなくなっても」
マレウスの瞳が、暗闇の中でらんらんと輝きを増す。彼の身体から放たれる圧倒的な存在感と、微かに漏れ出る魔力の波動が、ななしの肌をぴりぴりと刺激した。それは恐怖ではなく、身体の奥底を震わせるような、甘美な痺れだった。
世界が狭くなっていく。
オンボロ寮の庭も、周囲の木々も、夜空の月さえも遠のき、ただ目の前にいるマレウスの存在だけが、世界のすべてを占めていく。
マレウスは絡めた手にさらに力を込め、ななしの身体を自分の方へと引き寄せた。二人の距離は、もう数センチもない。
「これ以上は、ただの友人としての距離ではないぞ、ななし。お前が僕の心をここまで乱したのだ。ただで済むと思っているわけではあるまい」
「思ってないよ。特別になりたいって、ずっと思ってた」
「特別、か。妖精族にとってのそれは、人間の生涯よりも遥かに長い時間を縛る鎖となる。お前の短い一生を、僕という存在で塗り潰すことになるのだぞ」
マレウスの声音は深く、濃厚な情愛を含んで響く。ななしの視界は、彼の美しい容貌と、迫るような黒い影で満たされていた。
彼の内面にある孤独と、それを埋め尽くそうとする独占欲が、言葉の端々から溢れ出している。ななしはそのすべてを拒むことなく、むしろ吸い込むように受け入れていた。マレウスという存在に自分の存在が溶かされていくような錯覚に陥る。
「僕の腕の中に沈めば、もう誰も手を差し伸べることは出来なくなるかもしれないのだぞ」
「……うん。それでもいい。ツノ太郎の、ものにして」
ななしの瞳には一切の迷いがなかった。その純粋で強烈な意志が、マレウスの胸の奥底にある理性を、音を立ててきしませる。
マレウスはふっと、低く妖しく笑った。その笑みは慈悲深くもあり、同時にすべてを呑み込む捕食者のようでもあった。
彼の長い指先が、ななしの頬をそっとなぞる。冷たいはずの指先は、今や触れられた場所を焦がすほどに熱い。マレウスの視線が、ななしの唇へとゆっくりと降りていく。
「やめるなら今のうちだぞ、ななし。この唇に触れたなら、僕はもう、お前を絶対に離さない」
マレウスの言葉は夜の静寂に酷く鮮やかに響いた。
その重みを脳が理解するよりも早く、心臓が跳ね上がる。
彼の言葉は脅しでも何でもない。
ただの厳然たる事実として、そこに置かれていた。
「……やめないで」
ななしの唇から漏れたのは、拒絶ではなく、むしろ彼をさらに深くへ誘うための言葉だった。その瞬間マレウスの瞳の奥で、何かが完全に弾けた。
「……そうか。ならば、もう容赦はしない」
低く、地響きのような声が鼓膜を揺らした。
重なる唇は、驚くほどに熱かった。
最初に触れ合った手のひらの冷たさなど、まるで遠い過去の幻であったかのように、マレウスの体温はななしの全てを焼き尽くす勢いで押し寄せてくる。
優しく触れるだけの口づけではない。それは、互いの存在を確かめ合い、貪り合うような、濃密で容赦のないものだった。
マレウスの大きな手がななしの後頭部を包み込み、さらに深くへと 押し込んでくる。逃げる隙など最初から与える気はないと言わんばかりの、強固な質量がそこにあった。
「ん……っ」
かすかな吐息が漏れる。
だが、それさえもマレウスの唇にすべて吸い上げられていく。
頭の芯が、じわじわと痺れていくような感覚に襲われる。酸欠のせいだけではない。マレウスから流れ込んでくる圧倒的な「個」の存在感に、内面から圧倒される。
二度と手放したくないという狂おしいほどの執着。それらが言葉ではなく、肌と肌の接触を通じて、直接ななしの精神へと流れ込んでくる。
胸の奥が、ぎゅうと締め付けられるように痛む。
けれど、その痛みすらも心地よい。
マレウスに塗り潰されていく感覚は恐怖ではなく、至上の安息となってななしを満たしていく。
ようやく唇が離れたとき、二人の間には細い銀の糸が引いていた。
ななしは、激しく上下する互いの胸の音を聞きながら、焦点の定まらない目でマレウスを見つめる。マレウスの端正な顔は、かつて見たことがないほどに情熱的に歪んでいた。彼の額からは、微かに汗が滲んでいる。
「ななし……。お前のせいで、僕は自分がどれほど強欲な存在だったかを思い知らされた。この胸の渇きは、お前をどれだけ貪っても癒えそうにない」
「ツノ太郎……」
「もう遅い、と言ったはずだ。お前の心も、身体も、その短い生涯のすべてを、僕が貰い受ける。異論はないな?」
マレウスはななしの細い首筋に、そっと 牙を立てないように唇を寄せた。そこから伝わるドクドクという脈拍を、愛おしそうに、そして確かめるように吸い上げる。
ななしは、彼の広い背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
「うん。わたしの全部、あげる……」
その言葉を聞いた瞬間、マレウスは満足げに、そして酷く妖艶に 喉を鳴らして笑った。常夜の闇の中、二人の影は完全に一つに溶け合い、もうどちらがどちらの境界線なのか誰にも分からなくなっていた。
いつものように月明かりだけが照らす古いベンチに、マレウスは腰掛けている。その傍らにななしが躊躇いなく歩み寄り、当然のように隣へ腰を下ろした。
「こんばんは、ツノ太郎。今日も散歩?」
「ななしか。相変わらず、僕の後ろから足音もなく近づくのが上手いな。他の人間なら、僕の気配を感じただけで逃げ出すものだが」
「ツノ太郎がここにいるって分かってて来てるんだから、逃げるわけないじゃない」
ななしは笑いながら、マレウスの顔を覗き込む。マレウスはほんの少しだけ意外そうに瞬きをし、それから小さく口元を緩めた。その表情にはほんのりと、だが確実に好意の色が滲んでいる。
「ふっ……。相変わらず、お前は肝が据わっているな。僕をツノ太郎と呼び、こうして平然と隣に座る。ヒトの子にしては、少々無防備が過ぎるのではないか?」
「無防備じゃないよ。相手がツノ太郎だから、こうしてるの」
「僕だから、か」
マレウスの声は静かだが、夜の空気に溶けるような心地よい低音だった。彼は長い指先で、自身の黒い衣類の裾を弄ぶ。ななしはその手をじっと見つめ、不意に自分の手を重ねた。
ぴくり、とマレウスの指が動く。しかし、拒絶するように引き剥がされることはない。
「手が冷たいね、夜風が強いからかな」
「……お前の手は、驚くほど温かいな。ななし、まるで小さな焚き火のようだ」
「じゃあ、もっと温めてあげる」
ななしは重ねた手の上に、もう片方の手も重ねて包み込む。マレウスは視線を落とし、二人の手が重なり合っている様子をじっと見つめた。彼の瞳の奥で小さな燐光が揺れる。
「お前はいつもそうだ。僕が距離を置こうとしても、境界線を踏み越えてくる。それがどれほど危ういことか、分かっていない」
「分かっててやってるよ。ツノ太郎ともっと近くにいたいから」
「……言うようになったな。だが僕の領域に深く入り込むということは、それ相応の覚悟が必要だぞ」
マレウスの言葉は警告のようでありながらどこか甘やかで、拒絶の響きは一切ない。むしろ、もっと踏み込んできてほしいと誘っているかのようだった。
夜が更けるにつれ、二人の間の空気は少しずつ熱を帯びていく。
マレウスの手から伝わる冷たさは、いつの間にかななしの体温に浸食され、微かな微熱へと変わっていた。触れ合っている手のひらから、ドクドクと力強い脈拍が互いの肌へと伝わる。それがどちらの鼓動なのか、もう判別がつかない。
「ななし、お前の体温が僕の肌に移っていくのが分かる。妙な感覚だ。胸の奥が熱くなる」
「私も同じだよ。こうして触れてると、なんだかドキドキして、身体の芯が熱くなってくる」
「お前のその真っ直ぐな視線は、時に僕を惑わせる。妖精の魔力すら跳ね返すような強い光だ」
マレウスは重ねられていた手を裏返し、今度は自分からななしの細い指を一本ずつ絡めとった。絡み合った手がお互いの皮膚を強く圧迫する。皮膚と皮膚が擦れ合うたびに、じりじりと焼けるような熱が指先から腕へ、そして全身へと駆け巡る。
「ツノ太郎、手が……」
「痛むか? ならば離すが……」
「ううん、離さないで。もっと強くてもいい」
ななしがそう言ってマレウスの顔を見上げると、彼の顔が予想以上に近いところにあった。マレウスの息遣いがななしの唇の端をかすめる。夜の冷気の中で二人の吐き出す息だけが白く、そして熱く混ざり合っていく。
「本当にお前は……。僕を恐れないだけでなく、さらに奥へ踏み込もうとする。この熱は僕の魔力が昂ぶっているせいかもしれない。人間の身体には、少々刺激が強すぎるのではないか?」
「大丈夫。ツノ太郎のなら、いくらでも欲しい」
「……。その言葉、後悔しても知らないぞ。僕の熱に浮かされ、二度と元の世界へ戻れなくなっても」
マレウスの瞳が、暗闇の中でらんらんと輝きを増す。彼の身体から放たれる圧倒的な存在感と、微かに漏れ出る魔力の波動が、ななしの肌をぴりぴりと刺激した。それは恐怖ではなく、身体の奥底を震わせるような、甘美な痺れだった。
世界が狭くなっていく。
オンボロ寮の庭も、周囲の木々も、夜空の月さえも遠のき、ただ目の前にいるマレウスの存在だけが、世界のすべてを占めていく。
マレウスは絡めた手にさらに力を込め、ななしの身体を自分の方へと引き寄せた。二人の距離は、もう数センチもない。
「これ以上は、ただの友人としての距離ではないぞ、ななし。お前が僕の心をここまで乱したのだ。ただで済むと思っているわけではあるまい」
「思ってないよ。特別になりたいって、ずっと思ってた」
「特別、か。妖精族にとってのそれは、人間の生涯よりも遥かに長い時間を縛る鎖となる。お前の短い一生を、僕という存在で塗り潰すことになるのだぞ」
マレウスの声音は深く、濃厚な情愛を含んで響く。ななしの視界は、彼の美しい容貌と、迫るような黒い影で満たされていた。
彼の内面にある孤独と、それを埋め尽くそうとする独占欲が、言葉の端々から溢れ出している。ななしはそのすべてを拒むことなく、むしろ吸い込むように受け入れていた。マレウスという存在に自分の存在が溶かされていくような錯覚に陥る。
「僕の腕の中に沈めば、もう誰も手を差し伸べることは出来なくなるかもしれないのだぞ」
「……うん。それでもいい。ツノ太郎の、ものにして」
ななしの瞳には一切の迷いがなかった。その純粋で強烈な意志が、マレウスの胸の奥底にある理性を、音を立ててきしませる。
マレウスはふっと、低く妖しく笑った。その笑みは慈悲深くもあり、同時にすべてを呑み込む捕食者のようでもあった。
彼の長い指先が、ななしの頬をそっとなぞる。冷たいはずの指先は、今や触れられた場所を焦がすほどに熱い。マレウスの視線が、ななしの唇へとゆっくりと降りていく。
「やめるなら今のうちだぞ、ななし。この唇に触れたなら、僕はもう、お前を絶対に離さない」
マレウスの言葉は夜の静寂に酷く鮮やかに響いた。
その重みを脳が理解するよりも早く、心臓が跳ね上がる。
彼の言葉は脅しでも何でもない。
ただの厳然たる事実として、そこに置かれていた。
「……やめないで」
ななしの唇から漏れたのは、拒絶ではなく、むしろ彼をさらに深くへ誘うための言葉だった。その瞬間マレウスの瞳の奥で、何かが完全に弾けた。
「……そうか。ならば、もう容赦はしない」
低く、地響きのような声が鼓膜を揺らした。
重なる唇は、驚くほどに熱かった。
最初に触れ合った手のひらの冷たさなど、まるで遠い過去の幻であったかのように、マレウスの体温はななしの全てを焼き尽くす勢いで押し寄せてくる。
優しく触れるだけの口づけではない。それは、互いの存在を確かめ合い、貪り合うような、濃密で容赦のないものだった。
マレウスの大きな手がななしの後頭部を包み込み、さらに深くへと 押し込んでくる。逃げる隙など最初から与える気はないと言わんばかりの、強固な質量がそこにあった。
「ん……っ」
かすかな吐息が漏れる。
だが、それさえもマレウスの唇にすべて吸い上げられていく。
頭の芯が、じわじわと痺れていくような感覚に襲われる。酸欠のせいだけではない。マレウスから流れ込んでくる圧倒的な「個」の存在感に、内面から圧倒される。
二度と手放したくないという狂おしいほどの執着。それらが言葉ではなく、肌と肌の接触を通じて、直接ななしの精神へと流れ込んでくる。
胸の奥が、ぎゅうと締め付けられるように痛む。
けれど、その痛みすらも心地よい。
マレウスに塗り潰されていく感覚は恐怖ではなく、至上の安息となってななしを満たしていく。
ようやく唇が離れたとき、二人の間には細い銀の糸が引いていた。
ななしは、激しく上下する互いの胸の音を聞きながら、焦点の定まらない目でマレウスを見つめる。マレウスの端正な顔は、かつて見たことがないほどに情熱的に歪んでいた。彼の額からは、微かに汗が滲んでいる。
「ななし……。お前のせいで、僕は自分がどれほど強欲な存在だったかを思い知らされた。この胸の渇きは、お前をどれだけ貪っても癒えそうにない」
「ツノ太郎……」
「もう遅い、と言ったはずだ。お前の心も、身体も、その短い生涯のすべてを、僕が貰い受ける。異論はないな?」
マレウスはななしの細い首筋に、そっと 牙を立てないように唇を寄せた。そこから伝わるドクドクという脈拍を、愛おしそうに、そして確かめるように吸い上げる。
ななしは、彼の広い背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
「うん。わたしの全部、あげる……」
その言葉を聞いた瞬間、マレウスは満足げに、そして酷く妖艶に 喉を鳴らして笑った。常夜の闇の中、二人の影は完全に一つに溶け合い、もうどちらがどちらの境界線なのか誰にも分からなくなっていた。
