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ラウンジの営業時間が終了し、喧騒の去ったモストロ・ラウンジ。
沈黙が支配するデスクで、アズールは書類にペンを走らせていた。
カチ、カチと規則正しく時を刻む時計の音だけが響く室内。
その静寂を破ったのは、控えめなノックの音。
「どうぞ」
アズールが声をかけると、重い扉がゆっくりと開く。
顔を覗かせたのはななしだった。
手には丁寧にラッピングされた小さな小箱が握られている。
「失礼します、アズール先輩。まだ、お仕事中でしたか?」
「ななしさん。ええ、ちょうど一段落ついたところですよ。こんな夜更けに何かご用ですか?」
アズールはペンを置き、眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。
その目は、ななしが抱える小箱に早くも目を留めていた。
「これ、アズール先輩に。今日のラウンジの手伝いのお礼と……その、いつもお世話になっているので」
ななしはデスクに歩み寄り、小箱をそっと差し出す。
アズールはそれを受け取り、包みを開いた。
中から現れたのは、淡い海の色をした美しいアイシングクッキー。
一つ一つ、歪ながらも丁寧にデコレーションされている。
「おや、これは……手作りですか?」
「はい。オンボロ寮のキッチンで作ってみました。アズール先輩の好みに合うか分かりませんけど」
「ふふ、商売上手ですね」
アズールはクッキーを一つ手に取り、まじまじと見つめる。
口元には、いつもの計算高い笑みが浮かんでいた。
しかしその瞳の奥には、いつもとは違う柔らかな光が混ざる。
「せっかくですから、今いただきましょう。お茶を淹れますね」
「あ、わたしがやります!」
「いいえ、ゲストを働かせるわけにはいきません。そこに座って待っていてください」
アズールは立ち上がり、手際よく二人分の紅茶を準備し始める。
カップに注がれる琥珀色の液体から、アールグレイの華やかな香りが立ち上り、室内は一瞬にして温かい空気で満たされていく。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
ななしが温かいカップに手を伸ばす。
その指先が紅茶を差し出すアズールの指に、ほんの少しだけ触れた。
アズールはピクリと眉を動かしたが、何も言わずに自分の席に戻る。
「では、いただきます」
アズールはクッキーを口に運んだ。
サク、という軽い音が室内に響く。
噛み締めるたびに、バターの香ばしさと、アイシングの優しい甘さが口いっぱいに広がっていく。普段ラウンジで提供している高級なスイーツとは違う、素朴で、どこか安心する味。
「……美味しいですね。非常に、優しい味がします」
「本当ですか? よかった。アズール先輩は舌が肥えているから、口に合わなかったらどうしようって、実はすごく緊張していたんです」
ななしはホッとしたように胸をなでおろし、嬉しそうに微笑む。
その無防備な笑顔を見て、アズールはティーカップを口元に運ぶ手をわずかに止めた。
「僕を過大評価しすぎですよ」
「でも、アズール先輩はいつも完璧ですから。ラウンジの経営も、勉強も、魔法も。わたしにとっては、遠い雲の上の人みたいに見える時があります」
ななしの言葉は、お世辞ではなく本心からのものだった。
真っ直ぐに見つめてくるその瞳には、純粋な憧れの色が滲んでいる。
アズールはふっと息を漏らし、眼鏡の奥の目を細めた。
「雲の上、ですか。面白い表現をしますね。僕がどれほど泥臭く、計算を張り巡らせてその位置を保っているかも知らずに」
「泥臭くても、計算高くても、結果を出しているのはアズール先輩の努力です。そういうところも含めて、すごいと思ってます」
淀みのない言葉が、アズールの胸に真っ直ぐに飛び込む。アズールは少しだけ居住まいを正し、クッキーの入った箱を指先でなぞった。
「……あなたという人は、本当に。そういう言葉を、何の下心もなく口にする」
「思ったことをそのまま言っただけです」
「それが恐ろしいと言っているんです。僕の世界では、言葉には必ず裏がある。ですが、あなたの言葉にはそれがない。調子が狂って仕方がありません」
アズールは困ったような、だがどこか嬉しそうな複雑な笑みを浮かべる。
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。
部屋の温度が少しずつ、確実に上がっていくような錯覚を覚える。
アズールは紅茶を一口啜り、視線をななしの指先へと移した。
クッキーを作る際についたのだろうか、小さな火傷の痕が親指の付け根あたりに赤く残っている。
「……その手、どうしたんですか?」
「え? ああ、これですか。オーブンに少し触っちゃって。大したことないです」
ななしは恥ずかしそうに手を隠そうとする。
しかしアズールはその手を遮るように、自らの手を伸ばした。
「大したことない、わけがないでしょう。僕のために怪我をするなんて、割に合いません」
アズールの長い指先が、ななしの手首をそっと捉える。
捕まえられた手首から、じわじわと体温が伝わってくる。
「アズール先輩……?」
「じっとしていてください」
アズールは引き出しから常備している救急箱を取り出した。
手際よく軟膏を取り出し、ななしの小さな火傷の痕に指先で優しく塗り広げていく。アズールの指先は驚くほど繊細で、丁寧にななしの肌をなぞっていた。
「……痛みますか?」
「いえ、全然。むしろ、アズール先輩の手が温かくて……」
「僕の手が、温かい?」
アズールは動きを止め、ななしの顔を見上げた。
至近距離で交わる視線。
部屋の照明を反射して、アズールの瞳が妖しく、そして深く揺れている。ななしの鼓動がトクン、と大きな音を立てた。
「人魚の手って、冷たいのかなって思ってました」
「それは偏見というものです。僕だって、血が通っていますから。……特にあなたの前では、少し温度が上がってしまうようです」
アズールは声音を一段低くする。
それはラウンジで契約を交わす時の甘い囁きに似ていたが、決定的に何かが違っていた。利益のためではない、もっと個人的な独占欲に似た響き。
アズールは軟膏を塗り終えても、ななしの手を離そうとはしなかった。
それどころか、親指でななしの手の甲をゆっくりと、愛おしむように撫で始める。衣服の擦れる音が、妙に大きく耳に届く。
「ななしさん」
「はい」
「あなたは、どうして僕にこんなに良くしてくれるのですか? メリットもないのに」
「メリットなんて、最初から考えていません。ただ、アズール先輩と一緒にいたいから、喜んでほしいから、それだけです」
ななしの言葉に、アズールの指が一瞬、強く力を帯びる。
逃がさないとでも言うように、ななしの手を包み込むアズールの掌。
じわり、と汗ばむような熱が二人の手のひらの間で濃縮されていく。
「それは……非常にずるい回答ですね。僕がどれほど、その言葉に揺さぶられているか」
アズールは視線を落とし、ななしの指先に自身の指を絡ませた。
肌の感触、体温、そして部屋に満ちる紅茶とクッキーの甘い匂い。
すべてが混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。
アズールはゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の瞳には、熱を帯びた一人の男の執着がはっきりと灯っている。
「もしかして、僕に何か期待しているのですか?」
アズールは意地悪く、だが試すように声を潜めて 囁いた。
いつもの彼なら、ここで主導権を握るためのセリフ。
しかし、ななしは逃げなかった。まっすぐにアズールの目を見つめ返し、小さく、だがはっきりと、言葉を返す。
「はい……、してます。……アズール先輩に、期待、しています」
その瞬間、アズールの目が見開かれた。
完璧な計算式が、根底から崩れ去るような衝撃が彼の表情を支配する。
いつもなら滑らかな弁舌で切り返すはずの唇が微かに戦慄いた。
「……っ、あなたは、本当に……」
いつもなら即座に浮かぶはずの、相手を煙に巻くためのセリフが、何一つとして脳裏に浮かばない。ななしの真っ直ぐな視線が、アズールの胸の奥、一番柔らかく繊細な部分を正確に射抜いていた。
「……降参、ですね。まさか、そんな風に真っ向から肯定されるとは思いませんでした」
アズールは自嘲気味に呟き、小さく息を吐き出す。
しかしその表情は酷く艶っぽく、どこか嬉しさを隠しきれていない。
絡められた指先から伝わるななしの体温が、アズールの血液をじわじわと沸騰させていく。
アズールは空いた方の手を伸ばし、自らの眼鏡をゆっくりと外した。
デスクの上にカチャリと置かれた眼鏡。
視界がわずかに滲む。だが、目の前にいるななしの存在だけは驚くほど鮮明に脳裏に焼き付いていた。
「眼鏡を外したアズール先輩、少し雰囲気が変わりますね」
「……あまり、見ないでください。あなたの前では、これ以上無防備になりたくないのですが」
そう言いながらも、アズールはななしとの距離をさらに詰める。
デスクを挟んでいたはずの二人の身体は、いつの間にか触れ合わんばかりの近さにあった。
「期待、していると言いましたね」
アズールの声は、先ほどよりもさらに低く、そして深く響く。それはななしの鼓動を直接揺らすような、不思議な質量を持っていた。
「はい、言いました」
「ならば、相応の覚悟はできているのでしょう。僕は強欲な男ですよ。一度求めたものは、二度と手放さない」
アズールの手がななしの頬へと伸びる。
長い指先が柔らかな肌をそっとなぞる。
その指先はわずかに震えていたが、ななしを壊さないようにという、自制心と愛おしさが籠っていた。
「アズール先輩、手が、すごく熱いです……」
「あなたのせいです。僕の心をここまで掻き乱し、熱を上げさせたのは、他でもないあなただ」
アズールの瞳が暗い海の底のように深く、そして妖しく光る。その瞳に見つめられるだけで、ななしは身体の芯が痺れるような感覚に囚われる。
逃げ出したいわけではない。むしろ、このままアズールの熱に溶かされてしまいたいと、心から願っていた。
アズールは頬に添えた手に力を込め、ゆっくりとななしの顔を上向かせる。
二人の吐息が、完全に重なり合う距離。
ななしが緊張で小さく瞳を閉じると、アズールは愛おしさに耐えかねたように、深く、深い溜息を漏らした。
「本当に、あなたは僕の計算をすべて狂わせる」
囁きと同時に、アズールの唇がななしの唇へと重なった。
触れるだけの、優しいキス。
しかし触れ合った瞬間に、二人の間に蓄積されていた熱が一気に弾ける。
アズールは一度唇を離し、ななしの反応を確かめるように、濡れた瞳で見つめてきた。ななしが拒むことなく、その胸元にそっと手を添えると、アズールは満足げに喉を鳴らす。
今度は拒む隙など与えないような、深い抱擁を伴うキスだった。
アズールの腕がななしの腰を抱き寄せ、自らの身体へと強く引き寄せる。衣服越しに伝わる、アズールの体躯と激しい鼓動。
ななしの頭の中は、アズールの匂いと、体温と、唇から伝わる甘い感触だけで満たされていく。
「ん……、アズール、先輩……」
「……まだ、喋る余裕がありますか」
唇が離れるたび、銀の糸が微かに煌めく。
アズールはななしの首筋、そして耳の裏へと、容赦なく熱い唇を落としていった。くすぐったいような、それでいて身体の奥が疼くような感覚に、ななしは小さく声を漏らす。
「ア、ズール……先輩……っ」
「その声、もっと僕に聞かせてください。ななしさん。あなたのすべてを、僕にください」
アズールの言葉は、もはや契約を迫る商人のものではなかった。
ただ一人の人間として、愛しい存在を乞う剥き出しの欲望。
ななしはアズールの背中に手を回し、その仕立ての良い上着をきゅっと握りしめる。
「わたしも……アズール先輩の、全部が欲しいです」
その言葉が、アズールの最後の理性を融解させた。
アズールはななしを抱きしめる腕にさらに力を込め、骨がきしむほどに強く自らの胸に押し付ける。
部屋の隅で時計が規則正しい音を立てているはずなのに、二人の耳には、お互いの荒い呼吸と、高鳴る鼓動の音しか聞こえなかった。
「……後悔しても、もう遅いですよ」
アズールはななしの耳元で、甘く、そして決定的な言葉を 囁く。その声は二人の甘い関係がこれから先もずっと続いていくことを確信させるものだった。
二人の熱はどこまでも深く、濃密に溶け合っていった。
沈黙が支配するデスクで、アズールは書類にペンを走らせていた。
カチ、カチと規則正しく時を刻む時計の音だけが響く室内。
その静寂を破ったのは、控えめなノックの音。
「どうぞ」
アズールが声をかけると、重い扉がゆっくりと開く。
顔を覗かせたのはななしだった。
手には丁寧にラッピングされた小さな小箱が握られている。
「失礼します、アズール先輩。まだ、お仕事中でしたか?」
「ななしさん。ええ、ちょうど一段落ついたところですよ。こんな夜更けに何かご用ですか?」
アズールはペンを置き、眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。
その目は、ななしが抱える小箱に早くも目を留めていた。
「これ、アズール先輩に。今日のラウンジの手伝いのお礼と……その、いつもお世話になっているので」
ななしはデスクに歩み寄り、小箱をそっと差し出す。
アズールはそれを受け取り、包みを開いた。
中から現れたのは、淡い海の色をした美しいアイシングクッキー。
一つ一つ、歪ながらも丁寧にデコレーションされている。
「おや、これは……手作りですか?」
「はい。オンボロ寮のキッチンで作ってみました。アズール先輩の好みに合うか分かりませんけど」
「ふふ、商売上手ですね」
アズールはクッキーを一つ手に取り、まじまじと見つめる。
口元には、いつもの計算高い笑みが浮かんでいた。
しかしその瞳の奥には、いつもとは違う柔らかな光が混ざる。
「せっかくですから、今いただきましょう。お茶を淹れますね」
「あ、わたしがやります!」
「いいえ、ゲストを働かせるわけにはいきません。そこに座って待っていてください」
アズールは立ち上がり、手際よく二人分の紅茶を準備し始める。
カップに注がれる琥珀色の液体から、アールグレイの華やかな香りが立ち上り、室内は一瞬にして温かい空気で満たされていく。
「どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
ななしが温かいカップに手を伸ばす。
その指先が紅茶を差し出すアズールの指に、ほんの少しだけ触れた。
アズールはピクリと眉を動かしたが、何も言わずに自分の席に戻る。
「では、いただきます」
アズールはクッキーを口に運んだ。
サク、という軽い音が室内に響く。
噛み締めるたびに、バターの香ばしさと、アイシングの優しい甘さが口いっぱいに広がっていく。普段ラウンジで提供している高級なスイーツとは違う、素朴で、どこか安心する味。
「……美味しいですね。非常に、優しい味がします」
「本当ですか? よかった。アズール先輩は舌が肥えているから、口に合わなかったらどうしようって、実はすごく緊張していたんです」
ななしはホッとしたように胸をなでおろし、嬉しそうに微笑む。
その無防備な笑顔を見て、アズールはティーカップを口元に運ぶ手をわずかに止めた。
「僕を過大評価しすぎですよ」
「でも、アズール先輩はいつも完璧ですから。ラウンジの経営も、勉強も、魔法も。わたしにとっては、遠い雲の上の人みたいに見える時があります」
ななしの言葉は、お世辞ではなく本心からのものだった。
真っ直ぐに見つめてくるその瞳には、純粋な憧れの色が滲んでいる。
アズールはふっと息を漏らし、眼鏡の奥の目を細めた。
「雲の上、ですか。面白い表現をしますね。僕がどれほど泥臭く、計算を張り巡らせてその位置を保っているかも知らずに」
「泥臭くても、計算高くても、結果を出しているのはアズール先輩の努力です。そういうところも含めて、すごいと思ってます」
淀みのない言葉が、アズールの胸に真っ直ぐに飛び込む。アズールは少しだけ居住まいを正し、クッキーの入った箱を指先でなぞった。
「……あなたという人は、本当に。そういう言葉を、何の下心もなく口にする」
「思ったことをそのまま言っただけです」
「それが恐ろしいと言っているんです。僕の世界では、言葉には必ず裏がある。ですが、あなたの言葉にはそれがない。調子が狂って仕方がありません」
アズールは困ったような、だがどこか嬉しそうな複雑な笑みを浮かべる。
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。
部屋の温度が少しずつ、確実に上がっていくような錯覚を覚える。
アズールは紅茶を一口啜り、視線をななしの指先へと移した。
クッキーを作る際についたのだろうか、小さな火傷の痕が親指の付け根あたりに赤く残っている。
「……その手、どうしたんですか?」
「え? ああ、これですか。オーブンに少し触っちゃって。大したことないです」
ななしは恥ずかしそうに手を隠そうとする。
しかしアズールはその手を遮るように、自らの手を伸ばした。
「大したことない、わけがないでしょう。僕のために怪我をするなんて、割に合いません」
アズールの長い指先が、ななしの手首をそっと捉える。
捕まえられた手首から、じわじわと体温が伝わってくる。
「アズール先輩……?」
「じっとしていてください」
アズールは引き出しから常備している救急箱を取り出した。
手際よく軟膏を取り出し、ななしの小さな火傷の痕に指先で優しく塗り広げていく。アズールの指先は驚くほど繊細で、丁寧にななしの肌をなぞっていた。
「……痛みますか?」
「いえ、全然。むしろ、アズール先輩の手が温かくて……」
「僕の手が、温かい?」
アズールは動きを止め、ななしの顔を見上げた。
至近距離で交わる視線。
部屋の照明を反射して、アズールの瞳が妖しく、そして深く揺れている。ななしの鼓動がトクン、と大きな音を立てた。
「人魚の手って、冷たいのかなって思ってました」
「それは偏見というものです。僕だって、血が通っていますから。……特にあなたの前では、少し温度が上がってしまうようです」
アズールは声音を一段低くする。
それはラウンジで契約を交わす時の甘い囁きに似ていたが、決定的に何かが違っていた。利益のためではない、もっと個人的な独占欲に似た響き。
アズールは軟膏を塗り終えても、ななしの手を離そうとはしなかった。
それどころか、親指でななしの手の甲をゆっくりと、愛おしむように撫で始める。衣服の擦れる音が、妙に大きく耳に届く。
「ななしさん」
「はい」
「あなたは、どうして僕にこんなに良くしてくれるのですか? メリットもないのに」
「メリットなんて、最初から考えていません。ただ、アズール先輩と一緒にいたいから、喜んでほしいから、それだけです」
ななしの言葉に、アズールの指が一瞬、強く力を帯びる。
逃がさないとでも言うように、ななしの手を包み込むアズールの掌。
じわり、と汗ばむような熱が二人の手のひらの間で濃縮されていく。
「それは……非常にずるい回答ですね。僕がどれほど、その言葉に揺さぶられているか」
アズールは視線を落とし、ななしの指先に自身の指を絡ませた。
肌の感触、体温、そして部屋に満ちる紅茶とクッキーの甘い匂い。
すべてが混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。
アズールはゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の瞳には、熱を帯びた一人の男の執着がはっきりと灯っている。
「もしかして、僕に何か期待しているのですか?」
アズールは意地悪く、だが試すように声を潜めて 囁いた。
いつもの彼なら、ここで主導権を握るためのセリフ。
しかし、ななしは逃げなかった。まっすぐにアズールの目を見つめ返し、小さく、だがはっきりと、言葉を返す。
「はい……、してます。……アズール先輩に、期待、しています」
その瞬間、アズールの目が見開かれた。
完璧な計算式が、根底から崩れ去るような衝撃が彼の表情を支配する。
いつもなら滑らかな弁舌で切り返すはずの唇が微かに戦慄いた。
「……っ、あなたは、本当に……」
いつもなら即座に浮かぶはずの、相手を煙に巻くためのセリフが、何一つとして脳裏に浮かばない。ななしの真っ直ぐな視線が、アズールの胸の奥、一番柔らかく繊細な部分を正確に射抜いていた。
「……降参、ですね。まさか、そんな風に真っ向から肯定されるとは思いませんでした」
アズールは自嘲気味に呟き、小さく息を吐き出す。
しかしその表情は酷く艶っぽく、どこか嬉しさを隠しきれていない。
絡められた指先から伝わるななしの体温が、アズールの血液をじわじわと沸騰させていく。
アズールは空いた方の手を伸ばし、自らの眼鏡をゆっくりと外した。
デスクの上にカチャリと置かれた眼鏡。
視界がわずかに滲む。だが、目の前にいるななしの存在だけは驚くほど鮮明に脳裏に焼き付いていた。
「眼鏡を外したアズール先輩、少し雰囲気が変わりますね」
「……あまり、見ないでください。あなたの前では、これ以上無防備になりたくないのですが」
そう言いながらも、アズールはななしとの距離をさらに詰める。
デスクを挟んでいたはずの二人の身体は、いつの間にか触れ合わんばかりの近さにあった。
「期待、していると言いましたね」
アズールの声は、先ほどよりもさらに低く、そして深く響く。それはななしの鼓動を直接揺らすような、不思議な質量を持っていた。
「はい、言いました」
「ならば、相応の覚悟はできているのでしょう。僕は強欲な男ですよ。一度求めたものは、二度と手放さない」
アズールの手がななしの頬へと伸びる。
長い指先が柔らかな肌をそっとなぞる。
その指先はわずかに震えていたが、ななしを壊さないようにという、自制心と愛おしさが籠っていた。
「アズール先輩、手が、すごく熱いです……」
「あなたのせいです。僕の心をここまで掻き乱し、熱を上げさせたのは、他でもないあなただ」
アズールの瞳が暗い海の底のように深く、そして妖しく光る。その瞳に見つめられるだけで、ななしは身体の芯が痺れるような感覚に囚われる。
逃げ出したいわけではない。むしろ、このままアズールの熱に溶かされてしまいたいと、心から願っていた。
アズールは頬に添えた手に力を込め、ゆっくりとななしの顔を上向かせる。
二人の吐息が、完全に重なり合う距離。
ななしが緊張で小さく瞳を閉じると、アズールは愛おしさに耐えかねたように、深く、深い溜息を漏らした。
「本当に、あなたは僕の計算をすべて狂わせる」
囁きと同時に、アズールの唇がななしの唇へと重なった。
触れるだけの、優しいキス。
しかし触れ合った瞬間に、二人の間に蓄積されていた熱が一気に弾ける。
アズールは一度唇を離し、ななしの反応を確かめるように、濡れた瞳で見つめてきた。ななしが拒むことなく、その胸元にそっと手を添えると、アズールは満足げに喉を鳴らす。
今度は拒む隙など与えないような、深い抱擁を伴うキスだった。
アズールの腕がななしの腰を抱き寄せ、自らの身体へと強く引き寄せる。衣服越しに伝わる、アズールの体躯と激しい鼓動。
ななしの頭の中は、アズールの匂いと、体温と、唇から伝わる甘い感触だけで満たされていく。
「ん……、アズール、先輩……」
「……まだ、喋る余裕がありますか」
唇が離れるたび、銀の糸が微かに煌めく。
アズールはななしの首筋、そして耳の裏へと、容赦なく熱い唇を落としていった。くすぐったいような、それでいて身体の奥が疼くような感覚に、ななしは小さく声を漏らす。
「ア、ズール……先輩……っ」
「その声、もっと僕に聞かせてください。ななしさん。あなたのすべてを、僕にください」
アズールの言葉は、もはや契約を迫る商人のものではなかった。
ただ一人の人間として、愛しい存在を乞う剥き出しの欲望。
ななしはアズールの背中に手を回し、その仕立ての良い上着をきゅっと握りしめる。
「わたしも……アズール先輩の、全部が欲しいです」
その言葉が、アズールの最後の理性を融解させた。
アズールはななしを抱きしめる腕にさらに力を込め、骨がきしむほどに強く自らの胸に押し付ける。
部屋の隅で時計が規則正しい音を立てているはずなのに、二人の耳には、お互いの荒い呼吸と、高鳴る鼓動の音しか聞こえなかった。
「……後悔しても、もう遅いですよ」
アズールはななしの耳元で、甘く、そして決定的な言葉を 囁く。その声は二人の甘い関係がこれから先もずっと続いていくことを確信させるものだった。
二人の熱はどこまでも深く、濃密に溶け合っていった。
