サバナクロー
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西日が差し込む植物園は外よりもいくらか気温が高く緑の匂いが濃く立ち込めていた。
「レオナさん、またここにいた」
「あ?……なんだ、ななしか」
寝そべっていたレオナが、薄く目を開ける。
起こされたことへの不機嫌さよりも、退屈を紛らわせる存在が来たことへの興味が勝っているような、そんな視線だった。
「あの、学園長から書類を預かってきました。今日の夕方までに、必ずサインを貰ってくるようにって」
「あんな奴の言うこと真面目に聞いてんじゃねぇよ。そこに置いとけ」
「ダメです。今ここで書いてもらわないと、わたしが怒られます」
「チッ……。お前は相変わらず、融通の利かねぇ奴だな」
レオナは面倒くさそうに体を起こす。
それだけで、ふわりと彼の香りが揺れる。それが彼の体温と一緒に、じわりとこちらの鼻腔をくすぐった。
「ほら、ペン貸せ」
「あ、はい。どうぞ」
手渡そうとした指先がレオナの大きな掌に触れる。
ほんの一瞬のことだった。しかし彼の肌は驚くほど熱く、触れた部分から心臓の鼓動が跳ね上がるような錯覚に陥る。
「……手が冷てぇな。お前、ちゃんと飯食ってんのか?」
「食べてます。普通に、普通以上には」
「ならいいが。そんな細い腕じゃ、マジフトのディスク一枚も跳ね返せねぇぞ」
「まあ、もともと魔法は使えないですし。それに、レオナさんたちが規格外なだけです」
「言い訳すんな。ほら、書いたぞ」
差し出された書類を受け取る。その時、レオナがわざと手を離さず書類の端を握ったまま軽く引っ張った。体が一歩、彼の方へと引き寄せられる。
「レオナさん……?」
「用が済んだらすぐ帰る、か。つれねぇな、草食動物のくせに」
「だって、お昼寝の邪魔をしたら悪いと思って」
「邪魔だと思うなら、最初から来ねぇだろ」
レオナの瞳が、悪戯っぽく細められる。その双眸に見つめられると、言葉が喉の奥でつっかえて動かなくなる。
夕暮れの光が、温室のガラス屋根を通して二人をオレンジ色に染めていた。周囲の空気は、先ほどよりも確実に熱を帯び始めている。植物たちの呼吸のせいで、酸素が少し薄くなっているのかもしれなかった。
「……顔、赤いぞ」
「それは、ここの温度が高いからです」
「言い訳が下手だな。耳まで真っ赤だ」
レオナが手を伸ばし、こちらの髪の隙間から覗く耳朶に、指先で軽く触れた。ビクリと体が跳ねる。彼の指は硬く、そしてやはり、酷く熱かった。
「ひゃっ……!?」
「なんだその声。そんなに驚くことかよ」
「いきなり触るから、びっくりしただけです」
「へえ……」
レオナは立ち上がり、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
「あの、レオナさん、ち……近い、です」
逃げようと後ろに下がった足が、温室のレンガの縁に当たった。
もう後ろには引けない。
レオナは逃げ道を塞ぐように、両手をすぐ横の棚についた。
完全に彼の腕の中に閉じ込められる形になる。
「ち、近い!……レオナさん、本当に近いです!」
「あ?……キスするんだから当たり前だろ」
心臓が、耳のすぐ後ろで爆発したかのような音がした。
頭の中が真っ白になり、言葉を探そうにも、口が上手く回らない。
「きっ、なっ……な、何を言ってるんですか……!? 無理、無理です!」
「何が無理なんだよ。嫌なのか?」
「嫌とかそういうことじゃなくて!」
「嫌じゃないならいいだろ、別に」
「顔が良すぎて無理です!」
「はあ!?」
レオナが本気で呆れたような、それでいて少し調子を狂わされたような声を上げた。綺麗な眉が中央に寄る。しかし、その至近距離で見つめる彼の顔は、整いすぎていて暴力的なほどだった。長い睫毛、形の良い唇、彫刻のような鼻筋。
「お前、今更何言ってんだ。俺の顔なんて見飽きてるだろ」
「見飽きるわけないじゃないですか! こんな距離で、そんな……」
「じゃあ、慣れさせてやるよ」
レオナの顔がさらに近づいてくる。
彼の吐息が直接、唇に触れそうな位置。
熱い。温室の空気のせいだけではない。レオナから発せられる圧倒的な熱量が肌を通じて血管を伝わって、体の奥深くまで染み渡っていく。
彼の呼吸が重くなるのが分かった。
ただのからかいではない、本気の男の目。
その瞳の奥にある深い渇きのようなものが、こちらをじっと見据えている。
「……おい、目ぇ瞑るな。ななし」
「む、無理です……」
「いいから、俺を見ろ」
掠れた低い声が鼓膜を優しく揺らす。
逆らうことのできない力がその声には宿っていた。ゆっくりと震える微かな光の中で、こちらの視線が彼の瞳と完全に交錯する。
レオナの指先が今度は顎を優しく、しかし逃がさない強さで固定した。
彼の唇がすぐ目の前でわずかに開かれる。
指先からレオナの体温が直接流れ込んでくる。
それは温室に満ちる生ぬるい空気などよりも遥かに熱く、肌を焦がすような錯覚さえ抱かせた。
「おい、逃げんなって言っただろ」
鼓膜に直接響くような低い声。
ななしはたまらず、きつく目を閉じた。
視界を遮断してもなお、彼の存在感は少しも薄れない。
むしろ視覚が消えたことで、他の感覚が異常なほど鋭敏になっていく。
耳元に触れる彼の熱い呼吸。
微かに衣類が擦れ合う音。
そして、鼻腔をいっぱいに満たす香り。
それらすべてが、頭の芯をじわじわと痺れさせていく。
「……目、瞑っちまったら意味がねぇな」
レオナが可笑しそうに喉の奥で低く笑った。
その振動が彼の胸板を通して間近に伝わってくる。
ななしは両手を彼の胸元に当てて、どうにかその巨体を押し返そうとした。しかし衣服越しに触れた彼の筋肉は鋼のように硬く、ビクともしない。それどころか掌から伝わるレオナの力強い鼓動が、自分の心臓のテンポを狂わせていく。
「レオナさん、お願いですから……からかわないでください」
「からかってるように見えるか? お前、俺の顔が良いって言っただろ。それを最大限に利用して何が悪い」
「ず、ずるいです、そういうの……」
「なんとでも言え」
直後遮られていた光が完全に消え去った。
唇に柔らかく、けれど容赦のない熱が押し当てられる。
吸い込まれるような感覚だった。
最初の一触れは驚くほど優しく触れ合うかのような微かな摩擦。しかし、ななしが息を呑んで唇を開いた瞬間、レオナの追撃は深く濃厚なものへと変化した。
彼の舌がそっとこちらの境界線を越えて侵入してくる。
口内に広がるのはレオナ自身の温度と、どこか甘く苦い大人の香気。
息を吸うことも忘れて、ななしはただ彼の熱に圧し潰されるしかなかった。
背中が温室の冷たい壁に当たり、逃げ場がないことを改めて思い知らされる。背中の感触と、目の前にあるレオナの狂おしいほどの熱量。その極端な対比が、いっそう感覚を鋭く研ぎ澄ませていった。
「ん…………っ」
かすかな呼吸を求めて溢れた声は、すぐにレオナの唇に吸い込まれ掻き消される。
彼はななしを完全に壊れ物でも扱うように優しく抱き込みながらも、その抱擁の強さは一切の拒絶を許さないほど強固だった。
顎を支えていた彼の大きな手がゆっくりと首筋を滑り、うなじへと回り込む。彼の長い指が髪の隙間に潜り込み頭を引き寄せるようにして、さらに深い角度で口づけを交わした。
頭の中の酸素が完全に消えていく。
思考は完全に停止し、ただ愛されているという事実だけが血液の循環に乗って全身を駆け巡っていた。
脈打つ鼓動が、どこで二人の境界線を引けばいいのか分からなくなるほど混ざり合っていく。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
永遠のようにも一瞬のようにも感じられる刹那の後、レオナの唇が名残惜しそうにゆっくりと離れていった。
「……はぁ、っ……」
解放された瞬間、ななしは崩れ落ちそうになる体をどうにか壁に預けて呼吸を繋いだ。
肺に入ってくる温室の空気は、先ほどよりも少し冷たく感じられる。それほどまでに彼の唇がもたらした熱は尋常ではなかった。
視線を上げると至近距離でレオナがこちらを見下ろしていた。
彼の額には微かに汗が浮かび、普段の気怠げな様子は影を潜めている。その瞳は、濡れたように怪しく光り、まるで獲物を完全に仕留めた肉食獣のそれだった。
しかしその表情には見たこともないほどの深い愛着と、甘い充足感が滲み出ている。
「お前……息すんの忘れてただろ。本当に不器用な奴だな」
レオナが少し掠れた声で囁いた。
彼の親指が、すこし赤く腫れ上がったななしの唇をそっとなぞる。
その仕草さえもが酷く官能的で、ななしは顔から火が出るのではないかと思うほど赤くなった。
「だ、だって、レオナさんが、急に……」
「予告してやっただろ」
「そんなの、心の準備ができるわけないです……っ。本当に心臓が壊れるかと思いました」
「まだ言うか、それ」
レオナは可笑しそうに、けれど今度は深く愛おしそうに目を細めると、ななしをその広い胸の中に引き寄せた。
彼の腕が背中に回り、すっぽりと包み込まれる。
彼の胸に額を押し当てられる形になり、レオナの衣服からの香りが今度はもっと濃厚に全身を包み込んだ。
「レ、レオナさん……!?」
「うるせぇ。大人しくしてろ」
彼の胸の奥から規則正しく、けれど少し早いテンポの鼓動が響いてくる。それは彼もまた無傷ではいられなかった証拠のようで、ななしの中にほんの少しの勇気を与えた。
そっと手を伸ばし、彼の広い背中に指先を這わせる。
レオナはその微かな応えを見逃さなかった。さらに腕の力を強め、骨がきしむのではないかと思うほどに、ななしを己の体に密着させた。
「……お前、俺の顔を見るのが無理なら、こうしてりゃいいだろ」
「こ、これはこれで心臓が持たないというか……っ」
「目ぇ開けりゃ顔が近いって騒ぐし、隠せば文句言うし、お前は本当に忙しい奴だな」
低く笑うレオナの胸の振動がすぐ目の前から伝わってくる。
目元を覆う彼の指の隙間から温室の夕暮れの光がわずかに赤く透けて見えた。
視界が遮断されたことで他の全ての感覚が異常なほど過敏になっていく。ドクドクと脈打つ自分の心臓の音が、静かな温室の中に響き渡っているのではないかと気が気ではない。
「……おい、心臓の音、こっちまで響いてんぞ」
「な……っ!」
「嘘に決まってんだろ。だが、触れてるここは、うるさいくらいに跳ねてる。本当、わかりやすい奴」
レオナの指先が、目元からゆっくりと滑り、頬を撫でて顎へと移動する。
親指の腹が唇の端をかすめ、その微かな摩擦だけで体中に電流が走ったかのように固まる。
触れられている部分から、じわじわと甘い痺れのような熱が広がっていく。彼の体温が自分の肌に移り、血の巡りが一気に早くなる。頭の芯が、とろとろと溶けていくような感覚。
「レオナ、さん……」
「なんだ」
「からかわないで、ください」
「からかってるように見えるかよ」
声のトーンが一段と低く沈んだ。
先ほどまでのどこか余裕を含んだ面白がるような気配が完全に消え失せる。
圧倒的な肉食獣の気配。
獲物を目の前にしてじっくりと追い詰めるような、濃厚で重い空気が二人の間に立ち込める。
レオナのもう片方の手が腰の後ろに回り、引き寄せるように力を込めた。ぴったりと隙間なく体が重なる。
彼の硬い胸板、服越しでも伝わる強靭な体躯。
彼が呼吸を吸い込み吐き出すたびに、その胸の動きがダイレクトに伝わってきて、息の仕方を忘れてしまいそうになる。
「……逃げるなよ」
囁きは耳元だった。
形の良い唇が耳の輪郭をかすめ、首筋に熱い息が吹きかかる。
あまりの心地よさと恐ろしさに、背筋がゾクリと震えた。
内側から湧き上がる感情が単なる恥ずかしさを超えて、もっと深い彼を求める渇望へと変わっていくのを感じる。
彼の匂いをもっと吸い込みたい。
彼の熱をもっと肌に刻みつけたい。
そんな普段なら絶対に表に出せないような本音が、内面で激しく渦巻いていた。
「ななし」
名前を呼ぶ声は酷く優しく、そして有無を言わせない響きを持っていた。
顎を上向かせられ自然と顔が持ち上がる。
薄く目を開ければそこには、夕闇に紛れそうなほど深く妖しく光る瞳があった。
その瞳にレオナの腕の中で完全に翻弄されている自分の姿が、小さく映り込んでいる。
「……待ってやったろ」
レオナの顔がゆっくりと斜めに傾く。
長い睫毛が触れ合うほどの距離。
彼の唇がこちらの震える唇に触れる直前、彼は満足そうに口元を弧に歪めた。
再び噛みつくような深い口づけが降ってくる。
今度はより深く、より逃がさないように、腰を抱く腕の力が強まった。
壊れるほどの力で抱きしめられ、その痛みが、むしろ脳を甘く痺れさせていく。
内面の奥深く、普段は理性で隠している「この人にすべてを奪われたい」という純粋な欲望が、彼の熱によって限界まで引き出されていた。
温室の夕闇は、もう完全に二人を包み込んでいる。
冷えていくはずの世界の中で、彼と重なっている部分だけが狂ったような熱を放ち続けていた。
「レオナさん、またここにいた」
「あ?……なんだ、ななしか」
寝そべっていたレオナが、薄く目を開ける。
起こされたことへの不機嫌さよりも、退屈を紛らわせる存在が来たことへの興味が勝っているような、そんな視線だった。
「あの、学園長から書類を預かってきました。今日の夕方までに、必ずサインを貰ってくるようにって」
「あんな奴の言うこと真面目に聞いてんじゃねぇよ。そこに置いとけ」
「ダメです。今ここで書いてもらわないと、わたしが怒られます」
「チッ……。お前は相変わらず、融通の利かねぇ奴だな」
レオナは面倒くさそうに体を起こす。
それだけで、ふわりと彼の香りが揺れる。それが彼の体温と一緒に、じわりとこちらの鼻腔をくすぐった。
「ほら、ペン貸せ」
「あ、はい。どうぞ」
手渡そうとした指先がレオナの大きな掌に触れる。
ほんの一瞬のことだった。しかし彼の肌は驚くほど熱く、触れた部分から心臓の鼓動が跳ね上がるような錯覚に陥る。
「……手が冷てぇな。お前、ちゃんと飯食ってんのか?」
「食べてます。普通に、普通以上には」
「ならいいが。そんな細い腕じゃ、マジフトのディスク一枚も跳ね返せねぇぞ」
「まあ、もともと魔法は使えないですし。それに、レオナさんたちが規格外なだけです」
「言い訳すんな。ほら、書いたぞ」
差し出された書類を受け取る。その時、レオナがわざと手を離さず書類の端を握ったまま軽く引っ張った。体が一歩、彼の方へと引き寄せられる。
「レオナさん……?」
「用が済んだらすぐ帰る、か。つれねぇな、草食動物のくせに」
「だって、お昼寝の邪魔をしたら悪いと思って」
「邪魔だと思うなら、最初から来ねぇだろ」
レオナの瞳が、悪戯っぽく細められる。その双眸に見つめられると、言葉が喉の奥でつっかえて動かなくなる。
夕暮れの光が、温室のガラス屋根を通して二人をオレンジ色に染めていた。周囲の空気は、先ほどよりも確実に熱を帯び始めている。植物たちの呼吸のせいで、酸素が少し薄くなっているのかもしれなかった。
「……顔、赤いぞ」
「それは、ここの温度が高いからです」
「言い訳が下手だな。耳まで真っ赤だ」
レオナが手を伸ばし、こちらの髪の隙間から覗く耳朶に、指先で軽く触れた。ビクリと体が跳ねる。彼の指は硬く、そしてやはり、酷く熱かった。
「ひゃっ……!?」
「なんだその声。そんなに驚くことかよ」
「いきなり触るから、びっくりしただけです」
「へえ……」
レオナは立ち上がり、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
「あの、レオナさん、ち……近い、です」
逃げようと後ろに下がった足が、温室のレンガの縁に当たった。
もう後ろには引けない。
レオナは逃げ道を塞ぐように、両手をすぐ横の棚についた。
完全に彼の腕の中に閉じ込められる形になる。
「ち、近い!……レオナさん、本当に近いです!」
「あ?……キスするんだから当たり前だろ」
心臓が、耳のすぐ後ろで爆発したかのような音がした。
頭の中が真っ白になり、言葉を探そうにも、口が上手く回らない。
「きっ、なっ……な、何を言ってるんですか……!? 無理、無理です!」
「何が無理なんだよ。嫌なのか?」
「嫌とかそういうことじゃなくて!」
「嫌じゃないならいいだろ、別に」
「顔が良すぎて無理です!」
「はあ!?」
レオナが本気で呆れたような、それでいて少し調子を狂わされたような声を上げた。綺麗な眉が中央に寄る。しかし、その至近距離で見つめる彼の顔は、整いすぎていて暴力的なほどだった。長い睫毛、形の良い唇、彫刻のような鼻筋。
「お前、今更何言ってんだ。俺の顔なんて見飽きてるだろ」
「見飽きるわけないじゃないですか! こんな距離で、そんな……」
「じゃあ、慣れさせてやるよ」
レオナの顔がさらに近づいてくる。
彼の吐息が直接、唇に触れそうな位置。
熱い。温室の空気のせいだけではない。レオナから発せられる圧倒的な熱量が肌を通じて血管を伝わって、体の奥深くまで染み渡っていく。
彼の呼吸が重くなるのが分かった。
ただのからかいではない、本気の男の目。
その瞳の奥にある深い渇きのようなものが、こちらをじっと見据えている。
「……おい、目ぇ瞑るな。ななし」
「む、無理です……」
「いいから、俺を見ろ」
掠れた低い声が鼓膜を優しく揺らす。
逆らうことのできない力がその声には宿っていた。ゆっくりと震える微かな光の中で、こちらの視線が彼の瞳と完全に交錯する。
レオナの指先が今度は顎を優しく、しかし逃がさない強さで固定した。
彼の唇がすぐ目の前でわずかに開かれる。
指先からレオナの体温が直接流れ込んでくる。
それは温室に満ちる生ぬるい空気などよりも遥かに熱く、肌を焦がすような錯覚さえ抱かせた。
「おい、逃げんなって言っただろ」
鼓膜に直接響くような低い声。
ななしはたまらず、きつく目を閉じた。
視界を遮断してもなお、彼の存在感は少しも薄れない。
むしろ視覚が消えたことで、他の感覚が異常なほど鋭敏になっていく。
耳元に触れる彼の熱い呼吸。
微かに衣類が擦れ合う音。
そして、鼻腔をいっぱいに満たす香り。
それらすべてが、頭の芯をじわじわと痺れさせていく。
「……目、瞑っちまったら意味がねぇな」
レオナが可笑しそうに喉の奥で低く笑った。
その振動が彼の胸板を通して間近に伝わってくる。
ななしは両手を彼の胸元に当てて、どうにかその巨体を押し返そうとした。しかし衣服越しに触れた彼の筋肉は鋼のように硬く、ビクともしない。それどころか掌から伝わるレオナの力強い鼓動が、自分の心臓のテンポを狂わせていく。
「レオナさん、お願いですから……からかわないでください」
「からかってるように見えるか? お前、俺の顔が良いって言っただろ。それを最大限に利用して何が悪い」
「ず、ずるいです、そういうの……」
「なんとでも言え」
直後遮られていた光が完全に消え去った。
唇に柔らかく、けれど容赦のない熱が押し当てられる。
吸い込まれるような感覚だった。
最初の一触れは驚くほど優しく触れ合うかのような微かな摩擦。しかし、ななしが息を呑んで唇を開いた瞬間、レオナの追撃は深く濃厚なものへと変化した。
彼の舌がそっとこちらの境界線を越えて侵入してくる。
口内に広がるのはレオナ自身の温度と、どこか甘く苦い大人の香気。
息を吸うことも忘れて、ななしはただ彼の熱に圧し潰されるしかなかった。
背中が温室の冷たい壁に当たり、逃げ場がないことを改めて思い知らされる。背中の感触と、目の前にあるレオナの狂おしいほどの熱量。その極端な対比が、いっそう感覚を鋭く研ぎ澄ませていった。
「ん…………っ」
かすかな呼吸を求めて溢れた声は、すぐにレオナの唇に吸い込まれ掻き消される。
彼はななしを完全に壊れ物でも扱うように優しく抱き込みながらも、その抱擁の強さは一切の拒絶を許さないほど強固だった。
顎を支えていた彼の大きな手がゆっくりと首筋を滑り、うなじへと回り込む。彼の長い指が髪の隙間に潜り込み頭を引き寄せるようにして、さらに深い角度で口づけを交わした。
頭の中の酸素が完全に消えていく。
思考は完全に停止し、ただ愛されているという事実だけが血液の循環に乗って全身を駆け巡っていた。
脈打つ鼓動が、どこで二人の境界線を引けばいいのか分からなくなるほど混ざり合っていく。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
永遠のようにも一瞬のようにも感じられる刹那の後、レオナの唇が名残惜しそうにゆっくりと離れていった。
「……はぁ、っ……」
解放された瞬間、ななしは崩れ落ちそうになる体をどうにか壁に預けて呼吸を繋いだ。
肺に入ってくる温室の空気は、先ほどよりも少し冷たく感じられる。それほどまでに彼の唇がもたらした熱は尋常ではなかった。
視線を上げると至近距離でレオナがこちらを見下ろしていた。
彼の額には微かに汗が浮かび、普段の気怠げな様子は影を潜めている。その瞳は、濡れたように怪しく光り、まるで獲物を完全に仕留めた肉食獣のそれだった。
しかしその表情には見たこともないほどの深い愛着と、甘い充足感が滲み出ている。
「お前……息すんの忘れてただろ。本当に不器用な奴だな」
レオナが少し掠れた声で囁いた。
彼の親指が、すこし赤く腫れ上がったななしの唇をそっとなぞる。
その仕草さえもが酷く官能的で、ななしは顔から火が出るのではないかと思うほど赤くなった。
「だ、だって、レオナさんが、急に……」
「予告してやっただろ」
「そんなの、心の準備ができるわけないです……っ。本当に心臓が壊れるかと思いました」
「まだ言うか、それ」
レオナは可笑しそうに、けれど今度は深く愛おしそうに目を細めると、ななしをその広い胸の中に引き寄せた。
彼の腕が背中に回り、すっぽりと包み込まれる。
彼の胸に額を押し当てられる形になり、レオナの衣服からの香りが今度はもっと濃厚に全身を包み込んだ。
「レ、レオナさん……!?」
「うるせぇ。大人しくしてろ」
彼の胸の奥から規則正しく、けれど少し早いテンポの鼓動が響いてくる。それは彼もまた無傷ではいられなかった証拠のようで、ななしの中にほんの少しの勇気を与えた。
そっと手を伸ばし、彼の広い背中に指先を這わせる。
レオナはその微かな応えを見逃さなかった。さらに腕の力を強め、骨がきしむのではないかと思うほどに、ななしを己の体に密着させた。
「……お前、俺の顔を見るのが無理なら、こうしてりゃいいだろ」
「こ、これはこれで心臓が持たないというか……っ」
「目ぇ開けりゃ顔が近いって騒ぐし、隠せば文句言うし、お前は本当に忙しい奴だな」
低く笑うレオナの胸の振動がすぐ目の前から伝わってくる。
目元を覆う彼の指の隙間から温室の夕暮れの光がわずかに赤く透けて見えた。
視界が遮断されたことで他の全ての感覚が異常なほど過敏になっていく。ドクドクと脈打つ自分の心臓の音が、静かな温室の中に響き渡っているのではないかと気が気ではない。
「……おい、心臓の音、こっちまで響いてんぞ」
「な……っ!」
「嘘に決まってんだろ。だが、触れてるここは、うるさいくらいに跳ねてる。本当、わかりやすい奴」
レオナの指先が、目元からゆっくりと滑り、頬を撫でて顎へと移動する。
親指の腹が唇の端をかすめ、その微かな摩擦だけで体中に電流が走ったかのように固まる。
触れられている部分から、じわじわと甘い痺れのような熱が広がっていく。彼の体温が自分の肌に移り、血の巡りが一気に早くなる。頭の芯が、とろとろと溶けていくような感覚。
「レオナ、さん……」
「なんだ」
「からかわないで、ください」
「からかってるように見えるかよ」
声のトーンが一段と低く沈んだ。
先ほどまでのどこか余裕を含んだ面白がるような気配が完全に消え失せる。
圧倒的な肉食獣の気配。
獲物を目の前にしてじっくりと追い詰めるような、濃厚で重い空気が二人の間に立ち込める。
レオナのもう片方の手が腰の後ろに回り、引き寄せるように力を込めた。ぴったりと隙間なく体が重なる。
彼の硬い胸板、服越しでも伝わる強靭な体躯。
彼が呼吸を吸い込み吐き出すたびに、その胸の動きがダイレクトに伝わってきて、息の仕方を忘れてしまいそうになる。
「……逃げるなよ」
囁きは耳元だった。
形の良い唇が耳の輪郭をかすめ、首筋に熱い息が吹きかかる。
あまりの心地よさと恐ろしさに、背筋がゾクリと震えた。
内側から湧き上がる感情が単なる恥ずかしさを超えて、もっと深い彼を求める渇望へと変わっていくのを感じる。
彼の匂いをもっと吸い込みたい。
彼の熱をもっと肌に刻みつけたい。
そんな普段なら絶対に表に出せないような本音が、内面で激しく渦巻いていた。
「ななし」
名前を呼ぶ声は酷く優しく、そして有無を言わせない響きを持っていた。
顎を上向かせられ自然と顔が持ち上がる。
薄く目を開ければそこには、夕闇に紛れそうなほど深く妖しく光る瞳があった。
その瞳にレオナの腕の中で完全に翻弄されている自分の姿が、小さく映り込んでいる。
「……待ってやったろ」
レオナの顔がゆっくりと斜めに傾く。
長い睫毛が触れ合うほどの距離。
彼の唇がこちらの震える唇に触れる直前、彼は満足そうに口元を弧に歪めた。
再び噛みつくような深い口づけが降ってくる。
今度はより深く、より逃がさないように、腰を抱く腕の力が強まった。
壊れるほどの力で抱きしめられ、その痛みが、むしろ脳を甘く痺れさせていく。
内面の奥深く、普段は理性で隠している「この人にすべてを奪われたい」という純粋な欲望が、彼の熱によって限界まで引き出されていた。
温室の夕闇は、もう完全に二人を包み込んでいる。
冷えていくはずの世界の中で、彼と重なっている部分だけが狂ったような熱を放ち続けていた。
