名前のない距離
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脱衣所のドアが開いて、顔をタオルで拭きながらエースが戻ってきた。
「あー、目覚めた」
「コーヒー淹れたよ」
テーブルの上には、昨日買ったばかりの二つのマグカップが並んでいた。
温かい湯気が揺れていて、香ばしい香りがふわりと広がっている。
エースはタオルを首にかけたまま近づいてくると、赤いカップを手に取った。
「サンキュ。……やっぱ買ってよかったな、これ」
「エースが選んだやつだしね」
「まあね。オレの見立てに狂いはないって言っただろ」
エースは腰を下ろすとコーヒーを一口含んだ。
色違いのカップがテーブルの上に並んでいる光景は、どこか不思議なのに妙にしっくりきていた。
「食パンならあるけど、食う?」
「食べたい、お腹すいた」
「オッケー、じゃあ焼いて」
「わたしが焼くの?」
「焼いてほしいなー、あとバター塗って」
「はいはい」
キッチンに立って食パンをトースターに入れ、タイマーを回す。
ジジジと小さな機械音が静かな室内に響いた。
「■■■、自分の服に着替えなくていいの?」
トーストを皿にのせてテーブルへ運ぶと、エースがコーヒーカップを手にしたままこちらを見上げた。
「あ、そうだね。借りてたTシャツ、脱いでくる」
「別に急がなくてもいいけど」
「汚したら悪いから着替えるよ」
「……なんか、そのデカいサイズ感見慣れてきたわ」
「見慣れたって、まだ一日しか着てないじゃん」
「なんなら■■■用の部屋着にしとく?」
サラッと言い放たれた言葉に手が止まる。
「わたし用って……」
「冗談だって。そんな真に受けんなよ」
「着替えてくる」
「洗っとくから、適当に置いといて」
着替えるために脱衣所へ向かい、昨日脱いだ自分の服に袖を通す。
昨夜エースから借りたTシャツを小さく折りたたむと、なんだか少しだけ日常に戻されていくような、寂しい感覚が胸をかすめた。
「Tシャツ、洗濯機の上に置いておいた」
「おう。サンキュ」
リビングに戻ると、エースは自分の分のトーストを食べ終え、スマホをいじっていた。
私服に戻ったこちらを一瞬だけ見上げると、ほんの少しだけ視線を泳がせる。
「……着替えたら、なんか一気に帰る感出るな」
「まあ、実際にこれから帰るんだし」
「そうだけどさー」
エースは背もたれに体を預け、つまらなさそうに呟いた。
◇
「じゃあ、そろそろ行こうかな」
「駅まで送るわ」
「道わかるし、一人で帰れるよ」
「ついでにオレも外の空気吸いたいだけだから」
エースは素っ気なく言うと、自分も上着を羽織って玄関に向かった。
外に出ると、昨夜の嵐が嘘のように澄み渡った青空が広がっていた。
道路の端には小さな水たまりがいくつか残っていて、朝の光を反射して輝いている。
「うわ、眩し。昨日と違いすぎだろ」
エースは眩しそうに目を細めながら、隣に並んで歩き出した。
昨日、同じ道を歩いたときは一つの傘の中に収まっていたから、肩が触れ合うほどの距離にいた。
けれど今は肩が触れ合わない程度の距離を保って歩いている。
そのわずかな隙間が、なんだかやけに広く感じられた。
「水たまり、気をつけて歩けよ」
「子どもじゃないんだから大丈夫だよ」
「お前、ぼーっとしててよく足元見てないじゃん」
「そんなことないし」
軽口を叩き合いながら歩くうちに、あっという間に駅のロータリーが見えてきた。
改札の手前で足を止める。
休日の朝の駅前は、まだ人もまばらで静かだった。
「またね、送ってくれてありがとう」
「気をつけて帰れよ」
エースはポケットに片手を突っ込んだまま、ひらひらと手を振った。
これで「じゃあね」と言って改札を通れば、いつもの週末に戻る。
分かってはいるのに、なぜかその一歩が少しだけ重かった。
「あ、そうだ。■■■」
背後から声をかけられ、振り返る。
エースは少しだけ気まずそうに首の後ろを手で触りながら、視線をこちらに向けていた。
「来週末の件、忘れんなよ」
「……うん。分かってる」
「家ついたら、連絡して」
「はいはい。分かったってば」
念を押すような言い方に、思わずくすっと笑ってしまう。
エースも少し照れくさそうに口角を上げると、「じゃあな」と短く告げてくるりと背を向けた。
遠ざかっていく彼の背中を見送りながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
改札を通り抜けてホームへ向かう足取りは、来た時よりもずっと軽かった。