名前のない距離
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買い物を終えて店を出ると、雨足は先ほどよりも一段と強くなっていた。
「うわ、本格的に降ってきたな」
エースは溜め息をつきながら手にしていた傘を開いた。
開かれた傘の下に入ると、雨を遮るわずかな空間の中で自然と肩と肩が触れ合うほどの距離になる。
「もっと寄れって。遠慮してっとびしょ濡れになるぞ」
「あ……うん、ごめん」
「ほら、行くぞ」
腕が触れ合うたびに伝わってくる温度に心臓が跳ね上がるのをごまかすように、買い物袋の取っ手をぎゅっと握りしめた。
ビニール袋の中で、さっき買った二つのマグカップが頼りない音を立ててぶつかり合う。
◇
エースの住むマンションまでは、アーケードを抜けて歩いて十分ほどの距離だった。
アスファルトを激しく叩く雨音と、ふたりの足音が水たまりを弾く音が重なる。
街灯の光が濡れた路面に反射して、どこか遠くの景色のようにゆらゆらと揺れていた。
会話はほとんどなかった。けれど気まずい沈黙というわけでもない。
ただ、お互いの歩幅を自然と合わせて歩く時間が静かに流れていく。
「ここで合ってるよね?」
見覚えのある建物の前に着き、階段を見上げながら尋ねる。
「前にも来たことあんだろ」
「最後にここに来たの、半年以上前だし」
エースは階段をトントンと慣れた足取りで上っていく。
その少し広い背中を追いかけながら、だんだんと現実味を帯びてくる状況に、胸の奥の緊張がじわじわと高まっていった。
◇
通路の一番奥にあるドアの前でエースが足を止めた。
ポケットからキーホルダーのついた鍵を取り出し鍵穴に差し込んでひねる。
ガチャリと硬質な金属音が響いてドアがゆっくりと内側へ開いた。
「入って。大して片付いてないけど」
「お邪魔します……」
靴を脱いで玄関に足を踏み入れると、外の湿った雨の匂いがふっと途切れ、代わりにどこか落ち着いた空気に包まれる。
後ろを振り返ると、エースは傘の水気をパッパッと払って立てかけ、ドアを閉めた。
最後にカチャンと鍵がかけられる。
その瞬間、外の喧騒が遠のき世界が二人だけになったような錯覚に襲われた。
「荷物、適当に置いちゃっていいよ」
エースはそう言いながらジャケットを脱ぎ、壁のフックにかけた。
少しだけ着崩したシャツの首元から、すらりとした首筋が見え隠れする。
「あ、ありがとう」
言われた通り、部屋の中央にある小さなテーブルの上に買い出しの袋を置いた。
袋の隙間から覗く赤と白のマグカップが、先ほどの出来事を思い出させて急に居心地が悪くなる。
エースは脱衣所の方へ向かい、棚からタオルを取り出しながらこちらに振り返った。
「ほら、タオル。ちょっと濡れてんだろ」
「あ、ごめん、ありがとう……」
差し出されたタオルを受け取るとき、ほんの少しだけ指先が触れた。
それだけのことで跳ね上がる胸の鼓動を隠したくて、慌てて頭からタオルをかぶる。
「エースこそ、肩のあたり結構濡れてない?」
「オレ? オレはまあ、多少ね」
エースは自分の右肩あたりを軽く手で叩きながら、ニッとどこか意地悪そうに笑った。
「誰かさんが濡れないように気を使ってやった結果だけど?」
「……別に、頼んでないし」
「嘘つけ。傘の中で縮こまってたくせに」
◇
エースはソファーの背もたれに肘をかけ、上から覗き込むようにこちらを見つめてきた。
濡れて少し重くなった髪の毛先から雫がひとつ、彼の肩口にぽたりと落ちる。
「つーかさ」
「なに?」
「部屋入ってから、ずっと立ってる気?」
「え? あ、ごめん。座るね」
慌ててソファーの端に腰を下ろすと、エースはそのすぐ隣に腰かけた。
ドカッと体重がかけられ、クッションが沈む。
距離が、あまりにも近い。
「なにか飲む? あ、さっき買ったマグカップ、さっそく使う?」
「いいね。洗って淹れてよ。お前が」
「私に淹れさせるの?」
「付き合ってやったお礼。お茶奢ってもらいそびれたし」
図々しい言い方なのに、その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「はいはい。じゃあ洗ってくる」
立ち上がろうとした瞬間、エースが不意にこちらの手首を軽く掴んだ。
「エース?」
「……やっぱ後でいい、まだ座ってろよ」
「え、でも」
「だから、後でいいって」
エースは呆れたように息を吐くと、掴んでいた手首をすっと滑らせて、手の甲をこちらの膝の上にぽんと戻した。
拘束が解けたはずなのに、触れられていた皮膚の表面だけが熱を持ったまま残っている。
「……座りにくそうなんだけど」
「ななしが変に固まってっからでしょ」
エースはソファーに背もたれ深く腰掛け直し、ポンポンと自分の隣のクッションを叩いた。
「もっと奥座れよ。そんな狭いわけでもないんだからさ」
言われた通りに少しだけ腰をずらすと、肩と肩の距離がほんの数センチに縮まった。
エースの体の熱量が服越しにじわじわと伝わってくる。
「ねえ」
「なに?」
「なんでマグカップお揃いにしたの?」
思い切って尋ねてみると、エースは天井を一瞬仰ぎ見てから心底どうでもよさそうに肩をすくめた。
「なんとなくに決まってんじゃん。たまたま隣にあったから」
「ふーん……」
「なんだよ、その含みのある言い方」
「いや、なんか変だなと思って」
「変ってなに? ダチ同士で色違いのカップ使うのが?」
エースの口から出たダチという言葉。
毎回その言葉で線を引こうとするくせに、行動はいつもその境界線を越えかけている。
「……そうだけど」
「ふーん。じゃあお前さ」
エースがゆっくりと顔をこちらに向けた。逃げ場のない距離で、彼の視線とまっすぐにぶつかる。
「ほんとに『ただのダチ』としか思ってない奴と、二人で雨の日に家でまったりすんの?」
空気が、一瞬で凍りついたように重くなる。
窓を叩く雨音だけが、不自然なほど大きく部屋の中に響いていた。
「……それ、どういう意味?」
「意味も何も、まんまだけど」
エースは誤魔化すように笑うこともせず、探るような、どこかわずかに焦りを含んだ瞳でこちらを見つめ続けている。
いつもなら「冗談に決まってんじゃん」と軽口を叩いて逃げるはずの彼が、今日は踏みとどまっている。
「お前がどう思ってんのか、知りたいだけ」
「……エースは?」
「は?」
「エースはどう思ってるの? わたしのこと」
質問に質問を返すとエースの目線が一瞬泳いだ。
首の後ろを手で触り、気まずそうに視線を外してから、小さく舌打ちをする。
「……ズルい聞き方すんなよ」
「エースが先に聞いてきたんじゃん」
「っ……」
エースは言葉に詰まり、唇を噛み締めると、ガシガシと自分の髪を掻きむしった。
「たく……ホントお前さあ」
低く呟かれた声に緊張が走ったけれど、次の瞬間、エースはふっと力を抜いて、いつもの意地悪そうな笑みを口元に浮かべた。
「……なーに本気にしちゃってんの? 顔、真っ赤だけど」
「え……?」
「『エースはどう思ってるの?』だってさー。可愛らしいこと聞いてくれちゃって」
楽しそうに笑いながら、掴んでいた手首を離し、頭をぽんと軽く小突く。
「ちょっと、からかわないでよ……!」
「だって、お前が面白い反応するからさ」
そう言ってソファーに深く背をもたれかけたエースは、どこか満足気な、でもほんの少しだけ名残惜しそうな目つきでこちらを見上げていた。
雨音だけが、窓ガラスを静かに叩き続けている。
弄ばれた鼓動の激しさを隠すように、ななしは胸の前でぎゅっと拳を握りしめた。
「うわ、本格的に降ってきたな」
エースは溜め息をつきながら手にしていた傘を開いた。
開かれた傘の下に入ると、雨を遮るわずかな空間の中で自然と肩と肩が触れ合うほどの距離になる。
「もっと寄れって。遠慮してっとびしょ濡れになるぞ」
「あ……うん、ごめん」
「ほら、行くぞ」
腕が触れ合うたびに伝わってくる温度に心臓が跳ね上がるのをごまかすように、買い物袋の取っ手をぎゅっと握りしめた。
ビニール袋の中で、さっき買った二つのマグカップが頼りない音を立ててぶつかり合う。
◇
エースの住むマンションまでは、アーケードを抜けて歩いて十分ほどの距離だった。
アスファルトを激しく叩く雨音と、ふたりの足音が水たまりを弾く音が重なる。
街灯の光が濡れた路面に反射して、どこか遠くの景色のようにゆらゆらと揺れていた。
会話はほとんどなかった。けれど気まずい沈黙というわけでもない。
ただ、お互いの歩幅を自然と合わせて歩く時間が静かに流れていく。
「ここで合ってるよね?」
見覚えのある建物の前に着き、階段を見上げながら尋ねる。
「前にも来たことあんだろ」
「最後にここに来たの、半年以上前だし」
エースは階段をトントンと慣れた足取りで上っていく。
その少し広い背中を追いかけながら、だんだんと現実味を帯びてくる状況に、胸の奥の緊張がじわじわと高まっていった。
◇
通路の一番奥にあるドアの前でエースが足を止めた。
ポケットからキーホルダーのついた鍵を取り出し鍵穴に差し込んでひねる。
ガチャリと硬質な金属音が響いてドアがゆっくりと内側へ開いた。
「入って。大して片付いてないけど」
「お邪魔します……」
靴を脱いで玄関に足を踏み入れると、外の湿った雨の匂いがふっと途切れ、代わりにどこか落ち着いた空気に包まれる。
後ろを振り返ると、エースは傘の水気をパッパッと払って立てかけ、ドアを閉めた。
最後にカチャンと鍵がかけられる。
その瞬間、外の喧騒が遠のき世界が二人だけになったような錯覚に襲われた。
「荷物、適当に置いちゃっていいよ」
エースはそう言いながらジャケットを脱ぎ、壁のフックにかけた。
少しだけ着崩したシャツの首元から、すらりとした首筋が見え隠れする。
「あ、ありがとう」
言われた通り、部屋の中央にある小さなテーブルの上に買い出しの袋を置いた。
袋の隙間から覗く赤と白のマグカップが、先ほどの出来事を思い出させて急に居心地が悪くなる。
エースは脱衣所の方へ向かい、棚からタオルを取り出しながらこちらに振り返った。
「ほら、タオル。ちょっと濡れてんだろ」
「あ、ごめん、ありがとう……」
差し出されたタオルを受け取るとき、ほんの少しだけ指先が触れた。
それだけのことで跳ね上がる胸の鼓動を隠したくて、慌てて頭からタオルをかぶる。
「エースこそ、肩のあたり結構濡れてない?」
「オレ? オレはまあ、多少ね」
エースは自分の右肩あたりを軽く手で叩きながら、ニッとどこか意地悪そうに笑った。
「誰かさんが濡れないように気を使ってやった結果だけど?」
「……別に、頼んでないし」
「嘘つけ。傘の中で縮こまってたくせに」
◇
エースはソファーの背もたれに肘をかけ、上から覗き込むようにこちらを見つめてきた。
濡れて少し重くなった髪の毛先から雫がひとつ、彼の肩口にぽたりと落ちる。
「つーかさ」
「なに?」
「部屋入ってから、ずっと立ってる気?」
「え? あ、ごめん。座るね」
慌ててソファーの端に腰を下ろすと、エースはそのすぐ隣に腰かけた。
ドカッと体重がかけられ、クッションが沈む。
距離が、あまりにも近い。
「なにか飲む? あ、さっき買ったマグカップ、さっそく使う?」
「いいね。洗って淹れてよ。お前が」
「私に淹れさせるの?」
「付き合ってやったお礼。お茶奢ってもらいそびれたし」
図々しい言い方なのに、その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「はいはい。じゃあ洗ってくる」
立ち上がろうとした瞬間、エースが不意にこちらの手首を軽く掴んだ。
「エース?」
「……やっぱ後でいい、まだ座ってろよ」
「え、でも」
「だから、後でいいって」
エースは呆れたように息を吐くと、掴んでいた手首をすっと滑らせて、手の甲をこちらの膝の上にぽんと戻した。
拘束が解けたはずなのに、触れられていた皮膚の表面だけが熱を持ったまま残っている。
「……座りにくそうなんだけど」
「ななしが変に固まってっからでしょ」
エースはソファーに背もたれ深く腰掛け直し、ポンポンと自分の隣のクッションを叩いた。
「もっと奥座れよ。そんな狭いわけでもないんだからさ」
言われた通りに少しだけ腰をずらすと、肩と肩の距離がほんの数センチに縮まった。
エースの体の熱量が服越しにじわじわと伝わってくる。
「ねえ」
「なに?」
「なんでマグカップお揃いにしたの?」
思い切って尋ねてみると、エースは天井を一瞬仰ぎ見てから心底どうでもよさそうに肩をすくめた。
「なんとなくに決まってんじゃん。たまたま隣にあったから」
「ふーん……」
「なんだよ、その含みのある言い方」
「いや、なんか変だなと思って」
「変ってなに? ダチ同士で色違いのカップ使うのが?」
エースの口から出たダチという言葉。
毎回その言葉で線を引こうとするくせに、行動はいつもその境界線を越えかけている。
「……そうだけど」
「ふーん。じゃあお前さ」
エースがゆっくりと顔をこちらに向けた。逃げ場のない距離で、彼の視線とまっすぐにぶつかる。
「ほんとに『ただのダチ』としか思ってない奴と、二人で雨の日に家でまったりすんの?」
空気が、一瞬で凍りついたように重くなる。
窓を叩く雨音だけが、不自然なほど大きく部屋の中に響いていた。
「……それ、どういう意味?」
「意味も何も、まんまだけど」
エースは誤魔化すように笑うこともせず、探るような、どこかわずかに焦りを含んだ瞳でこちらを見つめ続けている。
いつもなら「冗談に決まってんじゃん」と軽口を叩いて逃げるはずの彼が、今日は踏みとどまっている。
「お前がどう思ってんのか、知りたいだけ」
「……エースは?」
「は?」
「エースはどう思ってるの? わたしのこと」
質問に質問を返すとエースの目線が一瞬泳いだ。
首の後ろを手で触り、気まずそうに視線を外してから、小さく舌打ちをする。
「……ズルい聞き方すんなよ」
「エースが先に聞いてきたんじゃん」
「っ……」
エースは言葉に詰まり、唇を噛み締めると、ガシガシと自分の髪を掻きむしった。
「たく……ホントお前さあ」
低く呟かれた声に緊張が走ったけれど、次の瞬間、エースはふっと力を抜いて、いつもの意地悪そうな笑みを口元に浮かべた。
「……なーに本気にしちゃってんの? 顔、真っ赤だけど」
「え……?」
「『エースはどう思ってるの?』だってさー。可愛らしいこと聞いてくれちゃって」
楽しそうに笑いながら、掴んでいた手首を離し、頭をぽんと軽く小突く。
「ちょっと、からかわないでよ……!」
「だって、お前が面白い反応するからさ」
そう言ってソファーに深く背をもたれかけたエースは、どこか満足気な、でもほんの少しだけ名残惜しそうな目つきでこちらを見上げていた。
雨音だけが、窓ガラスを静かに叩き続けている。
弄ばれた鼓動の激しさを隠すように、ななしは胸の前でぎゅっと拳を握りしめた。
