名前のない距離
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薄暗い室内に、氷がグラスの壁に当たるカランという澄んだ音が響いた。
「で? 結局その話、断ったわけ?」
エースはソファに深く腰をかけ、肘をついてこちらを覗き込んできた。
少し崩した制服ではなく、大人びた私服に身を包んでいても、生意気そうな笑い方は学生時代と何一つ変わっていない。
「うん、断った」
「へえ、珍しく賢い選択じゃん」
「余計なお世話」
ストローでグラスの底に残った液体を混ぜると、くるくると小さな渦ができた。
NRCを卒業してから、もうそれなりの時間が経っている。
お互いに別の進路を選び、生活の拠点も変わったはずだった。
それなのに、休みの前日やふとした瞬間に連絡を取り合い、こうしてだらだらと集まっている。
「お前、要領悪いところあるし」
「先週も先輩に呼び出されて愚痴ってたの誰だっけ?」
「それは不可抗力! あの人がしつこいだけだし」
エースは片手で頭の後ろを掻きながら、大袈裟にため息をついて見せた。
◇
テーブルの端に置かれたランプが、ふたりの影を壁に長く伸ばしている。
「ていうかさ、ななし」
「なに?」
「お前、最近なんか変わった?」
エースが顔を覗き込んできた。距離が少し近くなって、一瞬息が詰まる。
「別に……何も変わってないと思うけど」
「そう? ならいいけど」
視線を外してグラスを持ち上げると、エースはニヤリと口元を緩めた。
その表情には、まるですべてを見透かしているかのような余裕が漂っている。
卒業式のあの日、「これからもたまには会おうぜ」と言ったのはエースだった。その言葉通り関係は途切れることなく続いている。
友人としての距離感のまま、一向に前へ進む兆しを見せない。
お互いに気づいているのかもしれない。特別な感情を抱いていることに。
それでも、この心地よい関係を壊すのが怖くて、どちらも決定的な一歩を踏み出せないでいた。
「ねえ、エース」
「ん?」
「次の休み、何するの?」
「別に何も」
「暇なんだ」
「お前がどっか行きたいなら付き合ってやってもいいけど」
「上から目線なのは変わらないんだね」
「事実だし? で、行きたいところでもあるの?」
エースはグラスをテーブルに置くと、こちらへ身を乗り出した。
「……たまには遠出でもしてみたいなって」
「いいね。じゃあ、来週の土曜な」
決まるのは一瞬だった。
こうして自然に予定が埋まっていくこと自体、普通の関係ではないのかもしれない。
◇
夜が更けていくにつれて、会話のテンポは少しずつ緩やかになっていく。
「そういえばさ、デュースから連絡あった?」
「相変わらず真面目に頑張ってるみたい」
「ホント、クソ真面目だよなー」
「エースも見習えばいいのに」
「オレは要領よくやってるからこれでいいの」
エースは満足そうに口角を上げた。
「要領がいいねぇ……」
「なんだよ、その目は」
「別に?」
呆れたように息を吐くと、エースは軽く眉をひそめた。
「お前、たまにオレのことバカにしてくるよな」
「バカにしてないよ。実際すごいとは思ってるし」
「……へえ?」
「卒業してからの方がより感じる」
「どのへんがすごいの?」
急に声のトーンが変わったことに気づいて、エースの顔を見た。
彼は少し身を乗り出し、面白がるような、けれどどこか探るような目つきでこちらを見つめている。
「……言わない」
「なんでだよ。言えよ」
「絶対調子に乗るから嫌」
「乗らないって」
顔を近づけてくるエースの勢いに押され、少しだけ身体を引いた。
「言わないったら言わないの」
「ちぇっ、つまんねーの」
エースはつまらなさそうに背もたれへ身体を預け直した。
だが、その口元にはまだ小さな笑みが残っている。
◇
部屋の静けさが、ふたりの間に少しだけ重く横たわった。
「……ななし」
「なに?」
「お前さ、たまに遠く見てるよな」
「そう?」
「そう。何考えてんのかなーって思って」
エースの言葉に胸の奥がちくりと痛んだ。
考えていることなんて、たくさんある。元の世界のことはもちろん、この曖昧な関係がいつまで続くのか、いつか誰かがこの境界線を越えてしまうのではないかということ。
「ただボーッとしてるだけ」
「嘘つけ。お前の考えてることくらい、だいたい分かるし」
「じゃあ、当ててみてよ」
強がりで返した言葉にエースは一瞬だけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……言ったら、お前困るでしょ」
「え?」
エースと視線がまっすぐに重なる。
いつもはおちゃらけている彼の表情から笑みが消え、真剣な色が混ざっていた。
心臓が跳ね上がった。
言葉の意味を理解しようとするよりも早く、身体が緊張で強張る。
「……なにそれ」
「冗談だよ。そんな固くなんなって」
エースはすぐにいつもの軽い笑みに戻り、ひらひらと手を振った。
「びびった?」
「……びびってない」
「嘘つけ、顔に出てる」
いつもの意地悪な笑顔。
けれどその奥に隠された本音を、お互いに触れないように避けていることだけは確かだった。
グラスの中で最後の氷が静かに溶けて、水滴がテーブルの上に小さなシミを作った。
「びびってないなら、なんでそんな固まってんの?」
エースは肘掛けに頬杖をついたまま、楽しそうに目を細めた。
少しだけ意地悪なその表情は、学生時代にいたずらを仕掛けてくるときと全く変わっていない。
「別に……不意打ちだったから驚いただけだし」
「ふーん。不意打ちねえ」
エースはグラスを持ち上げ、残っていた水分を口に含んだ。
氷はもうすっかり溶けて小さくなっている。
「で、来週の土曜だけど。どこ行く?」
「エースが行きたいところでもいいよ」
「オレ? オレは別に、お前に付き合う気でいたんだけど」
「じゃあ、当日までに考えとく」
「うわ、雑。まあいいけどさ」
エースはくすっと笑うと、背もたれに深く身体を預けた。
◇
部屋の明かりがほんの少し暗くなったように感じるのは、夜が深まってきたからだろうか。
会話の合間に生まれる短い沈黙すら、以前より少しだけ重みを持っているように思えた。
「お前さ、卒業した直後はあんまり連絡寄こさなかったよね」
「そうだったっけ?」
「オレがわざわざ連絡してやんないと、全然返してこなかったし」
「あの頃はバタバタしてたの。新しい環境に慣れるので精一杯だったし」
「オレと話す時間もないくらい忙しかったんだ」
「そういう言い方しないでよ」
抗議するように見つめ返すと、エースは少しだけ気まずそうに視線を泳がせた。
「……まあ、いいけど。今はこうやって会えてるし」
ボソッと呟かれた言葉に、胸の奥がまた静かに揺れる。
「エースだって、忙しいなら無理して来なくていいんだよ」
「は? 無理なんてしてねーし。オレが来たくて来てんの」
即答されて、言葉が詰まる。
エースはハッとしたように口を閉じ、少しだけ顔を背けた。
◇
「……あのさ」
「なに?」
「お前って、たまにすっげー他人行儀になるよね」
「そんなことないと思うけど」
「あるって」
「ないって」
「無理して来なくていいとかさ。そういうの、なんか壁作られてる気すんだけど」
エースがこちらを見返す。
その瞳には冗談めかした軽さはなかった。
「……壁なんて作ってないよ」
「じゃあ、なんで遠慮すんの。オレたち、そんな関係だっけ」
「そんな関係って、どんな関係よ」
問い返す声が、思っていたよりも少し小さくなった。
エースは一瞬言葉を呑み込み、眉間にしわを寄せた。
「……普通の、付き合いの長いダチだろ」
その言葉が二人の間にくっきりと線を引く。
お互いにそれ以上の関係を望んでいるくせに、誰もその線を踏み越えようとはしない。
「そうだね。だから気を使ってるわけじゃないよ」
「……ならいいけど」
エースはつまらなさそうに吐き捨てると、テーブルの上の空になったグラスを指先で突いた。
◇
「来週さ、雨降ったらどうする?」
話題を変えるようにエースが尋ねてきた。
「雨なら、室内で過ごせる場所にすればいいんじゃない?」
「じゃあ、オレの家来る?」
サラッと言い放たれた言葉に、息が止まる。
「……え?」
「何その反応。何回か来たことあるじゃん」
「それはそうだけど……なんか」
「なんか、なに?」
エースは身を乗り出し、こちらの顔を覗き込んできた。
距離が近くなり、彼の視線から逃げられなくなる。
「別に変な意味じゃねーし。雨ならその方が楽でしょって話」
「……そうだけど」
「嫌ならいいけどさ。どうする?」
試すような問いかけ。
ここで嫌だと言えば自意識過剰だと思われるし、いいと言えばこの曖昧な関係のまま踏み込みすぎてしまう気がした。
「……じゃあ、雨が降ったらね」
そう答えるのが精一杯だった。エースは一瞬だけ呆れたような顔をして、それからニッと笑った。
「了解。じゃ、てるてる坊主でも作っとくわ」
「降ってほしいの? 降ってほしくないの?」
「さあね。どっちでもいいんじゃない?」
エースはそう言って、思わせぶりに肩をすくめた。
答えの出ない問い掛けを残したまま、夜はゆっくりと過ぎていった。
「で? 結局その話、断ったわけ?」
エースはソファに深く腰をかけ、肘をついてこちらを覗き込んできた。
少し崩した制服ではなく、大人びた私服に身を包んでいても、生意気そうな笑い方は学生時代と何一つ変わっていない。
「うん、断った」
「へえ、珍しく賢い選択じゃん」
「余計なお世話」
ストローでグラスの底に残った液体を混ぜると、くるくると小さな渦ができた。
NRCを卒業してから、もうそれなりの時間が経っている。
お互いに別の進路を選び、生活の拠点も変わったはずだった。
それなのに、休みの前日やふとした瞬間に連絡を取り合い、こうしてだらだらと集まっている。
「お前、要領悪いところあるし」
「先週も先輩に呼び出されて愚痴ってたの誰だっけ?」
「それは不可抗力! あの人がしつこいだけだし」
エースは片手で頭の後ろを掻きながら、大袈裟にため息をついて見せた。
◇
テーブルの端に置かれたランプが、ふたりの影を壁に長く伸ばしている。
「ていうかさ、ななし」
「なに?」
「お前、最近なんか変わった?」
エースが顔を覗き込んできた。距離が少し近くなって、一瞬息が詰まる。
「別に……何も変わってないと思うけど」
「そう? ならいいけど」
視線を外してグラスを持ち上げると、エースはニヤリと口元を緩めた。
その表情には、まるですべてを見透かしているかのような余裕が漂っている。
卒業式のあの日、「これからもたまには会おうぜ」と言ったのはエースだった。その言葉通り関係は途切れることなく続いている。
友人としての距離感のまま、一向に前へ進む兆しを見せない。
お互いに気づいているのかもしれない。特別な感情を抱いていることに。
それでも、この心地よい関係を壊すのが怖くて、どちらも決定的な一歩を踏み出せないでいた。
「ねえ、エース」
「ん?」
「次の休み、何するの?」
「別に何も」
「暇なんだ」
「お前がどっか行きたいなら付き合ってやってもいいけど」
「上から目線なのは変わらないんだね」
「事実だし? で、行きたいところでもあるの?」
エースはグラスをテーブルに置くと、こちらへ身を乗り出した。
「……たまには遠出でもしてみたいなって」
「いいね。じゃあ、来週の土曜な」
決まるのは一瞬だった。
こうして自然に予定が埋まっていくこと自体、普通の関係ではないのかもしれない。
◇
夜が更けていくにつれて、会話のテンポは少しずつ緩やかになっていく。
「そういえばさ、デュースから連絡あった?」
「相変わらず真面目に頑張ってるみたい」
「ホント、クソ真面目だよなー」
「エースも見習えばいいのに」
「オレは要領よくやってるからこれでいいの」
エースは満足そうに口角を上げた。
「要領がいいねぇ……」
「なんだよ、その目は」
「別に?」
呆れたように息を吐くと、エースは軽く眉をひそめた。
「お前、たまにオレのことバカにしてくるよな」
「バカにしてないよ。実際すごいとは思ってるし」
「……へえ?」
「卒業してからの方がより感じる」
「どのへんがすごいの?」
急に声のトーンが変わったことに気づいて、エースの顔を見た。
彼は少し身を乗り出し、面白がるような、けれどどこか探るような目つきでこちらを見つめている。
「……言わない」
「なんでだよ。言えよ」
「絶対調子に乗るから嫌」
「乗らないって」
顔を近づけてくるエースの勢いに押され、少しだけ身体を引いた。
「言わないったら言わないの」
「ちぇっ、つまんねーの」
エースはつまらなさそうに背もたれへ身体を預け直した。
だが、その口元にはまだ小さな笑みが残っている。
◇
部屋の静けさが、ふたりの間に少しだけ重く横たわった。
「……ななし」
「なに?」
「お前さ、たまに遠く見てるよな」
「そう?」
「そう。何考えてんのかなーって思って」
エースの言葉に胸の奥がちくりと痛んだ。
考えていることなんて、たくさんある。元の世界のことはもちろん、この曖昧な関係がいつまで続くのか、いつか誰かがこの境界線を越えてしまうのではないかということ。
「ただボーッとしてるだけ」
「嘘つけ。お前の考えてることくらい、だいたい分かるし」
「じゃあ、当ててみてよ」
強がりで返した言葉にエースは一瞬だけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……言ったら、お前困るでしょ」
「え?」
エースと視線がまっすぐに重なる。
いつもはおちゃらけている彼の表情から笑みが消え、真剣な色が混ざっていた。
心臓が跳ね上がった。
言葉の意味を理解しようとするよりも早く、身体が緊張で強張る。
「……なにそれ」
「冗談だよ。そんな固くなんなって」
エースはすぐにいつもの軽い笑みに戻り、ひらひらと手を振った。
「びびった?」
「……びびってない」
「嘘つけ、顔に出てる」
いつもの意地悪な笑顔。
けれどその奥に隠された本音を、お互いに触れないように避けていることだけは確かだった。
グラスの中で最後の氷が静かに溶けて、水滴がテーブルの上に小さなシミを作った。
「びびってないなら、なんでそんな固まってんの?」
エースは肘掛けに頬杖をついたまま、楽しそうに目を細めた。
少しだけ意地悪なその表情は、学生時代にいたずらを仕掛けてくるときと全く変わっていない。
「別に……不意打ちだったから驚いただけだし」
「ふーん。不意打ちねえ」
エースはグラスを持ち上げ、残っていた水分を口に含んだ。
氷はもうすっかり溶けて小さくなっている。
「で、来週の土曜だけど。どこ行く?」
「エースが行きたいところでもいいよ」
「オレ? オレは別に、お前に付き合う気でいたんだけど」
「じゃあ、当日までに考えとく」
「うわ、雑。まあいいけどさ」
エースはくすっと笑うと、背もたれに深く身体を預けた。
◇
部屋の明かりがほんの少し暗くなったように感じるのは、夜が深まってきたからだろうか。
会話の合間に生まれる短い沈黙すら、以前より少しだけ重みを持っているように思えた。
「お前さ、卒業した直後はあんまり連絡寄こさなかったよね」
「そうだったっけ?」
「オレがわざわざ連絡してやんないと、全然返してこなかったし」
「あの頃はバタバタしてたの。新しい環境に慣れるので精一杯だったし」
「オレと話す時間もないくらい忙しかったんだ」
「そういう言い方しないでよ」
抗議するように見つめ返すと、エースは少しだけ気まずそうに視線を泳がせた。
「……まあ、いいけど。今はこうやって会えてるし」
ボソッと呟かれた言葉に、胸の奥がまた静かに揺れる。
「エースだって、忙しいなら無理して来なくていいんだよ」
「は? 無理なんてしてねーし。オレが来たくて来てんの」
即答されて、言葉が詰まる。
エースはハッとしたように口を閉じ、少しだけ顔を背けた。
◇
「……あのさ」
「なに?」
「お前って、たまにすっげー他人行儀になるよね」
「そんなことないと思うけど」
「あるって」
「ないって」
「無理して来なくていいとかさ。そういうの、なんか壁作られてる気すんだけど」
エースがこちらを見返す。
その瞳には冗談めかした軽さはなかった。
「……壁なんて作ってないよ」
「じゃあ、なんで遠慮すんの。オレたち、そんな関係だっけ」
「そんな関係って、どんな関係よ」
問い返す声が、思っていたよりも少し小さくなった。
エースは一瞬言葉を呑み込み、眉間にしわを寄せた。
「……普通の、付き合いの長いダチだろ」
その言葉が二人の間にくっきりと線を引く。
お互いにそれ以上の関係を望んでいるくせに、誰もその線を踏み越えようとはしない。
「そうだね。だから気を使ってるわけじゃないよ」
「……ならいいけど」
エースはつまらなさそうに吐き捨てると、テーブルの上の空になったグラスを指先で突いた。
◇
「来週さ、雨降ったらどうする?」
話題を変えるようにエースが尋ねてきた。
「雨なら、室内で過ごせる場所にすればいいんじゃない?」
「じゃあ、オレの家来る?」
サラッと言い放たれた言葉に、息が止まる。
「……え?」
「何その反応。何回か来たことあるじゃん」
「それはそうだけど……なんか」
「なんか、なに?」
エースは身を乗り出し、こちらの顔を覗き込んできた。
距離が近くなり、彼の視線から逃げられなくなる。
「別に変な意味じゃねーし。雨ならその方が楽でしょって話」
「……そうだけど」
「嫌ならいいけどさ。どうする?」
試すような問いかけ。
ここで嫌だと言えば自意識過剰だと思われるし、いいと言えばこの曖昧な関係のまま踏み込みすぎてしまう気がした。
「……じゃあ、雨が降ったらね」
そう答えるのが精一杯だった。エースは一瞬だけ呆れたような顔をして、それからニッと笑った。
「了解。じゃ、てるてる坊主でも作っとくわ」
「降ってほしいの? 降ってほしくないの?」
「さあね。どっちでもいいんじゃない?」
エースはそう言って、思わせぶりに肩をすくめた。
答えの出ない問い掛けを残したまま、夜はゆっくりと過ぎていった。
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