お誕生日おめでとう
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校舎裏にある古い東屋は、西日が深く差し込んでオレンジ色に染まっている。
石造りのベンチに置いた小さな紙袋の中で、ケーキ箱の取っ手がカサリと音を立てた。
放課後のチャイムが鳴り響いてからもう三十分以上が過ぎていて、手袋越しにも秋の冷たさが伝わり、風は少しずつ冷たさを増していく。
「待たせたな、■■■」
植え込みの角から現れた先輩は、少し息を乱しながら眼鏡を指で押し上げた。
髪の毛が夕風に揺れて、制服のジャケットの裾を軽く整えながらこちらへ歩み寄ってくる。
「全然待ってないです。寮のほうは大丈夫でしたか?」
「ああ、色々と厄介ごとは残っているが、今日は特別に免除してもらったよ」
先輩は少し困ったように笑いながら、私の隣に腰を下ろした。
すれ違いざまに、いつもの小麦粉と甘いバニラが混ざったような柔らかい香りがふわりと鼻をかすめる。
大きな背中が隣に並ぶと、それだけで吹き抜ける風の冷たさが少し和らぐ気がした。
「やっぱり、今日は忙しかったですよね」
「別に気にしなくていいさ」
「お誕生日の当日に呼び出しちゃってすみません」
「むしろ、お前の方こそ気を使ってくれたんだろ。ありがとな」
先輩は膝の上に置いた大きな手を軽く開き、それから私の隣にある紙袋へ視線を落とした。
その目が、どこか全てを見透かしているように柔らかく細められる。
「それで? その袋からすごく美味そうな匂いがしてるんだが……」
「あ、えっと……」
見破られている照れくささから、私は紙袋の持ち手をぎゅっと握りしめた。
本当はもっとスマートに手渡すつもりだったのに、先輩の前だとどうにも落ち着かない。
私は息を吸い込んで、紙袋から小さな白い箱を丁寧に取り出した。
「トレイ先輩、改めて、お誕生日おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
箱を受け取る先輩の手が、ほんの少しだけ止まる。
箱の隙間から覗くデコレーションを目にした瞬間、先輩の口元がふっと緩んだ。
「これ、お前が作ったのか?」
「はい。本当はもっと上手に作りたかったんですけど……トレイ先輩みたいに綺麗には出来なくて」
「すごく丁寧にクリームが塗ってあるじゃないか。イチゴのサイズも揃ってるし、プロ顔負けだ」
「ほんとお世辞が上手ですね、ハーツラビュルの副寮長様は」
「お世辞だと思うなら、もう少し厳しく採点してやろうか?」
「いえ、今のままでお願いします!」
「ははっ、素直だな」
先輩はそう言って悪戯っぽく笑うと、箱から大切そうにケーキを取り出した。
手のひらに収まるくらいの小さなホールケーキ。
表面に絞られた白い生クリームの上に、真っ赤なイチゴがちょこんと乗っている。
プロ並みの腕前のトレイ先輩に手作りのケーキを渡すなんて、少し野暮じゃないかとも思っていた。
けれど、いつも誰かのために腕を振るってばかりの先輩だからこそ、今日くらいは誰かが自分のために作ったケーキを味わってほしかったのだ。
「ここで食べてもいいか?」
「はい、もちろんです」
「他の奴らに見つかると、独り占めできないからな」
私はカバンの中から、念のために持ってきていたフォークを一本取り出してトレイ先輩に手渡した。
「準備が良いな、ありがとう」
「念には念を入れてました」
「ここ数日、購買部で製菓用の材料を熱心に見てただろ?」
「えっ、何で知ってるんですか!?」
思わず声を上げると、トレイ先輩は低く楽しそうに笑った。
「昨日、エースが『アイツ、真剣な顔で購買物色してましたよ』って教えてくれてな」
「エースのやつ……、次会った時に文句言ってやる」
目に見えるようなやり取りを想像して力が抜けると同時に、先輩は受け取ったフォークをケーキの端にすっと入れた。
「じゃあ、いただきます」
先輩はひと口分をフォークですくい、ゆっくりと口に運んだ。
咀嚼する間、私は自分の心臓の音が聞こえてしまいそうなくらい緊張して、横顔をじっと見つめていた。
たくさん練習したから大丈夫だとは思いつつ、口に合わなかったらどうしよう。
甘すぎただろうか、スポンジがパサついていただろうか、などとやはり心配が勝ってしまう。
先輩の喉がこくりと動き、それからゆっくりとこちらに視線が向けられた。
「……どう、ですか?」
「……」
先輩は何も言わず、ただ静かに私を見つめ返してくる。
その沈黙があまりにも長くて、私は不安のあまり指先を握りしめた。
「あの、やっぱり美味しくなかったですか? 正直に言ってくれて大丈夫です」
「いや」
先輩はゆっくりと首を振ると、柔らかく目を細めた。
「驚いたんだ。……すごく美味い」
「本当ですか……?」
「ああ。スポンジもしっとりしてるし、クリームの甘さも絶妙だ。イチゴの酸味が効いてて、いくらでも食べられそうだな」
「よ、よかった……!」
先輩はもうひと口、ケーキを口に運んだ。
ゆっくりと味わってから、私に視線を戻す。
「なにより、俺のために時間を使ってくれたんだろ? こんなに美味いケーキを食べたのは、久しぶりかもしれない」
そう言われて視線のやり場に困り、私は膝の上で握りしめた制服のスカートに目を落とした。
吹き抜ける風が落ち葉をカサリと鳴らし、ベンチの端を冷たく撫でていく。
「■■■も食べてみるか?」
そう言って、トレイ先輩はケーキを一口すくったフォークをそのままこちらへ差し向けてきた。
「えっ……あ、自分で食べられますから、大丈夫です!」
「フォーク、一本しかないんだろ? 遠慮しないで一口食べてみろって」
「……トレイ先輩、こういうの気にしないんですね」
「ん? フォークのことか?」
「そ、そうです」
「今さら気にするような仲でもないだろ?」
何でもないことのように言われて、返す言葉に詰まった。
先輩が差し出したフォークに、そっと口をつける。
「……うん、ちゃんと美味しく出来てます」
「だろ? ハーツラビュルにスカウトしたいくらいだ」
「またまた〜」
「お世辞じゃないぞ?」
「……このくだり、さっきもやりましたね」
ふたりで顔を見合わせて、思わず小さく吹き出した。
隣に座る先輩は、フォークを持ったままどこか肩の力を抜いたように背もたれへ体を預けている。
ケーキの皿に目を落とす先輩の横顔を見て、放課後まで待っていた甲斐があったと、そっと息をついた。
「トレイ先輩」
「ん?」
「いつも、ありがとうございます」
「急にどうしたんだ?」
「いえ……トレイ先輩って、自分のためには滅多に作らないじゃないですか。だから、今日は先輩のためだけに作ったケーキを食べてもらいたかったんです」
先輩はフォークを動かす手を止め、ふっと目を細めて私を見た。
それから少しだけ眉を下げ、困ったように小さく息を吐き出す。
「みんな知ってますよ。トレイ先輩がどれだけ周りを見てくれてるか」
「……まあ、副寮長の性分みたいなもんだからな。苦にはなってないさ」
「でも、たまには休んでくださいね。私が言うのもおこがましいですけど」
そう言って笑ってみせると、トレイ先輩はベンチの背もたれに深く体を預けた。
眼鏡を少し持ち上げ、指先で目元をぐっと押さえる。
「……お前には勝てないな」
低く漏らした声にはいつもの副寮長らしい張りがあまりなくて、思わず隣で息を呑んだ。
眼鏡をかけ直した先輩と、正面から目が合う。
「……なあ、■■■」
「はい?」
「また、こうやってケーキを焼いてくれないか」
唐突に投げかけられた言葉に、どう返事をしていいか分からず言葉が詰まる。
「俺は、お前の作ったケーキの味がすごく好きみたいだ」
さらりと言われて、頬が一気に熱くなった。
誤魔化すように下を向こうとしたけれど、風で乱れた前髪が目元にかかる。
「私でいいんですか? もっと上手な人なんてたくさんいるのに」
「そういう話をしてるんじゃないんだがな」
「……え?」
「お前がいいんだよ」
先輩は静かに手を伸ばすと、風に乱れた私の髪をそっと耳の後ろへ流した。
触れた指先が一瞬だけ耳たぶに掠れて、思わず肩が跳ねる。
「約束、してもらえるか?」
「……はい。約束です」
返事をすると、先輩は満足そうに笑った。
残ったケーキを交互に口へ運び、皿を片付ける頃には、空はすっかり濃い群青色に沈んでいた。
風はさっきより冷たくなっていたけれど、隣を歩く先輩のそばでは、ケーキの甘い香りがまだほんのりと感じられた。
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