名前のない距離
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約束の当日は、あの大雨の日が嘘だったかのように澄み渡る秋晴れだった。
電車に揺られて着いたのは、潮の香りがかすかに漂う海の近い街。
駅から続く賑やかな商店街で焼き立ての海鮮を買い食いしたり、細い路地に入って古びた雑貨屋を覗いたりと、あちこち歩き回るうちにすっかり陽が傾き始めていた。
「結構歩いたな。足、平気?」
「うん、大丈夫。すごく楽しかった」
「リベンジ大成功だな」
エースは満足そうに笑うと、沿道にあった少し急な坂道を指さした。
「この先、海が見える高台の公園があるらしいぜ」
「行きたい!」
「ちょっと寄ってくか」
「うん」
坂道を上りきると、パッと視界が開けた。
夕日に染まった海面が、風に揺れるたびに細かく光を弾いている。
◇
海を見渡せる木製のベンチを見つけ、二人で並んで腰を下ろした。
少し離れた場所から、波が寄せては返す静かな音が響いてくる。
エースは膝の上に肘をつき、風に髪を揺らしながらじっと水平線を見つめていた。
傾いた陽の光が、彼の横顔の輪郭にそって淡く差し込んでいる。
「……なぁ」
「ん?」
「あの日さ」
ふと思い出したように、エースがポツリと呟いた。
「あの雨の日、電車の運転見合わせになってさ。部屋に泊めたじゃん」
「……うん」
ドクンと胸が跳ね上がる。
あの夜の部屋の静けさや、借りたTシャツの大きさ、二人で並んで飲んだコーヒーの温もりが、ふいに鮮明さを増して蘇ってきた。
「オレさ、あの時どんな顔してた?」
「いつも通りだと思ったけど……」
「そっかー」
「急にどうしたの」
「正直さ、結構嬉しかったんだよね」
「え……?」
思いがけない言葉に、思わずエースの顔を凝視してしまう。
エースは海から目を離さないまま、首の後ろを手で触った。
言葉を選ぶように、ぽつりぽつりと続けていく。
「……なんか、こういうのも悪くねーなって思ったっつーか」
「……」
「今日さ、リベンジとか言い訳作ってダサかったよな」
風にかき消されそうなくらい小さな声だったのに、その声はしっかりと耳に残った。
「……言い訳なんて思ってないし、誘ってくれたの嬉しかったよ」
「オレがどれだけカッコつけて誘う口実考えてたと思ってんの?」
エースは照れくさそうに笑うと、ようやくこちらに顔を向けた。
目元がわずかに緩んで、視線がまっすぐぶつかる。
「じゃあさ、次からは理由なしで誘っても断らねーの?」
「今までだってそうだったじゃん」
「……お前さ、たまにサラッとそういうこと言うよな」
エースは呆れたように息を吐いたけれど、耳の先端はあからさまに赤くなっていた。
気まずそうに咳払いをしてから、ベンチに置かれていた私の手に自分の手をそっと重ねてくる。
繋いだ手から温もりが広がっていく。
波の音だけが、いつまでも静かに寄せては返していた。