燻んだ心を重ねて
酷い土砂降りで、雨粒が地面を叩く音が耳障りだ。いや、こんな些細なことでイラつくのは、全部俺の体調のせいだが。ものすごく身体が重たい。身体がバラバラになって自分の意思から離れていく感覚がある。左腕は動くが、もう触覚はなかった。近いうちに、また眠ってしまうだろう。眠るのは嫌だ。……正確には、俺が眠った後のことを想像するのが嫌だ。俺が戦えないことで誰か拐われるのが嫌だ。ルチルが取り憑かれたように、俺のパズルに没頭するのが嫌だ。みんなが俺を頼りに相談に来るのに、なにも答えられないのが嫌だ。……本当はきっと、全部煩わしい。俺は誰のために生きているんだ。命を諦めてしまいたかった。中途半端に役立って、過剰に期待されて、僅かな刹那だけを生きる。虚しかった。眠る時間が長くなり、起きてる時間が短くなっている。目覚めるたびに絶望する。また体調が悪くなっていくのを味わうのだと。眠るたびに安心する。もう考えることすら許されずに休めると。……身体が重い。気分も擦り減って憂鬱になる。こんな暗い思考もそのせいなんだ。逃げ出したい。でも誰にも話すことなんて出来なくて、せめて誰かの思考を取り入れれば楽になれるのではと、図書室にやってきた。本棚を物色する。なるべく古い物がいい。俺が知らないような、いつかの誰かの本がいい。やがて、本棚の中段、一番端の本が目に止まる。タイトルはない。だいぶ傷んでいて、なんとか読める状態だった。俺は身体を引きずって、窓際に座った。雨はまだ止まない。俺はページをめくった。
『生きるということは、何故こんなにも苦しいのだろう。ありもしない私への悪口が、頭の中で鳴り止まない』
どうやらこの本は、誰かの日記らしかった。精神が弱かったらしく、医者に日記をつけるよう勧められたらしい。綴られた言葉は、どれも重く暗く、苦悩が読み取れた。しかし、読んでいて不思議と辛くはなく、俺は引き込まれるように読み耽った。本の彼は、消えたいと思うほど追い詰められていた。けれど、それ以上に強く、生きたいと願ったのだと思う。冷たくて鋭い言葉の端々に、希望のような温もりのある言葉があるのだ。
『誰も彼も嫌いだ。私より強いから嫌いだ。私より優しいから嫌いだ。私も、みんなみたいになれたらいいのに』
この子は諦めなかった。酷く不器用で、繊細で、傷だらけになりながら、それでも生きた。そのことが強く、俺の胸を打った。
『いなくなりたいよ。違う、本当は誰よりもここにいたいよ』
彼の包み隠さない文章が、なによりも美しく感じられた。こんな本は初めてだった。そっと、俺の心に寄り添って、孤独も不安も溶かしてくれた。もうここにはいないのに、彼と生きたいと、そう思わせてくれた。彼に会いたい。僅かな望みを持って、俺はラピスに作者を訊ねた。
「ん? その本の作者? どれ……随分古い本を持ってきたねぇ」
ラピスラズリはパラパラと本をめくり、やがて顔を上げて言った。こんなに期待に胸が膨らんだのは、いつぶりだろうか。
「ーーーーが書いたと、前任者から聞いてるよ。随分前に月へ行った奴だ」
そうか、そんな名前だったんだな。こんにちは、はじめまして。君に俺は救われたよ。もう少しだけ、ちゃんと生きようと思えたよ。いつか、会うことが出来たら。そんな淡い希望も持てた。本当にありがとう。いつのまにか雨は止んで、陽の光が窓から差していた。美味しい。光を食べながら、少し軽くなった身体で、俺は歩いた。迫り来る眠気も、いつか訪れる再起も、今は怖くなかった。
全てが終わって、本当に平和な一万年が訪れた。俺はいつか読んだあの日記を思い出していた。繰り返し眠るうちに、いつしか肝心の名前を忘れてしまった。ラピスラズリに訊ねようにも、彼はもういない。あの後、図書室に通って他にも日記を見つけて読んだ。どれも俺には素晴らしかった。でも、彼の言葉も、俺は無駄にしてしまった気がして、この平和の中で俺は憂鬱だった。平和だ。あまりにも平和で、この上ない結末だ。でも、後味の悪さだけが俺の中に残る。ルチルの診療所の屋根の上、俺はやる気なく寝そべりながら惰眠を貪る。ルチルの診察する声が遠くで聞こえる。
「次、えっと……ルテノイリドスミンさん」
長くややこしい名前。ルチルの声に、ラピスの声が重なって聞こえた。そうだ、君の名前は。
「ルテノでいいですよ……」
元気のない声。ここに来るということは、どこか具合が悪いのだろうか? 君の姿を一目見たくて、屋根から降りて中を窺う。ルチルの背中越しに、初めて君を見た。暗い表情で、気弱そうな子がそこにいた。ルチルとあれこれ話した後、背中を丸めて部屋を出ていく。
「……急に降りてきたと思ったら、どうしたんです? あの子のこと、知ってるんですか?」
「バレてたか」
ルチルが問い詰める視線を向ける。こういう時のルチルは苦手だ。なんと言おうか。視線を泳がせていたら、ルチルは追い討ちをかける。
「そんなにやる気を見せる貴方は久々です。出来れば、主治医として理由が知りたいのですが」
「…………恋人。会ったのは、今日が初めてだ」
そう答えれば、ルチルは目を丸くした。
「貴方、そんなロマン主義の夢見ちゃんでしたっけ……」
「本気だよ、これでも」
自分でも何を言ってるんだとは思ったが、気持ちに嘘は吐けないし。呆れるルチルを尻目に、俺は久々に頭を回転させていた。望んだ再会は叶えられた。ここから、どうする。君を俺の隣に結びつける道筋を、あれやこれや組み立てていた。
『生きるということは、何故こんなにも苦しいのだろう。ありもしない私への悪口が、頭の中で鳴り止まない』
どうやらこの本は、誰かの日記らしかった。精神が弱かったらしく、医者に日記をつけるよう勧められたらしい。綴られた言葉は、どれも重く暗く、苦悩が読み取れた。しかし、読んでいて不思議と辛くはなく、俺は引き込まれるように読み耽った。本の彼は、消えたいと思うほど追い詰められていた。けれど、それ以上に強く、生きたいと願ったのだと思う。冷たくて鋭い言葉の端々に、希望のような温もりのある言葉があるのだ。
『誰も彼も嫌いだ。私より強いから嫌いだ。私より優しいから嫌いだ。私も、みんなみたいになれたらいいのに』
この子は諦めなかった。酷く不器用で、繊細で、傷だらけになりながら、それでも生きた。そのことが強く、俺の胸を打った。
『いなくなりたいよ。違う、本当は誰よりもここにいたいよ』
彼の包み隠さない文章が、なによりも美しく感じられた。こんな本は初めてだった。そっと、俺の心に寄り添って、孤独も不安も溶かしてくれた。もうここにはいないのに、彼と生きたいと、そう思わせてくれた。彼に会いたい。僅かな望みを持って、俺はラピスに作者を訊ねた。
「ん? その本の作者? どれ……随分古い本を持ってきたねぇ」
ラピスラズリはパラパラと本をめくり、やがて顔を上げて言った。こんなに期待に胸が膨らんだのは、いつぶりだろうか。
「ーーーーが書いたと、前任者から聞いてるよ。随分前に月へ行った奴だ」
そうか、そんな名前だったんだな。こんにちは、はじめまして。君に俺は救われたよ。もう少しだけ、ちゃんと生きようと思えたよ。いつか、会うことが出来たら。そんな淡い希望も持てた。本当にありがとう。いつのまにか雨は止んで、陽の光が窓から差していた。美味しい。光を食べながら、少し軽くなった身体で、俺は歩いた。迫り来る眠気も、いつか訪れる再起も、今は怖くなかった。
全てが終わって、本当に平和な一万年が訪れた。俺はいつか読んだあの日記を思い出していた。繰り返し眠るうちに、いつしか肝心の名前を忘れてしまった。ラピスラズリに訊ねようにも、彼はもういない。あの後、図書室に通って他にも日記を見つけて読んだ。どれも俺には素晴らしかった。でも、彼の言葉も、俺は無駄にしてしまった気がして、この平和の中で俺は憂鬱だった。平和だ。あまりにも平和で、この上ない結末だ。でも、後味の悪さだけが俺の中に残る。ルチルの診療所の屋根の上、俺はやる気なく寝そべりながら惰眠を貪る。ルチルの診察する声が遠くで聞こえる。
「次、えっと……ルテノイリドスミンさん」
長くややこしい名前。ルチルの声に、ラピスの声が重なって聞こえた。そうだ、君の名前は。
「ルテノでいいですよ……」
元気のない声。ここに来るということは、どこか具合が悪いのだろうか? 君の姿を一目見たくて、屋根から降りて中を窺う。ルチルの背中越しに、初めて君を見た。暗い表情で、気弱そうな子がそこにいた。ルチルとあれこれ話した後、背中を丸めて部屋を出ていく。
「……急に降りてきたと思ったら、どうしたんです? あの子のこと、知ってるんですか?」
「バレてたか」
ルチルが問い詰める視線を向ける。こういう時のルチルは苦手だ。なんと言おうか。視線を泳がせていたら、ルチルは追い討ちをかける。
「そんなにやる気を見せる貴方は久々です。出来れば、主治医として理由が知りたいのですが」
「…………恋人。会ったのは、今日が初めてだ」
そう答えれば、ルチルは目を丸くした。
「貴方、そんなロマン主義の夢見ちゃんでしたっけ……」
「本気だよ、これでも」
自分でも何を言ってるんだとは思ったが、気持ちに嘘は吐けないし。呆れるルチルを尻目に、俺は久々に頭を回転させていた。望んだ再会は叶えられた。ここから、どうする。君を俺の隣に結びつける道筋を、あれやこれや組み立てていた。
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