愛妻家スネイプ先生シリーズ
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梅雨特有の重苦しい低気圧のせいか、それとも大好きな夫が職場へと戻ってしまった寂しさのせいか。
週末の休みが明け、セブルスがホグワーツへ帰ってしまった月曜日の朝、私の体は鉛のように重かった。
(……きっとまたすぐに土曜日がやって来るわ)
心の奥に居座る寂しさを無理やり振り払うようにそう呟き、私は最近始めたばかりのケーキ屋さんのパートへと向かった。
仕事中は何とかいつも通りに体を動かせたものの、気が張っていただけだったのだろう。帰宅した途端にどっと疲労感が押し寄せ、まともに力が入らなくなってしまった。
一人きりの静かな部屋で、夜ご飯を何にしようかと考えても、食欲があまり湧かず、考えることすら面倒だ。心なしか、体もなんだか熱い気がする。
嫌な予感がして引き出しから体温計を取り出し、脇に挟んでしばらく待つと、電子音が案の定微熱を告げた。
「またか……」
自分の体たらくに、思わず深い溜息が漏れる。
今年に入ってからというもの、まるで免疫力が底を突いてしまったかのように何度も風邪を繰り返していた。つい最近もしつこい風邪からようやく回復したばかりだというのに、あまりの自分の虚弱さにほとほと嫌気が差してしまう。
私は仕方なく、冷凍庫に買い置きしてあったグラタンを温めて簡単に夕食を済ませると、お風呂にゆっくりと浸かってしっかりと体を温めた。幸い、こないだ病院でもらった薬の残りがまだ手元にある。それを飲んで、今夜はもう早めにベッドに入ることにした。
しょっちゅう体調を崩すのは情けない限りだが、症状が軽いうちに対処すれば、あまりこじらせずに済むことも多いのだ。
もはや「風邪のプロ」を自称する私は、日頃から家の棚に常備薬やのど飴、スポーツドリンクなんかの風邪セットをストックしていた。
次のパートのシフトは二日後だ。それまでに意地でも治さなければと、枕元に置いたコップからいつもより多めに水分を摂っていると、タイミングを見計らったようにセブルスからの電話が鳴った。
ホグワーツの先生という職務の都合上、平日はどうしても離れて暮らさざるを得ないが、彼は毎晩こうして律儀に遠方の妻を気遣って連絡をくれる。
受話器から聞こえる低い愛しい声に耳を傾けながら、私は今日パートの職場で起きた他愛のない出来事を話し、早くまた会いたいと素直に甘えてみせた。
けれど、自分がまた体調を崩していることは口にしなかった。そんなことを言えば、あの極端に心配性な夫のことだ。
すべてを放り出して、今すぐすっ飛んで帰ってきてしまうに違いない。
まだ月曜日が始まったばかりなのだ。
ホグワーツで山のような業務を抱えているであろうセブルスに、これ以上余計な負担や心労をかけたくはなかった。
「じゃあ、おやすみなさい。また明日ね」
「ああ、おやすみ。無理はしないように」
通話を終えてからも、彼の温かな声の余韻で胸がいっぱいになり、自然と口角が上がってしまう。幸福感に包まれながら、私は深い眠りへと落ちていった。
◇
激しい雨音と、遠くで響く雷の音で目を覚ましたのは、夜中をとうに過ぎた頃だった。
意識が覚醒するにつれ、自分の身体が明らかな異変を起こしていることに気がつく。
全身が凄まじい悪寒に襲われている。
息をするだけで肺の奥がじりじりと重く、口の中はカラカラに乾いている。
パジャマは嫌な汗でじっとりと肌に張り付き、寝返りを打つと湿った髪が頬にまとわりついた。
どうやら眠っている間に、熱が本格的に跳ね上がってしまったらしい。
「……っ、はあ……」
乾いた唇から漏れる呼吸が熱い。
まずは体温を確認しようとサイドテーブルの体温計へ手を伸ばしたが、変なところに手が当たって、体温計は無情にも床へと落ちてしまった。
まあ、わざわざ拾って測り直さなくとも、高熱があるのは燃えるような体の熱さで分かる。これは確実に38度台の後半か下手をすれば39度を超えている。
体温はともかく、とにかく水分と体を冷やすものがないと死んでしまう気がして、私は朦朧とする意識のなか、必死になって冷蔵庫にあるスポーツドリンクのボトルを思い浮かべた。
(アクシオ……アクシオ……!)
杖を持たない手の手のひらを向け、心の中で必死に呼びかける。けれど、健康な時でさえ成功率の低い無言呪文が、高熱のときに成功するはずもなかった。何度試みても部屋の空気は微動だにせず、私は絶望感と共に力なくシーツに顔をうずめた。
こんな時に、セブルスが隣にいてくれたら。
そんな甘えた考えが頭をよぎり、すぐに激しい自己嫌悪が押し寄せる。
彼は今、ホグワーツで一生懸命働いているのだ。
たかが発熱くらいで子供みたいにこれ以上彼を頼るわけにはいかない。パートだって、渋る顔をするセブルスを説得して「無理をしない範囲」でという条件で始めたのに、初っ端からこれでは説得力がなさすぎる。
……一人でも大丈夫。
いくら辛くたって、ただの風邪だ。
解熱剤を飲んで寝ていれば、いつか嵐は過ぎるだろう。
これくらい耐えられなくて、この先どうするというのだ。
そう自分に言い聞かせ、ふらつく身体を叱咤してベッドから這い出そうとした。しかし、床に足をつけた瞬間に膝の力が完全に抜け、視界がぐにゃりと大きく歪んで、そのまま床へと崩れ落ちてしまう。
「っ、く……」
必死にベッドに手をかけようとするが、ガタガタと指先が震えて力が入らない。リビングの冷蔵庫まではほんの数メートルの距離なのに、それがまるで何キロメートルも先にあるように思えて、目の前が暗くなっていく。
(誰か助けて……)
心細さに押し潰されそうになり、涙がこぼれ落ちた、その瞬間だった。
バタン、と静寂を切り裂くように、玄関の扉が勢いよく開け放たれる音が響いた。続いて、廊下を急ぎ足でこちらへと駆けてくる、聞き間違えるはずのない確かな足音が近づいてくる。
「オリーブ!!」
それは普段の彼からは想像もつかないほど切羽詰まった、取り乱した声だった。
次の瞬間には、黒のローブの裾が視界に飛び込んでくる。
「……セブルス……?」
夢か幻覚かと思いながら見上げると、そこには息を切らせた本物の私の夫がいた。彼の姿を認めた途端、張り詰めていた糸が切れ、堰を切ったように涙があふれ出す。
セブルスはすぐさま床に膝をつくと、私の体を抱き起こした。
私の首筋に触れた彼の長い指先が、驚いたようにぴたりと止まる。その直後、彼の端正な顔が怒りで険しく歪んだ。
「酷い熱ではないか……なぜすぐに私を呼ばなかった!!」
「ごめんなさい……迷惑かけたくなくて……どうして……」
「電話した時、なんだか具合の悪そうな声をしていた……嫌な予感がして来てみればこれだ……まったく君はいつも無理をする。どうして人を頼らない!」
「だって……セブルスはお仕事が……」
「そんなものどうにだってなる!」
弱々しく言い訳をする私を、セブルスは怒りのこもった瞳で見つめた。彼は私を軽々と横抱きにすると、そのまま乱れたベッドへと素早く横たえた。
乱雑に冷蔵庫が開く音がしたかと思うと、すぐに頭の下と首筋にタオルに包まれた保冷剤が当てられて、生き返るような心地がした。目を閉じて深く息を吐く。
ペットボトルのキャップが開く音がすると、セブルスは私の背中を優しく起こした。
「解熱剤はまだ飲んでいないな?」
「……うん」
「飲めそうか?」
「だいじょうぶ……」
セブルスが口に入れてくれた小さくて苦みのある粒をスポーツドリンクで嚥下する。甘くて冷たい液体は火照った身体に染み渡るように心地良く、私は半分を一気に飲み干した。
そんな私の様子を、セブルスは何も言わずにじっと見守っている。その視線の優しさに胸が熱くなり、駆けつけてくれた嬉しさと申し訳なさでまた涙が込み上げてきた。
「ごめんなさい……セブルス……もう帰って大丈夫だから……」
ベッドにまた沈み込み、熱に浮かされた頭でそう言うと、セブルスは眉間の皺を一層深くした。
「こんな状態の君を置いていくとでも?」
セブルスは信じられないという表情を浮かべる。
私だって本当は側に居てほしい。でも、ホグワーツに一人しかいない魔法薬学の先生が欠けたら、各所に影響が出るのを私は嫌というほど知っている。
「迷惑かけたくないの……」
熱に浮かされた頭のままそう呟くと、セブルスは深々と息を吐いた。
そのあまりにも呆れたような反応に、私は思わず肩を縮こまらせる。
「君は一体何度言えば分かってくれるんだ」
セブルスはずり落ちた保冷剤の位置を直しながら、じろりと私を睨んだ。
「学校のことはどうとでもなる。代わりの教員などいくらでもいる。……だが、妻を守れるのは私しかいないだろう。違うか?」
大きな掌で私の手をぎゅっと包み込みながら、まっすぐと私を射抜く視線。私はその眼差しの強さに、思わず目を逸らした。
恥ずかしいけれど本当にセブルスの言うとおりだ。
心配をかけまいとした私の独りよがりな行動が、かえって彼をこんなにも辛そうな顔にさせてしまっている。
「君に何かあったらと思うと、頭がおかしくなりそうになる。……頼むから一人で抱え込まないでくれ」
震える声で私を抱き締めるセブルスに、私もそっと腕を回した。
「ごめんなさい……次はちゃんと頼るから」
「……分かってくれればそれでいい」
小さく告げると、セブルスはようやく満足したように安堵の息を漏らした。
「病人に長々説教するつもりはない」
セブルスはゆっくりと身体を離すと、もう一度私の毛布を丁寧にかけ直した。
「もう寝なさい。……大丈夫だ、朝には戻る」
私の不安げな顔を察したのだろう。セブルスは張り詰めていた表情を和らげると、愛おしげに目を細めて私のおでこにそっと深い口づけを落とした。
そして、小さな子供を寝かしつけるように、私の頭をゆっくりと撫で始める。
彼の大きな、少し節くれ立った手が髪を梳いていく。
解熱剤はまだ効いていないはずなのに、不思議と熱が引いていくような心地よさがあった。
規則正しい手の動きにうっとりと目を閉じているうちに、私の意識はゆっくりと、深い眠りの底へ沈んでいった。
◇
翌朝、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で目を覚ました。
まだ少し気怠さは残っているものの、薬がよく効いたのか、昨夜の嵐のような苦しさが嘘のように引いている。
とりあえず解熱してよかった、と上体を起こしかけて、私はベッドの脇の光景を見て思わず息を呑んだ。
朝にはホグワーツへ戻ると言っていたセブルスが、ベッドの縁にもたれかかるようにして、器用に眠っていたのだ。
私のわずかな動きを察知したのか、彼はすぐに長いまつ毛を揺らし、黒い瞳を開いた。
「……オリーブ起きたのか? 熱はどうだ」
「セ、セブルス! どうしてここに……朝には戻るって言ってたじゃない!」
驚きと焦りのあまり声を裏返らせる私を見て、彼は少し疲れた様子でぶっきらぼうに言った。
「今日は有休を取った。朝食を取ったら病院へ行くぞ」
「有休って……! あなた、またマクゴナガル先生に怒られちゃうわよ!? 」
「だからなんだというんだ。有休は労働者の権利だ」
「〜っ! それはそうかもしれないけれど……!」
平然と言ってのける夫に私は呆れつつも、胸の奥がじんわりと愛おしさで満たされていくのを隠せなかった。
◇
一方その頃、朝の陽光が差し込むホグワーツの職員室では、朝礼の開始時刻があと数分に迫っているというのに、特定の教員席が一つ空席のままになっていた。
教員達に配るための資料をトントンと机に打ち付けてまとめながら、マクゴナガル教授は厳しい視線で室内を見渡す。
「……スネイプ先生がまだ来ていませんね。スリザリン寮で何かトラブルでもあったのかしら?」
「いや、セブルスなら今日は有給休暇を取ると、昨晩遅くに連絡があった」
始業を告げる鐘の音と同時に職員室へと入ってきたダンブルドア校長は、何が楽しいのか、目の奥を妙に悪戯っぽく輝かせながら言った。
「有給休暇? またですか?」
マクゴナガル教授が信じられないといった風に眉をひそめる。
「おやおや、また奥方の件かね、ダンブルドア?」
「そうじゃよ、フィリウス。セブルスは実に献身的でのう。人は変わるものじゃのう」
尋ねたフリットウィック教授は、事の真相を察して快活に声を上げて笑った。
「いくら家庭の事情とはいえ、結婚してからというもの些か頻度が高すぎますよ、アルバス。いい加減、彼がいつ突発的に休んでもいいように、別の教師を雇うことを真剣に検討なさってはいかがですか?」
苦虫を噛み潰したような顔で授業への影響を懸念するマクゴナガル教授を余所に、ダンブルドアはローブのポケットからキャンディを取り出しながら、満足そうに髭を揺らした。
「ふぉっふぉっ……まあ、そう堅いことを言いなさんな。愛じゃからのう、ミネルバ」