旬四季SSログ01
部屋の雰囲気というものは、その場にいる人の表情で変わる。伝播力の高い人物であればその影響も殊更に大きい。旬はその事実を、曇り空のように沈んだ空気によって実感していた。
「うぐ……う、うう……」
右斜め前、胸を机に預けた姿で四季が呻く。低く潰れたそれが木霊する度に、室内の濁りが深みを増していった。口にしたらその渋味で顔を顰めてしまいそうな気がして、呼吸の一つすら躊躇われる。酷く息の詰まる部室は、今までで一番居心地が悪かった。
「四季くん、うるさいです」
「あっ、ごめんなさいっす……」
「それって小説ですよね。仕事関係ですか?」
「いや、これはプライベートっす」
「え……四季くんが、プライベートで小説を……?」
「あー、何すかその顔! オレはマジっすよ!」
四季が手にしているのは、先日旬が読み終えたミステリー小説。内容を思い返すが、決して四季の食指が動くようなものではない。むしろ例に漏れず睡眠導入剤になる未来しか浮かばなかった。だというのに、彼は自ら率先してその本を読もうとしているらしい。
しかし小説──というよりは、文章そのものを読むことが不得手な四季は案の定躓いているようだ。この状況になってからかれこれ一時間が経過しているが、四季の右手で抑えられた紙束はたった数ページしかなかった。
「そんなに苦しむくらいならやめた方が良いと思いますが……仕事に関係ないのなら、中断しても影響はないでしょう?」
「どうしても読みたいんすよー! でも言葉が難しくて意味わかんないし、習ってない漢字がポコポコ出てきて全然読めない! もうお手上げっすよ〜!」
「必要がないのにどうしてそこまで……」
「だってジュンっち、本好きでしょ?」
「……はい?」
四季の言葉に、旬は呆けた声を零した。彼が小説を読むことと、自分の嗜好。一体それらにどんな因果があるというのか。ちぐはぐな内容は、今四季を唸らせている本よりずっと難解だ。もしもこれを書籍にしようとしたら、編集からどれだけの修正指示が飛ぶのだろう。一章丸々飛ばしたような理由の開示に、旬は苦い顔をした。しかし四季の中では繋がる話。彼は謎解きでもするように、滔々と言葉を綴り始めた。
「ぶっちゃけさ、ジュンっちにとってのオレって仲良しさんに入らないでしょ。でもオレはジュンっちと仲良くなりたい。だからその一歩的な感じで、ジュンっちが面白いって言ってたこれを読もう……って、思った、んすけど……」
「想像以上に集中できなかった、と」
「ジュンっちがメガメガスゲーってことは理解できたっす!」
「それは本の感想にはなりませんね。それに君がそれを読めたとして、僕との仲にどう影響すると言うんですか」
「え? 好きなものが一緒だったら仲良くならないっすか?」
「はぁ? そんな訳ないでしょう」
「えーっ⁉︎ ウッソでしょ⁉︎」
受けた衝撃があまりに大きかったのか、四季は椅子を転がすほどの勢いで立ち上がる。そして床とぶつかったパイプ椅子が上げた悲鳴が、室内に大きく反響した。
何をそんなに驚くことがあるというのか。例え共通のものを好んでいても、わかり合えない人間とはとことん合わないものだ。しかし四季にとってはそうではないのか、あるいは無知なだけなのか。とにかく理解さえできれば友好を深められると考えているらしい。その浅はかさが、旬の神経を逆撫でることにも気付かずに。
「てかジュンっちが好きだって思うなら悪いもののはずがないんすよ! この本だってハイパー面白いやつなんすよね⁉︎ オレがバカだからわかんないってだけで……」
「それが嗜好の相違なんでしょう。無理しなくて良いですよ」
「嫌っすー! オレもっとジュンっちのことを理解したいっす!」
「理解なんて不要です。あなたは一応担った役目を果たすことを優先してください」
「これもその『一応』を取るための努力っす! いいっすかジュンっち。ぜーったいに、オレを正式メンバーとして認めてもらうっすからね!」
四季は高らかに宣言し、同時に左腕を高く掲げる。胸元に収まる右の手は、まだ手にしていた本を強く掴んでいた。それはまるで、改めて決意を固めるような仕草。
「……そういう、ところが」
夢見る未来に爛々と煌めく瞳。上だけを見つめるそれの、なんて眩いことか。それが重たくて、苦しくて。だのに拒絶する気力すら失われる。
思わず漏れた言葉の続きが何であったのかは、旬本人にすらわからない。これ以上言葉を発することができなかった旬は、浅い溜め息を一つ吐く。
吸い込んだ空気は、未熟な青の味がした。
「うぐ……う、うう……」
右斜め前、胸を机に預けた姿で四季が呻く。低く潰れたそれが木霊する度に、室内の濁りが深みを増していった。口にしたらその渋味で顔を顰めてしまいそうな気がして、呼吸の一つすら躊躇われる。酷く息の詰まる部室は、今までで一番居心地が悪かった。
「四季くん、うるさいです」
「あっ、ごめんなさいっす……」
「それって小説ですよね。仕事関係ですか?」
「いや、これはプライベートっす」
「え……四季くんが、プライベートで小説を……?」
「あー、何すかその顔! オレはマジっすよ!」
四季が手にしているのは、先日旬が読み終えたミステリー小説。内容を思い返すが、決して四季の食指が動くようなものではない。むしろ例に漏れず睡眠導入剤になる未来しか浮かばなかった。だというのに、彼は自ら率先してその本を読もうとしているらしい。
しかし小説──というよりは、文章そのものを読むことが不得手な四季は案の定躓いているようだ。この状況になってからかれこれ一時間が経過しているが、四季の右手で抑えられた紙束はたった数ページしかなかった。
「そんなに苦しむくらいならやめた方が良いと思いますが……仕事に関係ないのなら、中断しても影響はないでしょう?」
「どうしても読みたいんすよー! でも言葉が難しくて意味わかんないし、習ってない漢字がポコポコ出てきて全然読めない! もうお手上げっすよ〜!」
「必要がないのにどうしてそこまで……」
「だってジュンっち、本好きでしょ?」
「……はい?」
四季の言葉に、旬は呆けた声を零した。彼が小説を読むことと、自分の嗜好。一体それらにどんな因果があるというのか。ちぐはぐな内容は、今四季を唸らせている本よりずっと難解だ。もしもこれを書籍にしようとしたら、編集からどれだけの修正指示が飛ぶのだろう。一章丸々飛ばしたような理由の開示に、旬は苦い顔をした。しかし四季の中では繋がる話。彼は謎解きでもするように、滔々と言葉を綴り始めた。
「ぶっちゃけさ、ジュンっちにとってのオレって仲良しさんに入らないでしょ。でもオレはジュンっちと仲良くなりたい。だからその一歩的な感じで、ジュンっちが面白いって言ってたこれを読もう……って、思った、んすけど……」
「想像以上に集中できなかった、と」
「ジュンっちがメガメガスゲーってことは理解できたっす!」
「それは本の感想にはなりませんね。それに君がそれを読めたとして、僕との仲にどう影響すると言うんですか」
「え? 好きなものが一緒だったら仲良くならないっすか?」
「はぁ? そんな訳ないでしょう」
「えーっ⁉︎ ウッソでしょ⁉︎」
受けた衝撃があまりに大きかったのか、四季は椅子を転がすほどの勢いで立ち上がる。そして床とぶつかったパイプ椅子が上げた悲鳴が、室内に大きく反響した。
何をそんなに驚くことがあるというのか。例え共通のものを好んでいても、わかり合えない人間とはとことん合わないものだ。しかし四季にとってはそうではないのか、あるいは無知なだけなのか。とにかく理解さえできれば友好を深められると考えているらしい。その浅はかさが、旬の神経を逆撫でることにも気付かずに。
「てかジュンっちが好きだって思うなら悪いもののはずがないんすよ! この本だってハイパー面白いやつなんすよね⁉︎ オレがバカだからわかんないってだけで……」
「それが嗜好の相違なんでしょう。無理しなくて良いですよ」
「嫌っすー! オレもっとジュンっちのことを理解したいっす!」
「理解なんて不要です。あなたは一応担った役目を果たすことを優先してください」
「これもその『一応』を取るための努力っす! いいっすかジュンっち。ぜーったいに、オレを正式メンバーとして認めてもらうっすからね!」
四季は高らかに宣言し、同時に左腕を高く掲げる。胸元に収まる右の手は、まだ手にしていた本を強く掴んでいた。それはまるで、改めて決意を固めるような仕草。
「……そういう、ところが」
夢見る未来に爛々と煌めく瞳。上だけを見つめるそれの、なんて眩いことか。それが重たくて、苦しくて。だのに拒絶する気力すら失われる。
思わず漏れた言葉の続きが何であったのかは、旬本人にすらわからない。これ以上言葉を発することができなかった旬は、浅い溜め息を一つ吐く。
吸い込んだ空気は、未熟な青の味がした。