旬四季SSログ01

 うつら、うつら、船を漕ぐ。櫂を握るその人は、ひどく疲れた顔をしていた。心なしか顔色も芳しくなく、目の下には、明らか影では言い訳のつかぬ青黒い楕円が佇んでいる。既に何度ずれたかわからぬ首が再び前に零れた時、それを見つめる者が溜め息を吐いた。
「ジュンっち、もう寝るっすよ」
「ん……あと、ここだけ……」
「それは一時間前にも聞いたっす。やりたい気持ちはわかるけど、そろそろ寝ないとマジでヤバいっすよ」
「でも、本当に、ここだけなんです……」
「ゴージョーもほどほどにして。オレの言うこと、聞くんでしょ」
「う……」
 ──僕が無理をしそうになったら、ビンタをしてでも止めてください。
 つい三週間前、たった今我が儘を重ねたのと同じ口で願われた言葉。自己分析が上手い旬は、その頃から現状を予見していたのだろう。多忙の隙間を縫って進めていた新曲の制作を、何としても今日までに終えたい。隼人と会えるのは二日後で、その間に曲作りに時間を割けるのは今だけ。でもその窮地で冷静さを失わない保証はないから、隣で監視してくれないか。そう依頼されて四季は冬美邸を訪れたが、事態は彼が想像していたより混迷を極めていた。
 作曲の調子が悪いのだろうかと譜面を伺えば、むしろ調子はよく、何なら筆も乗り過ぎているほどだった。しかしそれがかえって旬を蝕む。フレーズが溢れて止まれないのだと、寝食を捨てて机に齧り付く様はまさしく狂気的。いよいよ心配になった四季は旬の肩を叩いたが、やはり今日の彼は駄々が酷い。いやいやと椅子に深く座り込む姿は、いっそ哀れにすら見えてきた。
「ほらほらほら。ジュンっちがくっつくのはこっちっすよー。ベッドふかふかっすよー」
「ああー……いやです……僕は、まだ……」
「ダメっす。今のジュンっち、アイドルってか、何なら人間がしていい顔じゃないっすもん」
「人間じゃ……なくなったら、睡眠も不要ですよね……」
「こら! そういう考えは不健全っすよ! めっ!」
「あはは、四季くんが怒ってるっすー……」
「はぁ……もう……」
 四季は無理やり旬の腕を掴み、彼をベッドへ引き摺る。ずるずると繊維が重みに擦れる音、そして床を背で這う感覚に、旬はけたけた笑う。なかなかの極限状態に陥った彼は、瑣末なことにすら頬が緩むらしい。酔いどれた人のような旬を何とかベッドに乗せた四季は、すぐさまシーツで彼を包む。
「はいっ! おねんねの時間っすよ」
「う……ベッド、つめたいです……」
「冷たくても寝て。少ししたら、ちゃんと起こしたげるから。ね?」
 久方ぶりに人を招いたベッドに温もりはなく、妙なテンションで熱を昂らせていた旬には刺激だったよう。どうかその緊張を解いて、自分を労ってほしい。そう願いながら、四季は胴体を一つ震わせる彼の頭を撫でつける。すると旬の眉からわずかに力が抜けた。丸々と愛らしい目の上に鎮座する、彼が持つ凛々しさを思わせるそれ。強い意思で吊るところも好ましい一面ではあるが、こうして本来の姿に戻る瞬間も心をくすぐる。とろんと融解していく様を愛しんでいると、旬がシーツを捲り上げた。
「四季くん。こっち、きてください」
「……入れって?」
「四季くんが添い寝してくれるなら、ちゃんと寝ます」
「えー……」
 寒いのだから仕方がない。これじゃあ安眠なんてできやしない。旬はつらつらと言葉を並べて、四季がこのシーツの間を埋めるのが最適であることを解説する。既に七割がた呆けているくせに、よく口が回る。四季は胸中でごちた。
 だが、恋人とベッドと、来いという台詞にはなかなかの破壊力がある。そんなもの、やられて勝てる者がいれば是非お目にかかりたい。四季のために空けられた空白を己の肢体で埋め込むと、旬は満足そうに笑った。
「いい景色ですね」
「もう。見てないで目閉じて。ジュンっちは寝るんすよ」
「そうですね……四季くん、おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい、ジュンっち」
 旬は四季を抱きながら、ゆっくりと瞼を下ろす。完全に閉じ切ってから数拍、穏やかな寝息が四季の頬を掠めた。ついさっきまでの暴挙が嘘に思えるほど、穏やかな吐息。完全に現世から離れ、夢の世界へこもった旬の寝顔をそっと撫でる。
「歌えるの、楽しみにしてるっすからね」
 だから今は、安らかに。まだ音を知らぬ言葉を込めて、瞼へ愛のワンフレーズを刻んだ。
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