Re:start

 この赤を、自分だけのものにしたい。
 本能がそう叫んだと同時に、僕は無意識に頷いていた。それを受けた彼の顔が華やいで、いつもは凛々しく釣り上がっている眉がとろりと溶ける。そしてさっきとは別の赤みを孕んだ目尻が滲んだのを見た瞬間、それの意味を考える間もなく、僕は激しい温もりに包まれた。
「うわっ! ちょ、四季く、痛い……!」
「ってことは、これって夢じゃない? 現実っすか⁉︎」
「なら、教えてあげましょうか……!」
「うっ! いててて、痛い! ガチ痛い! ほっぺ取れちゃうっす!」
 気づいた時には、僕の居場所は四季くんの腕の中。興奮気味に張った声が耳のすぐ近くで劈く。明快な不快感に襲われた僕が頭横の柔いものをつねり上げると、今度は悲痛な泣き声が響いた。そして直後、四季くんは後方に跳ねた。思い切り捻ってやったのだ。さぞ痛いだろうと彼を一瞥すると、左頬の中心に血が通った色が透けている。四季くんはそこを庇うようにさすっていた。
「うぅ……こんなの、出来たてのカレシに一番最初にやることじゃないっす……」
「? かれ、し……?」
「え、何でそこで引っかかるんすか。ジュンっち、さっき良いって言ったじゃないっすか」
「あ、まぁ……そう、ですね」
「っすよね? ならオレらは恋人同士……ってことじゃないんすか」
「こ……っ!」
 四季くんが放った言葉。それはあまりに衝撃的で、たまらず僕は仰け反った。
 片や愛を告白し、片やそれを受け入れる。そうして繋がった二者が恋人という称号を得て結ばれる。それは自然な流れだけれど、しかし僕と四季くんの間に交わされた会話にもそれが適用されるなんて夢にも思わなくて。でも四季くんは、そんな僕こそが信じられないといった様相を浮かべていた。
「今更『やっぱナシ』なんてナシっすよ! クーリングオフなんてやってないっすから! もう聞かなかったことになんて出来ないっすもん!」
「え、でもそんな、いきなり恋人同士なんて言われても……僕は一体、どうしたら……」
 及び腰な僕を引き留めるように、四季くんがはっきりと肩を掴む。でも、突然自分たちを示す名前が変わったからって急には適応出来ない。そんな器用さも賢さも──知恵すらも、僕は持ち合わせていないのだ。
 それでも。足の出し方がわからない僕を四季くんが諦めたことは、ただの一度も……ない。
「じゃあ……次のオフが重なる日に、オレとデートしてくれないっすか?」
 おずおずと、躊躇うような仕草を見せながら、四季くんの手が伸びてくる。僕を見つめる手の平は少し不安気だ。目線を上にずらすと、同じ顔をした四季くんが。
「オレも漫画とかドラマで見たくらいの知識しかないし……よくわかんないのは、オレもジュンっちと同じっすから。だから二人で一緒に、探すっすよ」
「二人で、一緒に……?」
「そう。そうやって、オレたちに合ったお付き合いを見つけよう?」
「お付き合いをするのは決定なんですね?」
「あ! クーリングオフは効かないっすよ!」
「しませんよ。まったく……わかりました。スケジュールが固まったら改めて話しましょう」
「……! はいっす!」
 言いながら、四季くんの手に自分のものを重ねる。すると緊張で強張っていた彼の顔が和らいで、夏の花のように爽やかで明るい笑顔を開かせた。その笑顔が、染み入るように心地良い。
 そうして僕は──僕たちは、人生初の『デート』に踏み切ることとなったのだ。

 ◆

 あの日から三ヶ月。短いような、長いような、そんなちぐはぐな感覚を覚える日々が過ぎた。今日はいよいよXデー……四季くんと、デートをする日だ。
 言葉自体は知っているけど、そもそもデートが如何なものかを僕は知らない。懇ろな関係の男女の逢い引きを指すという認識でいたから、今日僕が四季くんとするものがそう呼ばれることに違和感を覚える。同性との外出もそう呼ぶなら、放課後ハヤトと楽器屋に赴いたあれも、仕事の合間に春名さんとドーナツ屋に立ち寄ったそれもそう。ナツキに至っては、もう数え切れないほどデートをしたのではと思う。だけどハヤト曰く「俺たちとシキのは違うだろ!」とのこと。ハヤトには見えている差異が、どうしても僕の目には映らない。
 基本的なデートも、これから僕が行おうとしていることも、結局上辺を撫でることしかできないまま、ついにこの日が訪れてしまった。もう今の段階で無様を晒すことが決定しているのだ。四季くんには申し訳ないけど、デートとやらを目の前にした僕は既に気を落としている。重たい溜め息を吐いても、沈んだ心が浮くことはなかった。
「じゅーんーっち!」
「わっ!」
 気もそぞろになっていたその時、背後から背中をポンと叩かれる。振り向けば、ニコニコ笑う四季くんが立っていた。
「待ったっすか?」
「いえ……僕も今着いたところなので」
「そう? へへ……」
「何ですか。急に笑って、気持ち悪い……」
「今の会話、デートの定番だなって思って。何か照れるっすね」
 困ったような、でも実際は微塵も困ってなんかいない。そんな気の抜けた顔で四季くんは破顔する。頬にピンクを浮かべて、まるでくすぐったそうだ。そんな反応をされたら、こっちだって意識してしまう。さっきまでは何の変哲もない普通の会話だと思っていたやりとりが、無性に恥ずかしいことをしたような感覚を覚えて心がむず痒い。さっそく出だしからミスを犯したことが悔しくて四季くんを睨むけど、浮かれた彼がそれに気づくことはなかった。代わりに、紅潮した頬に馴染まず浮いている銀縁に目が行った。
「眼鏡、いつもと違います?」
「気づいたっすか⁉︎ そうなんすよ、今日のコーデに合わせてみたんす! イケてるっしょ?」
「ファッションのことはまだよくわかりませんが……まぁ、悪くはないんじゃないですか」
「やった、ジュンっちから褒められた!」
 つい険のある物言いをしても、四季くんは変わらずにこやかなまま。正面から彼を見られない僕に構わず、まっすぐな目で、僕を見る。
 ……あぁ。僕はいつも、この笑顔に甘やかされている。
「よしっ、じゃあさっそく行くっすよ」
「行き先決めてるんですか?」
「はいっす! ジュンっち、行こ!」
 白い歯を露出した爽やか。それは到底直視できない。
 ……それはきっと、日照りの激しい空を彼が背負っているからだ。

   ◆

「ここは……」
「最近見つけたんすよ。どうっすか、オレイチオシの穴場は?」
 四季くんに連れられて辿り着いた先。そこはたくさんの低木によって、街から隔離されたような空間。人が立ち寄りそうにないそこにいたのは──
「猫が、たくさん……!」
「ねっねっ、スゴくないっすか⁉︎ 多分野良の子たちの溜まり場だと思うっす。この時間は特に集まるんすよ!」
 真っ白や三毛、斑や虎模様をあしらった猫ちゃんたちが、各々思うままに寛いでいる。いつか江ノ島に訪れた時も行く先々にいる猫ちゃんたちに驚いたけど、ここは開けた空間にたくさんの子たちがいる。まるで猫カフェにいるような錯覚に陥りそうな密度だ。
 見渡す限り猫、猫、猫。それまで燻っていた緊張や困惑が全て融解されて、僕はたまらず頬を緩ませた。
「そこの君。こっちおいでー……」
 しゃがみ込んだ僕は、一番近くにいた子にそっと声をかけ、指を数回折り曲げる。話しかけられたことに気づいたのか、その子は僕の顔をじっと見つめた。大丈夫だよ、と念を込めて瞼を数回ゆっくり瞬かせると、とてとてと歩み寄ってくれた。
 足元に来たその子を見つめる。根本から毛先までしっかり染まりきった、純然な黒を纏っている。所々に砂埃がついているけど、それを加味しても『綺麗』と思わせる不思議な風貌だった。
 深緑の瞳で見上げるその子の頭にそっと触れる。毛並みを追うように撫で付けると、気持ち良さそうに目を閉じた。
「ふふ……可愛いなぁ」
 そんな呟きが無意識に零れる。完全に蕩け切った、とんでもなく気の抜けた声色。でもすっかり猫ちゃんに夢中になっていた僕の脳は、それに音以上の情報を感知することはない。手に広がるふわふわと優しい毛の感触や、僕の行動を受け入れている狂おしいほどの可愛さに夢中なんだ。目の前の楽園に浸って幸せを満喫している以上、自分の情けなさなんて二の次だ。そんな僕に四季くんは何を思っていたのだろう。カシャリ、と無機質な音が前方から鳴った。
「デレデレジュンっち、ゲットっす!」
「あっ、こら! 勝手に撮るなと言ってるでしょう……⁉︎」
「だってジュンっちの顔ハイパー楽しそうだったんすもん〜。あ、見るっすか?」
「誰が自分のそんな写真を見たいんですか……」
「えー、こんなに可愛いのに……」
 僕の言葉に四季くんは不満そうにする。今その顔をして良いのは僕の方じゃないか? 何がそんなに面白いのか、四季くんは撮ったばかりの情けない僕を満足そうに眺めている。
「初デートの記念写真、ちゃんと撮れて良かったっす」
「それが記念で良いんですか?」
「これが! 良いんすよ!」
「……本当に、僕一人の写真で良いんですか」
「へ?」
 うきうきとスマートフォンを見つめる彼が気に入らない。だってそこには、僕と猫ちゃんしかいないじゃないか。ただの日常風景なら勝手に撮られたことに拗ねるだけで終わるけど、今日はただの日常じゃない。僕にとって……そしてきっと、四季くんにとっても。今日を、なんの変哲もない日にして良いはずがないんだ。
「デートの記念なら……君も一緒に、映るべきじゃないんですか」
 その写真では、僕が楽しかっただけのまま。そこに至るまでにあったはずの君の想いが、この写真には残しきれていない。僕だけが切り取られたって意味がないんだ。
 ──今日は、新しい君と時間を共有するための一日なんだから。
「四季くん。こっちに来てください」
「え? あ……はいっす」
「僕だけなんて不公平です。君も僕に撮られてください」
「えっ……待って! 先に鏡……」
「いりません。そのままでも充分ですよ」
 わざと間の言葉を省略して、慌てる四季くんを無視してシャッターを切る。液晶の中の僕たちは対照的な表情。カメラ目線で微笑む僕と、困ったように視線を端に送っている四季くんが切り取られていた。撮られる用意を整える前だった四季くんが写真を見て「もう!」と怒ったけど、これくらいの意趣返しは可愛いものだと思ってほしい。たった一枚でこれまでの彼を許してやるんだから、むしろ僕は相当心が広いだろう。完全に立場が入れ替わった僕たちに何を思うのか、足元の黒猫がつぶらな瞳で滑稽な僕らを見上げていた。

 ◆

 お腹の虫を鳴かせた四季くんに連れられてファミレスに。ナポリタンを食べる僕の目の前でハンバーグステーキに目を輝かせる四季くんを見ているだけで面白かった。でも切り分けたハンバーグを自分の手で僕に食べさせようとしたのはさすがにどうかと思う。せめて皿に置いてくれれば良いものを、とぼやいた僕に不満そうだったのも解せない。まぁ、デザートのサンデーですぐに機嫌を直していたから良いけれど。
 食欲を満たした後は予想外。四季くんとは全く結びつかない、閑静な古本屋に連れて来られた。幅広い本を扱っているその店は、本棚を眺め歩くだけでも心が躍った。しかもスコアブックまであったのだ。それを見つけた時の自分は……あまり思い出したくない。プレミア商品はさすがに無理だったから涙を飲んで、それ以外をいくつか購入した。その中の一冊は、四季くんが「これ知ってるっす!」と差したもの。これを譜面台に置きながら弾いてみせたらどんな顔をするかな、と妄想して一人で笑った。そして買い物を終えた後、ここは麗さんに紹介してもらったと教えられた。正直、今その情報は聞きたくなかった。腹いせに頬を抓ったら何でだと泣き言を漏らしていたけど、そんなの自分で考えてほしい。僕がいつでも答えに導くと思うな。
 そうしてふたりで歩き回って、ついに空は馴染み深いオレンジに染まる。夕日に照らされて暖かそうな色を纏った四季くんが、夕暮れに溶け込みそうな落ち着いた声色を放った。
「今日はどうだったっすか?」
「どう、とは?」
「デート、楽しんでもらえたっすか?」
 どう考えても一つしか答えを持たない彼の問いに愚問を投げる。でも四季くんにそんなものは効かない。僕があえてぼかそうとしたそれを、彼ははっきり口にした。
「ジュンっち。どうしてあの時、頷いたんすか」
 一転、真剣な表情で問われる。
 ……そうか。四季くん、最初から、わかっていたんですね。
「さすがに気づくっすよ。ジュンっちが意味もわからないままOKしたことくらい」
「ならどうして……」
「あの時はジュンっちが頷いてくれたことが嬉しくて舞い上がってたっすけど、でも時間が経ったらわかっちゃうっすよ……別に、ジュンっちはオレが好きだからそうしたんじゃないって。何でかまではわかんないけど……でも、ジュンっちとオレの気持ちは、多分違うって……気づいてた」
 四季くんが静かに顔を伏せる。消え入りそうな言葉尻が、あまりにも儚くて。このままだと夕焼けの中に消えてしまいそうだった。思わず四季くんの手首を掴むと、彼はびくんと肩をこわばらせた。
「ジュンっち。やり直すなら、今っすよ」
「……どういう、意味ですか?」
「もしジュンっちがこのまま進むのが嫌なら……オレ、オレのせいでジュンっちに後悔してほしくないなぁ……」
 確かに目の前にいるのに、手の中は確かに温かいのに。それでも正面の四季くんは、一度でも瞬きをしたら忽然といなくなってしまいそう。このまま無理やり引き止めても、多分それは、変わらない。
 考えても考えても、見えそうになかった疑問たち。知覚すら許されなかった蟠りは、今でも心臓に重くのしかかっている。でもそれは今日が始まるまでのこと。ずっと見えなかったそれは、四季くんの滲んだ瞳を見てようやく理解できた。
「四季くん」
「うん」
「僕たち、別れましょう」
「……うん」
 僕の答えに、四季くんは小さく頷いた。
「ありがとう、ジュンっち。今日はスゲー楽しかったっす! 今日のこと、きっと忘れないっすよ」
「四季くん」
「そろそろ暗くなるし帰ろっか。じゃあねジュンっち。明日の部活、楽しみにしてるっすよ!」
「四季くん!」
 呼んでも彼は応えてくれない。多分、もうこれ以上僕の言葉を聞く気がないんだろう。初めて会ったあの日から、そうやって人の話を聞こうとしない彼のことが嫌いだった。今は、殊更憎らしい。その憎しみを右手に込めて、抜け出しそうな腕をぎりぎりと握り締めた。それをこっちに引き込んで、踵を返そうとする彼を腕の中に捕まえる。
「四季くん、好きです」
 逃げるな。聞け。このまま自己完結して綺麗に終わらせようとするな。僕も君も、これに美しい幕引きができる力量なんてないんだから。
 ……だからどうか、僕の心を、聞き届けて。
「僕と、正式に交際してくれませんか」
「え……は? 何、どういうこと……?」
「認めます。あの日の僕は、訳もわからないまま君の申し出を受けました。その後の滅裂な理論に対して、面倒がって反論もしないまま今日まで来ました。でもそれは何となくやったことじゃない。わかってなかっただけで、僕もそうしたいと思っていたから、同意したんです」
「えっと……ちょっと、話が難しくて、よくわかんないっす……」
「今日君と過ごして、やっと気づけたんです。僕も四季くんが好き。違うなんてことない。僕たち、同じ気持ちです」
 騒がしいのが嫌いだ。不快なだけだし、落ち着けないから。
 無様を晒すことが嫌いだ。それを見た人が、僕に失望するのが怖いから。
 油断しているところを見られるのも嫌いだ。人は常に凛とあるべきだと思うから。
 僕の嫌いなことを何度もする、喧しくて騒がしい四季くんが、大嫌いだった。こんな人間、僕の人生に一秒だって触れさせたくない。
 ……でも、今は、そんな彼のことが、こんなにも愛おしい。僕を見上げる顔は、さっきと同じく涙が滲んでいる。けれど、自惚れでないのなら……その正体は。
「君が許してくれるなら……もう一度、両想いだって知った状態からやり直させてほしい」
 心臓が今までにないくらい騒がしい。体の中から存在を主張したがるように、どくどくと大きく脈を打つ。多分四季くんにはよく聞こえているだろう。こんなに無様な顔を晒して、自分の情けなさを懺悔して。昨日までの僕だったら、耐えられずに舌を噛んでいたかもしれない。
 でも四季くんなら。どこまでもまっすぐに僕を見て、信じてくれる彼になら。今更格好悪いところを見られたところで大したマイナスにならないだろう。むしろ嬉々として写真まで撮るくらいなんだから。そう信じても良いかもしれない……いや、きっと大丈夫だと確信できる。一見無謀にも思える全能感が、僕の全てを優しく包んでくれる。
 ──それが、僕にとっての『恋』なんだ。
「そんなの……良いに決まってるじゃないっすかぁ〜……!」
「ええ、知ってました。君ならきっとそう答えるって」
「もお〜……ジュンっちヒキョーだぁ……」
「人聞きの悪い。賢いと言ってください」
「ジュンっちズル賢い〜……」
「こら、ズルは余計ですよ」
 こんな意味のないやりとりすら心地良い。珍しく憎まれ口を叩く四季くんの、何と可愛らしいことか。それをずっと聞いているのも悪くはないけど、でも今一番聞きたいのは、心にもない悪口じゃない。
「それで四季くん、返事は?」
「……はい。フツツカモノですが、よろしくお願いします」
 掴んだままだった手首を開放して、同じ手を差し出す。すると四季くんは、音もなく僕の手を取った。
 夕焼けすら巻き込むほどの、喜びに溢れた真っ赤な顔。やっと得られたそれをもう一度抱き締めて、僕たちは影を重ねた。
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