花冷え

 まるで雑踏を歩む人みたいに、君はぼくを通り過ぎる。今のぼくには、何かを思考させるほどの力がないから。
 君にはボートに乗る理由がない。睡蓮池を目で愛でて、たまに跳ねた鯉に驚いている。昔、リィが見せた鯉へ触るのを嫌がってたね。もしかしたら単純に怖かったのかな。柔らかい心を持つ君は、自分の手に触れるものに怯えていたのかな。その答えを知るのは、きっともう数年かかるんだろうね。今日の君は中庭で陽の光を浴びている。椿が暖かい日差しに喜んでいるみたい。今日も君を彩る花は綺麗だ。
 君は何かを眺めている。遠すぎて、何が気になったのか分からない。でも見上げる横顔はやっぱり天使みたい。ほんとはいけないことだけど、これくらいは許してね。今日も小さい君の写真を撮る。一緒にいるって言ったんだから、写真くらいはぼくのところにいてね。
 君からもらった花は、押し花にするのが少し遅かったから花弁の端が少しくすんじゃった。まるで指先が動かなくなった君を見ているみたい。ちょっと切ないね。でも、それでも綺麗だよ。君で飾られたアルバムも、ちょっと角が剥げちゃった。中の白いところが出て、薄い汚れがついている。でもその中のぼくたちは幸せなまま。少し曲がって貼られてる。そういえば、うっかり手をべたっとつけてちょっとした騒ぎになったよね。あれ剥がすの大変だったな。ちょっと痛くてね、今でもあのベリベリ取る時の感覚を覚えてる。ハラハラしながら見ていた君も覚えてるよ。楽しかったな。
 陽が暮れる。君はオレンジ色の空を一瞥して、中へ戻る。これでぼくの一日は終わり。寂しいと、嬉しいと楽しいと寂しいの一日が終わる。君が目玉焼き以外の何が好きなのか分からない。ぼく、そろそろ目玉焼きだけが上手な人になりそうだよ。あ、でも他にも好きなもの見つけたよ。次はそれを練習して、いつか君がしたようにぼくの好きなものを振る舞おうか。あの時の君がどんな気持ちだったか知りたいな。
 日記を書こう。もうぼくはたくさんの『昨日』を知ってるけど、寝る前の振り返りが楽しかったんだ。今日は君を見られたからとってもいい日。ラブレターにもできない散文が、新しいページを黒く染めた。
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