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VOID全年齢

 からりと淡白な空気だった。外は穏やかな陽を雲越しに瞬かせている。ゆったりと晴れた、午前十時の空だった。
「空木さん。洗濯物は外で干す?」
「おう。やってくれるのか?」
「うん。だから少し休んでて良いよ」
 ボタンを操作する洲梧の背中へ、ハルが声をかける。すっかり変哲のない口調だった。少々ぎこちなさのあった砕けは、洲梧の想像より早く耳馴染みの良いものとなっている。小さくも、しかし大きな彼の変化が嬉しく思えた。
「何、思い出し笑いでもしてる?」
「ははっ、そんなとこだな」
 簡素なやり取り。しかしそこには以前なかった軽やかな笑い声が含まれていた。洲梧への返答に、ハルは漏れるようなそれを混ぜていた。先月の自分が聞いたらどう思うのか、洲梧はそんなことを考えていた。
「なぁー、ハル」
 ふと、思いつく。すぐに言葉は飛んでいた。その声に呼ばれた当人はちらりと瞳だけを向けてくる。「どうしたの?」という台詞と共に。
「せっかくならさ、俺の呼び方も変えてみないか?」
 洲梧はそんな提案を投げかけた。ハルは少し面食らったような表情を浮かべている。
 彼は案外、分かりやすい。それは他人にとっては何の変化もない、いつも通りの無表情だった。しかしそろそろ半年の付き合いになる洲梧にとって、これは特に分かりやすい吃驚であった。
「空木さんの? ……ああ、下の名前をご所望かな」
「そ、ご所望してる。どうだ?」
「なるほど」
 少し離れた所に立つハルの顔を覗き込むように、洲梧は背中を丸めて一度問う。ハルは細い指を顎に添えて黙り込んだ。黄金比に基づいて配置されたライムグリーンの大きな瞳に瞼がかかる。作り物らしい造形美と、温さを与える仕草がそこにはあった。
「しゅうごさん?」
「さん?」
「……しゅうごくん」
「うーん……」
 探るような、囁きめいた声が名をなぞる。悪くはない、のだが。しかし少々物足りない。そんな洲梧の心情を感知したのか、ハルは再び薄い唇を開いた。
「しゅうごちゃん?」
「ふはっ! ちゃんって」
「これも違うのか……」
「ハル。呼び捨てじゃダメか?」
 真剣な面持ちで呼ぶ姿がおかしくて、洲梧は思わずそれを吹き出した。
 どれも愛着がありそうだから、呼ばれて悪い気はしない。それでもやはり洲梧にとって『ハルに呼んでもらうなら』と考えたら、それが一番良かったのだ。
 首を傾げながらそれをねだる。それを見たハルはしばらく、しばらく考え込んだ後に言った。
「……しゅうご」
 おそるおそる、見知らぬ川を泳ぐ小魚のようなたどたどしさで、ハルはそう呼んだ。
「! うん、それがいい」
 そんな小魚を鷲掴みにでもしそうな勢いで、洲梧は嬉しさ隠さぬ声色で喜んでみせる。単純な行動だが、人間なんてそんなものだ。ちっぽけなことにでも、とびきりの宝を見つけたような心持ちで心を舞い上がらせる素直さというものがある。顔に出ていたのだろう。ハルは可笑しいとでも言いたげに、口角を二ミリ上げた。
 十時と十七分。空は澄んだ水色だった。
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