VOID全年齢

 空木洲梧とは、めったに怒らぬ人だった。注意や叱りはしても、それを怒りの形で出すことはそうない。まして個人的な理由でなど以ての外だ。しかしそんな洲梧は現在確かに『怒り』というものを見せている。半目から見下ろされる先の彼──ハルに対して、だ。
「なぁハル、俺が言いたいことは分かるな?」
「恥ずかしいからやめろ、でしょ。知ってるよ。最初に言ってたでしょ」
「だったら何で……」
「言われたけど、オレはそれを了承した? ログ見る? 音声でもいいけど」
「だっ……やめろやめろ! 違うもんまで混ざってるだろ、それ!」
「じゃあそこは抜いて見せようか? シューゴ嫌がるもんね。自分の喘ぎ声を……」
「いい! 言うな!」
 ソファーの上で正座させられたハルは、洲梧の様子を見ても態度を変えない。いつもと同じく、淡々と言葉を返す。署内での時間かのように錯覚もさせられそうなその変わらなさに、洲梧が居た堪れない気分になった。
 なぜ洲梧がこうも露骨に怒りを見せているのか。それはハルが彼の頼みを聞いていなかったからである。洲梧にとっては約束だったそれは、ハルには違うものとして解釈されていたようだ。
「あのな、間近で凝視されたら」
「恥ずかしいんでしょ。聞いたってば」
「うん。そうだよな。だからな、キスする時はお前にも目を閉じてほしいって意味で頼んでたんだよ。分かるか?」
「分からない」
「それは何でだ?」
 洲梧は努めて優しく、声を落ち着けながら問いかける。ハルのことだから悪気はない、そう信じてのことだ。ハルは賢い。しかしまだまだ成長の余地を多分に持つ彼には、人とのやり取りは些か複雑なのかもしれない。もしもそうなら、きちんと言葉を重ねられなかった自分に落ち度がある。そう考えながら、燻る羞恥を懸命に宥めていた。
「いや、だってちゃんとしたデータじゃなきゃシューゴに正しい愛撫ができないだろ? それなのに閉じろって言われてもさ、聞くわけないじゃん」
「おう、もう一回座り直せ。説教してやる」
 しかしそれも呆気なく徒労にさせられた。ハルには初めからそんな願いを聞き入れるつもりは全くなかったらしい。あまりに泰然としたハルの態度は、洲梧の癇を煽るのに充分すぎるほどの効果があった。
 ハルは改めて座り直す。彼が体勢を崩すことはないため、ほぼ横に揺れただけだが。
「俺が恥ずかしいから嫌ってのは理由にならないってか」
「恥ずかしいのが嫌なら、そもそもキス自体をやめた方がいいんじゃない?」
「それは……ちょっと違くないか?」
「キスはしたいの?」
「あー……そういう、聞き方されると、だな……」
「ああ、答えにくい。そうだね、シューゴは恥ずかしいの嫌なんだもんね?」
 ハルの言い回しは、妙にいやらしい部分を責めてくる。そう気軽に触れるようなものではない部分を手の平全体でべたんと触れるような、無邪気とも呼べる鋭さで洲梧のむず痒さを暴露する。その心地は正しく『恥ずかしい』だ。
 すると、ハルは洲梧の腕を引く。不意打ち、まして洲梧よりも遥かに力の強いハルにされれば簡単によろめいた。空中で無防備に浮く胴体を無機質な腕が捕らえる。そしてぽさり、とソファー乗った上に転がされた。
「他者へ積極的に開示する事項ではないものを不意に、あるいは無理やりに暴かれることを『恥ずかしい』と呼んでいる……この認識で合ってる?」
「……ああ、よくできてるよ。ハルは賢いな」
「ありがと。じゃあ……シューゴ、オレの切り込みは分かるよね」
「どこのだ?」
「どこでもいいけど……じゃあ首にしよう。指入れてみて」
「は? いや、それはまずくないか?」
「少しだけだよ。爪が掠めたくらいじゃ傷もつかないから。ほら」
 ハルの手が洲梧の手の甲に重なる。冷たい手だ。少しだけ冷たいハルの手が肌に触れるのはまだ慣れない。どきりと、するから。そんな洲梧の心を知ってか知らずか、ハルは捕まえた手を自分の輪郭すぐ下に置く。よく意識しなければ見つけられなさそうなほど薄く浅い、細い窪みが伸びている。指の腹がその感触に慄いた。しかし上から押さえつけるハルの指が、そこを拓けと命じている。脈拍が増える。この緊張は、何なのか。
 切り込み目がけて爪先を差し込む。すると皮膚が無防備にひしゃげた。こんなにも簡単に動くのか、と脈が更に跳ねる。おそるおそる爪先を深めると、すぐに硬いものと遭遇した。
「めくって」
 まだ度し難いものを飲み込もうと必死な洲梧へ、ハルは逃げ道のない言葉をばっさりと投げる。淡く光るライムグリーンが、情緒的な直線で刺さるよう。洲梧は少々ハルに甘すぎたのかもしれない。猫可愛がりを一身に受けたアンドロイドは、傲慢な俺様気質へ育ってしまった。それについて洲梧はどう捉えているのか。
 ただ、無言で。擬似皮膚をめくった。
「……黒いな」
「そうだね」
 見たことがない、ことはない。ハルとて現場に赴く警察。一度も怪我を負わなかった、なんて偉業は持っていない。切れた皮膚の下から小さく覗くそれを少しだけ視認はした。しかしそれだけだ。こんなにも間近ではっきりと、黒や銀の板にネジ、丸や四角の部品、どこからか伸びるコードや継ぎ目。これがハルの機体を構成する屋台骨だ。
「はは。何か忍びない気持ちになるね、これ」
「そりゃー、こっちのセリフだろ……」
「シューゴも? じゃあそうなんだ。ねえ、今のオレってどんな気持ちなんだと思う?」
「……恥ずかしい、じゃないか」
「へえ。ならこれまでのシューゴもこんな気分だったってこと?」
「まだよく分かってないお前よりは、はっきり強く感じていたんじゃないか」
「なるほどね。それなら悪かったよ。ああも怒るとは思ってなくて……軽率だった」
 ひとしきり頷いた後、ハルはわずかに眉を下げた。その顔には罪悪感がはっきり見て取れる。不謹慎とは思いつつも、洲梧はそれに頬を和らげた。
「分かってくれたならいいよ。俺も言葉が足りなかったしな。そこは俺が悪かった。ごめんな、ハル」
「ううん。これからはオレも定義確認はきちんとするよ。だからシューゴも噛み砕いた説明をしてね」
「あぁ、そうする」
 いつもより小さく見えるハルの頭。そこにぽすんと手を乗せる。ふわふわと、猫のような柔らかい髪が洲梧の手をくすぐった。この感覚がやけに癖になる。こんな些細なものすら、気が遠くなるほど愛おしい。まるで蛇口を捻られて流れる水のように、様々、あらゆる言葉が溢れ出す。洲梧は万感の思いを預けた腕で、ハルの体を抱き寄せた。
「目は閉じた方がいい?」
「……恥ずかしい思いさせたしな。いいよ、今は許してやる」
 胸に埋まっていた頭がわずかに離れる。それが問う言葉は、ここに至っては愚かしい。洲梧は少し吹きつつ、少し下にある唇へ己を明け渡しに落ちた。
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