未設定の場合は「放浪者」になります
gnsnCP系SSまとめ(全年齢)
放浪者の名前
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
草の中を渡る。瑞々しい葉の香りが高く芳醇に漂う空間は、この国ならではの特色だろう。久々に訪れたせいか、その匂いで少し噎せそうな気がした。蛍が歩を進める度に踏まれ折られる草たち。そこから更に緑が零れているのかもしれない。鼻の中にこびりつきそう。しばらくはこの匂いを忘れられなさそうだ。
ようやく蛍の手を取った空。強く握った、彼女より少しだけ大きい手が愛おしく。たまらず抱き締めた体は以前より骨張っていた。もう二度と離れないで。たくさんの涙の中で絞り出した声に頷いた彼と、明日テイワットを去る。蛍にとって何より大切なのは兄との時間。後ろ髪を引かれる思いはないが、かといって長らく見てきたこの世界に感傷がないわけでもない。最後にみんなと挨拶をさせてほしいという蛍のわがままに、空は優しく頷いた。故に今、蛍は一人で各地を回っている。パイモンはごねにごねて結局拗ねてしまったため着いてきていない。恐らく、今頃は泣きながら空と食べ物でも食べまくっているのではなかろうか。蛍はその姿を想像し、小さく苦笑した。
「……あ」
それは木々と草花に溶け込むように、しかし泰然とした青が流れるようにあった。無意識に漏れた蛍の声に笠が振り返る。発色美しい肩の袈裟が霞むほどの顔は、相も変わらず平坦としていた。
「これはこれは。飽きもせず噂を轟かせる旅人さんじゃないか。別れの行脚の途中かな」
「え、もう出回ってるの? 会った人にしか言ってないのに」
「少なくとも教令院の噂は君でもちきりだよ。通りすがりに学者たちの話を耳に挟んだ生徒から広がったらしい」
「あー、そういうこと……」
蛍がテイワットを去ると口にしてから放浪者に会うのは初めてなのに。しかしそういうことなら彼が知っているのも自然なこと。これまで話を聞いた者は大体が驚きや困惑、果てには涙で首まで濡らす者もいたが、放浪者にそれらはない。全く、普段通りだった。
「あなたは会えるか分からなかったから、見つけられてよかった」
「へぇ、僕も頭数に入れてくれてたのか。光栄だね?」
「もちろん。自覚ないかもしれないけど、私にとってあなたってちょっと異質な存在なんだよ?」
「……名前を贈った相手として、かい?」
「うん。初めてだったんだよ? 動物以外に名前をつけるなんて。いきなりのことで緊張したなぁ」
「ははっ、僕に緊張するべき状況はもっと適切なものがあっただろう?」
「それはまた別でしょ。まぁそういうのと比べても、やっぱりあの時が一番緊張したかな」
蛍は目の前の彼との縁を思い返す。不思議や奇妙とはよく出会ったが、こうもけったいな繋がりは珍しかった。合縁奇縁、蛍にとって放浪者とは、どこか現実離れした非日常を連想させる存在だったかもしれない。そんな風に思わせるのも、蛍から放浪者への最初で最後の贈り物が由来しているのだろうか。ちらりと隣の彼を一瞥する。佇まいは、この地と少し馴染んでいるように思えた。
「放浪者はまだスメールにいる予定?」
「まあね。僕の旅はきっと長くなる。この借りは、返さぬまま立つには少し重すぎる」
「放浪者は自分を過小評価しがちだから、きっとあなたが思うよりナヒーダはあなたに感謝してるよ」
「それはどうかな? 案外足りないと思ってるかもしれないよ」
「もう、そんな神じゃないってことは薄々分かってきてるでしょ?」
こんな風に肩を並べて話すのも今日で終わり。兄が隣にいる蛍に、後ろを振り返る理由はない。放浪者との縁は──今日、途絶える。名前のせいだろうか。ほんの少しだけ、その事実が晴れやかな蛍の心を少しだけ鈍らせる。
「新たなる旅路に祝福を。せいぜい良き路になることを祈っているよ」
「わ、リップサービスうまくなったね」
「らしくないと思うかい? ならそれは君のせいかもしれないね」
はは、と小さく笑い漏らす。まるで鈴の音のようだと思ったこの声を聞くのも、これで最期になるのだろう。彼らしからぬ言葉と聞き慣れた笑い声。並ぶと妙に切なげだ。
「まだ挨拶したい者がいるんだろう? 早く行くといい」
「……うん、そうしようかな」
放浪者は左手を前方に出し道を示す。天高くから降り注ぐ太陽の光は、だんだんとオレンジが濃くなっている。あとはセノとディシアとキャンディス。その三人との挨拶を済ませたら、次は璃月の人々と。やりたいことはまだたくさんある。ここに割ける時間はもう、残っていない。
さく、さく、と草が鳴る。しかしそれはすぐ止まる。彼との縁は半端に切れない。切るならば丁寧に、しっかりと。蛍は後ろを向いた。まだその場に立っている放浪者の表情は明るく見える。
「さようなら、元気でね」
「君もね。さようなら、旅人」
半端に開いた二人の距離。その中で交わされたのは、今までで最も穏やかなやりとりだった。蛍は踵を返しまた歩む。さくさくと、踏まれる草の単調な音だけが耳の中に木霊する。
その中に一瞬だけ、聞き慣れた風の浮く音が混ざった。
ようやく蛍の手を取った空。強く握った、彼女より少しだけ大きい手が愛おしく。たまらず抱き締めた体は以前より骨張っていた。もう二度と離れないで。たくさんの涙の中で絞り出した声に頷いた彼と、明日テイワットを去る。蛍にとって何より大切なのは兄との時間。後ろ髪を引かれる思いはないが、かといって長らく見てきたこの世界に感傷がないわけでもない。最後にみんなと挨拶をさせてほしいという蛍のわがままに、空は優しく頷いた。故に今、蛍は一人で各地を回っている。パイモンはごねにごねて結局拗ねてしまったため着いてきていない。恐らく、今頃は泣きながら空と食べ物でも食べまくっているのではなかろうか。蛍はその姿を想像し、小さく苦笑した。
「……あ」
それは木々と草花に溶け込むように、しかし泰然とした青が流れるようにあった。無意識に漏れた蛍の声に笠が振り返る。発色美しい肩の袈裟が霞むほどの顔は、相も変わらず平坦としていた。
「これはこれは。飽きもせず噂を轟かせる旅人さんじゃないか。別れの行脚の途中かな」
「え、もう出回ってるの? 会った人にしか言ってないのに」
「少なくとも教令院の噂は君でもちきりだよ。通りすがりに学者たちの話を耳に挟んだ生徒から広がったらしい」
「あー、そういうこと……」
蛍がテイワットを去ると口にしてから放浪者に会うのは初めてなのに。しかしそういうことなら彼が知っているのも自然なこと。これまで話を聞いた者は大体が驚きや困惑、果てには涙で首まで濡らす者もいたが、放浪者にそれらはない。全く、普段通りだった。
「あなたは会えるか分からなかったから、見つけられてよかった」
「へぇ、僕も頭数に入れてくれてたのか。光栄だね?」
「もちろん。自覚ないかもしれないけど、私にとってあなたってちょっと異質な存在なんだよ?」
「……名前を贈った相手として、かい?」
「うん。初めてだったんだよ? 動物以外に名前をつけるなんて。いきなりのことで緊張したなぁ」
「ははっ、僕に緊張するべき状況はもっと適切なものがあっただろう?」
「それはまた別でしょ。まぁそういうのと比べても、やっぱりあの時が一番緊張したかな」
蛍は目の前の彼との縁を思い返す。不思議や奇妙とはよく出会ったが、こうもけったいな繋がりは珍しかった。合縁奇縁、蛍にとって放浪者とは、どこか現実離れした非日常を連想させる存在だったかもしれない。そんな風に思わせるのも、蛍から放浪者への最初で最後の贈り物が由来しているのだろうか。ちらりと隣の彼を一瞥する。佇まいは、この地と少し馴染んでいるように思えた。
「放浪者はまだスメールにいる予定?」
「まあね。僕の旅はきっと長くなる。この借りは、返さぬまま立つには少し重すぎる」
「放浪者は自分を過小評価しがちだから、きっとあなたが思うよりナヒーダはあなたに感謝してるよ」
「それはどうかな? 案外足りないと思ってるかもしれないよ」
「もう、そんな神じゃないってことは薄々分かってきてるでしょ?」
こんな風に肩を並べて話すのも今日で終わり。兄が隣にいる蛍に、後ろを振り返る理由はない。放浪者との縁は──今日、途絶える。名前のせいだろうか。ほんの少しだけ、その事実が晴れやかな蛍の心を少しだけ鈍らせる。
「新たなる旅路に祝福を。せいぜい良き路になることを祈っているよ」
「わ、リップサービスうまくなったね」
「らしくないと思うかい? ならそれは君のせいかもしれないね」
はは、と小さく笑い漏らす。まるで鈴の音のようだと思ったこの声を聞くのも、これで最期になるのだろう。彼らしからぬ言葉と聞き慣れた笑い声。並ぶと妙に切なげだ。
「まだ挨拶したい者がいるんだろう? 早く行くといい」
「……うん、そうしようかな」
放浪者は左手を前方に出し道を示す。天高くから降り注ぐ太陽の光は、だんだんとオレンジが濃くなっている。あとはセノとディシアとキャンディス。その三人との挨拶を済ませたら、次は璃月の人々と。やりたいことはまだたくさんある。ここに割ける時間はもう、残っていない。
さく、さく、と草が鳴る。しかしそれはすぐ止まる。彼との縁は半端に切れない。切るならば丁寧に、しっかりと。蛍は後ろを向いた。まだその場に立っている放浪者の表情は明るく見える。
「さようなら、元気でね」
「君もね。さようなら、旅人」
半端に開いた二人の距離。その中で交わされたのは、今までで最も穏やかなやりとりだった。蛍は踵を返しまた歩む。さくさくと、踏まれる草の単調な音だけが耳の中に木霊する。
その中に一瞬だけ、聞き慣れた風の浮く音が混ざった。
1/10ページ