コーヒーミルクチョコレート
外は新年の装いを脱ぎ、人々はとうに日常へ帰った。皆 で団欒を楽しみながら蕎麦を啜り、馳走に舌鼓を打ち、家族や友人と新たな始まりを祝い合う。しかしサービス業の四季たちにそんな穏やかな年明けはない。ライブ、生放送、ラジオ、加えて普段の収録エトセトラ。それらが落ち着いた頃には、一月も半分を終えていた。
今日はプロデューサーの計らいで設けられた休暇日。根を詰めさせた詫びだと三日もの連休を作ってくれたのだ。そんな小さな冬休みをふたつ丸々贅沢に独占するのは他でもない、冬に現れる柔らかい魔物だった。
「はぁ〜……こたつ最強っす〜……」
のどかな空気に間延びた声が溶けていく。それに呼応する声はなかったが、代わりに布団の衣擦れが同様に姿を消していった。無音。しかしそれに冷えはなく、安穏とした雰囲気が。静寂は四季の心に安らぎを与え、なんてことない今を尊ばせる。テーブルの上に鎮座する茶菓子も、その隣で無造作に寝転ぶリモコンも、赤々と揺らめくヒーターも、その近くでこたつに埋もれる寒がりも。それら全てが、この空間の温良を構築しているのだ。なんていい休暇だろう。そんな気持ちが四季に芽生えていた。
「おまんじゅう食べるっすかー?」
「ここから手を出したくないです……」
「じゃあ、オレがあーんしてあげたら?」
「……いただきます」
きっと旬も、この空気に当てられている。平静より素直に甘える彼は、包装を剥かれた菓子を目にすると無防備に口を開いた。声帯まで覗けそうなそこに小ぶりな饅頭をぽいと詰めると、これまた素直に咀嚼し、嚥下する。まるで子どもへの餌付けのようだと思いながら、そんな旬を眺めていた。
「おいしいですね」
「B局のスタッフさんからっすよー」
「あぁ……近くに収録がありますね。その時に伺いましょうか」
「そうっすね!」
旬はささと予定を組むが、それを語る声は判然とせず、餡子のしっとり甘い匂いを漂わせている。緩みきったそれがおかしくて軽く吹くと、旬の眉がぎっと釣り上がった。
「いや、違うっすよ。可愛いなぁって思っただけで……ぷっ、くく……っ」
「目つきが嫌です。いやらしい」
「なんすかそれ。ジアイの目ってやつっすよ?」
「調子のいいことを」
諦めたように呟いた旬はあっさりとこたつから腕を抜き、くまっちがプリントされたマグカップに口をつける。元々四季用に持ち込まれた物だったが、今ではどれがどちらの所有物かを気にせず、取ったものを使うようになった。頭部にくまっちのマスコットを飾った箸で旬がおかずを摘んだり、いつの間にか紛れ込んでいた旬の肌着を四季が着ていたり。今四季の足を包んでいるふわふわのルームシューズだって、本来は旬が自分用に調達したものだ。床が冷たいのだからしょうがない、代わりにこれをと差し出した華美なルームソックスが、旬の足を包んでいた。そうして境界線が雑になるほど、このリビングはふたりの色が混ざり合っている。
ここに越してから、そろそろ一年が経過しようとしている。結果生まれたのがこれなら気分も悪くない。おっとり屋なミニチュア門松も、こくりと頷いている気がした。
それが飾られている窓台の後ろで、白い太陽が嫋《たお》やかに浮かんでいる。なんてことない、毎日朝になれば当たり前の顔をして昇ってくる、ほぼ毎日拝める姿だ。そこに特別さはない。今日も当然のように現れたそれは、ガラス越しにリビングを照らしていた。
「初日の出、今年は見れなかったっすね」
「仕事中でしたから。残念ですか?」
「んー……まぁ、見たかったなぁとは思うっすけど。でも見れないくらいお仕事が充実してるのも嬉しいっすから。それに照明っていう太陽は見れたし!」
「ふふ……っ、そうですね。確かに僕たちにぴったりの太陽だ」
かつてはメンバーと連れ立って初詣や初日の出を堪能した。今年はとは言ったものの、恐らくここ三年は初日の出と出会えていない。かつてそれへ叫んだ言葉に向かって進んでいること、近づいてはまた更なる高みをと上塗りを続けていること。また顔を会わせて話せたらという気持ちがないでもない。だが名前が違うだけで、それはいつだって四季のそばにいる。雪のように真っ白な太陽は、春夏秋冬の中で、彼らを見守ってくれている。
「今年も頑張るっすよ。五人で」
「……はい、当然です」
まだこんなものではない。あの日、四季の心を穿ったものはもっともっと上へ行ける。夢現でも盲信でもない、実感という確信があるのだ。きっとそれは四季だけでなく、他の四人も感じている。この五人なら頂点だって夢じゃない、絶対に掴み取れる未来だということを。旬の意志宿る肯定に、四季は今日一番の笑みを零した。
「ところで四季くん。話があるのですが」
だらけとも似た空間に一筋の緊張が走る。ついさっきまで口内にホットコーヒーを溜め込んでいたのに、今の旬に穏やかな雰囲気はない。その姿はデビューしたばかりの頃、舞台袖で控えている彼と重なった。
生唾を飲む。ごきゅりと生々しい音は、もしかしたら地球の裏側まで届いてしまったかもしれない。そんな与太な妄想が四季の思考を掠めていった。
「この流れで言うのは少々気が咎めますが……今日、君に伝えたいことがあるんです」
「……覚悟がいる感じ?」
「どうでしょう。君の思考回路は今でも未解明なので、僕からどうとは言えません」
「やっばー……脅しじゃないっすか」
「失礼な。誠実なつもりですよ?」
とんだ嘯きだ。これの質の悪い所は、あくまで本人は心の底からそうだと信じて疑っていないこと。そうやって予防線を張る行為が、これから旬が始める何かの大きさを明示しているというのに。四季はこたつの中で正座を作り、改めて旬へ向き直った。
「それで、話って?」
「ここに来てから……八ヶ月でしょうか? あっという間でしたね」
「そうっすねぇ……合鍵をもらった時はびっくりしたっすけど。でもジュンっちのおかげでプライベートもメガメガ楽しかったっす! サンキューっす、ジュンっち!」
「どういたしまして」
思い返せば、多忙になっても寂しさを感じる暇が総合的に少なかったのは、ここに来たお陰だ。ひとつ屋根の下で寝食を共に過ごし、愛を語らい触れ合った日々があったから、今日までの幸せがあった。
あの時、旬が同居の意思を詰めた鍵を贈っていなければ。その前に軽口を叩いていなければ。こんなに満たされた気持ちは知らなかったかもしれない。どこまでも真面目で堅い、頭でっかちな旬だからこそ四季に与えられた幸福が、この空間を満たしている。
「四季くん、二日の日に改めてふたりで祝おうって言ってくれたじゃないですか。それまでに欲しいものを考えてとも」
「あ、決まったっすか? ジュンっちはカレシのオレから何が欲しいんすかね〜?」
「……よく考えたんです。僕が欲しいものは何なのか、君からしかもらえないもの、君からもらいたいものとは何だろうと……いや。君に言われる前から、ずっと」
からかうように煽った。しかし旬から出た言葉は照れたようなぶっきらぼうでも、素直におねだりするような甘えでもない。少し低い、真剣なものだった。
「四季くんと一緒に暮らして楽しかった。満たされた。すごく幸せだった……でも気づいたんです。僕、もうこのままでは満足できないって」
最後の言葉は、四季にとって青天の霹靂だった。満たされて幸せ。それは四季と同じ気持ちなのに、旬は満足できないと結んだ。こんなにも心地よい温もりに溢れたこの空間で、果たして何が渇くと言うのか。四季にとってはこれ以上ないほど満ち足りた生活なのに。きっと旬も同じ気持ちだと信じていた心がかぴりと乾く。
だがそれもほんの一瞬。よく見ると、旬の目に四季が思い浮かべたような気配はない。むしろ覚悟を図るような、深い色をまとっていた。
「これはあくまで僕の意思表示です。受け取るかは君に任せます」
旬は徐にポケットをまさぐる。そして手に握られていたのは、手の平ほどの小箱だった。それは初めて見たはずなのに、強い既視感を与える。漫画やドラマ、撮影の小道具として似たものを何度も目にした。
……それが現れるのは、決まってそういう時だ。
「僕が四季くんからもらいたいもの……それは、未来の約束です」
旬は小箱に手をかける。それはたった一秒ほどの出来事のはずなのに、もったいぶるようなスローモーションに思えた。
どくん、と。鼓動が耳の中に響く。それはとても大きく跳ねた。もしかしたらこの衝撃で肋骨が折れてしまうのではと不安すら覚えるほどに。一度動いたそれは、たかが外れたように脈動を繰り返した。BPMを計測したら恐ろしい数値を叩き出すのではなかろうか。負荷に耐えかねて気絶してしまうのではなかろうか。鼓膜が揺れる度、雑念が脳を霧がけていく。それなのに思考は驚く程に冴え渡っていて、旬の目が何を語っているかを苦しいほどに理解していた。
旬が瞬く。四季が喉を鳴らす。静まり返ったここは、まつ毛が空気を切る感覚すら肌に伝えた。
──そして艶やかな手の平が、ぎこちなく蓋を開く。
「これから先もずっと、君と一緒に家を作っていきたい。居るだけで安らげる……そんな愛の巣を、僕と作ってくれませんか?」
太陽が煌めいた。冬を忘れたような光が、艶やかな銀色を撫でる。それはまるで、とびきりのワンシーンを彩る演出のよう。
分かりきった箱の中。だというのに、四季の心から溢れるのは、これまでに感じたことのない何かだった。
驚き? 確かにあるが、それだけじゃない。動揺? そうかもしれない。それは高校時代、小テストで記名し忘れた時と似ている気もする。あるいは喜悦? いや、違う。なぜなら足りないから。この気持ちはもう──四季の知る言葉たちには、乗せきれない。
「その顔は、どっちで解釈すればいいですか?」
「っ……、本当に、オレがあげて、いいんすか……っ?」
「君にしか渡せないんです。僕がこんなわがままになったのは君のせいなんですから。責任取ってそばにいなさい」
「あは……っ、やっぱり脅しじゃないっすか……」
「伸ばせば手が届くということ、四季くんが教えたんですよ」
「ねぇ、矛盾してるって気づいてる?」
「すみませんね。勝ち戦という自信しかないもので」
「はっ……あはは、もう。やっぱりジュンっちってオレサマだなぁ……」
「それで四季くん、返事は?」
旬の目が細まった。大人になってもまだあどけなさの残るそれだと思っていたが、とんでもない。茶混じりの薄灰色はもう、覚悟を決めたひとりの男のそれだった。
夢を疑った。目の前は現実の出来事なのか。朧な目を乱暴に擦ると、冷たい指先が咎めるように絡まった。閑雅なようで存外に雄々しい手が、濡れたそれをひと撫でする。そしてきんと冷えた銀色の輪が、薬指の先に宛てがわれた。それは動かない。四季が旬を覗き見ると、彼のまっすぐな視線と交わった。旬にとって四季の思考が読めないように、四季にとっても旬の脳内は摩訶不思議。だが今は違う。今だけは、彼の考えが手に取るように汲み取れた。
「はい……っ!」
がすがすに掠れた声。それは聞くに耐えないほど酷かった。しかし旬は、その声を受けると頬を甘く綻ばせる。果たして冬美旬とは、こんなに柔く微笑めた人だっただろうか。幸福に満ちた、なんて言葉では到底表しきれない。それほどに満ち満ちた笑みは、他ならぬ四季のためだけに生まれたもの。その事実が、四季の心を優しく包んだ。
指に通されたシルバーリングがきらりと輝く。それはまるで、ふたりの未来を応援しているようだった。
今日はプロデューサーの計らいで設けられた休暇日。根を詰めさせた詫びだと三日もの連休を作ってくれたのだ。そんな小さな冬休みをふたつ丸々贅沢に独占するのは他でもない、冬に現れる柔らかい魔物だった。
「はぁ〜……こたつ最強っす〜……」
のどかな空気に間延びた声が溶けていく。それに呼応する声はなかったが、代わりに布団の衣擦れが同様に姿を消していった。無音。しかしそれに冷えはなく、安穏とした雰囲気が。静寂は四季の心に安らぎを与え、なんてことない今を尊ばせる。テーブルの上に鎮座する茶菓子も、その隣で無造作に寝転ぶリモコンも、赤々と揺らめくヒーターも、その近くでこたつに埋もれる寒がりも。それら全てが、この空間の温良を構築しているのだ。なんていい休暇だろう。そんな気持ちが四季に芽生えていた。
「おまんじゅう食べるっすかー?」
「ここから手を出したくないです……」
「じゃあ、オレがあーんしてあげたら?」
「……いただきます」
きっと旬も、この空気に当てられている。平静より素直に甘える彼は、包装を剥かれた菓子を目にすると無防備に口を開いた。声帯まで覗けそうなそこに小ぶりな饅頭をぽいと詰めると、これまた素直に咀嚼し、嚥下する。まるで子どもへの餌付けのようだと思いながら、そんな旬を眺めていた。
「おいしいですね」
「B局のスタッフさんからっすよー」
「あぁ……近くに収録がありますね。その時に伺いましょうか」
「そうっすね!」
旬はささと予定を組むが、それを語る声は判然とせず、餡子のしっとり甘い匂いを漂わせている。緩みきったそれがおかしくて軽く吹くと、旬の眉がぎっと釣り上がった。
「いや、違うっすよ。可愛いなぁって思っただけで……ぷっ、くく……っ」
「目つきが嫌です。いやらしい」
「なんすかそれ。ジアイの目ってやつっすよ?」
「調子のいいことを」
諦めたように呟いた旬はあっさりとこたつから腕を抜き、くまっちがプリントされたマグカップに口をつける。元々四季用に持ち込まれた物だったが、今ではどれがどちらの所有物かを気にせず、取ったものを使うようになった。頭部にくまっちのマスコットを飾った箸で旬がおかずを摘んだり、いつの間にか紛れ込んでいた旬の肌着を四季が着ていたり。今四季の足を包んでいるふわふわのルームシューズだって、本来は旬が自分用に調達したものだ。床が冷たいのだからしょうがない、代わりにこれをと差し出した華美なルームソックスが、旬の足を包んでいた。そうして境界線が雑になるほど、このリビングはふたりの色が混ざり合っている。
ここに越してから、そろそろ一年が経過しようとしている。結果生まれたのがこれなら気分も悪くない。おっとり屋なミニチュア門松も、こくりと頷いている気がした。
それが飾られている窓台の後ろで、白い太陽が嫋《たお》やかに浮かんでいる。なんてことない、毎日朝になれば当たり前の顔をして昇ってくる、ほぼ毎日拝める姿だ。そこに特別さはない。今日も当然のように現れたそれは、ガラス越しにリビングを照らしていた。
「初日の出、今年は見れなかったっすね」
「仕事中でしたから。残念ですか?」
「んー……まぁ、見たかったなぁとは思うっすけど。でも見れないくらいお仕事が充実してるのも嬉しいっすから。それに照明っていう太陽は見れたし!」
「ふふ……っ、そうですね。確かに僕たちにぴったりの太陽だ」
かつてはメンバーと連れ立って初詣や初日の出を堪能した。今年はとは言ったものの、恐らくここ三年は初日の出と出会えていない。かつてそれへ叫んだ言葉に向かって進んでいること、近づいてはまた更なる高みをと上塗りを続けていること。また顔を会わせて話せたらという気持ちがないでもない。だが名前が違うだけで、それはいつだって四季のそばにいる。雪のように真っ白な太陽は、春夏秋冬の中で、彼らを見守ってくれている。
「今年も頑張るっすよ。五人で」
「……はい、当然です」
まだこんなものではない。あの日、四季の心を穿ったものはもっともっと上へ行ける。夢現でも盲信でもない、実感という確信があるのだ。きっとそれは四季だけでなく、他の四人も感じている。この五人なら頂点だって夢じゃない、絶対に掴み取れる未来だということを。旬の意志宿る肯定に、四季は今日一番の笑みを零した。
「ところで四季くん。話があるのですが」
だらけとも似た空間に一筋の緊張が走る。ついさっきまで口内にホットコーヒーを溜め込んでいたのに、今の旬に穏やかな雰囲気はない。その姿はデビューしたばかりの頃、舞台袖で控えている彼と重なった。
生唾を飲む。ごきゅりと生々しい音は、もしかしたら地球の裏側まで届いてしまったかもしれない。そんな与太な妄想が四季の思考を掠めていった。
「この流れで言うのは少々気が咎めますが……今日、君に伝えたいことがあるんです」
「……覚悟がいる感じ?」
「どうでしょう。君の思考回路は今でも未解明なので、僕からどうとは言えません」
「やっばー……脅しじゃないっすか」
「失礼な。誠実なつもりですよ?」
とんだ嘯きだ。これの質の悪い所は、あくまで本人は心の底からそうだと信じて疑っていないこと。そうやって予防線を張る行為が、これから旬が始める何かの大きさを明示しているというのに。四季はこたつの中で正座を作り、改めて旬へ向き直った。
「それで、話って?」
「ここに来てから……八ヶ月でしょうか? あっという間でしたね」
「そうっすねぇ……合鍵をもらった時はびっくりしたっすけど。でもジュンっちのおかげでプライベートもメガメガ楽しかったっす! サンキューっす、ジュンっち!」
「どういたしまして」
思い返せば、多忙になっても寂しさを感じる暇が総合的に少なかったのは、ここに来たお陰だ。ひとつ屋根の下で寝食を共に過ごし、愛を語らい触れ合った日々があったから、今日までの幸せがあった。
あの時、旬が同居の意思を詰めた鍵を贈っていなければ。その前に軽口を叩いていなければ。こんなに満たされた気持ちは知らなかったかもしれない。どこまでも真面目で堅い、頭でっかちな旬だからこそ四季に与えられた幸福が、この空間を満たしている。
「四季くん、二日の日に改めてふたりで祝おうって言ってくれたじゃないですか。それまでに欲しいものを考えてとも」
「あ、決まったっすか? ジュンっちはカレシのオレから何が欲しいんすかね〜?」
「……よく考えたんです。僕が欲しいものは何なのか、君からしかもらえないもの、君からもらいたいものとは何だろうと……いや。君に言われる前から、ずっと」
からかうように煽った。しかし旬から出た言葉は照れたようなぶっきらぼうでも、素直におねだりするような甘えでもない。少し低い、真剣なものだった。
「四季くんと一緒に暮らして楽しかった。満たされた。すごく幸せだった……でも気づいたんです。僕、もうこのままでは満足できないって」
最後の言葉は、四季にとって青天の霹靂だった。満たされて幸せ。それは四季と同じ気持ちなのに、旬は満足できないと結んだ。こんなにも心地よい温もりに溢れたこの空間で、果たして何が渇くと言うのか。四季にとってはこれ以上ないほど満ち足りた生活なのに。きっと旬も同じ気持ちだと信じていた心がかぴりと乾く。
だがそれもほんの一瞬。よく見ると、旬の目に四季が思い浮かべたような気配はない。むしろ覚悟を図るような、深い色をまとっていた。
「これはあくまで僕の意思表示です。受け取るかは君に任せます」
旬は徐にポケットをまさぐる。そして手に握られていたのは、手の平ほどの小箱だった。それは初めて見たはずなのに、強い既視感を与える。漫画やドラマ、撮影の小道具として似たものを何度も目にした。
……それが現れるのは、決まってそういう時だ。
「僕が四季くんからもらいたいもの……それは、未来の約束です」
旬は小箱に手をかける。それはたった一秒ほどの出来事のはずなのに、もったいぶるようなスローモーションに思えた。
どくん、と。鼓動が耳の中に響く。それはとても大きく跳ねた。もしかしたらこの衝撃で肋骨が折れてしまうのではと不安すら覚えるほどに。一度動いたそれは、たかが外れたように脈動を繰り返した。BPMを計測したら恐ろしい数値を叩き出すのではなかろうか。負荷に耐えかねて気絶してしまうのではなかろうか。鼓膜が揺れる度、雑念が脳を霧がけていく。それなのに思考は驚く程に冴え渡っていて、旬の目が何を語っているかを苦しいほどに理解していた。
旬が瞬く。四季が喉を鳴らす。静まり返ったここは、まつ毛が空気を切る感覚すら肌に伝えた。
──そして艶やかな手の平が、ぎこちなく蓋を開く。
「これから先もずっと、君と一緒に家を作っていきたい。居るだけで安らげる……そんな愛の巣を、僕と作ってくれませんか?」
太陽が煌めいた。冬を忘れたような光が、艶やかな銀色を撫でる。それはまるで、とびきりのワンシーンを彩る演出のよう。
分かりきった箱の中。だというのに、四季の心から溢れるのは、これまでに感じたことのない何かだった。
驚き? 確かにあるが、それだけじゃない。動揺? そうかもしれない。それは高校時代、小テストで記名し忘れた時と似ている気もする。あるいは喜悦? いや、違う。なぜなら足りないから。この気持ちはもう──四季の知る言葉たちには、乗せきれない。
「その顔は、どっちで解釈すればいいですか?」
「っ……、本当に、オレがあげて、いいんすか……っ?」
「君にしか渡せないんです。僕がこんなわがままになったのは君のせいなんですから。責任取ってそばにいなさい」
「あは……っ、やっぱり脅しじゃないっすか……」
「伸ばせば手が届くということ、四季くんが教えたんですよ」
「ねぇ、矛盾してるって気づいてる?」
「すみませんね。勝ち戦という自信しかないもので」
「はっ……あはは、もう。やっぱりジュンっちってオレサマだなぁ……」
「それで四季くん、返事は?」
旬の目が細まった。大人になってもまだあどけなさの残るそれだと思っていたが、とんでもない。茶混じりの薄灰色はもう、覚悟を決めたひとりの男のそれだった。
夢を疑った。目の前は現実の出来事なのか。朧な目を乱暴に擦ると、冷たい指先が咎めるように絡まった。閑雅なようで存外に雄々しい手が、濡れたそれをひと撫でする。そしてきんと冷えた銀色の輪が、薬指の先に宛てがわれた。それは動かない。四季が旬を覗き見ると、彼のまっすぐな視線と交わった。旬にとって四季の思考が読めないように、四季にとっても旬の脳内は摩訶不思議。だが今は違う。今だけは、彼の考えが手に取るように汲み取れた。
「はい……っ!」
がすがすに掠れた声。それは聞くに耐えないほど酷かった。しかし旬は、その声を受けると頬を甘く綻ばせる。果たして冬美旬とは、こんなに柔く微笑めた人だっただろうか。幸福に満ちた、なんて言葉では到底表しきれない。それほどに満ち満ちた笑みは、他ならぬ四季のためだけに生まれたもの。その事実が、四季の心を優しく包んだ。
指に通されたシルバーリングがきらりと輝く。それはまるで、ふたりの未来を応援しているようだった。
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