コーヒーミルクチョコレート

 若々しい草葉の匂いを嗅ぐ季節は移ろい、それらは渇いた色気を帯び始める。赤、黄、茶、橙──火照り始めた景色が連れて来るのは、ほんの少しの肌寒さ。吸った空気が体を内々から冷やしていく。「大丈夫」と家を飛び出した今朝の自分を恨みながら、四季は薄っぺらい七分袖を引っ張った。着いたらすぐにパーカーを着よう。温かいカフェオレも淹れよう。それだけを心の頼りに、四季は帰路を渡っていく。風に運ばれてきたのだろうか。高い空以外には自然のない道の中、木の葉がぱらぱらと散っている。
 昔は物足りないと感じていたこの季節。だが今は、この静やかな心地も悪くないと思えるのだ。それにたくさんの葉々が自分たちを代名する赤に染まっていく姿は、むしろ熱狂的にも見える。おまけにそれを冠するリーダーの色だってついてくるのだから、いっそ秋はHigh×Jokerという季節にもなるだろう。そう言った四季に「意味がわからない」と笑っていたのは誰だったのか。今はあまり、考えたくない。
 マンション。外廊下を歩いていく。普段は何の感慨もなく通る場所だが、何だか今日は面した扉たちが視界の端にちらついた。この壁一枚を隔てた先には、四季なぞが知る由もない空間が構築されている。ノリの効いたスーツを着る社会人、講義だバイトだと言いながら忙しなく走る若者。更には上品な空気をまとった老年の紳士や──仲睦まじく寄り添い合うふたり組が、のどかに散歩をしていたり。そうして彼らは思い思いの生活を送っているのだろう。この扉の、向こう側で。
 四季は鞄から鍵を取り出す。これと出会った頃は随分と戸惑ったものだが、今ではすっかり手に馴染んだ。それに繋がれたキーホルダー──せがんでせがんで、やっと頷いてもらったことでお揃いに成功した──も、目を凝らせば小さな傷や汚れがちらほら。雨泥が染み込んだ姿は、今は少し物憂げだ。数日ぶりに対面した鍵穴にキーウェイを差し込むと、スナカンが解かれる音が静かな廊下にしゃらりと響いた。
「ただいまぁ〜……」
 ぬるりと扉を潜りながら挨拶を投げる。まだ十七時だというのに、玄関はもう薄暗い。そこから奥へ伸びる廊下も、久方ぶりに帰った主に対して、やまびこすら返してくれなかった。まるで時計針の進め方を忘れてしまったようなその空間は、記憶よりも侘しく映る。しかし四季は、からを証明するはずの暗さの中に、ほんの少しコーヒーの香りを嗅いだ気がした。
 一番手前のドアを開ける。リビングの照明も今はお休み中。人工光のないそこも暗いと思ったが、窓から差し込む夕焼けによって、ほんのりオレンジがかっていた。それが四季の目に写したのは、まだ一口分ほど溜まったコーヒーカップ、そして無造作に転がるボールペン──どれも今朝出る時にはなかったものだ。
「珍し……」
 今日の旬の予定。朝方からドラマの撮影、その後は教養バラエティの収録。それが終わったらインタビュー撮影。そして夜からは番宣目的のクイズ番組を収録。クラウドに保存された表ではそうなっていた。
 今四季の目の前にあるのは旬ではなく、彼がいた痕跡だけ。平静ならそれすら残さない彼が置いていった濁り跡。それだけで何があったのかは概ね予想がつく。そんな時、ポケットの中の端末が軽快なワンフレーズを口ずさんだ。
『お疲れ様です。ロケは無事に終わりましたか?』
『少し寝坊してしまったので急いで出ました。片付けもできずすみません』
『長時間移動で疲れているでしょう。帰ったら自分で片付けるので、そのまま置いてても大丈夫です。四季くんはゆっくり休んでください』
 続けて吹き出しがぽこんぽこんと現れる。それはそれは旬らしい、丁寧でわかりやすい文面だ。少し長めに綴られた文量にらしくなさを覚えるが、恐らく罪悪感が彼を饒舌にさせているのだろう。別に少し散らかしただけで怒るほど四季は几帳面でもないというのに。きっと必死に謝辞を親指で示した旬には悪いが、四季は堅すぎるその様に思わず一笑した。多分これも受け取られることはないだろう。そんなことを思いながら、四季は明るいスタンプをふたつ押した。
「……よしっ、片付けよ!」
 特段目的のあった発言ではない。いやに反響する声は、それの中身が空っぽであることを存分に知らしめた。感受性豊かな自分の耳がこんなに恨めしいのは生まれて初めてかもしれない。持ちうる言葉が少ないことに感謝したのも、あるいは。
 かろうじて先端は仕舞われたボールペンをペン立てに放り込む。するとプラスチックが中で衝突した。かつん、かたん。これはこんなに心のない音だったろうか。よく聞くはずのそれなのに、今だけ妙に曇って思えた。
 四季はテーブルに目を落とす。あるのは定位置から少し斜めに置かれたリモコン、口をつけられたカップのみ。寝坊した割にコーヒーを嗜む余裕はあったのか。とっくに冷めて香りの飛んだそれは、旬が飲むにはそぐわない。一体いつ注がれたものなのだろう。深い茶黒の表面には、今朝から放られたにしては随分と多い小ゴミがぽつぽつと浮いていた。四季がカップを手に取ると水面が揺れる。そして小さなゴミたちは、波に飲まれてどこかに消えてしまった。
「……喉、渇いたなぁ」
 四季は綺麗な縁に口をつけ、そしてカップを傾け、中の液体を嚥下する。呷ったコーヒーは薄味で、驚くくらい不味かった。


 ついつい後回しにしていたアンケートが溜まりに溜まっている。どれも提出期限に余裕はあるが、恐らくこのままだと尻を叩かれるまでやらないような気がした。だから四季は淹れたてのカフェオレで口直しをしながら、黙々と質問事項に答えていく。こなすべきアンケートの中身はレギュラーや特番、ラジオなど様々だ。
「あ、一回見に行った方がいいか……」
 そういえば今度隼人とふたりでバイク旅をするという企画の収録があった。ふたりとも、このために免許をもぎ取ったのだ。仕事という制限はあるが、その中でもめいっぱい楽しめたらいいと。納車された時に格納して以降姿も見ていない愛車。せめて収録前にはプライベートで触れ合えたら、と四季は青棒との旅を夢想した。
『最近あったメンバーとの出来事は何ですか?』
 そんないじらしさをせせるように、その問いは彼の目に鋭く飛び込む。四季は思わずどきりとした。ピンの仕事が増えたとはいえ、ユニットの仕事だって定期的に入っている。遊び耽る余裕はなくとも、言葉を交わす時間が全くないわけではない。収録中、休憩時間、僅かに重なった仕事と仕事の空き時間。涙が出るほど笑ったことも、トークのネタにもならないような下らないこともあった。しかし四季が真っ先に浮かべた答えは──『無い』。
 無かったのだ。この空いた穴を存分に埋めるほどの出来事など、ここしばらくの彼には、一度も。
「いやっ! なしはナシでしょ! こういうのはなるべく埋めてスタッフさんに協力するのもオレらの仕事だってジュンっちが……!」
 ──言って、いた。その言葉が尻すぼみになって消えたのは、ペン先を動かすことに意識を集中させたていたから。心の中で嘯いた。
 よく考えたら、旬に限らず先輩たちとあまり遊べていない。最多忙は連ドラを抱える彼だが、他も絶妙にスケジュールが重ならないのだ。プロデューサーは尽力してくれているものの、人気が出れば出るほどその辺りはままならない。難儀なものだと心の中で呟いた。
 かれこれ一時間。カフェオレが底をついても、その問いへの答えは書けなかった。

     ◆

「オレ、欲張りになっちゃったんす……」
 車の中で四季は弱々しく、そして静かに呟いた。その隣に座るのは、車の持ち主である春名。彼はシートに背中を預けきって、ドライブスルーで買ったハンバーガーを食べている。車内とはいえ、数ヶ月ぶりに春名と楽しめる食事。どうせならドーナツを食べて幸せ満面の彼を見たかったと四季は思った。そしてすぐに、ついさっき自分が言った台詞を思い出して肩を落とした。
「何だ、食い足りないのか? これ食う?」
「ハルナっちの食べかけなんて嫌っす! 全部ドーナツの味になりそう!」
「何だよそれ、最高じゃん」
 半月型のハンバーガーを差し出す春名からわざとらしく顔を逸らす。しかしそんな反応をされた春名は、まるで微笑ましいものでも見るかのように忍び笑いをしていた。
「で、どうしてシキは自分が欲張りだと思ったんだ?」
 甘い笑みはそのままに。そう問う声は日常会話をするかのようで、しかしからかうでもないもの。ただそこに『有る』だけのものだった。
「……寂しく、なっちゃって」
「時間が合わなくて、か?」
「いや……それは前からよくあったし。あとそういうのは、嬉しさの方が強いんす。その分オレたちのアイドル活動が充実してるってことだから」
「じゃあ何が寂しいんだ?」
「何……って、まぁ、それは……あれっすよ。同棲始めたら……」
「あー、人の気配に慣れてるとひとりの時に感じるよな。オレもひとり暮らし始めた時とかそうだったかも」
「ホームシックひどかったっすもんねー。ボクもうお家に帰る〜! って」
「言ってねぇよ!」
「わー! ボーリョクはんたーい!」
 下手な泣き真似をすると、春名は四季の肩をパンチする。音すら出ないような勢いだ。痛みは全くないが、その拳は不思議と重かった気がした。
 ひとしきり笑いあったら、車内は水を打ったように静まり返る。ハンバーグとケチャップ、塩の匂いしかない空間に、それは少し不釣り合い。
「ところでさ、欲張りの何が悪いんだ?」
 そんなえも言えぬ雰囲気の中、春名は口元をもごもごさせながら言った。あっけらかんとした様に、四季は思わず面食らう。
「え、いや……だって、そんなわがまま言ったらダメじゃないっすか……?」
「そんくらいでわがままでも何でもないだろ。好きな人と一緒にいたいって普通の気持ちじゃん。ジュンだって、そういうのを嫌がる奴じゃないだろ?」
「そ……れはそう、なんすけど……でも……」
 春名の言う通りだ。旬が四季の恋情を疎むことはない。そんなことはわかっている。しかし頭の中で、どうしても何かが引っかかるのだ。この気持ちが、旬の範囲を超えているような気がして。だが頭を回しても、不明瞭なそれは形を表してくれない。果たしてこれは、何なのだろう。
「なぁシキ。ジュンって責任感が強いじゃん」
「そう……っすね」
「そんなジュンが、軽い気持ちで同棲を決めたはずないだろ? いくらシキが言っても、ジュンの中でこれってものがなかったら部屋まで借りないって」
「……だから?」
「多分ジュンも欲張ろうとしてるんだよ。シキとの時間とか……関係を」
「関係、を……?」
 四季の呟きに春名はふわりと微笑む。春名には見えて、自分には見えない旬の心。それに一物芽生えぬこともないが、さりとてこれも春名の心遣いとわかるだけに八つ当たりもできない。
「ナツキほどじゃないけどさ、オレだってジュンのことはそこそこ知ってるつもりだぜ。高校の時からずっと一緒の……友だち、だしな」
 それまでまっすぐだった瞳が逸らされた。頬を掻く仕草は、相も変わらず愛嬌がある。四季がそれに魅せられてくすりと笑うと、気まずそうな目に睨まれた。舌を出してウィンクをしたら、しょうがないなと苦笑してくれた。
「そもそも欲張っても許されるのがお前らの関係だろ。つーかシキくらいのなんて可愛いもんだって。そんなに悩むなよ」
 春名は咳払いをしながら言った。欲張っても許される。自分と旬は、そういう関係。四季は大きな衝撃を感じた。するとその瞬間、脳裏に旬の顔が浮かんでくる。
 おねだりに溜め息を吐きながら、眉を下げて微笑む旬。甘えたら照れ臭そうに困り顔を浮かべた旬。理不尽な我儘を受けて怒っても、お決まりの台詞を言いながらつんと顔を逸らす旬──そうだ、あれは全部そうだった。彼はいつだって四季を許していた。どうしてすっかり忘れていたんだろう。旬はいつだって、真っ直ぐに愛してくれていたのに。一瞬己が情けなくなったが、それを出すのは今ではない。四季は小さく息を吐くと、悪戯な笑顔を春名に向けた。
「えー、オレ可愛いっすか? じゃあシキっち、唐揚げも食べたいなぁ……」
「何だよ、やっぱり腹減ってんじゃん。コンビニ寄るか」
「やった! ハルナっち男前~」
 春名はにっと笑うと、愛車を走らせた。道路の段差にぶつかって、時々揺れるのが心地いい。その感覚を楽しみながら、四季はまだ見ぬ唐揚げに心を馳せた。

     ◆

 春名とご飯をしてから二週間。あれから息着く間もない忙しなさだった。何より、バイクでの長旅が体に来た。ついに愛車に日の目を浴びせられたことも、風を浴びる感覚も、道中で出会った店や景色も、何より隼人と遠出をしたのも。かつての自分は体力が大きく欠落していると思っていたが、どうやら若さでカバーできていたらしい。当時より体力はついたはずなのに、もう楽しい遊びには同じだけの疲労を感じるようになってしまった。それでも心は幾分か軽い。いいリフレッシュになったと四季は小さく微笑んだ。
 年の功。よく気の利くプロデューサーは、四季以上に彼の体を理解している。もう今日明日は自宅でできる仕事だけを任せ、あとはゆっくりしてくれという労いと、ハンディカメラを残して帰っていった。それは動画サイトに設立した315プロの公式チャンネルの撮影機材。次は四季の当番回なので一応預けたといったところか。とはいえ何を撮るかも決めていないので、ネタ出しをすることにした。
 伊瀬谷四季といえば? で連想されるようなものは大体動画化されている。カラオケ採点や激辛料理の食レポ、季節ごとのファッション企画……どれも擦ったところで大した面白みはない。どうせだったらもっと早くに借りて、この前のバイク旅の裏側でも撮ればよかった。秋口の海に滑り落ちた隼人、なんてなかなかの撮れ高もあったのに。その後彼を温めるために近くの売店で買ったコーヒーが美味しかったのだ。せめてカットされずに放映されたら、と四季は一抹の悔しさを空にかけた。
 時刻は十六時過ぎ。プロデューサーの車の中から見上げた時はまだ甘い水色だったが、今は少しオレンジ混じり。四季は私物のスマートフォンを掲げ、その空を一枚収めた。昔の人は上手いことを言ったものだ。焚き火に当てられたかのように静かにとろりと染まっていくそれは、確かに美しい夕焼けだった。SNSにアップ……は自宅だから無しとして。誰か、共有したい人。
 LINKを起動してトーク欄をタップする。馴染んだアイコンを求めてスクロールしていると、LINKのアイコンがステータスバーにポップした。
「ん? 誰っすかー……」
 記された差出人に、四季は思わず一驚した。指を眼鏡にぶつけながら目を擦り、瞬きを五往復。そして上を向いて息を細く吐く。たっぷり十秒数えてから再び画面に視線を落とすが、表示はさっきと変わらない。
「じ、ジュンっち……⁉︎」
 それは全く予想し得なかったもの。だってまだ撮影中のはず。だが読み返しても、時計を見ても、文面に変化は訪れない。
『お疲れ様です。クランクアップしたので帰宅しています。四季くんはどちらですか?』
『あと二十分ほどで到着します』
「うっそぉ……ガチ?」
 淡々とした文字の羅列。しかしそれらは、落ち着き払った様相に全く似合わない爆発力を持っている。正直困惑が先行してしまった程には。しかし旬がひとつ肩を軽くできたのは良いことだ。そして何より、直に四季の元にやって──いや。帰って、くる。
「……いっそいで片付けなきゃー!」
 気疲れのまま自堕落に過ごした部屋は、帰って一時間とは思えない散らかり具合。鬼が来ては堪らない。待ち焦がれた恋人を出迎えるべく、四季はどたばたと掃除を始めた。


 時計の針が文字盤を刻んでいく。普段は耳にも入らぬその音が、今はひどく心臓を揺らした。追ったってどうしようもないのに、目は秒針の進みをついつい見守ってしまう。二十分って何秒だっけ。一分が六十秒で、それが二十あるのだから──いや、結局そんな計算に意味はない。いくらだろうと、それは永遠で、一瞬。気の遠くなるような刹那を重ねて、コンマ一秒で泡沫となる悠久に佇む。それが今なのだ。
 どくん、どくんと胸が鳴る。あまりの振動。果たして鼓膜は耐えてくれるだろうか。ぶわりと湧いた緊張は、はち切れそうな胸を止めてはくれない。生唾を飲んだら、その轟音に鼓膜が痛んだ気がした。
 それの僅か三秒後、玄関から金属音がした。それを認識する前に、足はとうに動き出す。裸足で駆ける廊下は冷たいけれど、今の四季に温度を感じるための脳はない。その中は、ただ一点の感情に埋め尽くされていた。
 ドアノブが回る。あぁ、ならこの向こうはの人が。爪先にサンダルを引っかけて踏み込めば、出会うのは当然──激しい痛み。
「んぶっっ‼︎」
「はっ?」
「っ……! っ、たぁ……!」
「え、四季くん⁉︎ 何をしてるんですか⁉︎ まさか今の……」
 鈍い痛みが顔中に広がっていく。特に鼻なんてとんでもない。まさか曲がっていないだろうな。軽く触れて確かめるものの、やはり鈍痛しかわからなかった。
「怪我は? 眼鏡は割れてませんか? 骨は折れていないですか?」
「眼鏡は平気! 折れ……も大丈夫だと思うっす! 骨折の痛みって、こんなもんじゃ済まないっすから」
「一応病院に……」
「いや、ひとまず冷やしとけば大丈夫っすよ」
「ならそうしますけど……引かないようなら連れていきますからね」
「はぁーい……」
 旬は右手に大荷物を、左手に四季を携えて廊下を先導する。なんて格好のつかない再会だろう。色気のない赤面をしながら、四季はとぼとぼと歩き出した。


「どうですか?」
「むぁー、ふぁんふぁんふーへひふぁっふ」
「すみません、何て言ってるのかわかりません」
 四季は冷えたタオルに顔を埋めながら、隣の旬に答える。しかし当然すっぱりと斬られた。それにブーイングをしても、不満はふかふかの白いタオルの中に消えていく。何年か前に、お中元だったかお歳暮だったかでもらったそれなりの品だ。気位の高いそれは、子供じみた不満もふわふわといなす。四季は諦めてふかふかすることにした。
「すみません。痛い思いをさせてしまって……」
 旬は心から後悔しています、と叫ぶような弱さで言う。だがあれは明らかに自分の過失だろう。四季は急いでタオルから顔を出した。
「いやいや、ジュンっちは悪くないでしょ。オレが飛び出しちゃったんすから」
「でも君がそういう行動をすることは予想出来たはずなのに……僕が浅はかに開けてしまったから、君の顔が……」
「じゃあジュンっちがちゅーしてくれたら許すっす。それでチャラってことで!」
「それ、釣り合ってないんじゃないですか?」
「オレの中では釣り合うからいーんすよ。ほら、んーっ」
 言うやいなや、四季はわざとらしく唇を尖らせて目を閉じる。薄暗い瞼の向こうで、旬は何を思っているのだろう。どうせ自罰的なことと……自惚れでなければ、責め苦に似合わない喜びか。しばらくそのまま待っていると、鼻の頭にぷにんと温かいものが触れた。
「冷たいです」
「冷やしてたんだから当たり前じゃないっすか」
「赤み……は、引いてますね。ここは痛くないですか?」
「ん、へーきっす」
「こっちは?」
「そっちも大丈夫」
 旬は唇で両の頬、顎や目元、額をひとつずつ確かめていく。始めは労りが大きかった口付けも、回を重ねる度に違う色を滲ませていた。
 もう許しなんて言い訳が効かなくなったら、唯一の未確認はひとつだけ。
「……そういえば、まだジュンっちに言ってなかったっすね」
「ん……? 何をですか……?」
 小さく響いたのは、微糖のような低い声だった。四季は旬の首に腕を絡めて顔を寄せる。そして元気に、だけど淡く囁いた。
「おかえりなさい!」
「……はい、ただいま」
 笑って言うと、旬も蕩けた微笑みで囁き返した。その唇たちは内緒話をするように、ひっそりと静かに身を寄せる。その熱は、今まで重ねたキスの中で一番熱かった。


 たっぷり充電して、心の余裕もやる気も満タン。四季は机に齧り付く勢いでバリバリと事務作業を消化し始めた。ほっぽられた旬が少し不満そうな気もするが、あえて無視。彼のプロ意識を信じつつ、でも空いた右手で頭を撫でたり頬をつついたりと甘やかしていた。それで気が落ち着いているのかは定かでないが、そちらに脳のリソースを割けるほど四季は器用じゃない。どうかこんな下手な甘えを許してくれと胸中で念じるが精一杯だった。
「……それ、うちのバラエティですか?」
「うん? ごめん、もう一回」
「僕たちの番組のアンケートですか?」
「そうっすよ。ジュンっちはもう出したんすか?」
「実はまだなんですよね……」
「じゃあ今書くっすよ! はい、どーぞ!」
 なんと旬もまだだったらしい。提出物を捌くのが早い彼すらもと思うと、これまでが如何なスケジュールだったかが窺える。四季がボールペンを差し出すと、旬はそれを受け取って机に置いた。
「紙、取ってきますね」
 旬はすくりと立ち上がり、自室へ向かっていった。その背中を見送ったら視線はすぐ紙面に戻る。書きかけの──正確に言えば、先日飛ばしたっきり手付かずの問い。まだ返事をもらっていないそれにどんな言葉を与えよう? 四季が考え込んでいると、少し上から声が降ってきた。
「最近あったメンバーとの出来事は何ですか……ですか」
「あ、おかえりなさーい」
「はい、ただいま。困ったな……書けそうなことがありません」
「まぁジュンっちはそうっすよね。実はオレもここで悩んでて〜……」
「仕事でなら絡みもありましたけど……多分聞きたいのはプライベートですよね。連絡も事務事項だけだったし……」
「ま、オレはもう決まってるっすけどねー!」
「誰かと遊びにでも行ったんですか?」
「そーいうんじゃないっすけど〜……だからこそ、これっす!」
 四季はさらさらと書き込む。あの時は書けなかった──思い至れなかったこと。今なら言える、素直な気持ちを。
「は……ふふっ」
 突きつけたアンケート用紙をしばらく視認する旬。黒目が右から左へと流れ、端でぴたりと止まると、それはくしゃりと破顔した。
「いいんじゃないですか? 僕もそう書こうかな」
「あ、丸パクリはマナー違反っすよ!」
「パクリじゃなくて……僕も同じ気持ちなので」
「んー、じゃあ許可するっす」
「ふっ……光栄です」
 背もたれにふんぞり返り、仰々しい態度で言い放つ。どや顔の四季に旬は小さく笑うと、これまた仰々しい返事をした。一礼をする仕草は流麗で、まるで本当に自分が偉くなったかのように錯覚させられる。
『みんな忙しくてなんっにもできてないっす! だからどこかに遊びに行きたい!』
 それは紛うことなき本音。いつの間にか追いやられていた、四季自身も気付けなかった願い。罪悪感で蓋をしていたそれは決して臭いものなどではない。きっとみんな、同じ気持ちだろうから。
 やっと言葉にできたことで晴れ晴れとした心地になる。回答欄を突き抜ける勢いで書かれたそれを見た旬も、嬉しそうに笑っていた。こんな風に誰かが喜んでくれるのなら、欲張りだって美徳だろう。伊瀬谷四季の我儘は、そんなものなのだ。
 どことなく楽しそうな横顔でアンケートを書き込む旬を見る。どうせなら、ついでに男としても欲張ってしまおうか。四季は旬の更に近く、肩がぴったりくっつく場所に腰を落とした。すると一瞬旬の体が揺れる。しかし次の瞬間には、四季の横腹を掴んで引き寄せた。珍しい強引な仕草に今度は四季が驚くが、それもすぐ幸福へ変換される。小さな肩に頭を乗せながら、幸せだなぁと噛み締めた。
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