コーヒーミルクチョコレート
遠くから音が聞こえるような気がする。それが意味を持つのか、それともただ鳴っているだけなのかはわからない。でも何となく、自分に向けて発信されて、いる、ような──
「四季くん。起きてください。朝ですよ」
「う……、んぁ……?」
「おはようございます。出られないので、退いてくれませんか?」
「んえー……あと、よんじゅっぷん……」
「何ですか、その贅沢な要求は。七時に起こせと言ったのは君でしょう」
あぁ、これは旬の声だ。微睡む意識の中で四季はそれだけを理解した。それに返答した気もするけど、内容は混濁した霧の奥。だってまだ眠たいのだ。今日の仕事は昼を過ぎてから。今が何時かなんて知らないが、これだけ眠いのだから、まだ少しはシーツに甘えたって許されるはず。そう思って掛け布団に潜り込むが、依然体は揺らされ続けた。
「君を踏んづけないと出られないんです。それとも踏まれたいですか?」
「あー……顔以外なら、いいっすよぉ…………」
「……そうですか」
やがて意識は振動によって上昇し始める。まだ脳に血が通りきっていないのか、頭はまだもったりと重い。だが薄らぼんやりした視界がほんの少しだけ晴れると、壁を背にして眉根を寄せる旬が映った。彼の手は、四季の腹に圧をかけるように置かれている。しかしまだ寝ぼけたままの四季には、圧迫感による苦しみよりも、眠気がもたらす不快感の方がよほど強かった。だから四季はどうぞどうぞと投槍に体をだだっ広げる。それを見た旬の眉間の皺は、更に深く刻まれた。
「では遠慮なく」
「ぶえっ……! まっ、ジュンっち、そこはガチでアウトな場所……!」
立ち上がった旬は、片足を上げたと思うと躊躇なく四季へ落とす。それが着地したのは中央部、所謂『大事なところ』だった。とはいえまだ足を置いてるだけに過ぎないのだが、如何せん今朝の旬は虫の居所が悪いらしい。手とは比べ物にならない圧をしっかりかけていた。
「起きます起きます! だからオレのちんこ踏まないで!」
「顔以外なら、とのことだったので」
「ここはアンモクのリョーカイってやつっしょ⁉︎ ひどいっす、ジュンっちにだって同じものがついてるのに!」
「だから手加減してあげたんですよ」
「あれで⁉︎」
旬は痛みに飛び起きた四季を見下ろす。そして何の感慨もなさそうな足運びで後ろを通り抜け、あっさりとベッドを降りた。そんな背中に批判の眼差しを刺す。後を引くほどではないにしろ、起き抜けに急所を踏みつけられたのだ。不満を訴える権利はあるはずだが、肩越しに振り返る旬の横顔は、四季以上に不満気だった。
「……午前は暇だから一緒に過ごしたいって言ったくせに」
「んえ?」
「別にいいですけどね。寝たいならどうぞ? 睡眠は大事ですからね。英気を養うことも必要でしょう。まぁこの先家で顔を合わせる時間も少なくなるので、最悪クランクアップまで会えないかもしれませんが」
「え……あっ、ちが! ごめんなさいジュンっち、寝ぼけてただけなんすよ! 許して! 置いてかないで!」
尖った口から零れた言葉は、文句と形容するには弱気な語気。その後には、いかにも拗ねていますと言わんばかりの台詞が並んでいく。早口で捲し立てながら出入り口までずんずん進む旬の姿を見て、ようやっと目を覚ました四季は彼の腰へと縋りついた。こんなことは茶飯事。しかし今得ている悲壮感は、間違いなく人生最大級のものだった。
「まったく……ほら、洗面所に行きますよ。早く立ちなさい」
「うぅ……」
旬は溜め息を吐くと、困った顔で四季を見下ろす。そして四季の両手を取り、彼の腕を引き上げた。彼が起立したことを確認した旬は、四季を掴んだ手はそのままに歩き始める。まだ機嫌が悪いのか、はたまた体にまとわりつく起き抜けの気配を早く落としたいだけなのか。それは少し性急に思えた。とはいえ旬の気分を損ねずに、そのことを指摘する方法が思い浮かんでくれることはない。四季は無言で着いていった。
これまでは不文律の下、洗面所を共有してきた。偏に狭いからである。ふたりで入れないこともないが、のびのびと身支度をするならこの洗面所はひとりが理想。肩を並べると、それだけで既に不便を感じた。
「オレ出るっすよ」
「ダメです。ほら、早く磨いてください」
「えぇ……?」
旬は四季に歯ブラシを持たせると、穂先に歯磨き粉を搾り出す。有無を言わさぬその行為によって、四季は完全に洗面所に縫い止められた。旬は既に歯ブラシを動かしている。その隣で同じ行為をする以外に、今の彼にできることはなかった。
「お尻邪魔です。引っ込めてください」
「いや顔洗ってる時に言う⁉︎」
「通れないじゃないですか」
「だから言ったのに……! もうちょっと待ってて、あと端っこだけだから!」
例え朝でも、旬は当たり前に自己中だった。歯を磨いて顔も洗って、さぞ目も覚めたろうに。四季を振り回す言動は、二段構えの洗浄でも落とせないらしかった。
気持ち性急に洗顔料を洗い流して、曲げた腰を伸ばす。それに満足してくれたのか、背後で旬が動いた。だがまだ洗面所の中に気配は残ったまま。何をしているのかとタオルに顔を埋めたまま考えていたその時、柔らかい刃先が後頭部を滑った。
「おわっ! 何⁉︎」
「寝癖がついてます。これ、ブラシでどうにかなるかな……」
「そんなにヤバい?」
「ヤバいです。真後ろだと見えないでしょう? 僕が直してあげますから、君はスキンケアでもしててください」
旬はそう言うと再び手を動かした。差し込まれたブラシのピンが髪の一本一本を撫でていく。人に頭の世話をしてもらうのは心地いい。美容院でも時々寝こけてしまうほどには、これは髪と共に心も解きほぐす、そんな抗えなさがある。だが今はどうだろう。時々鏡に映り込む旬の顔は、柔らかくて暖かい。そんな眼差しを与えられるのは、どうにも。
(今日、肌の調子悪くなるかも……)
こんな状態で満足なケアができるものか。少し恨めしい気分を感じつつも、四季はパッティングを再開する。しかしやはり意識は肌ではなく髪──をいじる旬の元。心地よさと居心地の悪さに挟まれながら眉間に皺を刻む。何よりも、それが不満でないことが不満だった。
落ち着きのない洗面所での支度を終えたら次は食事。香ばしい小麦と、その上で溶けるバターの匂いを携えて、ふたりはリビングのソファーに腰を下ろした。
「さすがに毎日パンだと飽きますね……」
「ホントっすよー。誰かさんが半額だからって買い込まなきゃ、今頃冷凍庫の中ももっとゆとりあったと思うっす」
「その節はどうもすみませんでした」
「あ、逆ギレ」
「してません。実際、僕が浅はかだったんですから」
強まる語気を押し込むように、旬は齧ったトーストを飲み込んだ。一緒に頬張った言葉に嘘はないだろうが、まるきり事実という訳でもないのだろう。旬の眉間には、四季の指摘を肯定する二本皺が刻まれているのだから。
「ご飯を用意してくれる人の偉大さを感じるっすねぇ」
「そうですね。自炊をすると、こんなにも買い物が難しくなるとは思いませんでした」
「でもジュンっち、ここに来る前はひとり暮らしだったっすよね? その時はどうしてたんすか?」
「…………惣菜、です」
「あー、自炊は全くだったんすね?」
「そこまで手間を割きたいと思えなかったんです。料理も時間がかかりますし……それなら確実に美味しいものを買って、残った時間で仕事をしたかったので」
「でも今はやろうって思ったんすよね。成長じゃないっすかー」
旬の主張もよくわかる。だからこそ彼の変心に素直に感心した。旬は案外やりたくないことはやらない人。それを加味すれば尚のこと。だが旬は四季の感心をあしらうように、感慨なく呟いた。
「まぁ……ひとりのままなら、変わらなかったと思いますが」
さくり。旬の歯がトーストを切る音がした。それは何の意味もないオノマトペ。だというのに、耳は大袈裟なほどその音を過敏に拾う。
「ちょっと……そんな顔しないでもらえますか」
「へ?」
「そこまで照れるセリフじゃなかったでしょう……まるで僕が恥ずかしいことを言ったみたいじゃないですか」
「や、だって、さぁ……」
心外だと言いたげに眉を釣る旬。しかし実際、先の言葉は『恥ずかしいこと』ではないのだろうか。それとも勘繰る自分が悪いのか。深く考えず漏らされた言葉はザラメのように、食べかけのトーストを甘くした。
「忘れ物はありませんか?」
「バッチリっす!」
「夕食は作っておきますけど、誘われたらそっちを優先してくださいね」
「え〜、愛妻料理の方が食べたいっすよ〜」
「では今から食パンを焼きますね。夜になるし、三枚くらいでいいですか?」
「ごめんなさい」
その言葉を想像して、軽く血の気が引いた。ただでさえ一日二枚のノルマをこなしているのに夜まで、しかも冷めたトーストなんて勘弁してほしい。舞い上がった揶揄に釘を刺され、四季はすぐさま手の平を返す。そして咳払いで気を取り直し、バッグの持ち手をきゅっと握った。
「じゃあ、行ってくるっすね」
「あ、四季くん。ちょっといいですか?」
「ん? 何すか……」
振り返ると旬が手招きしていた。ゴミでもついていたのか、もしくは髪が乱れていたのか。何にせよ、特に疑うこともなく四季は彼に近寄った。
目の前で止まって旬を見上げる。すると四季を呼んだ手が浮いて顎に触れた。それに突き上げられた反動で更に上向いた四季の顔。そこに旬の頭が、一瞬だけ寄り添った。
「えっ……」
「……みんなに胸を張れる仕事をして来れたら、続きをしましょうね」
「へ、ちょ、ジュン……」
「早く行きなさい。遅刻は御法度ですよ」
含みたっぷりな旬の言葉。不意に与えられた予想外に四季は食いつこうとするが、彼にそれを聞くつもりはないらしい。肩を掴まれると、強制的に体を扉へ向けさせられた。
「……その言葉、ぜーったい忘れないでくださいっす!」
そっちがそのつもりなら。もう真意を追うのは諦めよう。その代わりに不敵な笑みをひとつ送る。四季が歯を見せると、旬も微笑みで応えた。それを最後に、四季は玄関から出発する。
ひとりだけでは持てない勇気だって、隣に並んでくれる誰かがいれば、あるいは。四季は今日も全力で仕事に向き合う。唇の端に、触れた熱を携えて。
◆
浮かれた足取りで道を跳ねる。そんな四季を煽るように、手の中のエコバッグが気のいい歌声を刻んでいた。ひとつ飛んではがさがさと、もひとつ飛んでまたがさり。普段なら耳障りなそれだって、今の彼には小鳥の囀りに等しい。
家に帰ればあるのは静寂。今日の旬はドラマの撮影。四季が眠るまでに帰るのは難しいそうだ。当然旬は既に出掛けており、中に人の気配はない。しかしそれを寂しく思う心はなかった。
『ご飯は三合炊いています。おかずも用意しておきました。一品だけなので、もし足りなければ帰りに買ってきてください』
それは昼下がりに受けたメッセージ。五分休憩の最中を狙ったように送られたそれは、少々心が疲れていた四季にとって大いなる水だった。
大抵の人間を許容できる四季も万能ではない。どうしたって苦手な人種というのは存在した。今日はたまたまそういう人たちとの共演が重なって、たまたま四季も日々の疲れを癒しきれていなくて。まだ仕事は残っているのに体は「お風呂に浸かって寝たい」と駄々を捏ねていて。そんな厳しい現実に翳っていた時に見たのが先のメッセージ。四季は現金だった。そこから時間は足早に流れていき、気づけばもう自宅の前。何とか手を空けてドアを押したら、ようやっとの我が家である。
「ただいまーっ!」
四季は陽陽と玄関内へ飛び込む。そしてエコバッグを床に置き、ブーツに手をかけた。最近はこれを履くために服を着ていると言っても過言でないくらいのお気に入りだが、こと今に限っては編み上げたそれが煩わしい。早く、早く、早く! とっくに玄関から去った心が、紐を解く指を焦れさせた。
いつもの倍時間がかかったが、何とか紐を解いた四季は雪崩込むようにリビングに入る。ざっと見回したところ掃除がされているようだ。家事はまだまだ不得意な旬。そんな彼が自信を持てる多くない中のひとつがそれである。限られた時間の中でやってくれたのであろう。リビングは、今朝見たよりも綺麗になっていた。
「休んでいいって言ったのに」
自分よりよっぽど忙しいというのに。それでも帰った四季がやることがないレベルまで片付けてしまうのだから、本当に彼は真面目な人だ。ふと微笑むと、それに釣られたように腹の虫がぐうと鳴く。だって先程から微かに香るのだ。四季の食欲を刺激する、ピンとスパイシーな美味の気配が。
『おかずは麻婆豆腐です。まずくはないと思います』
キッチンにやって来ると、コンロには蓋を被ったフライパン。近づけば、冷めはしているもののやはり美味しそうな匂いがした。その中にいるであろうお目当てとの邂逅を前に四季の心はいっそう弾む。わくわくしながら蓋を開けると、中には美味しそうな麻婆豆腐がいっぱいに詰まっていた。ライトを受けてつやつや輝く赤い餡。その中に点在する青々とした長ネギが、両者をより魅力的に写している。そして所々型崩れした豆腐や、匂いだけでもわかる辛味の強さ。それらは旬がしたであろう苦労を静かに物語っていた。
「うおぉ……マジメガおいしそう……」
思わず涎がこぼれそう。今すぐにでも掻き込みたい衝動に駆られるが、せっかく旬が用意してくれた手料理だ。とびきり綺麗に盛り付け、腰を据えて頂くべきだろう。
四季はエコバッグを開く。やっとスペースが空き始めた冷凍庫。そこにドリアやピラフ、パスタなどを要領よく詰め込んで、袋詰めされた野菜と卵を台所に並べた。
「よーっし、激ウマなものを作るぞ!」
そう宣言した四季は、気合いを込めて腕を捲った。
数十分後、四季はリビングに着いていた。テーブルにはほかほかの白米と、温め直した麻婆豆腐。そして出来立てのスープと副菜が並んでいる。それらを一瞥し、手を合わせた。
「いただきます!」
真っ先に取ったのはレンゲ。それを麻婆豆腐に差して掬い上げると、レンゲの側面がとろりと赤い餡でてらつく。四季は取り皿にめいっぱい盛りこんで、期待の漲る顔でそれを頬張った。
「……! んまっ!」
口に入れた瞬間、餡のコクや挽き肉の旨味、豆腐の優しい味わいと、長ネギのしゃきしゃきした食感が広がった。そして何より、舌や内頬を手加減なしに痛めつける強烈な辛味。それは正に四季好みのものだった。恐らく、作った本人が食べられないほどに。
「ジュンっち、最近甘々だなぁ〜……」
ピリピリ、ちくちく、じんじんと。粘膜という粘膜を激しく痛め付けられる。その痛みこそが、麻婆豆腐に込められた最大のスパイスなのだ。
◆
夏と言えば祭りに花火、海やプールなんかもある。何より一番は夏休みだが、卒業してしまえばそれは青春と共におさらばだ。加えて学生時代ほど遊びに行ける時間もない。つまり今の四季にとって夏というのは、暑くて過ごし辛いものなのだ。大人とはなんとも世知辛い。きりりとした顔で日々を生き、娯楽にお金をたくさん使える。格好よくて夢に溢れただけの存在ではなかったのだ。
アスファルトから跳ね返る紫外線が辛い。蝉の声なんて聞こえないのに、何故こんなにも夏真っ盛りなのだろう。どうせなら今でも虫取りが好きな誰かさんのためにも出てきてくれたらいいのに。いまいち風物詩に欠ける様に、そんなことを思った。
「……ん?」
こんなところで項垂れていても気温は手を緩めてくれない。一秒でも早くエアコンに漕ぎ着けなければ干からびてしまうだろう。四季は家を目指し前へ向き直した。すると手前のT字路、壁の中から後ろ姿が覗くように生えている。それが羽織っているモカのサマーカーディガンは記憶に新しい。それは先日、あの人が自慢していたもの。
「ハヤトっち!」
「うおっ、シキ! びっくりしたー……今帰り?」
「そうっす! こんな所で会うなんて珍しいっすね」
「あはは、そうかもな」
曲がり角まで駆けるとその人──隼人が勢いよく振り返る。突然声をかけられて驚きはしているものの、それはすぐ人好きのする笑顔に変化した。隼人は大きめのトートバッグを持っている。それは彼が作曲をする時に使っているものだ。
「もしかして、ジュンっちと相談するために来てた……⁉︎」
「違う違う。前泊まった時に忘れ物しちゃってさ。それを取りに来たんだよ」
「え、じゃあうちからの帰りだったんすか? 何で帰っちゃうんすかー。この後予定ないなら一緒にご飯食べよ? オレもジュンっちも時間あるんすよ」
「だからジュンに追い出されたんだよ」
「えっ⁉︎」
四季は自分たちの家へ続く道に背を向ける隼人の腕を掴みながら誘う。彼とは定期的に会ってはいるものの、食事に出掛けることは久しくない。楽屋でケータリングを食べるのがせいぜいなのだ。それは旬だって似たり寄ったりのはず。彼も隼人が大好きなのだし、一緒にいれば楽しいだろうに。そう思ったのだが、当の隼人は思いもよらない事実を告げる。四季にとっては青天の霹靂だった。
「ほんと羨ましいよ。ふたりを見てると彼女が欲しくなる!」
「ハヤトっちほどのいい男を世界が放っておくわけないじゃないっすか! いつか絶対に出会えるっすよ! カノジョ……なのかカレシなのかは、わかんないっすけど!」
「シキが言うと説得力あるなぁ」
四季の言葉に隼人は一瞬驚き、笑う。そして彼は四季の肩を掴んで帰路へと押した。
「ほら、早く帰りな。このままだとジュンがキリンになっちゃうぞ」
「もしなってたらデコっとくっす」
「火に油だろ、それ。じゃあ俺行くな」
「はーい。バイバイシュー!」
お決まりの挨拶に隼人は手振りで応える。彼は数度振ると、踵を返し歩み始めた。四季はその背中をしばらく見送る。
「……オレも帰ろ!」
そして四季も足を出す。地面を浅く蹴りながら、家で待っているであろう旬の姿を思い描く。仕事でもしているのだろうか。それとも家事をこなしているのか──あるいは、四季の帰りに胸を躍らせてくれているだろうか。これだけはいまいち想像つかないが、そうだったらどんなにいいだろう。荒い画質の妄想に四季は笑った。そんな彼が見ている景色の中に、茹だる暑さはもう存在しない。
「ただいまっす!」
言うと同時にドアを開ける。すると中から嗅ぎ慣れた家の匂いと冷えた空気が流れてきた。人工的な冷たさは四季に再び夏を思い出させる。そういえば暑かったのだ、と汗が皮膚に滲み始めた。慌ててドアを閉めると、直後洗面所から旬がひょこりと現れる。
「おかえりなさい。どうぞ」
「わ、タオル! サンキュー、ジュンっち!」
「昼は済ませましたか?」
「まだっす。一緒に食べたかったし」
「そうですか。では炒飯があるので、それを解凍しましょうか」
「あっ。そういえばジュンっち、何でハヤトっちを追い出したんすか!」
「もしかして会いました?」
「うん。ハヤトっち泣いてたっすよー? 『ジュンに追い出されたよー、えーん』って」
「まさかそれハヤトのつもりですか? 嘗めてるとつねりますよ」
絵文字のようなわざとらしいポーズを作ると、旬は露骨に嫌そうな顔をする。声色だけは寄せたつもりなのだが、残念ながら彼のお眼鏡には適わなかったらしい。つねられる未来を避けるべく、ポーズはすぐに解除した。それを見て旬は嘆息する。
「そもそもハヤトが泣くわけないでしょう。むしろニヤニヤしながら帰りましたよ」
「ニヤニヤ……? 何で?」
「……ほら、いつまで玄関にいるつもりですか。早く昼食にしましょう」
旬の言葉に引っかかる。確かに隼人の機嫌はよさそうだったが、あれはそんなにいやらしいものだっただろうか。不思議に思って問うが、旬は少しぶっきらぼうな声色で話を逸らす。これ以上の問答は禁ず。そんな意思を示す背中に、四季はただついて行くことしか出来なかった。
炒飯は無事解凍に成功し、安堵する美味しさだった。やれ今日はハードだった、暑すぎて体力が無駄に奪われる。そんな草臥れた会話を挟みつつ、熱々の炒飯を冷たい麦茶と共に飲み込む食卓だった。その次は食後のブレイクタイム。四季はキンキンに冷えたサイダーを、旬は水出しのアイスコーヒーを楽しんでいた。
「……っ、はぁ〜、生き返る〜……」
「おじさん、筋肉痛は大丈夫そうですか?」
「歩いて来たしセーフってことにならないっすかね?」
「一応お湯は張りますか」
「えー、こんな暑いのに湯船に入ったら茹で上がっちゃうっすよ。オレが茹でシキになってもいいんすか?」
「マヨネーズをつけたら美味しそうですね」
「え、もしかしてエロい話してる?」
「何がどうなればそんな発想が出るんですか? 気持ち悪い……」
「やだやめて、そんな冷たさは求めてないっす」
運動がメインの収録によってしくしく泣いている脚を揉む。昔よりましとはいえ、苦手なものは苦手なのだ。そんな四季を旬が心配する。それが少しむず痒くて、だからほんの軽い気持ちで悪ふざけをした。すると暑さなんて一瞬で消えそうなほど冷たい視線が四季を刺す。怖いっすーと甘えた声で抱き着くと、刺さる温度は僅かに上昇した。
「暑い」
「えー、こんなにエアコンバチバチに効かせてるのに?」
「暑いものがくっついてきたら意味ないでしょう」
「でも剥がさないんだ?」
「ぐ……」
上目遣いで問い掛けると、旬は言葉を詰まらせる。彼は四季の両肩に手を置いているのに、決してそれを前に押そうとしないのだ。
──あ、今日はいける。そう確信した四季は、旬の胸板に頭を擦り寄せた。
「……まったく、切り替えの早い」
「? 何が?」
「何でも。ほら、何がしたいんですか?」
旬はふうと息を吐くと、四季の肩に置いていた手を頭へと持っていく。もう片方は背中を撫でている。その手つきは妄想していたより甘ったるい。背骨をなぞる指がこそばゆくて、撫でつけてくる手が脳を溶かすような。じくじくと液体化させられていく感覚は、まるで冷凍庫から出されたアイスにでもなったかのよう。すっかり暑さを移された四季は、心なしか楽しそうな旬を見上げた。
「ジュンっち、デレモード入ってる……?」
「……言ったでしょう。胸を張れる仕事をしたら、って」
それは寝物語をなぞるような、落ち着いた優しい声。シーツに溶ける夜、これに囁かれればさぞいい夢が見られるだろう。ついさっきまではつれない孤高だったのに、突然こんな慈愛を注がれては。四季の背中は〝男〟の匂いに粟立った。
「四季くん。続き、欲しいですか?」
いや。匂い、なんてものじゃない。噎せ返りそうな充満は、香るなんて言葉では形容しきれないものだ。爆風のように浴びせられた旬の情欲は、四季の肌をびりびりと焼いていく。火照り湿気ったそれは、冷房の効いたここでは何の言い訳も聞かない。
……聞かせる気も、ない。
「はい、っす……」
だからもう、吐露するしかないのだ。肌と同じく熱を篭らせた声で、四季は静かに頷いた。それを受けた旬は、いつの間にか掴んでいた四季の顎を撫でる。そこは他人に触れられる機会が少ない。だから少し硬い指が、意味深に皮膚を滑るのが擽ったかった。たまらず震えると、旬が眉を下げて笑む。
「お疲れ様でした。頑張りましたね」
労う唇は口角に触れた。あの時受けた送り出すものとは全く違う。これは四季を受容し、摘んで愛でて味わうような──欲の透けた口付けだった。また背中が波打つ。今度のそれは当てられての反射ではなく、四季自身の内なる欲望によってのもの。それが囁く甘言に四季は迷わず従う。唇の輪郭をなぞっている旬のそれに、自らを埋めた。
「っ、……」
塞がった奥の方から声の詰まった音が出る。四季は清廉な印象を与える旬の声が、こうしてくぐもる瞬間が好きだった。もっと聞きたい、喰らいたい。欲望は留まるところを知らず、深追いした唇がぐにりと潰れる。押しつけて、押しつけられて。呼吸すら適わない。奪い合う口づけは、しかし四季の欲を着実に満たしていった。
「ジュンっちは自分を甘やかすことも覚えた方がいいと思うっす。ガチで」
「今実行中ですよ」
「いや……オレを甘やかしてんじゃん?」
「それがいいんです。喜ばせる方が好みなので」
湿った唇から放たれるのは、一段下がった流麗のテノール。もしかしたら旬が飲んでいるアイスコーヒーは、砂糖を入れすぎたのではなかろうか。噛んだら溶かしきれなかった砂糖がじゃりじゃりと音を立てそうだ。そんな甘すぎる声色で呟いて、四季の額にキスをする。
「……やっぱエロい話してるでしょ」
「してませんよ。まぁ、それも吝かではありませんが」
「体力温存した方がいいんじゃないすかー? ジュンっちはまだまだ忙しいでしょ」
「だからこそ……とは思いませんか? こんなに長い時間一緒にいられるの、多分今日が最後ですよ」
「じゃあ監督さんに友情出演のお願いするっすかねぇ……」
「ぷっ……そっちなんですね?」
「そー。そっちなんです」
頭上の旬がくすくす笑うと、それにつられて彼の髪が揺らめく。すると柔らかい毛先が四季の前髪をつついた。艶々した黒髪が下から迫ると、薄灰色のストレートがくにゃりと歪む。毛先が額を擽った。だが四季がそれに気付くことはない。
隙間に混ざって混ざり合う二色。空調で冷えたその温度に、彼らが気付くことは終ぞなかった。
「四季くん。起きてください。朝ですよ」
「う……、んぁ……?」
「おはようございます。出られないので、退いてくれませんか?」
「んえー……あと、よんじゅっぷん……」
「何ですか、その贅沢な要求は。七時に起こせと言ったのは君でしょう」
あぁ、これは旬の声だ。微睡む意識の中で四季はそれだけを理解した。それに返答した気もするけど、内容は混濁した霧の奥。だってまだ眠たいのだ。今日の仕事は昼を過ぎてから。今が何時かなんて知らないが、これだけ眠いのだから、まだ少しはシーツに甘えたって許されるはず。そう思って掛け布団に潜り込むが、依然体は揺らされ続けた。
「君を踏んづけないと出られないんです。それとも踏まれたいですか?」
「あー……顔以外なら、いいっすよぉ…………」
「……そうですか」
やがて意識は振動によって上昇し始める。まだ脳に血が通りきっていないのか、頭はまだもったりと重い。だが薄らぼんやりした視界がほんの少しだけ晴れると、壁を背にして眉根を寄せる旬が映った。彼の手は、四季の腹に圧をかけるように置かれている。しかしまだ寝ぼけたままの四季には、圧迫感による苦しみよりも、眠気がもたらす不快感の方がよほど強かった。だから四季はどうぞどうぞと投槍に体をだだっ広げる。それを見た旬の眉間の皺は、更に深く刻まれた。
「では遠慮なく」
「ぶえっ……! まっ、ジュンっち、そこはガチでアウトな場所……!」
立ち上がった旬は、片足を上げたと思うと躊躇なく四季へ落とす。それが着地したのは中央部、所謂『大事なところ』だった。とはいえまだ足を置いてるだけに過ぎないのだが、如何せん今朝の旬は虫の居所が悪いらしい。手とは比べ物にならない圧をしっかりかけていた。
「起きます起きます! だからオレのちんこ踏まないで!」
「顔以外なら、とのことだったので」
「ここはアンモクのリョーカイってやつっしょ⁉︎ ひどいっす、ジュンっちにだって同じものがついてるのに!」
「だから手加減してあげたんですよ」
「あれで⁉︎」
旬は痛みに飛び起きた四季を見下ろす。そして何の感慨もなさそうな足運びで後ろを通り抜け、あっさりとベッドを降りた。そんな背中に批判の眼差しを刺す。後を引くほどではないにしろ、起き抜けに急所を踏みつけられたのだ。不満を訴える権利はあるはずだが、肩越しに振り返る旬の横顔は、四季以上に不満気だった。
「……午前は暇だから一緒に過ごしたいって言ったくせに」
「んえ?」
「別にいいですけどね。寝たいならどうぞ? 睡眠は大事ですからね。英気を養うことも必要でしょう。まぁこの先家で顔を合わせる時間も少なくなるので、最悪クランクアップまで会えないかもしれませんが」
「え……あっ、ちが! ごめんなさいジュンっち、寝ぼけてただけなんすよ! 許して! 置いてかないで!」
尖った口から零れた言葉は、文句と形容するには弱気な語気。その後には、いかにも拗ねていますと言わんばかりの台詞が並んでいく。早口で捲し立てながら出入り口までずんずん進む旬の姿を見て、ようやっと目を覚ました四季は彼の腰へと縋りついた。こんなことは茶飯事。しかし今得ている悲壮感は、間違いなく人生最大級のものだった。
「まったく……ほら、洗面所に行きますよ。早く立ちなさい」
「うぅ……」
旬は溜め息を吐くと、困った顔で四季を見下ろす。そして四季の両手を取り、彼の腕を引き上げた。彼が起立したことを確認した旬は、四季を掴んだ手はそのままに歩き始める。まだ機嫌が悪いのか、はたまた体にまとわりつく起き抜けの気配を早く落としたいだけなのか。それは少し性急に思えた。とはいえ旬の気分を損ねずに、そのことを指摘する方法が思い浮かんでくれることはない。四季は無言で着いていった。
これまでは不文律の下、洗面所を共有してきた。偏に狭いからである。ふたりで入れないこともないが、のびのびと身支度をするならこの洗面所はひとりが理想。肩を並べると、それだけで既に不便を感じた。
「オレ出るっすよ」
「ダメです。ほら、早く磨いてください」
「えぇ……?」
旬は四季に歯ブラシを持たせると、穂先に歯磨き粉を搾り出す。有無を言わさぬその行為によって、四季は完全に洗面所に縫い止められた。旬は既に歯ブラシを動かしている。その隣で同じ行為をする以外に、今の彼にできることはなかった。
「お尻邪魔です。引っ込めてください」
「いや顔洗ってる時に言う⁉︎」
「通れないじゃないですか」
「だから言ったのに……! もうちょっと待ってて、あと端っこだけだから!」
例え朝でも、旬は当たり前に自己中だった。歯を磨いて顔も洗って、さぞ目も覚めたろうに。四季を振り回す言動は、二段構えの洗浄でも落とせないらしかった。
気持ち性急に洗顔料を洗い流して、曲げた腰を伸ばす。それに満足してくれたのか、背後で旬が動いた。だがまだ洗面所の中に気配は残ったまま。何をしているのかとタオルに顔を埋めたまま考えていたその時、柔らかい刃先が後頭部を滑った。
「おわっ! 何⁉︎」
「寝癖がついてます。これ、ブラシでどうにかなるかな……」
「そんなにヤバい?」
「ヤバいです。真後ろだと見えないでしょう? 僕が直してあげますから、君はスキンケアでもしててください」
旬はそう言うと再び手を動かした。差し込まれたブラシのピンが髪の一本一本を撫でていく。人に頭の世話をしてもらうのは心地いい。美容院でも時々寝こけてしまうほどには、これは髪と共に心も解きほぐす、そんな抗えなさがある。だが今はどうだろう。時々鏡に映り込む旬の顔は、柔らかくて暖かい。そんな眼差しを与えられるのは、どうにも。
(今日、肌の調子悪くなるかも……)
こんな状態で満足なケアができるものか。少し恨めしい気分を感じつつも、四季はパッティングを再開する。しかしやはり意識は肌ではなく髪──をいじる旬の元。心地よさと居心地の悪さに挟まれながら眉間に皺を刻む。何よりも、それが不満でないことが不満だった。
落ち着きのない洗面所での支度を終えたら次は食事。香ばしい小麦と、その上で溶けるバターの匂いを携えて、ふたりはリビングのソファーに腰を下ろした。
「さすがに毎日パンだと飽きますね……」
「ホントっすよー。誰かさんが半額だからって買い込まなきゃ、今頃冷凍庫の中ももっとゆとりあったと思うっす」
「その節はどうもすみませんでした」
「あ、逆ギレ」
「してません。実際、僕が浅はかだったんですから」
強まる語気を押し込むように、旬は齧ったトーストを飲み込んだ。一緒に頬張った言葉に嘘はないだろうが、まるきり事実という訳でもないのだろう。旬の眉間には、四季の指摘を肯定する二本皺が刻まれているのだから。
「ご飯を用意してくれる人の偉大さを感じるっすねぇ」
「そうですね。自炊をすると、こんなにも買い物が難しくなるとは思いませんでした」
「でもジュンっち、ここに来る前はひとり暮らしだったっすよね? その時はどうしてたんすか?」
「…………惣菜、です」
「あー、自炊は全くだったんすね?」
「そこまで手間を割きたいと思えなかったんです。料理も時間がかかりますし……それなら確実に美味しいものを買って、残った時間で仕事をしたかったので」
「でも今はやろうって思ったんすよね。成長じゃないっすかー」
旬の主張もよくわかる。だからこそ彼の変心に素直に感心した。旬は案外やりたくないことはやらない人。それを加味すれば尚のこと。だが旬は四季の感心をあしらうように、感慨なく呟いた。
「まぁ……ひとりのままなら、変わらなかったと思いますが」
さくり。旬の歯がトーストを切る音がした。それは何の意味もないオノマトペ。だというのに、耳は大袈裟なほどその音を過敏に拾う。
「ちょっと……そんな顔しないでもらえますか」
「へ?」
「そこまで照れるセリフじゃなかったでしょう……まるで僕が恥ずかしいことを言ったみたいじゃないですか」
「や、だって、さぁ……」
心外だと言いたげに眉を釣る旬。しかし実際、先の言葉は『恥ずかしいこと』ではないのだろうか。それとも勘繰る自分が悪いのか。深く考えず漏らされた言葉はザラメのように、食べかけのトーストを甘くした。
「忘れ物はありませんか?」
「バッチリっす!」
「夕食は作っておきますけど、誘われたらそっちを優先してくださいね」
「え〜、愛妻料理の方が食べたいっすよ〜」
「では今から食パンを焼きますね。夜になるし、三枚くらいでいいですか?」
「ごめんなさい」
その言葉を想像して、軽く血の気が引いた。ただでさえ一日二枚のノルマをこなしているのに夜まで、しかも冷めたトーストなんて勘弁してほしい。舞い上がった揶揄に釘を刺され、四季はすぐさま手の平を返す。そして咳払いで気を取り直し、バッグの持ち手をきゅっと握った。
「じゃあ、行ってくるっすね」
「あ、四季くん。ちょっといいですか?」
「ん? 何すか……」
振り返ると旬が手招きしていた。ゴミでもついていたのか、もしくは髪が乱れていたのか。何にせよ、特に疑うこともなく四季は彼に近寄った。
目の前で止まって旬を見上げる。すると四季を呼んだ手が浮いて顎に触れた。それに突き上げられた反動で更に上向いた四季の顔。そこに旬の頭が、一瞬だけ寄り添った。
「えっ……」
「……みんなに胸を張れる仕事をして来れたら、続きをしましょうね」
「へ、ちょ、ジュン……」
「早く行きなさい。遅刻は御法度ですよ」
含みたっぷりな旬の言葉。不意に与えられた予想外に四季は食いつこうとするが、彼にそれを聞くつもりはないらしい。肩を掴まれると、強制的に体を扉へ向けさせられた。
「……その言葉、ぜーったい忘れないでくださいっす!」
そっちがそのつもりなら。もう真意を追うのは諦めよう。その代わりに不敵な笑みをひとつ送る。四季が歯を見せると、旬も微笑みで応えた。それを最後に、四季は玄関から出発する。
ひとりだけでは持てない勇気だって、隣に並んでくれる誰かがいれば、あるいは。四季は今日も全力で仕事に向き合う。唇の端に、触れた熱を携えて。
◆
浮かれた足取りで道を跳ねる。そんな四季を煽るように、手の中のエコバッグが気のいい歌声を刻んでいた。ひとつ飛んではがさがさと、もひとつ飛んでまたがさり。普段なら耳障りなそれだって、今の彼には小鳥の囀りに等しい。
家に帰ればあるのは静寂。今日の旬はドラマの撮影。四季が眠るまでに帰るのは難しいそうだ。当然旬は既に出掛けており、中に人の気配はない。しかしそれを寂しく思う心はなかった。
『ご飯は三合炊いています。おかずも用意しておきました。一品だけなので、もし足りなければ帰りに買ってきてください』
それは昼下がりに受けたメッセージ。五分休憩の最中を狙ったように送られたそれは、少々心が疲れていた四季にとって大いなる水だった。
大抵の人間を許容できる四季も万能ではない。どうしたって苦手な人種というのは存在した。今日はたまたまそういう人たちとの共演が重なって、たまたま四季も日々の疲れを癒しきれていなくて。まだ仕事は残っているのに体は「お風呂に浸かって寝たい」と駄々を捏ねていて。そんな厳しい現実に翳っていた時に見たのが先のメッセージ。四季は現金だった。そこから時間は足早に流れていき、気づけばもう自宅の前。何とか手を空けてドアを押したら、ようやっとの我が家である。
「ただいまーっ!」
四季は陽陽と玄関内へ飛び込む。そしてエコバッグを床に置き、ブーツに手をかけた。最近はこれを履くために服を着ていると言っても過言でないくらいのお気に入りだが、こと今に限っては編み上げたそれが煩わしい。早く、早く、早く! とっくに玄関から去った心が、紐を解く指を焦れさせた。
いつもの倍時間がかかったが、何とか紐を解いた四季は雪崩込むようにリビングに入る。ざっと見回したところ掃除がされているようだ。家事はまだまだ不得意な旬。そんな彼が自信を持てる多くない中のひとつがそれである。限られた時間の中でやってくれたのであろう。リビングは、今朝見たよりも綺麗になっていた。
「休んでいいって言ったのに」
自分よりよっぽど忙しいというのに。それでも帰った四季がやることがないレベルまで片付けてしまうのだから、本当に彼は真面目な人だ。ふと微笑むと、それに釣られたように腹の虫がぐうと鳴く。だって先程から微かに香るのだ。四季の食欲を刺激する、ピンとスパイシーな美味の気配が。
『おかずは麻婆豆腐です。まずくはないと思います』
キッチンにやって来ると、コンロには蓋を被ったフライパン。近づけば、冷めはしているもののやはり美味しそうな匂いがした。その中にいるであろうお目当てとの邂逅を前に四季の心はいっそう弾む。わくわくしながら蓋を開けると、中には美味しそうな麻婆豆腐がいっぱいに詰まっていた。ライトを受けてつやつや輝く赤い餡。その中に点在する青々とした長ネギが、両者をより魅力的に写している。そして所々型崩れした豆腐や、匂いだけでもわかる辛味の強さ。それらは旬がしたであろう苦労を静かに物語っていた。
「うおぉ……マジメガおいしそう……」
思わず涎がこぼれそう。今すぐにでも掻き込みたい衝動に駆られるが、せっかく旬が用意してくれた手料理だ。とびきり綺麗に盛り付け、腰を据えて頂くべきだろう。
四季はエコバッグを開く。やっとスペースが空き始めた冷凍庫。そこにドリアやピラフ、パスタなどを要領よく詰め込んで、袋詰めされた野菜と卵を台所に並べた。
「よーっし、激ウマなものを作るぞ!」
そう宣言した四季は、気合いを込めて腕を捲った。
数十分後、四季はリビングに着いていた。テーブルにはほかほかの白米と、温め直した麻婆豆腐。そして出来立てのスープと副菜が並んでいる。それらを一瞥し、手を合わせた。
「いただきます!」
真っ先に取ったのはレンゲ。それを麻婆豆腐に差して掬い上げると、レンゲの側面がとろりと赤い餡でてらつく。四季は取り皿にめいっぱい盛りこんで、期待の漲る顔でそれを頬張った。
「……! んまっ!」
口に入れた瞬間、餡のコクや挽き肉の旨味、豆腐の優しい味わいと、長ネギのしゃきしゃきした食感が広がった。そして何より、舌や内頬を手加減なしに痛めつける強烈な辛味。それは正に四季好みのものだった。恐らく、作った本人が食べられないほどに。
「ジュンっち、最近甘々だなぁ〜……」
ピリピリ、ちくちく、じんじんと。粘膜という粘膜を激しく痛め付けられる。その痛みこそが、麻婆豆腐に込められた最大のスパイスなのだ。
◆
夏と言えば祭りに花火、海やプールなんかもある。何より一番は夏休みだが、卒業してしまえばそれは青春と共におさらばだ。加えて学生時代ほど遊びに行ける時間もない。つまり今の四季にとって夏というのは、暑くて過ごし辛いものなのだ。大人とはなんとも世知辛い。きりりとした顔で日々を生き、娯楽にお金をたくさん使える。格好よくて夢に溢れただけの存在ではなかったのだ。
アスファルトから跳ね返る紫外線が辛い。蝉の声なんて聞こえないのに、何故こんなにも夏真っ盛りなのだろう。どうせなら今でも虫取りが好きな誰かさんのためにも出てきてくれたらいいのに。いまいち風物詩に欠ける様に、そんなことを思った。
「……ん?」
こんなところで項垂れていても気温は手を緩めてくれない。一秒でも早くエアコンに漕ぎ着けなければ干からびてしまうだろう。四季は家を目指し前へ向き直した。すると手前のT字路、壁の中から後ろ姿が覗くように生えている。それが羽織っているモカのサマーカーディガンは記憶に新しい。それは先日、あの人が自慢していたもの。
「ハヤトっち!」
「うおっ、シキ! びっくりしたー……今帰り?」
「そうっす! こんな所で会うなんて珍しいっすね」
「あはは、そうかもな」
曲がり角まで駆けるとその人──隼人が勢いよく振り返る。突然声をかけられて驚きはしているものの、それはすぐ人好きのする笑顔に変化した。隼人は大きめのトートバッグを持っている。それは彼が作曲をする時に使っているものだ。
「もしかして、ジュンっちと相談するために来てた……⁉︎」
「違う違う。前泊まった時に忘れ物しちゃってさ。それを取りに来たんだよ」
「え、じゃあうちからの帰りだったんすか? 何で帰っちゃうんすかー。この後予定ないなら一緒にご飯食べよ? オレもジュンっちも時間あるんすよ」
「だからジュンに追い出されたんだよ」
「えっ⁉︎」
四季は自分たちの家へ続く道に背を向ける隼人の腕を掴みながら誘う。彼とは定期的に会ってはいるものの、食事に出掛けることは久しくない。楽屋でケータリングを食べるのがせいぜいなのだ。それは旬だって似たり寄ったりのはず。彼も隼人が大好きなのだし、一緒にいれば楽しいだろうに。そう思ったのだが、当の隼人は思いもよらない事実を告げる。四季にとっては青天の霹靂だった。
「ほんと羨ましいよ。ふたりを見てると彼女が欲しくなる!」
「ハヤトっちほどのいい男を世界が放っておくわけないじゃないっすか! いつか絶対に出会えるっすよ! カノジョ……なのかカレシなのかは、わかんないっすけど!」
「シキが言うと説得力あるなぁ」
四季の言葉に隼人は一瞬驚き、笑う。そして彼は四季の肩を掴んで帰路へと押した。
「ほら、早く帰りな。このままだとジュンがキリンになっちゃうぞ」
「もしなってたらデコっとくっす」
「火に油だろ、それ。じゃあ俺行くな」
「はーい。バイバイシュー!」
お決まりの挨拶に隼人は手振りで応える。彼は数度振ると、踵を返し歩み始めた。四季はその背中をしばらく見送る。
「……オレも帰ろ!」
そして四季も足を出す。地面を浅く蹴りながら、家で待っているであろう旬の姿を思い描く。仕事でもしているのだろうか。それとも家事をこなしているのか──あるいは、四季の帰りに胸を躍らせてくれているだろうか。これだけはいまいち想像つかないが、そうだったらどんなにいいだろう。荒い画質の妄想に四季は笑った。そんな彼が見ている景色の中に、茹だる暑さはもう存在しない。
「ただいまっす!」
言うと同時にドアを開ける。すると中から嗅ぎ慣れた家の匂いと冷えた空気が流れてきた。人工的な冷たさは四季に再び夏を思い出させる。そういえば暑かったのだ、と汗が皮膚に滲み始めた。慌ててドアを閉めると、直後洗面所から旬がひょこりと現れる。
「おかえりなさい。どうぞ」
「わ、タオル! サンキュー、ジュンっち!」
「昼は済ませましたか?」
「まだっす。一緒に食べたかったし」
「そうですか。では炒飯があるので、それを解凍しましょうか」
「あっ。そういえばジュンっち、何でハヤトっちを追い出したんすか!」
「もしかして会いました?」
「うん。ハヤトっち泣いてたっすよー? 『ジュンに追い出されたよー、えーん』って」
「まさかそれハヤトのつもりですか? 嘗めてるとつねりますよ」
絵文字のようなわざとらしいポーズを作ると、旬は露骨に嫌そうな顔をする。声色だけは寄せたつもりなのだが、残念ながら彼のお眼鏡には適わなかったらしい。つねられる未来を避けるべく、ポーズはすぐに解除した。それを見て旬は嘆息する。
「そもそもハヤトが泣くわけないでしょう。むしろニヤニヤしながら帰りましたよ」
「ニヤニヤ……? 何で?」
「……ほら、いつまで玄関にいるつもりですか。早く昼食にしましょう」
旬の言葉に引っかかる。確かに隼人の機嫌はよさそうだったが、あれはそんなにいやらしいものだっただろうか。不思議に思って問うが、旬は少しぶっきらぼうな声色で話を逸らす。これ以上の問答は禁ず。そんな意思を示す背中に、四季はただついて行くことしか出来なかった。
炒飯は無事解凍に成功し、安堵する美味しさだった。やれ今日はハードだった、暑すぎて体力が無駄に奪われる。そんな草臥れた会話を挟みつつ、熱々の炒飯を冷たい麦茶と共に飲み込む食卓だった。その次は食後のブレイクタイム。四季はキンキンに冷えたサイダーを、旬は水出しのアイスコーヒーを楽しんでいた。
「……っ、はぁ〜、生き返る〜……」
「おじさん、筋肉痛は大丈夫そうですか?」
「歩いて来たしセーフってことにならないっすかね?」
「一応お湯は張りますか」
「えー、こんな暑いのに湯船に入ったら茹で上がっちゃうっすよ。オレが茹でシキになってもいいんすか?」
「マヨネーズをつけたら美味しそうですね」
「え、もしかしてエロい話してる?」
「何がどうなればそんな発想が出るんですか? 気持ち悪い……」
「やだやめて、そんな冷たさは求めてないっす」
運動がメインの収録によってしくしく泣いている脚を揉む。昔よりましとはいえ、苦手なものは苦手なのだ。そんな四季を旬が心配する。それが少しむず痒くて、だからほんの軽い気持ちで悪ふざけをした。すると暑さなんて一瞬で消えそうなほど冷たい視線が四季を刺す。怖いっすーと甘えた声で抱き着くと、刺さる温度は僅かに上昇した。
「暑い」
「えー、こんなにエアコンバチバチに効かせてるのに?」
「暑いものがくっついてきたら意味ないでしょう」
「でも剥がさないんだ?」
「ぐ……」
上目遣いで問い掛けると、旬は言葉を詰まらせる。彼は四季の両肩に手を置いているのに、決してそれを前に押そうとしないのだ。
──あ、今日はいける。そう確信した四季は、旬の胸板に頭を擦り寄せた。
「……まったく、切り替えの早い」
「? 何が?」
「何でも。ほら、何がしたいんですか?」
旬はふうと息を吐くと、四季の肩に置いていた手を頭へと持っていく。もう片方は背中を撫でている。その手つきは妄想していたより甘ったるい。背骨をなぞる指がこそばゆくて、撫でつけてくる手が脳を溶かすような。じくじくと液体化させられていく感覚は、まるで冷凍庫から出されたアイスにでもなったかのよう。すっかり暑さを移された四季は、心なしか楽しそうな旬を見上げた。
「ジュンっち、デレモード入ってる……?」
「……言ったでしょう。胸を張れる仕事をしたら、って」
それは寝物語をなぞるような、落ち着いた優しい声。シーツに溶ける夜、これに囁かれればさぞいい夢が見られるだろう。ついさっきまではつれない孤高だったのに、突然こんな慈愛を注がれては。四季の背中は〝男〟の匂いに粟立った。
「四季くん。続き、欲しいですか?」
いや。匂い、なんてものじゃない。噎せ返りそうな充満は、香るなんて言葉では形容しきれないものだ。爆風のように浴びせられた旬の情欲は、四季の肌をびりびりと焼いていく。火照り湿気ったそれは、冷房の効いたここでは何の言い訳も聞かない。
……聞かせる気も、ない。
「はい、っす……」
だからもう、吐露するしかないのだ。肌と同じく熱を篭らせた声で、四季は静かに頷いた。それを受けた旬は、いつの間にか掴んでいた四季の顎を撫でる。そこは他人に触れられる機会が少ない。だから少し硬い指が、意味深に皮膚を滑るのが擽ったかった。たまらず震えると、旬が眉を下げて笑む。
「お疲れ様でした。頑張りましたね」
労う唇は口角に触れた。あの時受けた送り出すものとは全く違う。これは四季を受容し、摘んで愛でて味わうような──欲の透けた口付けだった。また背中が波打つ。今度のそれは当てられての反射ではなく、四季自身の内なる欲望によってのもの。それが囁く甘言に四季は迷わず従う。唇の輪郭をなぞっている旬のそれに、自らを埋めた。
「っ、……」
塞がった奥の方から声の詰まった音が出る。四季は清廉な印象を与える旬の声が、こうしてくぐもる瞬間が好きだった。もっと聞きたい、喰らいたい。欲望は留まるところを知らず、深追いした唇がぐにりと潰れる。押しつけて、押しつけられて。呼吸すら適わない。奪い合う口づけは、しかし四季の欲を着実に満たしていった。
「ジュンっちは自分を甘やかすことも覚えた方がいいと思うっす。ガチで」
「今実行中ですよ」
「いや……オレを甘やかしてんじゃん?」
「それがいいんです。喜ばせる方が好みなので」
湿った唇から放たれるのは、一段下がった流麗のテノール。もしかしたら旬が飲んでいるアイスコーヒーは、砂糖を入れすぎたのではなかろうか。噛んだら溶かしきれなかった砂糖がじゃりじゃりと音を立てそうだ。そんな甘すぎる声色で呟いて、四季の額にキスをする。
「……やっぱエロい話してるでしょ」
「してませんよ。まぁ、それも吝かではありませんが」
「体力温存した方がいいんじゃないすかー? ジュンっちはまだまだ忙しいでしょ」
「だからこそ……とは思いませんか? こんなに長い時間一緒にいられるの、多分今日が最後ですよ」
「じゃあ監督さんに友情出演のお願いするっすかねぇ……」
「ぷっ……そっちなんですね?」
「そー。そっちなんです」
頭上の旬がくすくす笑うと、それにつられて彼の髪が揺らめく。すると柔らかい毛先が四季の前髪をつついた。艶々した黒髪が下から迫ると、薄灰色のストレートがくにゃりと歪む。毛先が額を擽った。だが四季がそれに気付くことはない。
隙間に混ざって混ざり合う二色。空調で冷えたその温度に、彼らが気付くことは終ぞなかった。