コーヒーミルクチョコレート

 芳しい香りを放つコーヒーカップと封が切られたペットボトル。ずいぶんと毛色の違う飲み物たちだが、それらは大した違和感もなく肩を並べている。ふたつを乗せたテーブルの向こうには横長の台。その上では、先日購入した写真立てを傍らに液晶テレビが鎮座している。その画面が映すものに、四季たちは夢中になっていた。
「はぁ……ここのソロ、マジ痺れる……ジュンっちマジイケメン……ガチ惚れる……」
「コメントに困る反応しないでもらえますか……」
「だってマジでカッコイイんすもん……」
 液晶が映すのはまだ記憶に新しい仕事。先日収録した音楽番組のライブシーンだ。演奏しているのは旬が主演を務めるドラマの主題歌。その中に「主役の見せ場はなきゃ」と、隼人が曲の半ばにキーボードのソロパートを作ったのだ。High×Jokerの新曲が生まれる度に四季は恋に落ち続けるが、今回この演奏では、既に何兆回目に及ぶ初恋だった。
 キーボードの独壇場から五人の合奏へ。テレビの中の四季はマイク越しに息を吸い込むと、高らかに歌い始める。
「あっ! ねっ、ねっ、今のところメガメガよくないっすか⁉︎」
「そうですね。理想の声が出せていると思いますよ」
「っすよね! あの時ビビッと来たっすもん! オレ、今サイコーの声出せてるって!」
「あぁ、だからですか。この後どんどん調子がよくなっていましたね」
「マジっすか⁉︎ やったー!」
 この曲は既にいくつかの局で披露している。しかし、この日の四季は『真にこの曲をつかんだ』と思うほど完璧に近いパフォーマンスを叩き出せたのだ。マイクと、音と、カメラと、ステージ。それら全てと肉体が融合し、境界線をぼやかせて。まるで伊瀬谷四季という人間が曲そのものになったようなあの感覚は、今でも克明に覚えている。それほどまでの自負を得ていた小さな自分を見つめながら、四季はあの時の言い知れぬ快感を内々に呼び覚ました。
 旬も、気づいているだろうか。あの時の四季がどうなっていたのか。このまま蕩ける世界へふやけた肢体を委ねれば、見たことない場所まで行けそうな。そんな胸の高鳴る予感は、薄灰色の瞳にはどう見えていたのだろう。四季とは違う形で世界を映し取る、冷静な怖がりの眼には。
「……この時の四季くんは、このままどこかに消えてしまいそうに見えました」
「え、消える?」
「うまく言えませんが……手を伸ばしても、掴めないような気がしたんです。届かない、届きそうになっても、君の体は霧みたいに雲散して、僕の手は空を切る……そう、思ったんです」
 言いながら、旬は右腕を前に伸ばす。右に左に、上や下。法則性がないぐちゃぐちゃな軌道は、空気をかき混ぜているかのよう。それはついさっき四季が吐いた息なのか、それとも旬が今から吸いたい酸素なのか。色を持たざるそれらは、肉という器がなければ区別だってつけられない。課された役目は、こんなにも違うというのに。
「もー、ジュンっちってばネガティブなんすからー。ユニットがひとつになるのは大事なことっすよ?」
「それはわかってますよ。でも一丸になることと、一個の塊になることは別です」
「あー……うーん……ごめんなさい、よくわかんないっす」
「……まぁ、いいですけど」
 申し訳なさそうな四季へ、旬は平坦に返した。そう答えることは予想していたのだろう。責めや呆れ、落胆すらない声色に、四季の方がむっとした。とはいえ、数秒もらったところで自分よりも遥かに雁字搦めな旬の頭の中なんか読み切れるはずもなく。尤も、故に四季に見えない危険も見つけられるのだから、そんな習性も命綱になり得るのだ。
 旬の言わんとすることはわからない。しかし宙を彷徨う手はきっと、溺れそうな四季を必死に求めているのだろう。ふたりで選んだソファーの上でおざなりだった手を旬のそれが覆う。少し冷たい、だけど不思議と温かい。
「消えさせなんてしませんよ。君には一生、僕たちの前で歌ってもらいます」
 薄灰色が真っ直ぐ見つめる。旬らしい、凛と美しい色を持って。新歓で彼に恋をした時は喜び煌めくものだったが、冬美旬に恋をしたのは、こんな瞳がきっかけだったような気がする。それに心ごと吸い取られていると、目の前の口が小さく息を吸い込んだ。
「High×Jokerの、ボーカルとして」
 重なる手に似た声色が、囁くように突き刺した。絶対に手放してなんてやらない、そんな心を剥き出しにして。そんな旬は実直に四季を見つめている。独占欲に、塗れた表情で。


 ひとつになんかさせてくれない。寂しん坊の気難しい愛情表現は、まるで一世一代のプロポーズのようだった。

     ◆

 恋人と密室にふたりきり……と言えば、アドレナリンやらノルエピネフリンやらが出番とばかりに溢れ出す。しかしそれらがもたらす興奮を、今の四季は得ていない。単純に、恋愛を楽しむ時間ではないからだ。今は四季も旬も互いではなく、上質紙の束と熱い仲。四季はバラエティ番組の台本に目を通しながらマグカップを傾けた。
 粗方の流れを頭に入れ終え、一息がてら腰を伸ばす。筋がぐぐっと伸びる感覚は、苦手な机作業の凝りを解してくれた。もう大分慣れたこととはいえ、元々四季は勉強からの逃げ癖持ち。人生の約半分をそうして過ごした彼にとって、この作業はなかなかに厳しいもの。だがそれでも、少し離れた場所から紙をめくる音が漏れ聞こえれば、気を抜く訳にもいかなかった。
 テーブルを挟んだ対角線上、ソファーの端に座る旬を盗み見る。バラエティ番組の台本なんて本番に裏切られ慣れたものだが、ドラマの脚本となるとそうもいかない。ほぼ忠実に台詞を再現する旬は特に、本読みへの熱量が高かった。それは、四季が起立しても一瞥すらくれないほどに。
 きっと昔の四季ならば、そんな旬に理不尽な拗けを抱えたことだろう。だが今はどうか。心に浮くのは、むしろ反対に穏やさである。近くにいても話せない、傍に寄っても見てくれない、触れたらきっと渋面を作られる。それは転じれば、如何に彼が仕事に真摯であるかの証明。共有するプライベートが増えてからは、そんな解釈が先んじるようになったのだ。さすれば生まれるのは安堵。同じ空気を咀嚼するだけで、四季の心は平穏に凪いだ。


 テーブルが二度鳴く。それでも旬の目は文字を追うことに一途だった。かれこれ三時間は固定されたままの肩をそっと叩くと、それは大袈裟なほどに跳ねた。
「っ……⁉︎」
「水分補給も大事っすよ。コーヒー、置いておくっすからね」
 四季は前方を指す。旬はそれに連れられて、濃い白を太く上らせた猫のマグカップを見つけた。彼の付近に立ち込める香りは、来客用にストックされたコーヒーのもの。それに気づいた旬の視線に咎められるが、四季は意に介さず笑った。
「ゆっくりする時間も取れてないっしょ? しばらくはそんな感じなんすから、今のうちにゴホービあげたってバチは当たらないっすよ」
「だからって……」
「ジュンっち、息抜き下手だから。その分オレが甘やかしたいんす」
 自分たちは正反対。だからこそ不足を補えたら。高校当時は少し恨んだ鬼のような勉強会だって、ついさっきまで四季の仕事を支えてくれた。真面目、厳重、故に鋼鉄。ひとりでは凝った背筋を伸ばすことすら出来ない旬にやり方を教えるのが、今の四季に出来る最大の協力だった。
「……別に、言われたからじゃないですよ」
「わかってるっすよ」
 旬はペンをノドに置いて台本を閉じ、机上のマグカップと交換した。目の前に運べば、上等な豆の香りが彼の鼻腔を擽るだろう。案の定、少々強ばっていた顔に緩みが生まれた。
「四季くん、コーヒーを淹れるのがうまくなりましたよね」
「たーっくさん練習したっすからね。お仕事を頑張る愛しのダーリンに、世界一おいしいコーヒーを飲ませるのがカレシの務め……ってね!」
「まったく……恥ずかしい人ですね」
「とか言ってー。ほっぺゆるゆるなの丸わかりっすよ〜?」
「んぶっ……こら、飲んでる時につつかない」
「ごめんなさーい……うわっ、やだやだ! デコピンは事務所NGなんす!」
「へぇ、初めて聞きました。後でプロデューサーさんに確認しますね」
「それはもっとダメっすー!」
 四季は人差し指の第一関節を深く沈めた旬の手を抑え込み、そしてがばりと抱き込んだ。いとも簡単に収まった旬は、コーヒーが溢れるとぷりぷり怒っている。四季はどうにかそれを眺めようと、小さな背中をごすごすと撫で付ける。
 気の緩んだそこに、もう不器用な頑なさは残っていなかった。

     ◆

 他人が暮らす以上、生活のルールは必須である。まして四季たちは仕事上の仲間。下手にプライベートを拗らせて、仕事に悪影響を及ぼすのは絶対に避けたい。故に約束事は適宜更新中だが、メンバーに関しては双方共に緩かった。リモート会議を終わらせた四季は私室からリビングに移動する。そこにはよく知る後頭部がふたつ並んでいた。
「あれ、ナツキっちじゃないっすか! いらっしゃい!」
「お邪魔、してます……打ち合わせは、終わったの……?」
「バッチリ! ジュンっちもおかえりなさいっすー」
「はい、ただいま。もう出発ですか?」
「思ったより早く終わったんからちょっと暇っす。オレもご一緒していいっすか?」
「うん……ふふ」
 四季のご機嫌な調子に釣られたのか、夏来も嬉しさ溢れる微笑みで応えた。囁くような笑い声にもう一度笑い返して、四季は夏来の隣に腰掛ける。まだ来てからそんなに時間が経っていないのだろうか。夏来の前に置かれたコップの中は、半分以上満たされていた。
「四季くん、カフェオレでいいですか?」
「んー……いや、ココアで!」
「あ……はい」
 どうとも形容し難い声色のまま、旬はキッチンへと向かっていく。インスタントを覚えてからは、彼も最低限保証された味の飲み物を淹れられるようになってきた。もう牛乳を蒸発させることもなくなり、大人しくレンジを頼る。そんな旬の姿に、四季は密かに笑む。すると笑い声が重なった。同じく旬を見る夏来の目にも、四季と同じ愛心が灯っている。
「生活力上がったっすよね」
「そう、だね……ひとり暮らしの時より、テキパキ……してる」
「もう一生ミネラルウォーターだけを飲んで生きるって言ってたのにっすよー? 最近のジュンっち、メキメキ家事スキルが上がってるんすよ!」
「……それは、シキのおかげ……かも」
「え、オレもそんなに得意じゃないっすよ? 特別教えたこともないし……」
「そうじゃ、なくて……シキが、そばにいてくれてる……から、だよ」
 夏来は旬に向けていた視線をそのまま四季へ移す。彼は人を見ることに長けている。加えて、長年旬の隣にいたが故の深い理解。そんな夏来による旬の見解は決まって外れない。
 であれば、つまりその意味は──
「……っ、あぁ! そうそう、この前撮った写真を飾ってみたんすよ! どう、ハイパーイカしてるっしょ!」
 こんな時ばかり俊敏な思考回路が叩き出した答え。それにとても平静を保てる自信がない。体感四度上昇した頬を誤魔化すように、四季は写真立てを指した。右に収まるのは、先日の音楽番組の後に撮影した楽屋でのもの。何よりもHigh×Jokerを愛するふたりの家なのだ。写真を飾るならば、当然片方は五人のものがいい。そうして挟まれた写真の中では、皆《みな》が満面の笑みを湛えていた。それを見た夏来は頬をふにゃりとさせる。
「楽しかった、ね」
「はいっす!」
「それに、こっちも……ふふ。ふたりとも、楽しそう……」
 主観性の強かった表情は、少しスライドして客観的なものに変化する。こんな時、夏来は兄なんだとしみじみ感じる。見守るような笑顔が少し擽ったい。照れ混じりに四季が頬を掻くと、同時に旬がキッチンから戻って来た。
「すみません、遅くなりました。量が多いので気をつけてくださいね」
「あ、サンキューっす……いやマジで多いっすね⁉︎ 何があったんすか!」
「粉をお湯で練ってから淹れるといい、と聞いたので試したんですが……その、加減がわからなくて、色々足したらいつの間にか……」
「それでこんなマグギリギリなんすか……」
「こぼさないでくださいね。それでナツキは何をしてるんだ?」
「写真を、見てて……このジュン、すごく楽しそう……」
「あぁ、集合写真か……って、はっ⁉︎」
 夏来の手元を覗き込む旬。しかし『それ』を見た瞬間、彼は目をこぼしそうになる。High×Jokerの集合写真──その左隣に飾られた、四季に抱き着く自分によって。
「四季くん! 何でこれが……!」
「撮った時に聞いたじゃないっすか。これ入れてもいいっすかーって」
「酔っ払いの発言を真に受けないでください! ナツキ、違うんだ。わかるだろ。僕は素面でこんな浮かれたことはしない!」
「いい……写真だよ……?」
「どこが⁉︎」
 今度の旬は隠しようもないほど真っ赤。どう繕っても額縁の中の旬は、恋愛特有の浮かれぽんち。それを親友に見られた彼の心境は、おそらく嵐のように吹き荒れているのだろう。今にも胸倉を掴んできそうな旬を、四季は必死に収めていた。傍の夏来も彼をどうどうと宥めているが、今回は何をしても逆効果。旬はますます目を釣り上げ、今にも炭化しそうな勢いで顔の赤みを深めていく。
 そんな光景を慈しんでいるのか。なみなみ注がれたココアが、微笑むように揺れていた。
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