コーヒーミルクチョコレート
ショッパーを開ける時の高揚感。新商品のカップ麺に箸を入れた時の奮激。何度経た道でも、この喜びが褪せる時はない。例えば隼人は、弦を張り替える度に嬉しそうな顔でギターをかき鳴らす。夏来は新たに撮った飼い猫の写真を眺めては頬を緩ませ、春名は知らないドーナツに出会えばたちまちに心を吸い取られる。『新しい』というのは、それのみで幾つもの初体験を届けるのだ。
まだ寄り添う相方を知らない新品の鍵で開いた場所は『新しい』。しかしそこは無垢な新品には持たざる暖かみを含んでいる。ここは、これから旬と暮らす新居だ。一歩一歩を踏み込む度に、肺の中が知らない家の匂いで埋められる。これも『新しい』が与える刺激だった。
「うおー! 新しいお家っすー!」
「開口一番に出る感想がそれなんですか?」
「だってまさかオレがここに住むなんて思ってなかったっすから……自分の家だと思うと、テンションの上がり方も変わるもんっすよ!」
「僕は驚いてますよ。内見の時、どういう気持ちで同席していたんですか?」
「あ、はは〜……」
これからここが新たなスタート地点、そしてゴールにもなり得る場所。その感動を声に出すと、数歩後ろの旬が淡々と突っ込みを入れる。溜め息を吐かれた四季は苦笑した。
今回の起因となった、酒を纏わせたうわ言のしばらく後。一緒にどうかと誘われた内見に、四季はさして疑問も抱かずついていった。あの時は最もお邪魔するであろう四季の意見も聞きたくてのことだと思っていた。だがまさか泊まりどころか、住むことになるなんて。あまりにも他人事な目線でものを言う四季に、それこそ当時の旬は何を感じていたのだろう。恐ろしくて直接聞くことはできなかった。
四季は室内をぐるりと見渡す。中には先んじて運ばれたテレビと棚、座椅子にテーブル──こたつにも変身できる代物だ──が事務的に点在していた。元々使っていた、もしくは旬の家で見ていたせいだろうか。見知らぬ所に移されたそれらは、少し肩身が狭そうに思えた。
「えーっと、リビングにキッチン、トイレと……あ、あとの部屋って何用っすか?」
「僕たちの個室と仕事部屋、あとは客間に……と考えていました」
「ん……? それだと四つっすよね。あとの二部屋は?」
「? だから僕たちの個室……」
「え、待って? まさかオレら、自分の部屋がふたつずつあるってことっすか?」
「……何かおかしいですか?」
旬は当然だと言わんばかりの顔で、そう言ってのけた。なるほど、これが育った環境の違いか。旬は己の言葉に何ひとつ疑問がないらしい。彼の実家にある私室は一部屋しか知らないが、まさか他にもあったのだろうか。勉強用、音楽用、習い事用といった具合に、用途で小分けにしていたのかもしれない。ならばこの贅沢な部屋割りも頷ける。しかし一般家庭で育った四季には、私室なんて一部屋あれば充分事足りるのだ。そして引っ掛かるのはそれだけではない。何よりも気になるのは、旬の配分の中で欠けた最重要。
「じゃあ寝室はどこにあるんすか⁉︎」
「四季くんのベッドなら、君が一番気に入ってた部屋ですよ。そこを君の私室にと……」
「何でベッドもって思ったら……! まさか寝るのは別々なんすか⁉︎ せっかくの同棲なのに⁉︎」
「どっ……⁉︎」
同棲という単語に旬の顔が赤くなる。唐辛子のような真っ赤なそれは、口に含めばさぞ美味であろう。しかし今求めているのはいじらしい反応ではない。四季は旬の肩を強く揺さぶった。
「オレら付き合ってるんすよ、カレカレなんすよ! なのに何で寝る部屋をわけちゃうんすか⁉︎」
「帰りがズレる時もあるでしょう。別室にした方が建設的じゃないですか……というか、揺らさないでください!」
「いーやーだー! ジュンっちと一緒に寝たい! 一緒のベッドでイチャイチャしたい! そこでキスもセックスもたくさんするんすよぉ〜!」
「下品!」
「ぎゃっ!」
前頭葉に容赦ない手刀が見舞われる。年月をかけて研ぎ澄まされたそれに無駄は一切なく、脳へ的確なダメージを与えた。四季の頭に呆れるくせに、こういうことをするのだから本当に始末の悪い男だ。四季はそんな不服を込めてむくれて見せる。だが旬は、それに心を揺らす気はないらしい。
「寝ている隣でうかつに動けないでしょう。なら最初から別にした方がいいと思います」
「その時は自分の部屋で寝るっす。で、それとは別に寝室も作らないっすか? 自分の部屋なんて、ふたつもいらないでしょ」
「……では、僕の部屋を減らして、そこを寝室にしますか?」
「いや、オレの部屋もひとつでいいってば。何でそんなにこだわるんすか?」
「そ、れは……」
旬は言い淀む。言い辛いだけなのか、それとも言いたくないのか、真意はわからない。しかしその躊躇いの中には、おいそれと口に出せない彼の理屈が通っているのだろう。それだけは、何となく読み取れた。
先々のことまで考えて動く人だ。四季が思い至れない何かを彼は見つめていて、それを気にしているのかもしれない。だがそれでも尚、私室をふたつも構える意味はわからないし、必要性も感じない。これから共に暮らすのだ。平常時ならば噤んだ口を自ら解くまで待ってやれたが、議題が家ともなるとそうもいかない。気まずそうな頭頂部をじいと見下ろすと、旬は観念したように口を開いた。
「……多分、なんですけど。家って寛ぐ場所でしょう?」
「まぁ……確かにそうっすね?」
「例えば僕ならピアノ部屋。母さんとピアノを弾いたり、ナツキとセッションしたり……どこにいても息が詰まって窮屈だった僕でさえ、あの部屋だけでは全てを忘れられた……あそこが、あそこだけが、家の中で唯一の心の支えでした」
遠い過去のページを捲っているのだろう。それを語る旬の瞳は優しく、同時に悲しげだった。浮かべた笑みは少し硬く、なのに生温い儚さを纏っている。
いつか、その断片を記録した写真を見た。母親とピアノと映る、満面に笑う幼い旬を。きっとそういうことなのだろう。葉々から流れる木漏れ日に包まれたあの部屋は、きっと後ろ向きな旬をも素直に癒していた。
「四季くんだって、家では寛ぎたいでしょう? そんな時に過ごせる場所がないと困るじゃないですか」
それにどれだけ慰められてきたのだろう。まるきり違う人生を歩んだ四季に、旬の寂寥は理解しきれない。飲み切れない。
──だが、旬をそこに置いてけぼりにしてはいけない。それだけは、明白だった。
「ジュンっちの考えはわかったっす。その上で反論してもいいっすか?」
「……どうぞ」
「それって、リビングじゃダメなんすか?」
「え……?」
「一緒にご飯を食べておいしいねって話したり、テレビを見ながら笑ったり……オレはそういう団欒の時間が好きだったっす。みんなが一番集まって、一番一緒にいられるリビングが好き。家って、そういう寛ぎ方もあると思うんす」
四季がそう言うと、旬の目が丸くなった。その表情に四季は一抹の切なさを覚え、思わず眉を歪める。
惜しみない愛をくれた母を喪い、まだ生存している父とは未だ折り合いをつけきれない。心を砕いてくれるお手伝いさんはいれど、その者たちもいずれ自分の家に帰ってしまう。つまるところ旬には、団欒する家族がいないのだ。彼の濁りなき一驚が、その事実を知らしめた。
四季は旬の肩に額を乗せる。骨の硬さが、皮膚越しに伝わった。
「オレはジュンっちと、ここでそういう時間を過ごしたいっす」
それは、祈るような声だった。
四季は旬の家族ではない。家族でない以上、それに空けられた穴を埋めることは出来ない。だが世界で唯ひとりの恋人ではある。恋人ならば『知らない』を共に経験できる。どうかそれを知ってほしい。そんな気持ちを込めて、ぶら下がる手に指を絡めた。
「……これから買い物っすよね!」
「え? そうですけど……」
「もう出られるっすよね? よーっし、そうと決まれば出発っすよ!」
「へっ? わっ、ちょっと、四季くん……⁉︎」
今日は記念日。そんな日を、曇った顔で終わらせるわけにはいかない。四季はドア横に寄せていたふたつのバッグを拾うと、まだ困惑している旬を引き連れ、勢いよく玄関を飛び出した。
◆
「何が必要っすかね〜。とりあえずダブルベッドはマストっしょ? あとは〜……」
「本当に寝室を作る気なんですね……?」
「当然っす!」
向かった先はアウトレットモール。幅広いジャンルのテナントがぎっしり詰め込まれたそこは広い目的の買い物にはうってつけだ。その中で四季が真っ先に訪れたのは家具屋。大きな商品を並べるために取られたスペースはとても広い。その空間は、まるで現実的な夢を見ているようだった。
四季は少し奥まった所に設けられたベッドコーナーで足を止める。共に細身とはいえ、成人男性がふたりも並ぶのだ。ある程度のサイズは確保したい。そんなことを考えながらセミダブルとダブルの間をうろつく四季の背後、まだ置いてけぼりの旬が弱めに呟く。四季はそれに元気よく呼応するが、直後脳内に今更な懸念が浮かんだ。
「あ……もしかして、嫌……だったりするっすか……? それなら……」
よくよく考えてみれば、寝床を同じくすることに対する旬の所感を聞いていなかった。何度も同衾しているとはいえ、それはせいぜい数日の泊まりでのこと。同居となると考えも変わるのかもしれない。はたと気づいた四季は己の浅慮を憂う。しかし旬は彼の言葉に頷かず、代わりに顔を逸らした。
「別に……嫌ではない、ですが」
ぼつり、ぼつりと。雨上がりの屋根が流す、大粒のような呟きだった。それが耳に流れ込み、意味を思考に滲ませた。
四季は背後を振り返る。目の代わりに合った耳は赤らんでいた。
「じゃあ一緒に選ぼ。ジュンっちも使うベッドなんすから」
「……では、ダブルがいいです。四季くん寝相悪いし」
「あ、さては逃げる気っすね⁉︎ そこはぎゅーって抱きしめて押さえてほしいっすよ〜」
「嫌ですよ。君、パンチとかキックもするんですよ?」
「ねぇ、本当に嫌じゃないんすか? 実はちょっと嫌とか思ってないっすか⁉︎」
「まさか。そんなことないですよ」
ダブルのコーナーへ向かう背中を焦りながら追うと、旬は肩越しにくつくつと笑う。何とか隣を取り戻せば、左半分の温顔が顕になった。
何だかんだで甘い人。だから四季は、その寛容に寄り掛かりたくなってしまうのだ。
モール内をぐるぐる周って、休憩を兼ねた腹ごしらえもして。気つけばふたりの腕には、いくつものショッパーが提がっていた。その半分は四季贔屓のファストファッションのロゴ付き。旬の腕越しに見つめてくる、何匹ものくまっちの視線が痛いような気がした。
「買い忘れはありませんか? なければそろそろ帰りましょう」
「えーっと……うん、大丈夫っす!」
四季はメモを確認する。必要なものは買い揃えたし、大きなものは配送を頼んでいる。メモに不備がない限り、生活に支障をきたす恐れはなかろう。旬の言葉に頷いて、爪先を出口の方向へ転換した。
この道はまだ通っていない。店のウィンドウは季節よりも飽き性で、その姿をくるくる変える。初めて見るそれらのお洒落を目で楽しむのも、ショッピングの醍醐味だ。通りすがりに各々のコーデを楽しんでいると、あるものが四季の目をぴたりと止めた。
「? 四季くん?」
「……あの、あそこだけ寄ってもいいっすか?」
四季が指した先は雑貨屋。センスよく配置された小物たちが、賑やかながらも落ち着いた様相を作り出している。その中にぽつりと置かれた長方形、それが四季の興味を惹いた。
「写真立てですか?」
「よくわかったっすね⁉︎」
「えぇ、まぁ……」
雑貨屋を見た瞬間に、旬は四季の目当てを言い当てる。そのことに四季が驚くと、なぜか旬は気まずそうな顔をした。ぶっきらぼうにそっぽを向いた後頭部は言外に「これ以上突っ込むな」と語っている。四季は胸中で頷いて、代わりに写真立てを手に取った。
シンプルな細縁や飾りをあしらったもの、楽しげな模様を纏う柄物。いろんなものが四季たちを見上げている。店の顔にされるだけあって、どれも見栄えはバッチリだ。何を迎えてもそれらはいい仕事をするだろう。とはいえやはり『らしさ』も欲しいところ。何が一番四季の心に寄り添うか──それを考えれば、答えは自ずと浮かび上がる。
「この二連のもの、いいですね」
「! ジュンっちもっすか! オレもこれが一番気になってたんすよー!」
「テレビの辺りにでも飾りますか?」
「それいいっすね! じゃあオレお会計してくるっす!」
「わかりました。僕はここで待ってますね」
趣味の合わない自分たち。だが今回惹かれたものは同じだったようだ。たったそれだけのことだが、その事実がやけに喜ばしい。四季は気持ち軽い足取りで店奥へと進み出した。
まだ空気の味しか知らない空っぽのアクリル板。これからこの中にどんな色を落とそうか。そんなことを考えながら、四季は待ち人の元へ駆け出した。
まだ寄り添う相方を知らない新品の鍵で開いた場所は『新しい』。しかしそこは無垢な新品には持たざる暖かみを含んでいる。ここは、これから旬と暮らす新居だ。一歩一歩を踏み込む度に、肺の中が知らない家の匂いで埋められる。これも『新しい』が与える刺激だった。
「うおー! 新しいお家っすー!」
「開口一番に出る感想がそれなんですか?」
「だってまさかオレがここに住むなんて思ってなかったっすから……自分の家だと思うと、テンションの上がり方も変わるもんっすよ!」
「僕は驚いてますよ。内見の時、どういう気持ちで同席していたんですか?」
「あ、はは〜……」
これからここが新たなスタート地点、そしてゴールにもなり得る場所。その感動を声に出すと、数歩後ろの旬が淡々と突っ込みを入れる。溜め息を吐かれた四季は苦笑した。
今回の起因となった、酒を纏わせたうわ言のしばらく後。一緒にどうかと誘われた内見に、四季はさして疑問も抱かずついていった。あの時は最もお邪魔するであろう四季の意見も聞きたくてのことだと思っていた。だがまさか泊まりどころか、住むことになるなんて。あまりにも他人事な目線でものを言う四季に、それこそ当時の旬は何を感じていたのだろう。恐ろしくて直接聞くことはできなかった。
四季は室内をぐるりと見渡す。中には先んじて運ばれたテレビと棚、座椅子にテーブル──こたつにも変身できる代物だ──が事務的に点在していた。元々使っていた、もしくは旬の家で見ていたせいだろうか。見知らぬ所に移されたそれらは、少し肩身が狭そうに思えた。
「えーっと、リビングにキッチン、トイレと……あ、あとの部屋って何用っすか?」
「僕たちの個室と仕事部屋、あとは客間に……と考えていました」
「ん……? それだと四つっすよね。あとの二部屋は?」
「? だから僕たちの個室……」
「え、待って? まさかオレら、自分の部屋がふたつずつあるってことっすか?」
「……何かおかしいですか?」
旬は当然だと言わんばかりの顔で、そう言ってのけた。なるほど、これが育った環境の違いか。旬は己の言葉に何ひとつ疑問がないらしい。彼の実家にある私室は一部屋しか知らないが、まさか他にもあったのだろうか。勉強用、音楽用、習い事用といった具合に、用途で小分けにしていたのかもしれない。ならばこの贅沢な部屋割りも頷ける。しかし一般家庭で育った四季には、私室なんて一部屋あれば充分事足りるのだ。そして引っ掛かるのはそれだけではない。何よりも気になるのは、旬の配分の中で欠けた最重要。
「じゃあ寝室はどこにあるんすか⁉︎」
「四季くんのベッドなら、君が一番気に入ってた部屋ですよ。そこを君の私室にと……」
「何でベッドもって思ったら……! まさか寝るのは別々なんすか⁉︎ せっかくの同棲なのに⁉︎」
「どっ……⁉︎」
同棲という単語に旬の顔が赤くなる。唐辛子のような真っ赤なそれは、口に含めばさぞ美味であろう。しかし今求めているのはいじらしい反応ではない。四季は旬の肩を強く揺さぶった。
「オレら付き合ってるんすよ、カレカレなんすよ! なのに何で寝る部屋をわけちゃうんすか⁉︎」
「帰りがズレる時もあるでしょう。別室にした方が建設的じゃないですか……というか、揺らさないでください!」
「いーやーだー! ジュンっちと一緒に寝たい! 一緒のベッドでイチャイチャしたい! そこでキスもセックスもたくさんするんすよぉ〜!」
「下品!」
「ぎゃっ!」
前頭葉に容赦ない手刀が見舞われる。年月をかけて研ぎ澄まされたそれに無駄は一切なく、脳へ的確なダメージを与えた。四季の頭に呆れるくせに、こういうことをするのだから本当に始末の悪い男だ。四季はそんな不服を込めてむくれて見せる。だが旬は、それに心を揺らす気はないらしい。
「寝ている隣でうかつに動けないでしょう。なら最初から別にした方がいいと思います」
「その時は自分の部屋で寝るっす。で、それとは別に寝室も作らないっすか? 自分の部屋なんて、ふたつもいらないでしょ」
「……では、僕の部屋を減らして、そこを寝室にしますか?」
「いや、オレの部屋もひとつでいいってば。何でそんなにこだわるんすか?」
「そ、れは……」
旬は言い淀む。言い辛いだけなのか、それとも言いたくないのか、真意はわからない。しかしその躊躇いの中には、おいそれと口に出せない彼の理屈が通っているのだろう。それだけは、何となく読み取れた。
先々のことまで考えて動く人だ。四季が思い至れない何かを彼は見つめていて、それを気にしているのかもしれない。だがそれでも尚、私室をふたつも構える意味はわからないし、必要性も感じない。これから共に暮らすのだ。平常時ならば噤んだ口を自ら解くまで待ってやれたが、議題が家ともなるとそうもいかない。気まずそうな頭頂部をじいと見下ろすと、旬は観念したように口を開いた。
「……多分、なんですけど。家って寛ぐ場所でしょう?」
「まぁ……確かにそうっすね?」
「例えば僕ならピアノ部屋。母さんとピアノを弾いたり、ナツキとセッションしたり……どこにいても息が詰まって窮屈だった僕でさえ、あの部屋だけでは全てを忘れられた……あそこが、あそこだけが、家の中で唯一の心の支えでした」
遠い過去のページを捲っているのだろう。それを語る旬の瞳は優しく、同時に悲しげだった。浮かべた笑みは少し硬く、なのに生温い儚さを纏っている。
いつか、その断片を記録した写真を見た。母親とピアノと映る、満面に笑う幼い旬を。きっとそういうことなのだろう。葉々から流れる木漏れ日に包まれたあの部屋は、きっと後ろ向きな旬をも素直に癒していた。
「四季くんだって、家では寛ぎたいでしょう? そんな時に過ごせる場所がないと困るじゃないですか」
それにどれだけ慰められてきたのだろう。まるきり違う人生を歩んだ四季に、旬の寂寥は理解しきれない。飲み切れない。
──だが、旬をそこに置いてけぼりにしてはいけない。それだけは、明白だった。
「ジュンっちの考えはわかったっす。その上で反論してもいいっすか?」
「……どうぞ」
「それって、リビングじゃダメなんすか?」
「え……?」
「一緒にご飯を食べておいしいねって話したり、テレビを見ながら笑ったり……オレはそういう団欒の時間が好きだったっす。みんなが一番集まって、一番一緒にいられるリビングが好き。家って、そういう寛ぎ方もあると思うんす」
四季がそう言うと、旬の目が丸くなった。その表情に四季は一抹の切なさを覚え、思わず眉を歪める。
惜しみない愛をくれた母を喪い、まだ生存している父とは未だ折り合いをつけきれない。心を砕いてくれるお手伝いさんはいれど、その者たちもいずれ自分の家に帰ってしまう。つまるところ旬には、団欒する家族がいないのだ。彼の濁りなき一驚が、その事実を知らしめた。
四季は旬の肩に額を乗せる。骨の硬さが、皮膚越しに伝わった。
「オレはジュンっちと、ここでそういう時間を過ごしたいっす」
それは、祈るような声だった。
四季は旬の家族ではない。家族でない以上、それに空けられた穴を埋めることは出来ない。だが世界で唯ひとりの恋人ではある。恋人ならば『知らない』を共に経験できる。どうかそれを知ってほしい。そんな気持ちを込めて、ぶら下がる手に指を絡めた。
「……これから買い物っすよね!」
「え? そうですけど……」
「もう出られるっすよね? よーっし、そうと決まれば出発っすよ!」
「へっ? わっ、ちょっと、四季くん……⁉︎」
今日は記念日。そんな日を、曇った顔で終わらせるわけにはいかない。四季はドア横に寄せていたふたつのバッグを拾うと、まだ困惑している旬を引き連れ、勢いよく玄関を飛び出した。
◆
「何が必要っすかね〜。とりあえずダブルベッドはマストっしょ? あとは〜……」
「本当に寝室を作る気なんですね……?」
「当然っす!」
向かった先はアウトレットモール。幅広いジャンルのテナントがぎっしり詰め込まれたそこは広い目的の買い物にはうってつけだ。その中で四季が真っ先に訪れたのは家具屋。大きな商品を並べるために取られたスペースはとても広い。その空間は、まるで現実的な夢を見ているようだった。
四季は少し奥まった所に設けられたベッドコーナーで足を止める。共に細身とはいえ、成人男性がふたりも並ぶのだ。ある程度のサイズは確保したい。そんなことを考えながらセミダブルとダブルの間をうろつく四季の背後、まだ置いてけぼりの旬が弱めに呟く。四季はそれに元気よく呼応するが、直後脳内に今更な懸念が浮かんだ。
「あ……もしかして、嫌……だったりするっすか……? それなら……」
よくよく考えてみれば、寝床を同じくすることに対する旬の所感を聞いていなかった。何度も同衾しているとはいえ、それはせいぜい数日の泊まりでのこと。同居となると考えも変わるのかもしれない。はたと気づいた四季は己の浅慮を憂う。しかし旬は彼の言葉に頷かず、代わりに顔を逸らした。
「別に……嫌ではない、ですが」
ぼつり、ぼつりと。雨上がりの屋根が流す、大粒のような呟きだった。それが耳に流れ込み、意味を思考に滲ませた。
四季は背後を振り返る。目の代わりに合った耳は赤らんでいた。
「じゃあ一緒に選ぼ。ジュンっちも使うベッドなんすから」
「……では、ダブルがいいです。四季くん寝相悪いし」
「あ、さては逃げる気っすね⁉︎ そこはぎゅーって抱きしめて押さえてほしいっすよ〜」
「嫌ですよ。君、パンチとかキックもするんですよ?」
「ねぇ、本当に嫌じゃないんすか? 実はちょっと嫌とか思ってないっすか⁉︎」
「まさか。そんなことないですよ」
ダブルのコーナーへ向かう背中を焦りながら追うと、旬は肩越しにくつくつと笑う。何とか隣を取り戻せば、左半分の温顔が顕になった。
何だかんだで甘い人。だから四季は、その寛容に寄り掛かりたくなってしまうのだ。
モール内をぐるぐる周って、休憩を兼ねた腹ごしらえもして。気つけばふたりの腕には、いくつものショッパーが提がっていた。その半分は四季贔屓のファストファッションのロゴ付き。旬の腕越しに見つめてくる、何匹ものくまっちの視線が痛いような気がした。
「買い忘れはありませんか? なければそろそろ帰りましょう」
「えーっと……うん、大丈夫っす!」
四季はメモを確認する。必要なものは買い揃えたし、大きなものは配送を頼んでいる。メモに不備がない限り、生活に支障をきたす恐れはなかろう。旬の言葉に頷いて、爪先を出口の方向へ転換した。
この道はまだ通っていない。店のウィンドウは季節よりも飽き性で、その姿をくるくる変える。初めて見るそれらのお洒落を目で楽しむのも、ショッピングの醍醐味だ。通りすがりに各々のコーデを楽しんでいると、あるものが四季の目をぴたりと止めた。
「? 四季くん?」
「……あの、あそこだけ寄ってもいいっすか?」
四季が指した先は雑貨屋。センスよく配置された小物たちが、賑やかながらも落ち着いた様相を作り出している。その中にぽつりと置かれた長方形、それが四季の興味を惹いた。
「写真立てですか?」
「よくわかったっすね⁉︎」
「えぇ、まぁ……」
雑貨屋を見た瞬間に、旬は四季の目当てを言い当てる。そのことに四季が驚くと、なぜか旬は気まずそうな顔をした。ぶっきらぼうにそっぽを向いた後頭部は言外に「これ以上突っ込むな」と語っている。四季は胸中で頷いて、代わりに写真立てを手に取った。
シンプルな細縁や飾りをあしらったもの、楽しげな模様を纏う柄物。いろんなものが四季たちを見上げている。店の顔にされるだけあって、どれも見栄えはバッチリだ。何を迎えてもそれらはいい仕事をするだろう。とはいえやはり『らしさ』も欲しいところ。何が一番四季の心に寄り添うか──それを考えれば、答えは自ずと浮かび上がる。
「この二連のもの、いいですね」
「! ジュンっちもっすか! オレもこれが一番気になってたんすよー!」
「テレビの辺りにでも飾りますか?」
「それいいっすね! じゃあオレお会計してくるっす!」
「わかりました。僕はここで待ってますね」
趣味の合わない自分たち。だが今回惹かれたものは同じだったようだ。たったそれだけのことだが、その事実がやけに喜ばしい。四季は気持ち軽い足取りで店奥へと進み出した。
まだ空気の味しか知らない空っぽのアクリル板。これからこの中にどんな色を落とそうか。そんなことを考えながら、四季は待ち人の元へ駆け出した。