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ユウマとサムライ男B


 何かおかしい。そう思って口に出そうとしたが、もう遅かった。
「逃げないで」
 ユウマが切実そうに囁く。それがいけなかったのだろう。
 及び腰を捕らえられて引き離そうとした距離がより近くなり、頬に手を添えられ、いよいよ退っ引きならなくなる。
 ゆっくり近付いてくる顔に男同士だというのに見惚れて、照れてしまう。それが緊張感へと変わって動けなくなる。
 だが何よりも真剣な、そして縋るような瞳に、逃げることも拒むことも選べはしなかった。
 強い眼差しに思わず目を閉じる。
 直後、唇に触れるものがあった。少々押し付けるように触れたそれが何かは確かめるまでもない。
 しかしその感触は直接ではなく、布越しだった。いくらか拍子抜けした心持ちで目を開く。
「…………」
 鼻先が掠めそうなほど近くで、ユウマがこちらを窺うように見つめている。頬には手が添えられ、まるで抱き合うような形のまま、互いの間に沈黙が流れる。ユウマはまだ自分のミスに気付かない。
 それから少し間を置いて、気まずさに目を泳がせるもどうしようもなく、迷った末に指摘した。
「マスク……したままだぞ」
「あ」
 今度はユウマが羞恥から目を泳がせた。相当堪えたのか、顔を手で覆って俯く。耳まで真っ赤になっていた。
 きっと今、猛烈に、格好悪いと思っているに違いない。凄まじい自己嫌悪に陥っているのが見て取れた。年相応の失敗という気はしたが、そう慰めたところでユウマは納得しないだろう。何せ彼は気障である。格好が付かないのは許せないだろう。
 最早、先程までの甘い雰囲気などない。霧散してしまった。滑稽とも言える状況に緊張が緩む。打って変わって気の抜けた空気に肩の力が抜け、思わず息をつく。それをどう受け取ったのか、ユウマがすかさず見咎めた。
「俺のこと、また馬鹿にしてるでしょう」
「いや、……そんなことはないぞ」
 ぽつりと零されたのは、明らかに拗ねた声音だった。迷子のように不安げだった瞳は既に悔しさで満ちている。まるで年齢や時間といった埋まらない差を妬むように、ユウマは眉を寄せる。変に間を空けてしまったのを穿って捉えたのだろう。今のは即答すべきだった。へまをした。
 上手くいかないものだ。それはユウマも自分も同じで、所詮は経験の乏しい子供ということなのだろう。どう宥めるべきか、声をかけるべきか、自分だってよくわからない。言い訳をつらつら重ねればそれらしく聞こえるのか、正直に吐露すれば誤解を解けるのか。頭を抱えたくなる。
「まあ、なんだ……ちょっとほっとした」
 もごもごと口を動かす。マスク越しなので尚更、聞き取り難かった筈だが、ユウマはしっかり拾っていて、怪訝そうな顔をする。言外に「なぜ?」と訊いてくる。
 それに困ったように苦笑して、頭を掻いた。気恥ずかしくて、やはりもごもごと口を動かす。
「……初めてするから」
「はい?」
「だから、もっと心の準備をな?」
「なんのです?」
 首を傾げられた。本気でわかっていない顔だ。無自覚で追い討ちをかけてくる。言わなければ伝わらないとわかって、しかしはっきりと述べるのは勇気がいった。目を合わせるのが辛く、目線を下に落とすと自分の巻いているマフラーが視界に入る。
「あー、だから、その……キスが。初めてで、流石に、そこまでするとは思ってなくてだな。……だからいきなりで、びっくりした、というか……」
 非常に居たたまれなかった。
 お互い恥ずかしい思いをして痛み分けだと思って口にしたものの、こちらのダメージの方が大きくはないか。いや、絶対に大きい。
 ちらりとユウマを見やるが、きょとんとしているだけで得心がいったようには見えない。
「もう勘弁してくれ……」
 思ったことがつい口に出ていた。項垂れて両手を上げ、降参のポーズを取る。沈黙が苦い。溜息が漏れそうになるが、また機嫌を損ねそうなのでぐっと堪えた。
「……つまり、今のは君にも落ち度があった、ということですね」
 ユウマが静かに言い放った。予想だにしない反応である。
 顔を上げるとユウマは顎に手を当て、難しい顔で考え込んでいる。その姿になんとなく、今日の反省点を洗い出しているのではないかと思った。そしてそれは間違いではなかったらしい。
「過程に問題はありませんでした。しかし俺達の間で認識に違いがあったから、今回の事態を招いた。そういうことなら納得です。次の機会には改善しましょう」
 まるでこちらに非があると言わんばかりだが、ここで余計につつけば藪蛇であることは火を見るより明らかだ。とにかく場を収められたのなら良しとしよう。そう自分に言い聞かせて、渋々頷いた。
「次……。ああ、うん、次な……」
「ええ、次は完璧にエスコートします」
 すっかり持ち直したらしいユウマが得意気に笑ってみせる。子供っぽさが覗くその表情に、呆れ半分に苦笑した。
 締まらない終わりを迎えたデートだが、思い出としては悪くないと、自分は確かに思ったのだ。



 ──マスクの下で唇を噛み締めた。
 嘆いたところでもう遅い。何を言っても意味がないから言葉も見つからなくて、結局口を噤む。
 息を吸い込んで、放たれた蹴りを受け止める。吹っ飛びそうな衝撃にどうにか踏ん張って留まるが、矢継ぎ早にもう一撃、顔を目掛けて飛んでくる。
 辛うじて避けると鋭い爪が頬を掠め、マスクを裂いた。頬には一筋の傷ができてピリッとした痛みが走る。それもすぐに全身の痛みに混ざって消えて、どこが痛いのかもわからなくなった。
 追い縋るように伸ばされた手が、破れたマスクを掴んで剥ぎ取る。力任せに引っ張られた所為で片耳にかかっていた紐と皮膚が擦れて、僅かに顔を顰めた。思わぬ行動に蹈鞴を踏んで、引き下がる。
「そういえば君の素顔、初めて見ました」
 手にしたマスクから視線を戻し、ユウマは懐かしむように目を細めた。しかしそこに以前のような温かさは感じられない。眼差しはあくまで冷たく、相対するこちらを射抜いている。
 苦々しく睨み返せば、薄ら笑いが消え失せた。手の中からマスクが捨てられる。興味をなくしたのだろう。
 嫌な気分だ。また唇を噛み締める。
 次なんてどこにもない。とっくに思い知った筈なのに、今更打ちのめされそうになる。それでも逃げることも拒むことも、もう選べやしない。
 口の中は血の味がする。切れた唇が、傷口がじりじりと痛む。
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