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いずれ夜が明ける前
時折、その苦しげな声は聞こえていた。
他の人間であれば気付かなかったかもしれない。実際、アーロン以外には聞こえていないかもしれない。彼の身体能力は常人よりも発達していて、聴力も人より優れていた。
ブロッサムは昼夜を問わず明るく、陽が落ちてもきらびやかだ。それでも夜が深まれば街の喧騒も影を潜める。僅かばかりでも静けさが勝る時であれば、アーロンの耳は容易く音を拾う。
喉の渇きを覚えて廊下へ出たところで、その苦しげな声は聞こえてきた。
アーロンは苛立つままに頭を掻いて、溜息をついた。微かに聞こえる声を鬱陶しいと感じつつも、しかし無視できるものでもない。その矛盾が胸の内をざわめかせる。
放っておけばいい。そう考えるが、どうしても気になってしまう理由があった。
どこから聞こえてくるのか、誰の声なのか、アーロンにはわかっている。それが無視できない理由であり、踏み込むべきか迷わせる要因でもあった。
拭えない不快感から目を逸らすようにその場を離れる。部屋から遠ざかれば当然、その声も遠ざかった。
余計に喉が渇いたように思えて、キッチンに着くと早々に水を煽った。冷たさが心地よく、重たい気分をいくらか誤魔化してくれたが、晴らしてはくれなかった。
「……クソッ」
ひとり、静けさの中で悪態をついた。
ドアの前に立つと嫌でも聞こえてくる。呻くような、誰かを呼ぶような声だ。
自分の行動にも声の主にも、わけのわからない苛立ちが込み上げる。
「チッ……おい、ドギー」
乱暴にドアを叩いて呼びかける。部屋の中から返事はない。もう一度、叩く。すると苦しげな声が聞こえなくなる。ドアが開くのを待つが、人が動く気配がない。
とりわけ気の短いアーロンにはそれだけで十分に腹立たしく、いっそのことドアを蹴破ってしまおうかと思った瞬間。
「……に、しな……で」
小さな声に、躊躇なく足を振り上げた。
「……うわぁ!?」
深夜に似つかわしくない轟音に犬が飛び起きたらしい。それに少し気を良くしたアーロンだったが、またすぐに胸中は淀んだ。
ルークが、恐る恐るといった体で周りを見回す。その顔はひどく強張っていて、呼吸も荒い。アーロンがわざとらしく足音を立てて部屋に入り込めば、大きく肩を揺らして、途端に振り向く。親とはぐれた、迷子のような怯えが窺えた。
「ア、アーロン……?」
「ほらよ」
「うわ、ちょっ……ええ?」
冷蔵庫から持ち出した飲料水のボトルを放り投げて、アーロンはベッドの縁に腰掛ける。
ルークは渡されたボトルとアーロンの顔を交互に見やりながら、状況を飲み込めずに困惑している。
「えっと……どうかしたのか?」
「そりゃこっちの台詞だ。魘されてただろうが」
「えっ、あ……そう、か」
気鬱な面差しにかかる陰影は、俯くとより色を増す。手元のボトルをぎゅっと握り締める様は不安を紛らわせる子供のようだった。
「あ……もしかして起こしたか? ごめ──」
「謝んな。たまたま起きたんだよ」
パッと顔を上げたルークを、アーロンは睨み付ける。申し訳なさそうに謝罪を口にしようとするのが癪に障った。
わかりきっていることだが、ルークは献身的な人間だ。普段であれば呆れるだけだが、自己犠牲とも利他的とも呼べるその精神を、今は看過できそうになかった。先ほど、ドアを蹴破る前に拾ってしまった小さな声を思うと尚更だった。
ひとりにしないで。確かにそう聞こえた。
人好きのする男が孤独に苛まれ、怯えている。
意外にも思えたが、エリントンでの一連の出来事を思えば、その正義感から周囲に疎まれていたのだろうことは想像に難くない。
アーロンにはアラナをはじめとする家族が己の在り方に理解を示してくれたが、ルークにはいなかった。
だがそれは種類の違う苦難があったというだけだ。互いが生きてきた世界を比べて、傷を舐め合うなどまっぴら御免だ。それなのに半端に踏み込んでしまった自分に、そうさせてしまうルークに忌々しさが募る。内心で舌打ちした。むしゃくしゃする気持ちを持て余して、その矛先を定めて立ち上がる。
「アーロンッ、その、ありがと……って、いたっ!?」
慌てて呼びかける声を遮り、肩を蹴っ飛ばす。そのまま二の腕辺りを足先でグイグイと押せば、よろめきながらも犬が吠える。
「何するんだよ!」
「うっせえ。詰めろ。寝れねえだろうが」
「へ? ちょっ……足で押すなって!」
せっつくアーロンにルークは一応の抗議はしたものの、すぐに観念して場所を空けた。
「……せめて靴脱いでくれ!」
蹴られたことに対してか、土足のままベッドに上がろうとしているからか。むくれた顔でそう言うのでアーロンは渋々靴を脱ぎ捨てた。
大の男二人が眠るにはベッドは狭く、否が応でも体をくっつけなければならない。そのことについて、ルークと背中合わせに寝転びながら、アーロンは少し後悔した。
「なあ、君、本当にそのままで寒くないのか? 風邪引かないか?」
「しつけえな。そんなやわじゃねえよ」
ルークは一枚のブランケットを自分だけが使うことに抵抗があるようで何度か同じ質問をしたが、アーロンは呆れながら跳ね除けた。元々はルークの物であるし、ただでさえ狭く引っ付いているのに、さらに身を縮こませる羽目になるのを避けたかった。
部屋の中は温かいとまではいかずとも、そう寒くはない。そもそも屋上で眠ることすらあるアーロンには然したる問題ではなく、そのことはルークも知っている筈だが、それでも訊ねてくるところが彼らしいとも言えた。
もぞもぞと背後で動く気配に目を瞑りかけたアーロンが視線を向ける。
「んだよ」
「いや、毛皮がチクチクして……」
なんとか身を縮込ませて大きなファーを避けようとしているようで、ごそごそと身動ぐルークにアーロンは少しばかり悪戯心が湧いた。頭を後ろへ傾けてファーを押し付ける。
「く、くすぐった……ふはっ……ちょ、君なあ!」
仕返しとばかりに背中を押し返される。子供のような応酬に、アーロンはふと幼い頃を思い出した。当時も同じように一つのベッドに寝転んで、じゃれ合ったものだ。
感傷じみた記憶に自嘲的な笑みが自然と浮かんだ。それを押し殺すように目を閉じる。
「たくっ、さっさと寝ろ」
「君が先にやってきたのに……」
呆れたように言えば、どこか不満げな声が聞こえてくる。
「ああ? 寝かしつけてほしいって?」
「結構です! おやすみ!」
片目で後ろを窺い、威嚇すると、尻尾を巻いた犬が布団に潜り込んだ。喉の奥で笑って、少しばかり背を丸める。
「……おやすみ」
ぶっきらぼうな声が静けさに落ちて、やがて穏やかな寝息へと変わっていった。
翌朝、開きっぱなしのドアからそっと中を覗いたモクマは目をきゅるきゅると輝かせた。
「え~、ふたりでお泊まり会? 仲良しさんだねえ」
その一言にがばりとアーロンが飛び起きる。しまったと言わんばかりに額を手で覆い、唸るように奥歯を噛み締めた。思ったよりも深く寝入ってしまったらしい。
そそくさとベッドから下りて靴を履き、苦々しげにモクマを見やる。
「詐欺師には言うんじゃねえぞ」
「おや、そう恥ずかしがらずとも。仲良きことは美しき哉、と申しますよ。大変よろしいことかと」
「ねー」
ひょこっとモクマの後ろからチェズレイが顔を出す。嫋やかに笑って口にした言葉に、モクマがにこにこと同意してみせた。
からかうような、微笑ましげな眼差しに堪え切れなくなったアーロンが目を怒らせ、ドスドスと床を踏み鳴らす。
がるる、と牙を剥いて吠え立てたその声に、ルークは夜明け前と同じように飛び起きた。
時折、その苦しげな声は聞こえていた。
他の人間であれば気付かなかったかもしれない。実際、アーロン以外には聞こえていないかもしれない。彼の身体能力は常人よりも発達していて、聴力も人より優れていた。
ブロッサムは昼夜を問わず明るく、陽が落ちてもきらびやかだ。それでも夜が深まれば街の喧騒も影を潜める。僅かばかりでも静けさが勝る時であれば、アーロンの耳は容易く音を拾う。
喉の渇きを覚えて廊下へ出たところで、その苦しげな声は聞こえてきた。
アーロンは苛立つままに頭を掻いて、溜息をついた。微かに聞こえる声を鬱陶しいと感じつつも、しかし無視できるものでもない。その矛盾が胸の内をざわめかせる。
放っておけばいい。そう考えるが、どうしても気になってしまう理由があった。
どこから聞こえてくるのか、誰の声なのか、アーロンにはわかっている。それが無視できない理由であり、踏み込むべきか迷わせる要因でもあった。
拭えない不快感から目を逸らすようにその場を離れる。部屋から遠ざかれば当然、その声も遠ざかった。
余計に喉が渇いたように思えて、キッチンに着くと早々に水を煽った。冷たさが心地よく、重たい気分をいくらか誤魔化してくれたが、晴らしてはくれなかった。
「……クソッ」
ひとり、静けさの中で悪態をついた。
ドアの前に立つと嫌でも聞こえてくる。呻くような、誰かを呼ぶような声だ。
自分の行動にも声の主にも、わけのわからない苛立ちが込み上げる。
「チッ……おい、ドギー」
乱暴にドアを叩いて呼びかける。部屋の中から返事はない。もう一度、叩く。すると苦しげな声が聞こえなくなる。ドアが開くのを待つが、人が動く気配がない。
とりわけ気の短いアーロンにはそれだけで十分に腹立たしく、いっそのことドアを蹴破ってしまおうかと思った瞬間。
「……に、しな……で」
小さな声に、躊躇なく足を振り上げた。
「……うわぁ!?」
深夜に似つかわしくない轟音に犬が飛び起きたらしい。それに少し気を良くしたアーロンだったが、またすぐに胸中は淀んだ。
ルークが、恐る恐るといった体で周りを見回す。その顔はひどく強張っていて、呼吸も荒い。アーロンがわざとらしく足音を立てて部屋に入り込めば、大きく肩を揺らして、途端に振り向く。親とはぐれた、迷子のような怯えが窺えた。
「ア、アーロン……?」
「ほらよ」
「うわ、ちょっ……ええ?」
冷蔵庫から持ち出した飲料水のボトルを放り投げて、アーロンはベッドの縁に腰掛ける。
ルークは渡されたボトルとアーロンの顔を交互に見やりながら、状況を飲み込めずに困惑している。
「えっと……どうかしたのか?」
「そりゃこっちの台詞だ。魘されてただろうが」
「えっ、あ……そう、か」
気鬱な面差しにかかる陰影は、俯くとより色を増す。手元のボトルをぎゅっと握り締める様は不安を紛らわせる子供のようだった。
「あ……もしかして起こしたか? ごめ──」
「謝んな。たまたま起きたんだよ」
パッと顔を上げたルークを、アーロンは睨み付ける。申し訳なさそうに謝罪を口にしようとするのが癪に障った。
わかりきっていることだが、ルークは献身的な人間だ。普段であれば呆れるだけだが、自己犠牲とも利他的とも呼べるその精神を、今は看過できそうになかった。先ほど、ドアを蹴破る前に拾ってしまった小さな声を思うと尚更だった。
ひとりにしないで。確かにそう聞こえた。
人好きのする男が孤独に苛まれ、怯えている。
意外にも思えたが、エリントンでの一連の出来事を思えば、その正義感から周囲に疎まれていたのだろうことは想像に難くない。
アーロンにはアラナをはじめとする家族が己の在り方に理解を示してくれたが、ルークにはいなかった。
だがそれは種類の違う苦難があったというだけだ。互いが生きてきた世界を比べて、傷を舐め合うなどまっぴら御免だ。それなのに半端に踏み込んでしまった自分に、そうさせてしまうルークに忌々しさが募る。内心で舌打ちした。むしゃくしゃする気持ちを持て余して、その矛先を定めて立ち上がる。
「アーロンッ、その、ありがと……って、いたっ!?」
慌てて呼びかける声を遮り、肩を蹴っ飛ばす。そのまま二の腕辺りを足先でグイグイと押せば、よろめきながらも犬が吠える。
「何するんだよ!」
「うっせえ。詰めろ。寝れねえだろうが」
「へ? ちょっ……足で押すなって!」
せっつくアーロンにルークは一応の抗議はしたものの、すぐに観念して場所を空けた。
「……せめて靴脱いでくれ!」
蹴られたことに対してか、土足のままベッドに上がろうとしているからか。むくれた顔でそう言うのでアーロンは渋々靴を脱ぎ捨てた。
大の男二人が眠るにはベッドは狭く、否が応でも体をくっつけなければならない。そのことについて、ルークと背中合わせに寝転びながら、アーロンは少し後悔した。
「なあ、君、本当にそのままで寒くないのか? 風邪引かないか?」
「しつけえな。そんなやわじゃねえよ」
ルークは一枚のブランケットを自分だけが使うことに抵抗があるようで何度か同じ質問をしたが、アーロンは呆れながら跳ね除けた。元々はルークの物であるし、ただでさえ狭く引っ付いているのに、さらに身を縮こませる羽目になるのを避けたかった。
部屋の中は温かいとまではいかずとも、そう寒くはない。そもそも屋上で眠ることすらあるアーロンには然したる問題ではなく、そのことはルークも知っている筈だが、それでも訊ねてくるところが彼らしいとも言えた。
もぞもぞと背後で動く気配に目を瞑りかけたアーロンが視線を向ける。
「んだよ」
「いや、毛皮がチクチクして……」
なんとか身を縮込ませて大きなファーを避けようとしているようで、ごそごそと身動ぐルークにアーロンは少しばかり悪戯心が湧いた。頭を後ろへ傾けてファーを押し付ける。
「く、くすぐった……ふはっ……ちょ、君なあ!」
仕返しとばかりに背中を押し返される。子供のような応酬に、アーロンはふと幼い頃を思い出した。当時も同じように一つのベッドに寝転んで、じゃれ合ったものだ。
感傷じみた記憶に自嘲的な笑みが自然と浮かんだ。それを押し殺すように目を閉じる。
「たくっ、さっさと寝ろ」
「君が先にやってきたのに……」
呆れたように言えば、どこか不満げな声が聞こえてくる。
「ああ? 寝かしつけてほしいって?」
「結構です! おやすみ!」
片目で後ろを窺い、威嚇すると、尻尾を巻いた犬が布団に潜り込んだ。喉の奥で笑って、少しばかり背を丸める。
「……おやすみ」
ぶっきらぼうな声が静けさに落ちて、やがて穏やかな寝息へと変わっていった。
翌朝、開きっぱなしのドアからそっと中を覗いたモクマは目をきゅるきゅると輝かせた。
「え~、ふたりでお泊まり会? 仲良しさんだねえ」
その一言にがばりとアーロンが飛び起きる。しまったと言わんばかりに額を手で覆い、唸るように奥歯を噛み締めた。思ったよりも深く寝入ってしまったらしい。
そそくさとベッドから下りて靴を履き、苦々しげにモクマを見やる。
「詐欺師には言うんじゃねえぞ」
「おや、そう恥ずかしがらずとも。仲良きことは美しき哉、と申しますよ。大変よろしいことかと」
「ねー」
ひょこっとモクマの後ろからチェズレイが顔を出す。嫋やかに笑って口にした言葉に、モクマがにこにこと同意してみせた。
からかうような、微笑ましげな眼差しに堪え切れなくなったアーロンが目を怒らせ、ドスドスと床を踏み鳴らす。
がるる、と牙を剥いて吠え立てたその声に、ルークは夜明け前と同じように飛び起きた。