text
バグは嵐のように
目を開くとその部屋にいた。
今までたき火の前にいた筈のデイビットは飛び起きる。知らぬ間にベッドに寝かされていた。
思い出してみると、たき火を眺めていたところに声をかけられて振り返った瞬間、意識を失ったようだった。
あの時、聞こえたのはテスカトリポカの声だった。そもそもミクトランパで彼以外の他者に出会うことはまずない。
では、傍らに彼がいるかというと、誰もいない。
二度ほど手を握っては開き、不調や感覚に異常はないか確かめた。至って正常だ。何が起きたのか判然としないながらも行動することだけは即決して、まっすぐにドアへと向かった。しかしどれだけドアノブを回しても開くことはなかった。
デイビットは眉を顰めた。
室内には大きめのベッド、ナイトテーブル、その上にランプがあり、少し離れた場所に丸テーブルと二脚の椅子が置かれている。丸テーブルのそばには窓があるが、格子が嵌められている。モノトーンで統一された中で、真っ黒なドアは特に重々しさを放っていた。
ナイトテーブルの引き出しを確認するが何も入っていない。その他にベッドの下、窓の格子など部屋中をくまなく調べていき、最後にもう一度ドアノブに手をかけたが、やはり開きはしなかった。
一通り確認し終えた後、デイビットは監禁されていると判断した。
犯人として怪しいのは当然テスカトリポカだ。
ミクトランパでこんな真似ができるのは領域を支配する神だけだ。あと最近どこか挙動不審だったので怪しかった。
動機には思い至らなかったが、いくら考えても答えが出そうにないので、ひとまず脱出を試みることにした。
木製のドアに触れて、コンコンと叩く。上から下まで見ていくと何か違和感を覚えた。ドアの下側、その周りを注意深く観察する。近付いてしゃがみ込み、壁を手でなぞっていく。すると一部だけ、補修したと思しき箇所があった。
立ち上がって思いきり爪先で蹴飛ばす。即座に効果が薄いと判断するや椅子を叩き壊して、尖った部分で殴り続けた。するとパラパラと、ほんの小さな穴ができるとそこから一気に崩すことに成功する。
そうして中から現れたのは、なんと手斧だった。
流石に予想外だったのか、デイビットも目を丸くした。そしてそれがまた混乱を招く。
監禁場所に手斧が隠されていたのだ。いくらなんでも設計ミス──いや、設定ミスだろう。閉じ込めておきたい相手に武器を与えたら監禁する意味がない。
監禁と判断したのは早計だったのか。デイビットの中で戸惑いが生じる。
テスカトリポカは試練を与えたがる神なので、自分は試されているのかとも考える。だがここはミクトランパ。静寂と休息の領域でそのようなことをするのかという疑問が新たに浮かんでくる。
何かしら不測の事態が起きているという可能性も考慮するが、やはり納得のいく答えが出ない。
ともかくデイビットは結論を後回しにして、脱出を優先することにした。
手斧を握り締めて立ち上がり、思いきりドアに振り下ろした。
テスカトリポカは頭を抱えていた。
デイビットが逃げ出した。しかも己の失態によるもの──正確に言うと、不具合によってだ。
その不具合とは、恋だ。
テスカトリポカは恋を患っている。そして血迷っている。
しかしどれだけ逆上せていようと、元来は公平な神である。
恋とはひとりを寵するものであり、公平とはすべてが等しいものである。
テスカトリポカは今なお神として成り立っており、恋を引き起こしながらも公平さを失っているわけではない。真逆の性質であるにもかかわらず、どちらも機能している。しかし機能しているが故に、本来であれば問題のなかったプログラムの挙動をおかしくさせた。
つまり不具合──バグである。
その結果が『監禁しておきながら相手が逃げられるように打開策も用意しておく』なんていう馬鹿げた不具合だ。
テスカトリポカ自身は非常に悩まされているが、意図せずそういう挙動をしてしまうので仕方ない。本来有り得ないのは恋患いの方で、悪さをしているのもそちらなのだ。公平性を保とうとするのは正常に機能しようとしているからなのでエラーとして検知されない。そのため、設定ミスが後から発覚したのである。
直そうにも恋 を消去する気にはならないし、かといって公平性を欠けば神格を失ってデイビットのいるミクトランパから追放される可能性がある。そんなわけで結局修正できずにいる。
テスカトリポカは頭を悩ませながらもデイビットを追うべく、もぬけの殻となった部屋を後にした。
一方、デイビットはというと、入手した手斧 でドアの悉くを破壊しながら闊歩していた。
大きな屋敷のような建物内はデイビットが出口に辿り着かないようにあれこれとリアルタイムで改築されているので、来た道が行き止まりになっていたり、入ってきたドアがなくなって別のドアが出現したりしている。窓も同様で、壊しても壊しても部屋が続くように修正される。内部はすでにしっちゃかめっちゃかで、建築物としては破綻している。
今のところテスカトリポカとは遭遇していない。しかし出口に辿り着けないとなると直接対決する必要があるだろう。危険ではあるが、そうするしかないのであれば実行する他ない。
少し広さのある場所で立ち止まると、デイビットは迷いなく、その名を呼んだ。
「テスカトリポカ」
瞬時に煙が形を作り、目の前にテスカトリポカが現れた。
「……よお、兄弟」
どうにも落ち込んでいるようだった。顔を伏せて肩を落としている。はあ~……と溜息までついた。
デイビットはその様子に内心首を傾げたが、好機と見て容赦なく斬りかかった。弱っているところを叩くのは基本だ。
「あぁ、クソッ……! 誰だよ斧とか置いたヤツ! ……オレだよ!」
苛立たしげに言葉を吐いたテスカトリポカは振り下ろされる一撃を後ろに躱し、すぐさま銃を取り出した。
銃口を向けられるより早くデイビットが前に踏み込み、胸を反って振り抜くように薙ぐ。テスカトリポカはグリップを握り締め、スライドの上に取り付けられた刃で弾き返した。
キィンッ! と金属音が鳴り響く。
弾かれた反動でデイビットの手斧を持つ腕が外側に広がる。その隙に今度はテスカトリポカが前へ踏み込んで、高い鼻梁にグリップの底を叩き付けた。
「っ、ハ……ッ!」
鼻血を吹き出しながら、デイビットはよろめきそうになるのをなんとか堪えて、もう一度、手斧を薙いだ。雑に振るったそれは空を切ったものの間合いを取れたことで口で大きく息をする。後ろに下がったテスカトリポカが銃口を向けるのを睨みつつ、鼻血を袖で拭い、口内の唾と混じった血を吐き捨てた。
「大人しくしてくれよ」
「断る」
「悪いようにはしない」
「余計に怪しいぞ」
言葉選びを間違えたとは思わないのだろう。テスカトリポカは不可解そうに眉間に皺を寄せてトリガーを引く。それと同時にデイビットは地を蹴った。
相対してみると、どこに命中するかわからない射撃ほど予測しづらいものはなかった。それでも頬や腕、足を掠める弾丸に怯むことなく懐に飛び込んでいく。
数発撃ったところで狙い通りの軌道を描かないそれに舌打ちしたテスカトリポカは銃をパッと上に放り投げた。振り下ろされる手斧を避けながら、銃が落下してきたところを、バレルから伸びる柄に持ち替える。下から振り上げるような追撃を刃で受け止めれば、先ほどと同じく金属音が鳴り響いた。
ふたりの眼前で、かち合う刃先がキシキシと耳障りな音を立てる。
「何が目的なんだ、テスカトリポカ」
「オマエにここにいてほしいだけだ」
デイビットは解せないと言いたげな目を向ける。テスカトリポカの状態を把握していないせいか、やはり点と線が繋がらないらしい。ただ行動を制限しようとしていること、監禁という判断が間違いではなかったことはわかったので、抵抗する意思に変化はなかった。相手を押し返そうと力を込める。
それを邪魔するように、テスカトリポカは空いた手でデイビットの手斧を持つ手首を力強く掴んだ。みしみしと骨が折れそうなほどの力だが、それでも加減しているのは明白だ。本気であればヒトの腕など花を手折るほどに容易い。
神が人の自由を奪うことはさほど難しくない。
腕を折り、足を折らせて、有無も言わさずにすべてを奪えばいい。まるで嵐のように。奪うことは、容易いことだ。
そんな恐るべきものが、テスカトリポカの中で渦巻いているのも確かではある。しかしそのような乱暴を働くことは安らぐべき魂を預かる者として相応しい振る舞いではない。あと単純に嫌われたくなかったのでそういうのは最後の手段にしようと思ったからだった。
そんなわけで、神としての妥当な判断と恋がもたらす葛藤から、テスカトリポカは手加減していた。できる限りの範囲で、穏便に、制圧したかった。デイビットには幸いというべき事柄だった。
気を抜けばすぐにでも捻り上げられてしまいそうなところを食い縛って、デイビットもまたテスカトリポカの武器を持つ手首を捕らえた。互いに互いの方へと押し戻すように力を込めれば、かち合って音を立てていた刃先が離れていく。
そうして刃と刃の間に僅かな隙間を作りながら拮抗していたが、やはり不利なのはデイビットで、掴まれた手首が徐々に痺れ始めていた。そのことに、両者ともに気付いている。状況は膠着しない。押し負けるのは時間の問題だった。
勝利を確信したとばかりに、薄青い瞳が鈍く光る。
だが、今にもその手の中から手斧がすり抜けそうなところで、不意にデイビットは掴まれていた手首も、捕らえていた手首も己の方へと引っ張った。
力を押し込めていたテスカトリポカは支えを失うように思わずつんのめる。そこに、デイビットは潰す気で股間に蹴りを入れた。
「────ッッ!!」
人体の急所。特に男の体であれば、流石のテスカトリポカも痛みに耐えかねて、一瞬だが全身を強張らせた。
デイビットは追い撃ちとばかりに人中へ頭突きを食らわせる。これもまた脳震盪でも起こしかねない勢いがあり、テスカトリポカの前歯を折った。その拍子に緩んだ手を振り払い、痺れたままの手で、どうにか柄を握り込む。
そして叩き付けるように、刃を振り下ろした。
一切の容赦も、一分の躊躇もない。
テスカトリポカは首元の焼けるような熱さに遅れて気が付いた。まがりなりにも神を下そうという間際でなお冷たい双眸に目を奪われていた。
首筋の血管を損なったのだろう、大量の血が流れ出ている。手斧の刃が首元に深々と突き刺さっていた。お陰で声が出なかった。笑おうとして口から血が溢れて、唇だけが歪む。
くらくらとする頭は出血のせいなのか、興奮のせいなのか、バグっているからなのか、テスカトリポカにはもうどうでもよかった。
目の前にいる男が期待通りで、愉しくて、いとおしくて、胸の内を嵐にも似た衝動が駆け巡る。
勢いのままにデイビットの胸倉を引っ掴んで、ぎょっとする顔にぶつかっていくように口付けた。
「んぶっ」
ますます見開かれる瞳が実に愉快で、間抜けな声が聞こえても気にも留めない。密着したせいで首元の刃が余計に食い込んでも構わなかった。
ふたりの口内は血にまみれて、どちらのものともわからぬ血の味がした。唇が真っ赤に染まる。
血とともに、ぬるりと舌が入り込んできて、デイビットは反射的にテスカトリポカを突き飛ばした。目を白黒させながら血生臭さに咳き込む。
テスカトリポカは笑う。ごぽりとまた口から血を吐きながら、刺さった手斧を適当に引き抜いて放り投げる。吹き出た血が地面を濡らす前に煙が顔や首元を覆っていき、それが晴れると傷も血も、綺麗さっぱり消えていた。
「……ははっ! 今のはよかったなぁ、デイビット! いや、オレも手を抜きすぎたか。オマエを捕らえるならやはり本気になるべきだった」
楽しげな声とともに目の前に立つ。
そんな神とは対照的に、真っ赤に染まった口元を手で押さえながら、デイビットは咳する合間に呟いた。
「……な、んの、つもりだ……」
「あ?」
けほけほと小さく咳をした後、大きく息を吐き出して、令呪の痕が残る手の甲で唇を拭う。
その仕草にテスカトリポカは少しばかり苛立ちを覚えて眉を顰めた。
「今のはなんだ」
「なんだって、そりゃあ…………」
答えようとしてテスカトリポカは固まった。これまでの興奮が一気に冷めていく。
やってしまった。こんな筈ではなかった。ここから入れる保険はあるのか?
全能神のぶっ壊れた思考回路がきゅるきゅると回転する。
テスカトリポカとしてはデイビットを囲った上で口説く手筈だった。そうしないといけなかった。しかし次第に独占欲とも執着心ともつかないものが膨れ上がった結果、バグの温床と化したシステムは熱暴走を起こした。そして今、ショートした。
デイビットが胡乱げに見つめている。ついさっきとは違った意味で冷ややかだ。
「……おまえは興奮すると誰彼構わずキスをするのか?」
「んなワケあるか!」
「じゃあ、どういうつもりなんだ」
責めるような口調にテスカトリポカはぐっと言葉を詰まらせた。
ぎゅっと眉根を寄せて目を伏せるその表情は嫌悪や呆れとは違う。けれど理解しがたい様子には、納得のいく説明がいるだろう。
間違っても誤魔化してはいけない。それでは頑なになるだけだ。必要なのは誠実であること。
そうなると取るべき選択はひとつしかない。どのみち玉砕するとしても、正直に話すべきだ。
答えはすぐに出た。そして神は悲観主義だったので、もうさっそく失恋気分だった。気が早いが仕方がない。デイビットの反応がすべてを物語っているようにしか見えないのだから。極まったポーカーフェイスとは、時にミスリードを誘うものなのだ。
テスカトリポカは腹を括って、そして半ば自棄になって口を開く。
「……そうだな、正直に話そう。オレには今バグがある。オマエに恋をしているせいで」
「──こい?」
二度とは聞けないだろう素っ頓狂な声が返ってきた。
結論。──このバグは深刻である。
最初こそ驚きを見せたものの、話を聞き終えたデイビットは平静に所感を述べた。
「事情はわかった。おまえの妙な挙動も、加減できていたのも、セーフティが働いたからだな。オレを完全に閉じ込めていたら公平さを欠く行為と看做されて権限を剥奪されていただろう。大事に至らなくてよかったな。そもそもわざわざ閉じ込める意味はあるのか? 話をするだけなら別にどこでも……いや、なんでもない。とにかく、バグの影響か、正常な判断力に欠けている。まずはいったん頭を冷やすべきだ」
「……もう十分に冷えた。ショックで寝込みそうだ」
テスカトリポカは目元を手で覆い隠しながら項垂れた。
デイビットからのリアクションを期待していたわけではないが、それにしたって反応が薄すぎる上に指摘 までされたので、凹んでしまった。その心情を反映してか、楽園の空模様は真っ暗な曇天となっている。但し霧がかっているので目視はできない。
はあ~……と、現れた時と同じような溜息をつく。すると深い嘆息に吹き消されるようにして、その場から建造物が跡形もなく消えた。
近くでたき火が燃えている。元いた場所に戻ってきたのだ。デイビットは付着していた血痕も消えていることに気付き、それを確かめるように口元に触れる。
テスカトリポカはそれをつい見てしまって、脳裏に薄い唇の感触がちらついたのを振り払うように髪を掻き毟った。舌打ちしそうになるのを堪えて、代わりにまた溜息をついた。
唇に触れて、どこか思案げに目を伏せていたデイビットが視線を上げる。
「もうしないのか」
何を──とは訊けなかった。息をした拍子に喉が引き攣って、開きかけた口が止まる。それから苦虫を噛み潰したような顔をして、けれど唇を尖らせて、それは端から見ると拗ねているようでもあった。
「……もう閉じ込めたりはしない」
目の前で項垂れる男にデイビットは目を瞬かせた。ぱち、ぱち。たき火から火の粉が舞う音が重なって、流れる空気をより滑稽にする。
「そこまで落ち込むとは思わなかった」
「はあ!? そりゃ落ち込みもするさ! 振られたばっかだぞ、オレは!」
ピカッ! と空が光ると傷心から一転、テスカトリポカは目を剥いて声を荒げた。
しかしデイビットは負けじと詰める。ふたりの間にあった数歩の隙間がなくなる。
「まだ振ってはいないだろう。告白もまだだが」
紫の瞳にまっすぐ見つめられて、ぐるぐると目を回しそうな急展開。ぐにゃりと眉間に皺が寄る。
「……さっきのでわかるだろうよ……」
半開きになった口から辛うじて出たのは恨めしさすら滲んだ声音だった。勢いのままに叫んでしまえたらよかったが、そうもいかない。頭を冷やしたテスカトリポカは頭がグラグラしていてもそこそこに冷静だった。
「やはりおまえからは口にできないのか。難儀だな」
バグの原因が恋であるという事実は、まだ報告の範囲として扱えるので言葉にできた。しかし直接的に愛を乞うような真似は、まずいのだ。アウト判定だ。
だからこそデイビットから好意を向けさせるつもりだった。囲って、口説いて、そして望ませる。求められれば応えることができるのだから。
今更ながら杜撰な計画だった。デイビットの指摘は尤もだ。本当に逆上せていた。そう思い返したテスカトリポカは、はたと目を見開いた。
おまえからは口にできない ──ということは、その逆はどうなのか。
デイビットは戸惑いがちに眉尻を下げつつ、そっと微笑む。
「正直なところ、よくわからないんだ。……でも、さっきからずっと気になってる。その理由を知りたい。……知りたくなった。もう一度すればわかるのか?」
血に濡れた唇を確かめていた指先は、微かに震えている。恐る恐るテスカトリポカの唇に触れる。正しい答えを探るように。
信じられないほど心許ない指先に息が止まりそうで、揺らめく瞳に心臓が高鳴る。
鈍色の空がゴロゴロと唸っている。きっともうすぐ風が吹く。雨が降る。大荒れになる。
それを呼び込む声は、まるで恋を打ち明けるように、密やかだった。
「オレに……教えてくれないか、テスカトリポカ」
──ぴしゃーんっ!
受けた衝撃を反映したかのように、雷鳴が轟いた。
まさかの脈あり。嵐の予感。
目を開くとその部屋にいた。
今までたき火の前にいた筈のデイビットは飛び起きる。知らぬ間にベッドに寝かされていた。
思い出してみると、たき火を眺めていたところに声をかけられて振り返った瞬間、意識を失ったようだった。
あの時、聞こえたのはテスカトリポカの声だった。そもそもミクトランパで彼以外の他者に出会うことはまずない。
では、傍らに彼がいるかというと、誰もいない。
二度ほど手を握っては開き、不調や感覚に異常はないか確かめた。至って正常だ。何が起きたのか判然としないながらも行動することだけは即決して、まっすぐにドアへと向かった。しかしどれだけドアノブを回しても開くことはなかった。
デイビットは眉を顰めた。
室内には大きめのベッド、ナイトテーブル、その上にランプがあり、少し離れた場所に丸テーブルと二脚の椅子が置かれている。丸テーブルのそばには窓があるが、格子が嵌められている。モノトーンで統一された中で、真っ黒なドアは特に重々しさを放っていた。
ナイトテーブルの引き出しを確認するが何も入っていない。その他にベッドの下、窓の格子など部屋中をくまなく調べていき、最後にもう一度ドアノブに手をかけたが、やはり開きはしなかった。
一通り確認し終えた後、デイビットは監禁されていると判断した。
犯人として怪しいのは当然テスカトリポカだ。
ミクトランパでこんな真似ができるのは領域を支配する神だけだ。あと最近どこか挙動不審だったので怪しかった。
動機には思い至らなかったが、いくら考えても答えが出そうにないので、ひとまず脱出を試みることにした。
木製のドアに触れて、コンコンと叩く。上から下まで見ていくと何か違和感を覚えた。ドアの下側、その周りを注意深く観察する。近付いてしゃがみ込み、壁を手でなぞっていく。すると一部だけ、補修したと思しき箇所があった。
立ち上がって思いきり爪先で蹴飛ばす。即座に効果が薄いと判断するや椅子を叩き壊して、尖った部分で殴り続けた。するとパラパラと、ほんの小さな穴ができるとそこから一気に崩すことに成功する。
そうして中から現れたのは、なんと手斧だった。
流石に予想外だったのか、デイビットも目を丸くした。そしてそれがまた混乱を招く。
監禁場所に手斧が隠されていたのだ。いくらなんでも設計ミス──いや、設定ミスだろう。閉じ込めておきたい相手に武器を与えたら監禁する意味がない。
監禁と判断したのは早計だったのか。デイビットの中で戸惑いが生じる。
テスカトリポカは試練を与えたがる神なので、自分は試されているのかとも考える。だがここはミクトランパ。静寂と休息の領域でそのようなことをするのかという疑問が新たに浮かんでくる。
何かしら不測の事態が起きているという可能性も考慮するが、やはり納得のいく答えが出ない。
ともかくデイビットは結論を後回しにして、脱出を優先することにした。
手斧を握り締めて立ち上がり、思いきりドアに振り下ろした。
テスカトリポカは頭を抱えていた。
デイビットが逃げ出した。しかも己の失態によるもの──正確に言うと、不具合によってだ。
その不具合とは、恋だ。
テスカトリポカは恋を患っている。そして血迷っている。
しかしどれだけ逆上せていようと、元来は公平な神である。
恋とはひとりを寵するものであり、公平とはすべてが等しいものである。
テスカトリポカは今なお神として成り立っており、恋を引き起こしながらも公平さを失っているわけではない。真逆の性質であるにもかかわらず、どちらも機能している。しかし機能しているが故に、本来であれば問題のなかったプログラムの挙動をおかしくさせた。
つまり不具合──バグである。
その結果が『監禁しておきながら相手が逃げられるように打開策も用意しておく』なんていう馬鹿げた不具合だ。
テスカトリポカ自身は非常に悩まされているが、意図せずそういう挙動をしてしまうので仕方ない。本来有り得ないのは恋患いの方で、悪さをしているのもそちらなのだ。公平性を保とうとするのは正常に機能しようとしているからなのでエラーとして検知されない。そのため、設定ミスが後から発覚したのである。
直そうにも
テスカトリポカは頭を悩ませながらもデイビットを追うべく、もぬけの殻となった部屋を後にした。
一方、デイビットはというと、入手した
大きな屋敷のような建物内はデイビットが出口に辿り着かないようにあれこれとリアルタイムで改築されているので、来た道が行き止まりになっていたり、入ってきたドアがなくなって別のドアが出現したりしている。窓も同様で、壊しても壊しても部屋が続くように修正される。内部はすでにしっちゃかめっちゃかで、建築物としては破綻している。
今のところテスカトリポカとは遭遇していない。しかし出口に辿り着けないとなると直接対決する必要があるだろう。危険ではあるが、そうするしかないのであれば実行する他ない。
少し広さのある場所で立ち止まると、デイビットは迷いなく、その名を呼んだ。
「テスカトリポカ」
瞬時に煙が形を作り、目の前にテスカトリポカが現れた。
「……よお、兄弟」
どうにも落ち込んでいるようだった。顔を伏せて肩を落としている。はあ~……と溜息までついた。
デイビットはその様子に内心首を傾げたが、好機と見て容赦なく斬りかかった。弱っているところを叩くのは基本だ。
「あぁ、クソッ……! 誰だよ斧とか置いたヤツ! ……オレだよ!」
苛立たしげに言葉を吐いたテスカトリポカは振り下ろされる一撃を後ろに躱し、すぐさま銃を取り出した。
銃口を向けられるより早くデイビットが前に踏み込み、胸を反って振り抜くように薙ぐ。テスカトリポカはグリップを握り締め、スライドの上に取り付けられた刃で弾き返した。
キィンッ! と金属音が鳴り響く。
弾かれた反動でデイビットの手斧を持つ腕が外側に広がる。その隙に今度はテスカトリポカが前へ踏み込んで、高い鼻梁にグリップの底を叩き付けた。
「っ、ハ……ッ!」
鼻血を吹き出しながら、デイビットはよろめきそうになるのをなんとか堪えて、もう一度、手斧を薙いだ。雑に振るったそれは空を切ったものの間合いを取れたことで口で大きく息をする。後ろに下がったテスカトリポカが銃口を向けるのを睨みつつ、鼻血を袖で拭い、口内の唾と混じった血を吐き捨てた。
「大人しくしてくれよ」
「断る」
「悪いようにはしない」
「余計に怪しいぞ」
言葉選びを間違えたとは思わないのだろう。テスカトリポカは不可解そうに眉間に皺を寄せてトリガーを引く。それと同時にデイビットは地を蹴った。
相対してみると、どこに命中するかわからない射撃ほど予測しづらいものはなかった。それでも頬や腕、足を掠める弾丸に怯むことなく懐に飛び込んでいく。
数発撃ったところで狙い通りの軌道を描かないそれに舌打ちしたテスカトリポカは銃をパッと上に放り投げた。振り下ろされる手斧を避けながら、銃が落下してきたところを、バレルから伸びる柄に持ち替える。下から振り上げるような追撃を刃で受け止めれば、先ほどと同じく金属音が鳴り響いた。
ふたりの眼前で、かち合う刃先がキシキシと耳障りな音を立てる。
「何が目的なんだ、テスカトリポカ」
「オマエにここにいてほしいだけだ」
デイビットは解せないと言いたげな目を向ける。テスカトリポカの状態を把握していないせいか、やはり点と線が繋がらないらしい。ただ行動を制限しようとしていること、監禁という判断が間違いではなかったことはわかったので、抵抗する意思に変化はなかった。相手を押し返そうと力を込める。
それを邪魔するように、テスカトリポカは空いた手でデイビットの手斧を持つ手首を力強く掴んだ。みしみしと骨が折れそうなほどの力だが、それでも加減しているのは明白だ。本気であればヒトの腕など花を手折るほどに容易い。
神が人の自由を奪うことはさほど難しくない。
腕を折り、足を折らせて、有無も言わさずにすべてを奪えばいい。まるで嵐のように。奪うことは、容易いことだ。
そんな恐るべきものが、テスカトリポカの中で渦巻いているのも確かではある。しかしそのような乱暴を働くことは安らぐべき魂を預かる者として相応しい振る舞いではない。あと単純に嫌われたくなかったのでそういうのは最後の手段にしようと思ったからだった。
そんなわけで、神としての妥当な判断と恋がもたらす葛藤から、テスカトリポカは手加減していた。できる限りの範囲で、穏便に、制圧したかった。デイビットには幸いというべき事柄だった。
気を抜けばすぐにでも捻り上げられてしまいそうなところを食い縛って、デイビットもまたテスカトリポカの武器を持つ手首を捕らえた。互いに互いの方へと押し戻すように力を込めれば、かち合って音を立てていた刃先が離れていく。
そうして刃と刃の間に僅かな隙間を作りながら拮抗していたが、やはり不利なのはデイビットで、掴まれた手首が徐々に痺れ始めていた。そのことに、両者ともに気付いている。状況は膠着しない。押し負けるのは時間の問題だった。
勝利を確信したとばかりに、薄青い瞳が鈍く光る。
だが、今にもその手の中から手斧がすり抜けそうなところで、不意にデイビットは掴まれていた手首も、捕らえていた手首も己の方へと引っ張った。
力を押し込めていたテスカトリポカは支えを失うように思わずつんのめる。そこに、デイビットは潰す気で股間に蹴りを入れた。
「────ッッ!!」
人体の急所。特に男の体であれば、流石のテスカトリポカも痛みに耐えかねて、一瞬だが全身を強張らせた。
デイビットは追い撃ちとばかりに人中へ頭突きを食らわせる。これもまた脳震盪でも起こしかねない勢いがあり、テスカトリポカの前歯を折った。その拍子に緩んだ手を振り払い、痺れたままの手で、どうにか柄を握り込む。
そして叩き付けるように、刃を振り下ろした。
一切の容赦も、一分の躊躇もない。
テスカトリポカは首元の焼けるような熱さに遅れて気が付いた。まがりなりにも神を下そうという間際でなお冷たい双眸に目を奪われていた。
首筋の血管を損なったのだろう、大量の血が流れ出ている。手斧の刃が首元に深々と突き刺さっていた。お陰で声が出なかった。笑おうとして口から血が溢れて、唇だけが歪む。
くらくらとする頭は出血のせいなのか、興奮のせいなのか、バグっているからなのか、テスカトリポカにはもうどうでもよかった。
目の前にいる男が期待通りで、愉しくて、いとおしくて、胸の内を嵐にも似た衝動が駆け巡る。
勢いのままにデイビットの胸倉を引っ掴んで、ぎょっとする顔にぶつかっていくように口付けた。
「んぶっ」
ますます見開かれる瞳が実に愉快で、間抜けな声が聞こえても気にも留めない。密着したせいで首元の刃が余計に食い込んでも構わなかった。
ふたりの口内は血にまみれて、どちらのものともわからぬ血の味がした。唇が真っ赤に染まる。
血とともに、ぬるりと舌が入り込んできて、デイビットは反射的にテスカトリポカを突き飛ばした。目を白黒させながら血生臭さに咳き込む。
テスカトリポカは笑う。ごぽりとまた口から血を吐きながら、刺さった手斧を適当に引き抜いて放り投げる。吹き出た血が地面を濡らす前に煙が顔や首元を覆っていき、それが晴れると傷も血も、綺麗さっぱり消えていた。
「……ははっ! 今のはよかったなぁ、デイビット! いや、オレも手を抜きすぎたか。オマエを捕らえるならやはり本気になるべきだった」
楽しげな声とともに目の前に立つ。
そんな神とは対照的に、真っ赤に染まった口元を手で押さえながら、デイビットは咳する合間に呟いた。
「……な、んの、つもりだ……」
「あ?」
けほけほと小さく咳をした後、大きく息を吐き出して、令呪の痕が残る手の甲で唇を拭う。
その仕草にテスカトリポカは少しばかり苛立ちを覚えて眉を顰めた。
「今のはなんだ」
「なんだって、そりゃあ…………」
答えようとしてテスカトリポカは固まった。これまでの興奮が一気に冷めていく。
やってしまった。こんな筈ではなかった。ここから入れる保険はあるのか?
全能神のぶっ壊れた思考回路がきゅるきゅると回転する。
テスカトリポカとしてはデイビットを囲った上で口説く手筈だった。そうしないといけなかった。しかし次第に独占欲とも執着心ともつかないものが膨れ上がった結果、バグの温床と化したシステムは熱暴走を起こした。そして今、ショートした。
デイビットが胡乱げに見つめている。ついさっきとは違った意味で冷ややかだ。
「……おまえは興奮すると誰彼構わずキスをするのか?」
「んなワケあるか!」
「じゃあ、どういうつもりなんだ」
責めるような口調にテスカトリポカはぐっと言葉を詰まらせた。
ぎゅっと眉根を寄せて目を伏せるその表情は嫌悪や呆れとは違う。けれど理解しがたい様子には、納得のいく説明がいるだろう。
間違っても誤魔化してはいけない。それでは頑なになるだけだ。必要なのは誠実であること。
そうなると取るべき選択はひとつしかない。どのみち玉砕するとしても、正直に話すべきだ。
答えはすぐに出た。そして神は悲観主義だったので、もうさっそく失恋気分だった。気が早いが仕方がない。デイビットの反応がすべてを物語っているようにしか見えないのだから。極まったポーカーフェイスとは、時にミスリードを誘うものなのだ。
テスカトリポカは腹を括って、そして半ば自棄になって口を開く。
「……そうだな、正直に話そう。オレには今バグがある。オマエに恋をしているせいで」
「──こい?」
二度とは聞けないだろう素っ頓狂な声が返ってきた。
結論。──このバグは深刻である。
最初こそ驚きを見せたものの、話を聞き終えたデイビットは平静に所感を述べた。
「事情はわかった。おまえの妙な挙動も、加減できていたのも、セーフティが働いたからだな。オレを完全に閉じ込めていたら公平さを欠く行為と看做されて権限を剥奪されていただろう。大事に至らなくてよかったな。そもそもわざわざ閉じ込める意味はあるのか? 話をするだけなら別にどこでも……いや、なんでもない。とにかく、バグの影響か、正常な判断力に欠けている。まずはいったん頭を冷やすべきだ」
「……もう十分に冷えた。ショックで寝込みそうだ」
テスカトリポカは目元を手で覆い隠しながら項垂れた。
デイビットからのリアクションを期待していたわけではないが、それにしたって反応が薄すぎる上に
はあ~……と、現れた時と同じような溜息をつく。すると深い嘆息に吹き消されるようにして、その場から建造物が跡形もなく消えた。
近くでたき火が燃えている。元いた場所に戻ってきたのだ。デイビットは付着していた血痕も消えていることに気付き、それを確かめるように口元に触れる。
テスカトリポカはそれをつい見てしまって、脳裏に薄い唇の感触がちらついたのを振り払うように髪を掻き毟った。舌打ちしそうになるのを堪えて、代わりにまた溜息をついた。
唇に触れて、どこか思案げに目を伏せていたデイビットが視線を上げる。
「もうしないのか」
何を──とは訊けなかった。息をした拍子に喉が引き攣って、開きかけた口が止まる。それから苦虫を噛み潰したような顔をして、けれど唇を尖らせて、それは端から見ると拗ねているようでもあった。
「……もう閉じ込めたりはしない」
目の前で項垂れる男にデイビットは目を瞬かせた。ぱち、ぱち。たき火から火の粉が舞う音が重なって、流れる空気をより滑稽にする。
「そこまで落ち込むとは思わなかった」
「はあ!? そりゃ落ち込みもするさ! 振られたばっかだぞ、オレは!」
ピカッ! と空が光ると傷心から一転、テスカトリポカは目を剥いて声を荒げた。
しかしデイビットは負けじと詰める。ふたりの間にあった数歩の隙間がなくなる。
「まだ振ってはいないだろう。告白もまだだが」
紫の瞳にまっすぐ見つめられて、ぐるぐると目を回しそうな急展開。ぐにゃりと眉間に皺が寄る。
「……さっきのでわかるだろうよ……」
半開きになった口から辛うじて出たのは恨めしさすら滲んだ声音だった。勢いのままに叫んでしまえたらよかったが、そうもいかない。頭を冷やしたテスカトリポカは頭がグラグラしていてもそこそこに冷静だった。
「やはりおまえからは口にできないのか。難儀だな」
バグの原因が恋であるという事実は、まだ報告の範囲として扱えるので言葉にできた。しかし直接的に愛を乞うような真似は、まずいのだ。アウト判定だ。
だからこそデイビットから好意を向けさせるつもりだった。囲って、口説いて、そして望ませる。求められれば応えることができるのだから。
今更ながら杜撰な計画だった。デイビットの指摘は尤もだ。本当に逆上せていた。そう思い返したテスカトリポカは、はたと目を見開いた。
デイビットは戸惑いがちに眉尻を下げつつ、そっと微笑む。
「正直なところ、よくわからないんだ。……でも、さっきからずっと気になってる。その理由を知りたい。……知りたくなった。もう一度すればわかるのか?」
血に濡れた唇を確かめていた指先は、微かに震えている。恐る恐るテスカトリポカの唇に触れる。正しい答えを探るように。
信じられないほど心許ない指先に息が止まりそうで、揺らめく瞳に心臓が高鳴る。
鈍色の空がゴロゴロと唸っている。きっともうすぐ風が吹く。雨が降る。大荒れになる。
それを呼び込む声は、まるで恋を打ち明けるように、密やかだった。
「オレに……教えてくれないか、テスカトリポカ」
──ぴしゃーんっ!
受けた衝撃を反映したかのように、雷鳴が轟いた。
まさかの脈あり。嵐の予感。