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ミクトランパで捕まえて

 手を引かれて寝室に連れて行かれたかと思えばベッドに押し倒され、顎を掬われて、目が合う。
 サングラスを取り払ったアイスブルーの瞳はどこか楽しげで、金の髪がはらはらと落ちる中、互いの距離が狭まっていく。
 わけもわからずされるがままだったデイビットは吐息がかかるほどの距離になって漸く──テスカトリポカを突き飛ばした。
 すぐさま起き上がり、ベッドから離れる。ドアまでの遠さを測るが阻まれる可能性の高さに玄関からの脱出は不可能と判断。テスカトリポカが腕を伸ばすより早く、窓に向かって走る。そして勢い良く飛び込み、突き破った。
 アクション映画さながらに、けたたましい音を立ててガラスが割れ、破片が飛び散る。外へ転がり出たデイビットは脇目も振らずに全力疾走で逃げ去った。
「────」
 屋内ではテスカトリポカが唖然として取り残されている。というか完全にフリーズしていた。その隙にどんどん遠ざかっていく背にハッと我に返ると、割れた窓から身を躍らせて後を追った。

 森の中へと入ったデイビットは小さな痛みに手の甲を見やった。窓の破片で切れたのだろう。令呪の痕が残るその肌にいくつかの切り傷ができていた。死者の身でも血は出るのかとぼんやり思うだけで、特に気にせず、黙々と進む。
 次第に息が上がってきてペースが落ちてくる。元より神の領域で逃げること自体、無駄な足掻きかもしれない。それでも足は止めなかった。行く当てがないわけではない。
 不意に風が頬を撫でた。デイビットは僅かに眉を顰める。すると強い風が背中に吹き付け、次いで雷鳴が響く。それでテスカトリポカに見付かったことを察知した。
 息を切らしながら走る。風と共に、木々の間を縫うようにして何かが迫っていた。足の速いそれに、いずれ追い付かれると感じて大木の裏に身を潜めた。
 辺りを警戒するが、荒ぶ風によって葉擦れの音が騒がしく、足音は拾えない。大木を背にしながら周囲を見回す。
 一方向から大きな気配が近付いてきている。テスカトリポカだ。隠す気のない怒気が森全体を揺るがしている。
 恐らく意識をそちらに向けさせて死角を突くつもりだと考える。同時に、陽動にしては些か粗放だとも思った。
 ふう、と密かに息を吐いて、その場にしゃがみ込む。足下に目線を移した直後、そこに一匹の獣──ジャガーが飛び出してくる。しかしデイビットはタイミングを見計らったかのように思い切り腕を振り上げた。
 ──ところが、衝突する寸前にジャガーは目の前で霧散した。まさに煙となって消えたのだ。
 デイビットが目を瞬かせていると、煙が晴れた先にテスカトリポカが立っていた。
「体は鈍ってないようで何より。だが、ここでの流血沙汰は無しだ」
 そう言って口角を吊り上げ、デイビットの手元に目を向ける。そこには先の尖った大振りの枝が握られていた。先程、地面から拾い上げたものだ。襲いかかって来たところを突き刺すつもりだった。
 テスカトリポカは嘘は言わない。彼が“無い”と言ったのであれば何であれ傷付けることも傷付けられることも許されない。
 つまりジャガーに害意はなかったらしい。すると陽動だと考えた行動も意図があったのではなく、心底からの怒りによるものということになる。
 デイビットは立ち上がるついでに枝を放る。
 テスカトリポカはそれを満足げに見やったかと思えば、すっと表情を消した。
「なぜ逃げた?」
 既に風は止み、森は静けさを取り戻していた。そこに、冷めた声はよく通った。

 デイビットは努めて冷静に判断して、原因はテスカトリポカだと考えている。
 なぜなら彼はデイビットの了承も無しに体を暴こうとしたからだ。あのまま抵抗しなければとっくに貪り食われていただろう。
 デイビットはテスカトリポカを信頼しているし、慕っている。
 それはまさしく初恋であり、その淡い恋心は宝石箱の宝石であり、大切にしまわれ続ける筈だった。それがよりによって宝石そのものに傷を付けられたとあっては流石にショックを受ける。それ故に衝動的に逃げ出した。
 逃げたのだから印象は良くないだろう。しかしデイビットにも受け入れがたいことはある。
 恋しいからといって情欲を抱いているとは限らない。取捨選択のない時間を過ごす内に自覚した思慕は確かなものだが、まだ幼さの抜け切らぬ純粋さを保っている。
 要するにデイビットが大人の階段を上るにはまだ早すぎた。

「セックスは合意の上で及ぶべきだ」
「はあ?」
 端的に、きっぱり拒絶を告げられたテスカトリポカはますます不機嫌になっていく。
「オマエ、オレが好きなんだろうが」
「……だからといってオレは望んでいない。おまえこそ何を考えている。まさか恋に落ちたとでも言うのか?」
 それは珍しく皮肉めいた言い方で、意外そうに目を丸くする相手を見てから気付いたのか、デイビットはばつが悪そうに目を逸らした。テスカトリポカは肩を竦めてみせる。
「神(オレ)に恋愛(そんなもの)を説くなよ。これはオマエへの褒美。甘やかしだよ」
 その一言に、デイビットは少なからず落胆した。
 神であるが故に特別はなく、恋愛を解することもない。わかりきっていたことだ。だからこそ大切にしまい続けるつもりだった。それがどこをどう掛け違えたのか、こんな有り様になっている。
 望ましくない状況と、わかりきっていたことに気持ちが沈む自分。その両方に落胆した。
「……なら、方向性を間違えている。接触も、干渉もいらない。やめてくれ」
 ぐっと眉根を寄せて目を瞑る。吐き出すように声にして、掛け違いを正そうとする。しかしそれを阻むように胸倉を掴まれた。
 目を見開くとテスカトリポカが恐ろしい形相で睨んでいた。今にも折れそうなほど歯を噛み締めて、しかし何を言うでもない。
 戸惑いながらもデイビットは名前を呼ぼうとしたが、胸倉を掴む力があまりに強く、息が詰まって声が出せなかった。はくはくと口を動かすと、舌打ちと共に軽く突き飛ばされる。
「……、……オマエ、トリ公のとこに行こうとしてたろ」
 噎せるデイビットを見据えつつ、テスカトリポカは煙草に火を点ける。落ち着きを取り戻そうとしているようで、一口吸い込むと、思い切り煙を吐いた。導線のように煙草がじりじりと焼けていく。
 話を逸らしたいのか、問い詰めたいのか。いまいち掴み切れぬまま、デイビットは呼吸を整えて、首元を擦りながら答える。
「おまえが一番手を出しにくい相手は、ケツァル・コアトルしかいない。安全を確保するなら最適だと判断した」
「そうか。では戻れ、デイビット。トリ公のもとになど絶対に行かせん」
「戻ったらオレは無事で済むのか?」
 バキッ、と煙草が折れた。思わずといった様子で握り潰された煙草が地面に落ちる。靴底で揉み消すと大げさに溜息をついて、まるで聞き分けのない子供に呆れるように、また肩を竦める。
「なあ、相棒。恋の相手と交わりたいってのは普通じゃないか? どうして拒む? 神の慈悲を賜りたいと思わないか?」
「思わない」
「…………」
 頑なに頷こうとしないデイビットに、テスカトリポカは口元を引き攣らせた。

 少しの間、静まり返る。片や無愛想に口を引き結び、片や額に手をやって沈黙する。最早、根比べに近い。端から見ると不貞腐れた子供と、頭を抱える親のようにも見える。そしてそんな時は、余程でない限り大人が妥協したりする。
「……あのなぁ! そこは素直に受け取れよ! 有り難く頂戴すべきだぞマジで!」
「いやだ。……やはり距離を置くべきだな」
「トリ公のもとには行かせんと言っただろう」
「ではオレに会いに来ないでくれ」
「触るな構うな、挙げ句の果てに会いに来るなだぁ? 不敬にも程があるだろ! 可愛くねぇ!」
 だったら構わなければいいのに。デイビットはそう思うものの、ひとまず収まりつつある状況を混ぜっ返すのは得策ではないと感じて口を噤んだ。
 頭をがしがしと掻いて嘆く姿からは既に怒りが失せている。何がそこまでテスカトリポカを怒らせたのか、結局デイビットにはわからずじまいだ。恩寵を無碍にしたことが神の沽券に関わるとしても、想いの通じ合わない相手と体を重ねるなど有り得ないのだから、身を守るのは正当だろうと考えているデイビットにはまったくわからない。テスカトリポカは気分屋なので気持ちの切り替えが早いのだろうと結論付けた。
 そもそもテスカトリポカ自身にもわかっていないのだからわかるわけがない。
 神は恋などしない。
 ただひとつの共通認識を覆すことも壊すことも知らないまま、ふたりは平行線を辿っている。

「はあ……。やめだ、やめ。疲れたし帰るか」
 嘆息しつつ、テスカトリポカはデイビットの傍らまでやってきて、その手を取った。黒い爪先の指が手の甲を撫でると忽ち切り傷が消えた。
 令呪の痕だけは残されたままで、これは消せないのかとデイビットが不思議に思っていると、テスカトリポカが肩に腕を回してきた。近い距離で目が合う。
「帰りたくない」
「わがまま言うなよ兄弟」
「わがままなんて言ってない。もういい」
 デイビットはむっと唇を尖らせる。
 そっぽを向かれてテスカトリポカは苦笑するが、機嫌を損なう様子はない。それどころか、くしゃくしゃと荒っぽい手付きで頭を撫で、あやすような声で言う。
「拗ねるなよ、まったく……。オマエの嫌がることはしない。それでいいな? さあ、帰るぞ」
 窓が割れたままの家へ、森の中を揃って歩き出す。
 テスカトリポカはきっと約束を守るだろう。神の公平性に因るものを疑うべくもなく、デイビットは大人しく帰路に着いた。その表情は、納得がいっていないようで、むすりとしたままだった。
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