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束の間


 寝苦しさに耐えかねてテスカトリポカは煙草を手に取った。
 いくら吸ったところで調子が回復するなんてことはないが、それでもただ気を紛らわすためについ手が伸びた。本当は体が重いのに律儀に起き上がって火を点ける。
 寝煙草はトラロックが嫌そうにするのでやめたのだ。クールな女を気取る妹分は上手く隠しているつもりなのだろうがいつも顔に出ている。しかし彼女が火の不始末を心配するのは尤もだろう。複雑そうで正直な妹分にテスカトリポカもそれなりに理解は示す。
 ただトラロックは心配こそすれ、はっきり「やめろ」とは言わなかった。
 面と向かってそんなことを口にするのは物怖じしない神官(マスター)だけだ。
「こんな時くらいやめればいいのに」
「こんな時だからこそだよ」
「そういうものか」
 やって来るなりそのようなことを言うくせに、返事をしてやればさっさと興味を失ったかのように切り上げてしまう。
 テスカトリポカの青白い瞳がスッと細まった。煩わしげに吐き出した紫煙がふたりの間で白く漂う。
 隔たり(・・・)を前にデイビットは足を止めた。不用意に近寄ることはせず、手にした水差しと容器をベッド脇の台に置く。
「自分のねぐらに戻ったんじゃなかったのか」
「流石に調子の悪いサーヴァントを放ってはいかないよ」
 存外柔らかな声とともに質素なカップが差し出された。テスカトリポカは目を丸くする。時間を惜しみ、無駄を嫌う男がわざわざ見舞いに来たのだ。マスターが貴重な一日を己に捧げたとあっては悪態をつける筈もない。漂っていた紫煙が霧散していく。
 しかし受け取ったカップは温かく、酒精の香りがしないことに肩を落とした。
「酒じゃないのかよ」
「腹の具合が悪くて寝ているんじゃないのか。……何か食べるなら用意するが」
「んー……いや、今はいい」
 ちらりと視線を向けた先には果物が盛られた籠があったが、ひとまず渡されたものに口をつけた。
 用意されたのは白湯だ。中国やインドでは古くから不調を整えるために飲用されるという。
 デイビット自身もキャンプの際に飲むことがある。カルデアにいた頃は芥やペペロンチーノが口にする姿を見ていたかもしれないが、記憶は残っていない。
 いざ飲んでみると温かさが体に染み渡り、思わずひと息つく。ひとたび喉が潤うと渇きを覚えてすぐ空になった。するとデイビットが無言で二杯目を注いだ。
 素直に飲み干す様子に、デイビットはベッドの縁に腰かけた。背を丸めて、思いあぐねたように指先を組む。
「薬でも煎じて治ればいいが、そうもいかないだろう」
「これには何も?」
「入っていない。飲まず食わずだろうから水分補給に持ってきただけだ」
 そう言って向き直るように体を捻ると、じっと見つめてくる。太陽が中天を過ぎた室内では鮮やかな瞳の色も翳って、いつもより暗くさせていた。
「……本当に何も食べなくていいのか? いくらか顔色はマシになったようだが……」
 デイビットが血色の悪い顔に手を伸ばす。気安いほどのそれをテスカトリポカは止めない。しかしその手が触れるより先に、吸いかけの煙草からほろりと灰が落ちた。
「おっと……」
 目線がそちらに外れるや、デイビットは伸ばした手でさっとカップを取り上げ、ついで灰皿を差し出した。
 吸わずに半分も燃えてしまった煙草を揉み消す。しかしそんな一本よりも惜しいものが目の前にあった。テスカトリポカは灰を払うと体をずらしてスペースを作り、隣に来るようにとベッドを叩く。
「オマエも少し休んでいけ」
「……そこまで消耗していたのか?」
「うん? まあ、そうだな、たまには休みも必要だ。オレもオマエも」
 その一言に瞠目した相手を、テスカトリポカはちょいちょいと猫でも呼ぶように指先で招く。
 共寝することに躊躇いがあるのだろう。頬を強張らせたデイビットは、それでも一秒も満たないうちにふっと息を抜く。当惑はしたが拒否はなく、上着とブーツを脱いでベッドに上がった。
「裸で抱き合ってもいいぜ」
「…………」
「冗談だよ。……おい、行くな。ここにいろ」
 去ろうとするデイビットの手首を内心慌てて掴む。互いの間の魔力の巡りをよくするつもりで脱いだのだろう理屈は、テスカトリポカもわかっている。緊張を解すつもりが、口が滑っただけだ。もっと大人であったら冗談にはしていなかったけれど。
 デイビットは呆れたように睨むも勝手にしろと言わんばかりにぼすりと寝転がって、すぐに瞼を閉じてしまった。掴まれた手首は暑苦しかったが、振り払うのが少しだけ億劫だった。休めと言われたので寝入ろうとしていた。
「なあ」
 テスカトリポカが上から覗き込むようにして問いかける。
「あんなんでよかったのか? 一度きりの特急券を使ってまで会いに行ったってのに」
「……いいんだ。どうせ長く留まってはいられなかった」
 静かに瞼を開く。どこか遠くを見るように、デイビットはぽつりと答えた。
 テスカトリポカが腹を壊した原因であるインド異聞帯への渡航。
 目的は、なんてことはない。人間であれば当たり前のような心配をしただけだ。優しい友人への誠意だった。
 ただ、長く滞在して問題が生じてはいけない。かの異聞帯の王は希薄だったけれど刺激を受けていた。膨らみ続けた風船が割れるようなものだったが、それを割るのが自分達であってはまずい。だから多少の変装もしたし、足早に立ち去った。
 ほんの僅かな再会。五分間に収められる程度の別れ。
 そのために一度きりの特急券を使ったことを、テスカトリポカは咎めなかった。むしろ小旅行気分でついて行って生水にあたったというのは不甲斐ない話ではあるが、それも含めてデイビットの記憶には残っている。
「おまえは──」
 自分を見下ろす姿にふと口を開く。しかし青白い瞳を前に、続く言葉は飲み込まれた。唇を一度きゅっと引き結んで改める。
「……おまえがいなくなると困る。まだ、無茶はしないでくれ」
「案ずるな。賭け時は心得てる」
 確信を得たように、力ある瞳が細まる。逆光にあってなお煌めくそれは恐ろしくも美しく、仄暗さをものともせぬ眩しさがあった。
「そうか。よかった。……おやすみ」
 デイビットは顔を隠すように体を丸めて、もう一度目を閉じる。
 見つめていた、見上げていた瞳がすいと逸らされたことにテスカトリポカは多少眉を顰めたものの、掴んでいた手首を離して隣に体を横たえた。目の前の顔に垂れかかる髪を黒い爪先でそっと払う。するとくすぐったそうに胸元に頭をうずめてきたので、ちょっかいを出すのはやめて、その背に手を回した。
「おやすみ」
 むずがる子をあやすように二、三度ばかり、トントンと背中を優しく叩いてやった。
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