ラーヒュンSSまとめ(全年齢)
いつかが来るまで
ふと、遠くから鳥のさえずりが聞こえた。それは柔らかい音だったが、いささか唐突でもあって、夢を俄に途切れさせた。左頬に感じる澄んだ空気は今が早すぎる朝であることを物語っているが、しかし鳥が鳴くからにはきっと、既に太陽は顔を出したのだろう。その恩恵なのか、額のあたりや右の半身はどこか暖かい心地がした。
とはいえ、意識こそ覚醒の途をたどっているが、まどろみはまだ傍にある。不思議なものだ。普段はもっとさっぱりと目が覚める性分だったと思うのだが、どうにも瞼を開ける気が起きない。それどころか、心地よい温度を与えてくれる日光すらどこか煩わしく感じて、むずがるように身じろいだ。
するとどうだろう。右肩に触れていた温い何かが、くすくすと音を立てながら細かく揺れ出した。これでは眠気に身を預けていられないではないか。そう思って抗議のために額を押しつけると、なおもその何かは揺れて、掠れた声を二度ほど零した。
それが笑いだと気付いた時には、まどろみはどこかに消え去ってしまって、オレはとうとう今日初めて目を開くに至った。
「……おはよう」
思いのほか不機嫌そうな声が出たからだろう。やつはまた息混じりの笑いを零すと、左手でオレの頭を撫でた。
「まだ眠っていろ。あの女の迎えは昼だ」
「おまえのせいで目が覚めたんだ」
「そいつは悪いことをしたな」
そうは言うものの、逆光の中に見えるラーハルトの表情は一寸も悪びれてはいない。それどころか愉しげに目を細めてさえいる。そのじろじろと形容できる視線がどうにも気恥ずかしく、オレはやつに寄りかかっていた身体を起こそうとした。
「っ……」
しかしそれは、腰に走る鈍い痛みによって遮られた。昨晩、久しぶりの二人きりだからと、天気の悪い中こんな辺鄙な洞窟で無茶をしすぎたせいだ。いや、より正確に言うならば、その程度のことに耐えられなくなった己の身体のせいなのだが。
「ほら見たことか。まだ寝ていろと言っただろう」
言いながら腰を引き寄せられ、オレの身体はまたラーハルトの肩に委ねられる。その体躯の逞しさと体幹の揺るぎなさに、ふと気付いた。今朝の目覚めがやけにぐだついていたのは、この男が隣にいることに安心しきっていたからか、と。
そう思えば自然、嘲りの笑みが浮かんで止まらなかった。
ああ、かつて魔剣戦士と呼ばれた男のなんと堕落したものか。自らを育んだ孤城にあってさえ、用心から深く眠ることのなかった己が、はたして今はこの様だとは。守られることに慣れきって、野生を失った獣と相違ない。
「どうした?」
「いや、なに。オレも随分と腑抜けたものだと思ってな」
「ほう。何故にだ?」
「おまえの温もりを惜しいと思った。かつてのオレには思いつきもしなかったことだ」
二十歳も過ぎて幾年。この年になってようやく受け入れた他人の温もりは、存外心地がいい。博愛や仲間としての親愛も然る事ながら、己の為だけに誂えられた愛もそれに絆されていく自分も、微塵も厭とは思わない。それがどこか誇らしくさえある。
「だがそう思うことは、オレには許されないのではないかとも思う」
しかしこれらの愛は、いつかに己が焼き尽くした街にも溢れていたことだろう。かつて姫に頭を垂れ恩赦を賜ったときにも、戴冠した彼女が正式にオレを市民と認めたときにも感じたことだ。今はどうにも、その事実が昔より骨身に沁みる。それは、自らもまた唯一を知って、奪ったものの真の価値に気付いたからに違いなかった。
「なんだ、今更怖気づいたか?」
オレの内心を知ってか知らずか、ラーハルトはあえて挑発するように言った。その言葉に、オレは首を横に振る。
「……いいや。たぶん、逆だ」
「逆?」
「逃げられない……いや、逃げてはいけないのだと気付いたんだ」
今日のような穏やかな朝を迎える度に思う。オレのような罪ある者にとって、幸福は不幸よりも重い。いつでもこの背にのし掛かっては、時折過去を引き寄せて心臓を刺し貫いていく。そしてその度に思うのだ。いっそ孤独であったならば、あるいは刃の雨のうちでは、もっと楽に生きられようものをと。
そう、楽なのだ。自ら戦いに身を投じ、その身体や精神を野ざらしにしていれば、過去に刺される傷など数の一つでしかない。無数の痛みの中であれば、一つ二つ増えたところで気にも留めないものだ。しかし幸福の中にあるならばそうはいかない。真綿の中にある一欠片の棘ほど、人は強く痛みを感じる。他ならぬ己もそうだった。
だからこそ。
「許さぬ者がいるからこそ、オレはこの幸せから逃げてはならない。今はそう思う」
痛みから逃げることは、罪から逃げることと同じなのだから。
オレの言葉を受け止めてか、腰に回る腕の力が少しだけ増した。
「……難儀なものだな。おまえのその癖は」
その言葉は同情か、心配か。いや案外、オレの気がことあるごとに過去に逸れるのが気に食わないのかもしれない。普段から孤高ぶっているだけで、こいつは意外と独占欲が強いから。
「許せ、性分だ」
「……ふん」
治りはしないのだと暗に示せば、拗ねたように顔が背けられた。やはり気に食わないのだろう。珍しく大人げない様子を見せるラーハルトに、じんわりと胸が満たされる心地がして、奥から込み上げてきた言葉は喉を少しだけ通り過ぎた。
「それに今更……」
──これと決めた男の胸で、何に耳をそばだてることもなく眠る。その温もりを知って、どうして今更自ら手放せよう。
「今更、なんだ」
溢れた言葉を目敏く拾って、やつの両の目がこちらを捉える。その視線の力強さに、続きをそのまま言葉にしようか思案する。けれど僅かばかりの引っかかりを覚えてやめにした。
「……いいや。何でもないさ」
オレが手放すことはなくとも、おまえが自らの意思で飛び立っていくことはあるかもしれない。例えば、いつかくる主との再会の日に、なんて。
こいつが伴侶を捨てるような不義理な男とは微塵も思わないが、なにせオレは男だ。約束の言葉も鎹もない身で、永劫こいつの一番であるなどと過信できるほど、オレも現実逃避はしてはいない。そも、こいつは愛だの恋だのを至上として生きる性分ではないのだ。いつか勇者が帰ってきたのならば、何をおいても彼に仕えることを優先するだろうことは容易に想像できる。
だから、いずれこいつの足枷になるようなことは言わないでいい。その代わり少しだけ、今だけの贅沢をねだるのだ。
「二度寝か? 珍しい」
目を瞑り、隣の肩に頭を預けると、ラーハルトは軽く困惑したような声を出した。
「そんなに驚くな。おまえが勧めたんだろう」
「そうだが……」
目覚めてすぐの発言を蒸し返せば、応とも否とも言えずにたじろぐ。
「そら、ちゃんと抱き込んでくれ。まだこの時間は肌寒いのだから」
言葉を受けたラーハルトは一瞬黙り込んで、それから小さく溜め息を吐いた。
「……おまえ、以前に比べて随分と我儘になったな」
「嫌いか?」
「いいや。むしろ好ましいとも」
「なら、いいだろう」
どこか仕えたがる癖のあるおまえには、これぐらいが丁度いいのだ。証拠に、ラーハルトは一息だけ笑って、それから満足げにオレを抱き込んだ。
「彼女が来る前には起こしてくれ」
「応とも」
迎えが来るまで今ひととき、この青い四肢はオレだけのものだ。
ふと、遠くから鳥のさえずりが聞こえた。それは柔らかい音だったが、いささか唐突でもあって、夢を俄に途切れさせた。左頬に感じる澄んだ空気は今が早すぎる朝であることを物語っているが、しかし鳥が鳴くからにはきっと、既に太陽は顔を出したのだろう。その恩恵なのか、額のあたりや右の半身はどこか暖かい心地がした。
とはいえ、意識こそ覚醒の途をたどっているが、まどろみはまだ傍にある。不思議なものだ。普段はもっとさっぱりと目が覚める性分だったと思うのだが、どうにも瞼を開ける気が起きない。それどころか、心地よい温度を与えてくれる日光すらどこか煩わしく感じて、むずがるように身じろいだ。
するとどうだろう。右肩に触れていた温い何かが、くすくすと音を立てながら細かく揺れ出した。これでは眠気に身を預けていられないではないか。そう思って抗議のために額を押しつけると、なおもその何かは揺れて、掠れた声を二度ほど零した。
それが笑いだと気付いた時には、まどろみはどこかに消え去ってしまって、オレはとうとう今日初めて目を開くに至った。
「……おはよう」
思いのほか不機嫌そうな声が出たからだろう。やつはまた息混じりの笑いを零すと、左手でオレの頭を撫でた。
「まだ眠っていろ。あの女の迎えは昼だ」
「おまえのせいで目が覚めたんだ」
「そいつは悪いことをしたな」
そうは言うものの、逆光の中に見えるラーハルトの表情は一寸も悪びれてはいない。それどころか愉しげに目を細めてさえいる。そのじろじろと形容できる視線がどうにも気恥ずかしく、オレはやつに寄りかかっていた身体を起こそうとした。
「っ……」
しかしそれは、腰に走る鈍い痛みによって遮られた。昨晩、久しぶりの二人きりだからと、天気の悪い中こんな辺鄙な洞窟で無茶をしすぎたせいだ。いや、より正確に言うならば、その程度のことに耐えられなくなった己の身体のせいなのだが。
「ほら見たことか。まだ寝ていろと言っただろう」
言いながら腰を引き寄せられ、オレの身体はまたラーハルトの肩に委ねられる。その体躯の逞しさと体幹の揺るぎなさに、ふと気付いた。今朝の目覚めがやけにぐだついていたのは、この男が隣にいることに安心しきっていたからか、と。
そう思えば自然、嘲りの笑みが浮かんで止まらなかった。
ああ、かつて魔剣戦士と呼ばれた男のなんと堕落したものか。自らを育んだ孤城にあってさえ、用心から深く眠ることのなかった己が、はたして今はこの様だとは。守られることに慣れきって、野生を失った獣と相違ない。
「どうした?」
「いや、なに。オレも随分と腑抜けたものだと思ってな」
「ほう。何故にだ?」
「おまえの温もりを惜しいと思った。かつてのオレには思いつきもしなかったことだ」
二十歳も過ぎて幾年。この年になってようやく受け入れた他人の温もりは、存外心地がいい。博愛や仲間としての親愛も然る事ながら、己の為だけに誂えられた愛もそれに絆されていく自分も、微塵も厭とは思わない。それがどこか誇らしくさえある。
「だがそう思うことは、オレには許されないのではないかとも思う」
しかしこれらの愛は、いつかに己が焼き尽くした街にも溢れていたことだろう。かつて姫に頭を垂れ恩赦を賜ったときにも、戴冠した彼女が正式にオレを市民と認めたときにも感じたことだ。今はどうにも、その事実が昔より骨身に沁みる。それは、自らもまた唯一を知って、奪ったものの真の価値に気付いたからに違いなかった。
「なんだ、今更怖気づいたか?」
オレの内心を知ってか知らずか、ラーハルトはあえて挑発するように言った。その言葉に、オレは首を横に振る。
「……いいや。たぶん、逆だ」
「逆?」
「逃げられない……いや、逃げてはいけないのだと気付いたんだ」
今日のような穏やかな朝を迎える度に思う。オレのような罪ある者にとって、幸福は不幸よりも重い。いつでもこの背にのし掛かっては、時折過去を引き寄せて心臓を刺し貫いていく。そしてその度に思うのだ。いっそ孤独であったならば、あるいは刃の雨のうちでは、もっと楽に生きられようものをと。
そう、楽なのだ。自ら戦いに身を投じ、その身体や精神を野ざらしにしていれば、過去に刺される傷など数の一つでしかない。無数の痛みの中であれば、一つ二つ増えたところで気にも留めないものだ。しかし幸福の中にあるならばそうはいかない。真綿の中にある一欠片の棘ほど、人は強く痛みを感じる。他ならぬ己もそうだった。
だからこそ。
「許さぬ者がいるからこそ、オレはこの幸せから逃げてはならない。今はそう思う」
痛みから逃げることは、罪から逃げることと同じなのだから。
オレの言葉を受け止めてか、腰に回る腕の力が少しだけ増した。
「……難儀なものだな。おまえのその癖は」
その言葉は同情か、心配か。いや案外、オレの気がことあるごとに過去に逸れるのが気に食わないのかもしれない。普段から孤高ぶっているだけで、こいつは意外と独占欲が強いから。
「許せ、性分だ」
「……ふん」
治りはしないのだと暗に示せば、拗ねたように顔が背けられた。やはり気に食わないのだろう。珍しく大人げない様子を見せるラーハルトに、じんわりと胸が満たされる心地がして、奥から込み上げてきた言葉は喉を少しだけ通り過ぎた。
「それに今更……」
──これと決めた男の胸で、何に耳をそばだてることもなく眠る。その温もりを知って、どうして今更自ら手放せよう。
「今更、なんだ」
溢れた言葉を目敏く拾って、やつの両の目がこちらを捉える。その視線の力強さに、続きをそのまま言葉にしようか思案する。けれど僅かばかりの引っかかりを覚えてやめにした。
「……いいや。何でもないさ」
オレが手放すことはなくとも、おまえが自らの意思で飛び立っていくことはあるかもしれない。例えば、いつかくる主との再会の日に、なんて。
こいつが伴侶を捨てるような不義理な男とは微塵も思わないが、なにせオレは男だ。約束の言葉も鎹もない身で、永劫こいつの一番であるなどと過信できるほど、オレも現実逃避はしてはいない。そも、こいつは愛だの恋だのを至上として生きる性分ではないのだ。いつか勇者が帰ってきたのならば、何をおいても彼に仕えることを優先するだろうことは容易に想像できる。
だから、いずれこいつの足枷になるようなことは言わないでいい。その代わり少しだけ、今だけの贅沢をねだるのだ。
「二度寝か? 珍しい」
目を瞑り、隣の肩に頭を預けると、ラーハルトは軽く困惑したような声を出した。
「そんなに驚くな。おまえが勧めたんだろう」
「そうだが……」
目覚めてすぐの発言を蒸し返せば、応とも否とも言えずにたじろぐ。
「そら、ちゃんと抱き込んでくれ。まだこの時間は肌寒いのだから」
言葉を受けたラーハルトは一瞬黙り込んで、それから小さく溜め息を吐いた。
「……おまえ、以前に比べて随分と我儘になったな」
「嫌いか?」
「いいや。むしろ好ましいとも」
「なら、いいだろう」
どこか仕えたがる癖のあるおまえには、これぐらいが丁度いいのだ。証拠に、ラーハルトは一息だけ笑って、それから満足げにオレを抱き込んだ。
「彼女が来る前には起こしてくれ」
「応とも」
迎えが来るまで今ひととき、この青い四肢はオレだけのものだ。
1/1ページ
