Triangle .
某月某日、某所にて。
廊下の隅に佇み世間話を繰り広げていたのは
とある男ふたりだった。
「──でさ。あんたいつになったら、その癖治るわけ?」
「なんで君の言うこと聞かなくちゃなんないの」
「何回も言ってるだろ。今朝もまた靴なくしたんだしさあ」
「たまたまだって」
「たまたまが何回もないだろ」
「うるさいな。君だって経験あるでしょ」
「いやねえわ」
そうしたくだらない会話を繰り広げている時、
ある冷ややかな温度を纏わない声色が差した。
「……あの、旭人さん」
「───あ、詩織。偶然?」
「はい。聞き覚えのある見苦しい言い訳が聞こえてきたので」
「相変わらず言い方酷いね、君」
「事実なので」
「仕事場は違うのに会えたの、運命って思わない?」
「思いませんね。私、すぐに移動ですし」
「相変わらず真面目だね」
「貴方が不真面目すぎるんです」
「ひどくない?しかも盗み聞きしてたんでしょ」
「旭人さんに言われたくはないです」
「今日いつにも増して凄いね、君」
温和な雰囲気を持ち温かみのある声色と、微笑を崩すことのない詩織が、とある人物にだけはその雰囲気を容易く削ぎ、温度の持たぬ氷柱で差すかのような声色と空気を纏う。それはとある人物にだけ発動するのだが、周囲はそれを「特別」と呼ぶ。
ただ───本人らは、否当の本人は。
まったくそれを、認めようとはしない。
「いや~~~、今日も炸裂してんなあ、詩織さん」
「すみません、いつもこの人が。
ご迷惑お掛けしてます」
「いやいや、この人のこういうところは慣れっこなんで。けど俺もメンバーもマネージャーとか皆して、詩織さんには感謝してるんすよ?」
「……感謝、ですか……、?」
「そうそう。この人ほんと、俺にもメンバーにしてもだ~れの話も聞かないからさあ~、」
自称専属と名乗る男は、わざとらしく当事者の長身痩躯の男を指差した。その風貌はまるで悪戯っ子の言葉を告げ口するかのような言い草。それを言われた当本人は、悪びれもせず平然とした顔で佇んでいた。
「……旭人さん、他の方の忠告はきちんと聞いてくださいって言いましたよね?」
「そうだっけ?」
「私、以前貴方に忠告しました。貴方のことを思って言ってくださってるんですよ?と……」
「分かってる分かってる」
「分かってるなら何故改善されないんですか」
「しようとはしてるんだよ」
「どの口が言ってるんですか」
「この口」
「はあ、………」
詩織は悪びれもしない男に、呆れが混じった溜息を零す。けれどその溜息は、決して「失望」の色ではなかった。
「まあでも、あんた詩織さんの言うことなら聞くもんな?」
「………はい、?」
「さっきも言ったじゃん。この人、俺らの話は聞かないけど詩織さんの言うことなら素直に聞いてんの。実際、前よりかは忘れ物も酒の量も減ったし。誤差だけど」
「………そうなんですか?」
「分かりやすいもん、こいつ」
まるで初めて聞いたように少し目を見開いて驚いた瞳を浮かべてはもう一度その男に向き直った。
「詩織、怒ると怖いから」
「それだけで直るんなら、前からして欲しいんだけどな」
「愛感じるんだよね」
「お前確実にそっち系だろ」
「否定はしない」
「しろよ」
「詩織に怒られてると嬉しいんだよね」
「あんた確実に目覚めてるじゃん」
「詩織のおかげ」
「褒めてるんですか?」
「最大限に」
男の軽口にいつも通り会話をしつつも、けれどまるで分からない、というように先程から眉を少し寄せては独り言かのようにぽつりと呟いた。
「……なんで私の言うことは聞くんですか」
「好きだからじゃない?」
「……は、………?」
「昔から言ってるじゃん。君に言われると効くんだって」
「詩織さん怒ると怖えもんな。なんつうか圧がある」
「そんなこと、……ないです」
「いやあるんだって」
「だからあれ、───惚れた弱み的な?」
詩織は暫くその言葉を聞いて硬直した後、先程よりも明らかに大きな溜息を零した。けれど溜息を零したその顔は───、先程のような、呆れなどではなく。
「………旭人さん」
「なに」
「誇って言うことじゃありません」
「君からしたら嬉しいでしょ」
「嬉しくないです」
「嬉しいくせに」
「自意識過剰ですか」
「目、嬉しそうだけど」
「………っ、違います」
軽い軽口を交わす男女───その夫婦を他所に、事象専属の男はやれやれと首を振った。
「はいはい、惚気ご馳走さん」
「惚気じゃないです」
「いや惚気だろ。詩織さんも嬉しそうじゃん」
「嬉しくないですから」
「絶対嘘。顔にやけてるもん」
「老眼ですか?」
「うお、口強っ」
自称専属の男の言葉に釣られてニヤニヤと口角を浮かべている長身痩躯の男は、悪戯のように言葉を放った。
「相変わらず素直じゃないね、詩織は」
「旭人さんが手がかかりすぎるんです」
「俺の手がかかるのは昔からでしょ」
「自覚あるなら直して欲しいんですけど」
「無理だね。君がいるから」
「……私のせいって言いたいんですか?」
「違う」
「何が違うんですか」
「君が居るから、ちゃんとしようって思えるってこと」
「………は、?」
「俺なりに、酒の量も遅刻も忘れ物も減らしてるし。君は気づかないだろうけど」
「………出来るなら、初めからしてください」
「無理だね。君に言われなきゃ無理」
「依存ですか」
「愛って言って」
「ついさっき忘れ物してた癖に?」
「それは誤差」
「誤差でも忘れ物は忘れ物です」
「相変わらず厳しいね」
「何時も通り」繰り広げられる夫婦のやり取りに、自称専属の男はぷくく……と頬を膨らませて笑いを堪えていて、───それを詩織は鋭い視線で見遣った。
「………何が面白いんですか」
「いやあ、───相変わらずだなあって」
「なんですか、相変わらずって」
「いや、詩織さんってさ。───なんだかんだ文句言いつつも、この人の世話するからさ」
「………それは、」
「さっきも言ったし知ってると思うけど、この人マジで誰の言うことも聞かないから。そんで根気よくこの人を正そうとしたの、ほんとに詩織さんが初めてでさ」
「………っ、」
「そう。だから誇っていいよ」
「………どうして貴方がドヤ顔なんですか」
「すごいでしょ」
「凄くありません。平均か平均以下になっただけです」
「俺マイナス以下だったの?」
「今知ったんですか?」
その言葉に耐えきれない、と言うほどに自称専属───ブーマンという男は、大きく笑いをこぼした。
「───っ、はは、───だからそういうとこだって詩織さん!!!」
「………っ、」
反して、詩織は居心地が悪そうに視線を彷徨わせて明らかに長身痩躯の男に視線を背け合わせない。元来の性格と言えど、困っている人間を見捨てることが出来ない、というのは詩織の良き長所でもあった。───それがどう言った感情を抱いていたとしても。それを自覚しているからこそ、詩織は───、何も言うことは出来なかった。
少々沈黙が流れた後───否、正確には男ふたりはニヤニヤと詩織を観察していたのだが。その視線にも空気にも耐えきれず、とうとう詩織は話は終わりかのように言葉を零した。
「………私、次移動なので。この辺りで失礼します」
「逃げた」
「逃げてません」
「絶対逃げたでしょ」
「貴方と一緒にしないでください」
「顔赤いよ」
「赤くないです、目悪いんじゃないですか」
「眼鏡してるけど、今」
「っ、───知りません」
もう話は終わりだと言うように強制的に「失礼します」と言葉の語尾を強くおきスタスタと歩き出した。軈て彼女の背中が小さくなった時、男はぽつりと独り言のように呟いた。
「………ほんとかわいいよね、詩織」
「あんまからかってやんなよ。あんたにここまで気にかけてくれる人、早々居ないんだから」
「分かってるよ。俺なりに責任は取ってるつもり」
「ほんとに分かってんの?」
「分かってる分かってる。……でもまあ、」
「なんだよ」
ブーマンが怪訝そうに視線を横に見遣ると───男は、満足そうに、けれど何処か愛おしそうに。口元を緩めては、穏やかにそう告げた。
「からかってる時の詩織の顔、───めちゃくちゃかわいいんだよね」
「………まあ、否定はしない」