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旅人の話


 その日、町には夏の影が揺れていました。
 家の軒と軒の間の、白っぽい不揃いな石畳の道は、日光を反射して一層眩しく見え、僕も先生も目をそばめて歩いていました。
 町の際から民家を縫って海に近くなるにつれ、嗅ぎ慣れた磯の匂いが微かに漂っては消えていきます。あと少しの道程を無性に長く感じて、僕は次第に駆け足になり、気配が消え掛ける先生を振り返っては「早く!」と何度も急かすのでした。
 サンダルの底を擦り減らしつつ、細く入り組んだ近道をあくせく辿っていく僕。それとは対照的に、潮の腐食に耐えて久しい木造の古民家やら、ブロック塀の上で喧嘩する猫達やら、天日干しにされた魚介やらを興味深げに物見する先生。恐らくは通ったことのなかったであろう路地裏の様子を、ふらりふらりと眺めてはたまに僕を見失っている。その時僕は呆れ混じりに、貴方の自由人さを思い出していたのです。

 そうして防波堤を越えた先、一気に開けた視界一杯に一面の白浜が広がっていたのを、先生は憶えていらっしゃいますか?
 波音と共に海からやって来た風が、サアッと髪と頬を撫でて背後へ消えていく体感。少し先にある市場や港の方からカモメの鳴く声が響いていたことまで、僕は何故だか憶えています。
 一も二もなくサンダルを脱ぎ捨てて水際に走り寄っていく僕の背後で、先生はやはり穏やかに、辺りの様子を首を巡らせて眺めている。立ってるだけじゃ意味ない!などと叫んで先生を手招く僕は、その時には既に膝まで海水に浸かっていた気がします。
 呼ばれて苦笑混じりに返事をした先生は、僕の脱ぎ捨てたサンダルを右手に、自分の脱いだ靴を左手に持って、熱をもった砂の上を一歩ずつ近寄ってきました。おぼろげに刻まれる足跡は、僕のものよりは明らかに大きく、しかし漁師のおじさん達よりは幾分小さなものでした。
 真白の砂浜の、海水を含んで茶色くなる境界線を超えて、冷たい潮に足を浸しながら、あてもなく歩いていく先生。僕はといえば、足の指先に生きた貝の感触があって、もうほぼ着衣泳とも言える様相で、夢中で潮干狩りをしていました。体感で数分後、そういえば先生の声がしないなと辺りを見回して初めて、驚くほど先を一人で歩かれている貴方に気付いたのです。
 あの時、僕は酷く焦りました。いくら名前を呼んでも届かず、振り返らない貴方の背中を、一目散に追いかけたくらいですから。


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