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旅人の話


 夏の日は長く、追いついてからそこそこの距離を歩いても、一向に昼は終わりませんでしたね。緩やかな向かい風は、先生が途切れ途切れに口ずさむ異国の歌を一体何曲運んでいったでしょう。隣を歩きながら聴き入るうちに、服の水気は少しだけ乾いていました。
 理解どころか聞き取ることもできない外国語の歌の、その旋律だけを拾い集めていた僕は、何を考えるでもなく先生に問いました。
「先生はさみしい曲が好きなの」
「ちょっと違う。好きになるのが、どうしてか寂しい曲なんだ」
 足を止めず、僕に聞こえるだけの声で呟いた先生は、いつもと同じように目を細めて笑っていました。どこが違うの?とか、楽しい曲も歌ってほしいとか、言いたいことはきっとあったはずなのですが、その時の僕が口を噤んだのは、ひとえに貴方がまたその悲しげな旋律を口ずさみ始めたからでした。

 しばらくして、そろそろ折り返そうかと家路に意識が向いた頃には、夏の日も傾きつつありました。自分達の足跡を辿って戻る道すがら、歌うのをやめた先生が聞かせてくれたのは、旅の途中に漂流した島の話でした。
 先生が乗っていた小さな船が、時化にあって転覆したところから始まる話です。細かい部分は忘れてしまったのですが……島の砂浜に打ち上げられた先生が、もしや無人島に流れ着いてしまったのではと肝を冷やしていたところ、大きな船の汽笛が聞こえて島の反対側へ回ってみたら、造船所を構える大きな貿易の町があった、とか。
 転覆した時には本当に死んでしまうと思った、でもお陰で生きているうちに見られないと思っていた遠い国の宝石細工を見ることができた。私はやっぱり海が好きだよ──なんて、死に直面したにもかかわらず臆せず言ってのける貴方は、やはり、瞳の色に違わず海を愛した人だったのでしょう。
 子供ながらに、僕はそれを感じ取っていた。そして同時に、よくわからない不安も抱いていました。オレンジ色に光り渡る夕日を、それが還っていく水平線を、眩しそうに見つめている先生に対して。
 今ならおそらく、言葉にできます。僕は恐れていたのです。先生がいつかまた海に還っていくような予感がして、怖かったのです。
 『大丈夫、私はここにいるよ』そのたった一言が欲しくて、先生のシャツの裾を掴み、にわかに口を開きかけたその時、港の方で高い出航の汽笛が響きました。夜釣りが解禁になって、早速漁をしに行こうという2、3隻の船の挨拶でした。
 「手を振りにいくかい?」気を取られていた僕に、先生が問いかけます。僕はゆるゆると首を横に振って、しかし先ほどの不安を打ち明ける気力も失って、先生のシャツの裾を一層握りしめるばかりでした。

 もしかして先生、気付いていらっしゃいましたか?僕があの時、貴方に抱いていた不安を。そして、その不安が否定し得ない類のものだということを。
 …だとすればやはり、僕はこの時でさえ、貴方の煙に巻かれてしまっていたのでしょうね。



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