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旅人の話


 今思えば、どうしてちゃんと先生の名前を聞いておかなかったのでしょう。書き進めるにつけ、十そこそこだった自分のいい加減さにも、先生の煙の巻き方にも溜息が出ます。
 フユヅタ先生。
 普段内緒の遊び場にしていた空き家に、ある日突然貴方が越してきて、僕はきっと貴方の思っている以上に驚いていたんですよ。
 何せ、外観は何も変わっていないのに、いつも通り玄関の木製のドアを開けたら、僕が持ち込んでいたマグカップで珈琲を飲む貴方がいたのですから。お互いに数秒固まった後「いらっしゃい?それともおかえりかな?」なんて言いつつもう一口啜るその自由人さ、僕は一生忘れません。
 そんな初対面の印象が強過ぎて、その後何を話したのか細々としたことは霞んでしまっています。しかし、掃除もそこそこの、未だ埃の残る家の中に招き入れられ、出されたカフェオレをチビチビと舐めながら貴方の名前を尋ねた時、窓の外の名も知らぬ背高せいたかの木を指差されたことだけは憶えています。
 僕が、一体どういう意味かと首を傾げている間に、先生は建て付けの悪い窓を開けて、外の窓枠のふちを這う蔦の葉を一枚ちぎり、葉脈を太陽に透かしていました。確かにそれは、家の傍の背高の木の根元から生え、木の幹と枝を伝い、家の二階から一階の壁へ這い広がっているもので、先生の越してきた季節には黄緑の新芽の伸びる真っ盛りの時期でした。
 「私の名前はこのツタと同じなのだけど、君は知っているかな?」葉先が三つに割れた若い蔦の葉を差し出されて、あの時の僕は答えに窮しましたね。秘密基地の外観程度にしか思っていなかった植物の名前を「ツタ」以上に知っている子供など早々いないでしょう。それは先生もご存知だったはずです。
 僕は年相応に純粋で負けず嫌いでしたから、それが本名なのか疑う余地もなく、ただ知らないことが悔しくて、貴方の手からその葉を奪うと「ぜったい当てやる!」と言って逃げ出したのです。玄関から飛び出す時、横目で、ひらひらと手を振る貴方を僕はちゃんと見ていました。
 結局、全速力で家に帰って、買ってもらってから一度も開いたことのなかった植物図鑑を初めて開き、奪い取った蔦の葉が「フユヅタ(キヅタ)」だと特定したときには、南中した日はすっかり海原の波の中に落ちていました。
 …つまりはまぁ僕はその時、まんまと先生の最初の煙に巻かれたわけです。



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