魚を導く光
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大地に生じる水は海にあらず。
されど喧騒より孤立せし砂漠という名の内海にて、バーチメントの色帯びし魚が一匹迷わん。
魚——いや、男の名をガイザー。
背丈は百にも及ばぬ短躯ながら、上肢を重く鋭利な得物に身を包み、
手甲を手にした戦士の端くれ。
不毛の大地たる西方の地より、海を超えて遥々他の陸地へ旅する者。
魚は海上に差し込む光を標とし、ただ泳ぐ。
その光は、序幕を告げる暁光か、闇に留まる不動の星か。それとも——–
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
——–いつになれば、ここから抜け出せるんだ。
数えようとは思わないが、俺がそう考えたのは、この数時間で何回目だろうか。
幾ら年中猛暑の土地生まれでも、水も休憩も無しに歩き続けるのは流石に耐えがたい。
歩きながら、そう思う。
この異邦の地……水の大陸のとある国の広場にて小休止していた所。広場の中央に位置する清麗な水が湧き出る立派な噴水と、その周りを無邪気に戯れる子供達に気を取られていたら、名前は忘れたが、飛行していた黒い小さな竜にカバンを盗まれた。
必死で子竜を追いかけたのも空しく、結局追いつけずに帰路につこうと踵を返せば、そこは砂の大地だった。がむしゃらに四方八方を走り続けたものだから、街が何処かもわからない。
故郷の者から譲り受けた方位磁針も、地図も食料も金も、あのカバンに入っている。ハッキリとした目的地もまだ決めておらず、しかし当てがなくとも、街かどこかに辿り着くと信じて砂漠を進む他なかった。
一言で言えば、砂漠で一人遭難した。
(そもそも、北に位置する水の大陸に、なぜ『砂縛』と似た砂漠が存在するんだ……)
視線を空に向け、憤みを込めた瞳で仰ぎ見る。
覆う雲一つなく、何処までも澄んだ蒼穿が広がり、燦々と陽降り注ぐ太陽。
次に視線を下に移せば、見渡す限りの砂地が満遍なく行き渡り、故郷の風景が脳裏によぎる。
砂、砂、砂。どの方角を見ても砂の地平線が続くばかりで、鼠や蠍の1匹すら出会わない。
(陽の位置も下がってきてる、早くどこかに……)
相も変わらぬ陽光。喉を焼く大気は着実に体力を奪い、汗は伝い落ちる前に蒸発する。
大陸全土が細密に記された地図に目を通してはいたが、地図が古すぎたのか、砂漠については一切記されておらず、現存しない国も幾つか記されてた。なので次の街が存在するのかも怪しい。無いまま旅するよりマシではあったが。
…など、気を紛らわそうと関係のないことを冷静に考えていると、ふと立ち止まる。
「………?」
——–アレは、なんだ?
脱水症状が見せる幻覚か蜃気楼か、陽炎に揺らめく地平線の彼方に、朧げな黒い点がうっすら見える。目を凝らし、それを視る。
人でないのは明らかだ。しかし動物や昆虫の類でもない。点は徐々に近づいていき、点がはっきりと見える頃には、生体としては異質な姿であると視認した。
全身が黒で覆い尽くされ、翼もないのに宙に浮く球体。肉食獣の牙と同化したような尖った口、明らかに緑色の口内。牙に似た口がボールにある…と言えば伝わるだろうか。
その球体は段々と迫り行き、自身の顔と変わらない大きさだと認識できる距離まで接近した。
敵かと思い身構えたが、球体は(目は無いが)こちらをジィッと見つめるばかりで、自分と、違う方向を交互に見るのを繰り返している。
—–俺に一体何を伝えたいんだ?
球体の動きによる意味を暫し考えた後、ある一つの考えが思い浮かぶ。
「……付いて来い、と言いたいのか?」
ここで初めて、体の水分が少しでも逃げない様に閉ざしていた声を発した。黒い球体は頷くように口を上下に動かし、別の方向へ転換する。
—–こいつに賭けてみるか?
自分はこの砂漠に遭難してから既に何時間も経過している。こうして歩き続けた身体も、渇きと体温の上昇で倒れるのも時間の問題だ。何故自分を導こうとするのか不明だが、運が良ければ身を休める場所が見つかるかもしれない。
或いは——いや、悪い先を想像するのはやめよう。その時はその時で考えれば良い。
「うん、わかった。そうしよう」
半ばやけではあるが、コレしか手の尽くしようがない。疲労を隅に追いやり、今だけは黒点を道標として後を追うことにした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
休むように光は地平線に止まり、澄んだ青には白が滲んでいる。
北国には、『白夜』という夏の暦になると太陽が一日中沈まない現象が存在する。太陽が長いこと空と地の境目に留まっているから、既に夜の時間かもしれない。
自身の歩調に合わせて先導し、時折こちらに振り返るアレは(多分)生き物ではないが、自分以外の他者がいる事実は、多少なりとも不安を安堵に変えてくれる。かの故郷に酷似した、己以外は存在しないと錯覚させる孤独の砂漠にいる自分には、一種の安定剤のような物だ。
その代わり、意思表示のみを行なってるが。
そうこう考えて歩いてるうちに、球体がピタリと停止した。よく見ると、青と茶色のみの果てのない地平線ではなく、緑という異色の変化が砂漠に現れた。
どうやら先程歩いた砂漠と、緑の先にある違う砂漠の境界に位置する、一直線に延々と続いた森林の近くまで歩いたようだ。緑があるということは、食せる物も有るということ。
後はこのまま真っ直ぐ進めば、あの森林にたどり着ける。
「本当にすまない、ありがとう」
心の底から、そう思った。
まさか本当に着くとは思わなかったが、九死に一生を得るとはこの事かもしれない。コイツがいなかったら今頃—�–そう考えるとゾッとする。
球体にそう告げると、球体からは何も反応を示さなかった。
だが今はそんな些細な事を気にしてはいない。
辺りを見渡したのち、あの森林に向かおうと、いざ希望の一歩を踏み出す。途端、己の膝が砂の地面にがくりと崩れ落ちる。その拍子に斜面に沿ってゴロゴロと砂丘から無様に転がり落ちた。
——無理もない、ずっと歩いたんだ。ここにきてから何も食わず、何も飲まず、ただ進む一心のみで辿り着けた自分に驚きだ。
いくら不毛の地で生まれ育ち、如何に過酷な環境にも対応出来る身体能力・道具を持ち合わしても、時間が経てば自ずと限界はやってくる。それはわかりきっていた事だ。
全く、我ながら情けないなあ。そう思って立ち上がろうと脚の爪先を力んだ途端—–
「!?いっ……っ…!」
神経が千切れたような痛みが、爪先から膝にかけて襲いかかった。
長い時間疲労を我慢していた反動なのか、言葉には表せない鈍い痛みが全身を駆け巡り、喉の渇きと熱さは限界を上回っていた。
両腕で這いつくばって無理やり動かす。激痛。手甲を持つ指に力を入れる。やはり激痛。
この乾ききった砂漠から、一刻も早く抜けだしたい己の意思などお構いなしに、肉体はこれ以上の活動を拒んでいるようだ。
今は辛うじて呼吸は出来るが、体の芯は蓄積した疲労によって麻痺し、灼熱を浴び続けた肉体は悲鳴をあげ、その場から一歩も動けそうにない。
例えるなら、水中から長い時間陸に打ち上げられた魚と似たようなものだ。
ここまで導いてくれた黒い球体は自分の頭上をぐるぐる旋回していたが、暫くすると何処かに去っていた。生き物か定かでない物体にも見放されたのかと、フッと自嘲気味に笑う。
あと少し、あと少しで休める場所があるというのに—�—あの一歩は希望ではなく、終わりを告げる一歩であったか。
死に際に陥れば走馬灯を見るのは本当だったのか、死ぬなら砂漠じゃない場所が良かったな。
…など、己の死を目前にして他人事のような不安や後悔を頭の中に次々と浮かべる。
だって、死を覚悟するのと、死を受け入れることは似て異なるものだ。そう言い聞かせなければ、こうして意味なく徐々に蝕む死の恐怖を受け入れる余裕も、生を惜しんで躊躇う迷いを消すことも、自分には出来ない。
意識が遠のく。自由が離れる。視界が霞む。
あぁ——不甲斐ないなぁ。
生きてきた中での後悔は幾らでもある。
その中でも強いて言えば、胸を張って友と断言できるほどの相手を、俺も作りたかった。
自分が旅をする意味を見いだせなかったこと。
それが一番の心残り…だと思う。
見慣れた景色が段々とぼやけていく最中、
不意に—–自分ではない"何か"の視線を捉えた。
視線しか感じなかったが、視線の濃度は徐々に濃くなり、やがて明確な気配となる。恐らく、その気配の主は蹲る自身の真後ろにいる。
無に沈みかけた精神が釣り上げられる。焦燥に駆られ、止まった知性を回転させる。
倒れる前に地平線を見渡していたとき、建物らしい建築物も見当たらなかった為、人が来たのは想定外だった。
気配の主に顔を向けようにも、目で確認することは難しく、手はおろか頭を動かす動作も儘ならない。なら——
「…ぅ、アァ…….…ッ…」
枯れた声を振り絞ってでも、気配の主には最期の言葉だけでも伝えよう。見ず知らずの相手に…とは思うが、仮に相手が住居に運んでも、間に合わないだろう。だから、己のエゴだと理解しているが、せめて遺言だけでも聞いてほしい。
しかし……何も言わず、こちらを見つめている奴は、本当に人なのか?獲物を前にして目を燦々と輝かせる、ただの獣か?
それらとは些か違う、圧倒的な存在の気配というか……決して眩しくはないが眩しいというか………
—–いや、もうどちらでもいい。どのみち死ぬのなら、乾涸びて無意味に朽ちるより、誰かの血潮となって生きる方が断然マシだ。
「…………で……な……った…ッ……」
石を壺に入れて傾けた時のような掠れた声で、気配の主に呟く。言った本人すら聞き取り難い声量を出した己を恥じる……よりも先に、視界が瞼に閉ざされる方が早かった。
言葉の意味を理解されなくてもいい。
同情されなくてもいい。この努力も徒労に終わるとしても、ただ、聞いてくれるだけ。それだけでよかった。
そこで——�–己の記憶は途切れた。
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大地に生じる水は海にあらず。
されど喧騒より孤立せし砂漠という名の内海にて、バーチメントの色帯びし魚が一匹迷わん。
魚——いや、男の名をガイザー。
背丈は百にも及ばぬ短躯ながら、上肢を重く鋭利な得物に身を包み、
手甲を手にした戦士の端くれ。
不毛の大地たる西方の地より、海を超えて遥々他の陸地へ旅する者。
魚は海上に差し込む光を標とし、ただ泳ぐ。
その光は、序幕を告げる暁光か、闇に留まる不動の星か。それとも——–
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
——–いつになれば、ここから抜け出せるんだ。
数えようとは思わないが、俺がそう考えたのは、この数時間で何回目だろうか。
幾ら年中猛暑の土地生まれでも、水も休憩も無しに歩き続けるのは流石に耐えがたい。
歩きながら、そう思う。
この異邦の地……水の大陸のとある国の広場にて小休止していた所。広場の中央に位置する清麗な水が湧き出る立派な噴水と、その周りを無邪気に戯れる子供達に気を取られていたら、名前は忘れたが、飛行していた黒い小さな竜にカバンを盗まれた。
必死で子竜を追いかけたのも空しく、結局追いつけずに帰路につこうと踵を返せば、そこは砂の大地だった。がむしゃらに四方八方を走り続けたものだから、街が何処かもわからない。
故郷の者から譲り受けた方位磁針も、地図も食料も金も、あのカバンに入っている。ハッキリとした目的地もまだ決めておらず、しかし当てがなくとも、街かどこかに辿り着くと信じて砂漠を進む他なかった。
一言で言えば、砂漠で一人遭難した。
(そもそも、北に位置する水の大陸に、なぜ『砂縛』と似た砂漠が存在するんだ……)
視線を空に向け、憤みを込めた瞳で仰ぎ見る。
覆う雲一つなく、何処までも澄んだ蒼穿が広がり、燦々と陽降り注ぐ太陽。
次に視線を下に移せば、見渡す限りの砂地が満遍なく行き渡り、故郷の風景が脳裏によぎる。
砂、砂、砂。どの方角を見ても砂の地平線が続くばかりで、鼠や蠍の1匹すら出会わない。
(陽の位置も下がってきてる、早くどこかに……)
相も変わらぬ陽光。喉を焼く大気は着実に体力を奪い、汗は伝い落ちる前に蒸発する。
大陸全土が細密に記された地図に目を通してはいたが、地図が古すぎたのか、砂漠については一切記されておらず、現存しない国も幾つか記されてた。なので次の街が存在するのかも怪しい。無いまま旅するよりマシではあったが。
…など、気を紛らわそうと関係のないことを冷静に考えていると、ふと立ち止まる。
「………?」
——–アレは、なんだ?
脱水症状が見せる幻覚か蜃気楼か、陽炎に揺らめく地平線の彼方に、朧げな黒い点がうっすら見える。目を凝らし、それを視る。
人でないのは明らかだ。しかし動物や昆虫の類でもない。点は徐々に近づいていき、点がはっきりと見える頃には、生体としては異質な姿であると視認した。
全身が黒で覆い尽くされ、翼もないのに宙に浮く球体。肉食獣の牙と同化したような尖った口、明らかに緑色の口内。牙に似た口がボールにある…と言えば伝わるだろうか。
その球体は段々と迫り行き、自身の顔と変わらない大きさだと認識できる距離まで接近した。
敵かと思い身構えたが、球体は(目は無いが)こちらをジィッと見つめるばかりで、自分と、違う方向を交互に見るのを繰り返している。
—–俺に一体何を伝えたいんだ?
球体の動きによる意味を暫し考えた後、ある一つの考えが思い浮かぶ。
「……付いて来い、と言いたいのか?」
ここで初めて、体の水分が少しでも逃げない様に閉ざしていた声を発した。黒い球体は頷くように口を上下に動かし、別の方向へ転換する。
—–こいつに賭けてみるか?
自分はこの砂漠に遭難してから既に何時間も経過している。こうして歩き続けた身体も、渇きと体温の上昇で倒れるのも時間の問題だ。何故自分を導こうとするのか不明だが、運が良ければ身を休める場所が見つかるかもしれない。
或いは——いや、悪い先を想像するのはやめよう。その時はその時で考えれば良い。
「うん、わかった。そうしよう」
半ばやけではあるが、コレしか手の尽くしようがない。疲労を隅に追いやり、今だけは黒点を道標として後を追うことにした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
休むように光は地平線に止まり、澄んだ青には白が滲んでいる。
北国には、『白夜』という夏の暦になると太陽が一日中沈まない現象が存在する。太陽が長いこと空と地の境目に留まっているから、既に夜の時間かもしれない。
自身の歩調に合わせて先導し、時折こちらに振り返るアレは(多分)生き物ではないが、自分以外の他者がいる事実は、多少なりとも不安を安堵に変えてくれる。かの故郷に酷似した、己以外は存在しないと錯覚させる孤独の砂漠にいる自分には、一種の安定剤のような物だ。
その代わり、意思表示のみを行なってるが。
そうこう考えて歩いてるうちに、球体がピタリと停止した。よく見ると、青と茶色のみの果てのない地平線ではなく、緑という異色の変化が砂漠に現れた。
どうやら先程歩いた砂漠と、緑の先にある違う砂漠の境界に位置する、一直線に延々と続いた森林の近くまで歩いたようだ。緑があるということは、食せる物も有るということ。
後はこのまま真っ直ぐ進めば、あの森林にたどり着ける。
「本当にすまない、ありがとう」
心の底から、そう思った。
まさか本当に着くとは思わなかったが、九死に一生を得るとはこの事かもしれない。コイツがいなかったら今頃—�–そう考えるとゾッとする。
球体にそう告げると、球体からは何も反応を示さなかった。
だが今はそんな些細な事を気にしてはいない。
辺りを見渡したのち、あの森林に向かおうと、いざ希望の一歩を踏み出す。途端、己の膝が砂の地面にがくりと崩れ落ちる。その拍子に斜面に沿ってゴロゴロと砂丘から無様に転がり落ちた。
——無理もない、ずっと歩いたんだ。ここにきてから何も食わず、何も飲まず、ただ進む一心のみで辿り着けた自分に驚きだ。
いくら不毛の地で生まれ育ち、如何に過酷な環境にも対応出来る身体能力・道具を持ち合わしても、時間が経てば自ずと限界はやってくる。それはわかりきっていた事だ。
全く、我ながら情けないなあ。そう思って立ち上がろうと脚の爪先を力んだ途端—–
「!?いっ……っ…!」
神経が千切れたような痛みが、爪先から膝にかけて襲いかかった。
長い時間疲労を我慢していた反動なのか、言葉には表せない鈍い痛みが全身を駆け巡り、喉の渇きと熱さは限界を上回っていた。
両腕で這いつくばって無理やり動かす。激痛。手甲を持つ指に力を入れる。やはり激痛。
この乾ききった砂漠から、一刻も早く抜けだしたい己の意思などお構いなしに、肉体はこれ以上の活動を拒んでいるようだ。
今は辛うじて呼吸は出来るが、体の芯は蓄積した疲労によって麻痺し、灼熱を浴び続けた肉体は悲鳴をあげ、その場から一歩も動けそうにない。
例えるなら、水中から長い時間陸に打ち上げられた魚と似たようなものだ。
ここまで導いてくれた黒い球体は自分の頭上をぐるぐる旋回していたが、暫くすると何処かに去っていた。生き物か定かでない物体にも見放されたのかと、フッと自嘲気味に笑う。
あと少し、あと少しで休める場所があるというのに—�—あの一歩は希望ではなく、終わりを告げる一歩であったか。
死に際に陥れば走馬灯を見るのは本当だったのか、死ぬなら砂漠じゃない場所が良かったな。
…など、己の死を目前にして他人事のような不安や後悔を頭の中に次々と浮かべる。
だって、死を覚悟するのと、死を受け入れることは似て異なるものだ。そう言い聞かせなければ、こうして意味なく徐々に蝕む死の恐怖を受け入れる余裕も、生を惜しんで躊躇う迷いを消すことも、自分には出来ない。
意識が遠のく。自由が離れる。視界が霞む。
あぁ——不甲斐ないなぁ。
生きてきた中での後悔は幾らでもある。
その中でも強いて言えば、胸を張って友と断言できるほどの相手を、俺も作りたかった。
自分が旅をする意味を見いだせなかったこと。
それが一番の心残り…だと思う。
見慣れた景色が段々とぼやけていく最中、
不意に—–自分ではない"何か"の視線を捉えた。
視線しか感じなかったが、視線の濃度は徐々に濃くなり、やがて明確な気配となる。恐らく、その気配の主は蹲る自身の真後ろにいる。
無に沈みかけた精神が釣り上げられる。焦燥に駆られ、止まった知性を回転させる。
倒れる前に地平線を見渡していたとき、建物らしい建築物も見当たらなかった為、人が来たのは想定外だった。
気配の主に顔を向けようにも、目で確認することは難しく、手はおろか頭を動かす動作も儘ならない。なら——
「…ぅ、アァ…….…ッ…」
枯れた声を振り絞ってでも、気配の主には最期の言葉だけでも伝えよう。見ず知らずの相手に…とは思うが、仮に相手が住居に運んでも、間に合わないだろう。だから、己のエゴだと理解しているが、せめて遺言だけでも聞いてほしい。
しかし……何も言わず、こちらを見つめている奴は、本当に人なのか?獲物を前にして目を燦々と輝かせる、ただの獣か?
それらとは些か違う、圧倒的な存在の気配というか……決して眩しくはないが眩しいというか………
—–いや、もうどちらでもいい。どのみち死ぬのなら、乾涸びて無意味に朽ちるより、誰かの血潮となって生きる方が断然マシだ。
「…………で……な……った…ッ……」
石を壺に入れて傾けた時のような掠れた声で、気配の主に呟く。言った本人すら聞き取り難い声量を出した己を恥じる……よりも先に、視界が瞼に閉ざされる方が早かった。
言葉の意味を理解されなくてもいい。
同情されなくてもいい。この努力も徒労に終わるとしても、ただ、聞いてくれるだけ。それだけでよかった。
そこで——�–己の記憶は途切れた。
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