アズカバンの囚人編
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休暇が明けるのはあっという間だった。
ハリーに届いた世界一の箒“ファイアボルト”は、ハーマイオニーの報告でマクゴナガル先生に預けられてから音沙汰がない。ロンはこれに関して完全にハリーの味方で、二人ともハーマイオニーが談話室を避けるようになっても呼び止めようとしなかった。
何を言っても頑として二人が折れなかったので、私はハーマイオニーについた。ハーマイオニーだってハリーから箒を奪うようなまねをしたいはずがない。ただ心配しているだけなのだ。私はすっかり消沈してしまった優しい彼女と一緒に、バックビークの裁判で勝つための資料探しで図書館にこもったり、書き留めたメモを渡しにハグリッドの小屋を訪ねたりした。
学校が始まって、ハグリッドは一見持ち直したようだった。たくさんの火トカゲが燃え盛る焚き火をチョロチョロ駆け回るのを観察するのはとても楽しかった。
手相に入った占い学ではまたもやトレローニー先生がハリーに「生命線が一番短い」などと述べていたが、ハリーは闇の魔術に対する防衛術を待ちかねていて、手相の話は耳を通り抜けていたらしい。幸運だった。
ルーピン先生は休暇前より少しは顔色がよくなっていた。新学期一番初めの授業のあと、ハリーは木曜の夜に守護霊の呪文を練習する約束をしてもらえたと喜んでいた。ハリーを待っていた私をルーピン先生は、もしよければお手本として参加してほしい、と呼び止めた。私はもちろん頷いた。やっとルーピン先生とゆっくり話せる機会が巡ってきたのかもしれなかった。毎週木曜はスネイプ先生の課外授業が入っているが、今週の木曜だけはキャンセルをお願いしよう。
夕食に四人で向かう途中そんなことを考えていると、前を歩いていたロンが、ルーピン先生はどこが悪いのだろうかと横に並ぶハリーに聞いた。私の隣を歩いていたハーマイオニーはそれに、大きく舌打ちをした。ロンがさっと振り返った。
「なんで僕たちに向かって舌打ちなんかするんだい?」
「何でもないわ」
「いや、なんでもあるよ」
ロンが言い返したが、ハーマイオニーはツンとそっぽを向いた。
「ルーピン先生のどこが悪いかって、わかりきったことじゃない?」
「教えたくないなら、言うなよ」
ピシャッとロンが言ったが、ハーマイオニーは「あら、そう」と切り捨てて、私の手を引いてその場から去ってしまった。後ろから「また口を利いてもらうきっかけがほしいだけさ」なんてロンの声が聞こえて、私は肩を落とすしかなかった。ルーピン先生が人狼なんて今知れ渡ったら、年度が終わる前に先生は辞めざるをえなくなってしまうだろう。
この日の夕食後に私はスネイプ先生の研究室に行き、ルーピン先生に呼ばれているので明後日の木曜日の課外授業は受けられないと伝えた。不愉快極まりないという顔で、先生は何の呼び出しかと聞いた。守護霊の呪文のことで、と答えると、先生は鼻を鳴らした。
「できているのに、ルーピンは君を呼び出したのかね」
「いえ、私ではなくて……ハリーの練習をお手伝いするためです」
笑うという行為でここまで人を震え上がらせるような表情を作れるのは、もはや一種の才能なんじゃないかと私は思う。余計なこと言ったかな、と後悔した時にはもう遅かった。
「ポッターにかまける暇があるとは、今の授業進度ではずいぶん楽をしていたと見える」
ほとんど口を動かさずそう言って、スネイプ先生は新しい課外授業の予定表を投げてよこした。週に一度の授業で進める教科書のページ数が二倍に増えていて、イースター休暇明けには六年生の範囲に入る計算だった。
「スネイプ先生」
「なんだ。これではこなせんか」
「いえ。私は早く進められて嬉しいけど、先生はお忙しくないですか……?」
スネイプ先生は、できることとできないことのギリギリを攻めてくる。その先生がこのスピードの課外授業予定を組んだということは、私はこれをなんとか乗り越えられるだろうと計算してのことだろう。しかし私と違って、スネイプ先生は寮監もしていて、全ての学年の魔法薬学を見ているのだ。
「いかにも」
しかしこの一言は悪手だった。スネイプ先生に週一回勉強を見てもらい、質問と称して週五回通っているのは、何を隠そう私なのである。
「我輩の忙しさをご丁寧にも気遣っていると。ミス・シラユキ、君がそれを言うのは一体どういう了見なのか、我輩にはどうにもわかりかねる」
「でも課外授業の言い出しっぺはスネイプ先生じゃないですか」
スネイプ先生のローブがブワッと広がると同時に、私は風のように研究室から飛び出した。
「廊下を走るな!グリフィンドール五点減点!」
「すみません!」
この日はちょうどスネイプ先生の誕生日だった。過去に来てまだ四ヶ月、こんな軽口を言っても減点されないなんて、少しは私の存在を許容してくれているのだろうか。
「……そうだといいな」
木曜日の夜八時、私とハリーは予定通りグリフィンドール塔を抜け出し、ルーピン先生と待ち合わせている魔法史の教室に向かった。杖でランプを点けて待つと、五分もせずに先生は大きな箱を抱えて現れた。
中にはまね妖怪が入っていると説明し、私たちに杖を取り出すよう促した。
「ハリー、サチが習得していて私がこれから君に教える呪文は、非常に高度な魔法だ。──いわゆる“普通魔法レベル(O・W・L)”資格をはるかに超える。“守護霊の呪文”と呼ばれるものだ」
不安げにハリーはルーピン先生を見つめた。ルーピン先生はそれを見てこちらにめくばせをしたので、私はハリーの背中にそっと手を添えた。
「呪文が効くと守護霊が出てくるんだよ。吸魂鬼を祓う保護者が、私たちと吸魂鬼の間で盾になってくれるの」
ルーピン先生はありがとうと微笑んで、残りの説明を引き取った。そして再三子の呪文が高度であることを繰り返した。ハリーはそれよりも、守護霊がどんな姿をしているのかが気になったらしい。ルーピン先生が、創り出される守護霊は魔法使いによって違うと答えて、ようやく呪文を唱える段階に入った。
「どうやって創り出すのですか?」
「呪文を唱えるんだ。何か一つ、一番幸せだった想い出を、渾身の力で思いつめたときに、初めてその呪文が効く」
ハリーが頷いたのを見て、ルーピン先生は咳払いをして呪文を唱えた。
「こうだ──エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ!」
続いてハリーが唱えると、三度目に杖先から銀色の煙が噴き出した。
「見えましたか?何か出てきた!」
「よくできた」
ルーピン先生は微笑んだ。
「よーし、それじゃ──吸魂鬼で練習してもいいかい?」
「はい」
「まずはサチに手本をやってもらおう。サチ、まね妖怪が吸魂鬼になったら、姿を変える前に呪文を唱えて」
「はい」
私はハリーの一歩後ろに立った。
ルーピン先生が大きな箱のふたを開けた。すぐに吸魂鬼がゆらりと立ち上がって、フードに覆われた顔はハリーに向けられている。身を固くしたハリーの後ろから、私は杖先を吸魂鬼に突き付ける。
「エクスペクト・パトローナム」
銀色の牝鹿が一直線に吸魂鬼に向かって滑り、まね妖怪は一瞬で箱の中まで押し戻された。
「すばらしい!美しい守護霊だったよ」
箱のふたを押さえて目を細めたルーピン先生に声には、どこか懐かしさがにじんでいた。ダンブルドア先生といい、スネイプ先生といい、牝鹿の守護霊は何か彼らの過去に関わっているのだろうか。
「サチ、すごい!」
ハリーは吸魂鬼の影響で顔を青くしながらも、目を輝かせていた。
「僕もできるかな?」
「きっとできる!私だって最初はなんにも杖から出せなかったんだよ」
私はハリーに笑いかけた。ハリーは頷いて、ぐっと唇を引き結んだ。
それからハリーは何度かまね妖怪を相手に守護霊の呪文を練習した。二度ほど気絶して、ハリーは初めて父親の声が聞こえた、と言った。私からは、ルーピン先生の目元が寂しげに歪んだのが見えた。
「ジェームズの声を聞いた?」
「ええ……でも──先生は僕の父を存知ない、でしょう?」
ルーピン先生と目が合ったような気がした。
「わ──私は──実は知っている。ホグワーツでは友達だった」
ルーピン先生は本当につらそうだった。これ以上ハリーに両親の死を思い出させたくないようにも、親友のことを思い出したくないようにも見えた。
最後にもう一度、とハリーが頼み、今度は杖から銀色の影が飛び出して吸魂鬼との間に漂った。
「リディクラス!」
ルーピン先生が叫び、まね妖怪とハリーの守護霊が消えた。私は椅子に崩れ落ちたハリーを後ろから抱きしめた。
「やった!すごいよ、ハリー!」
「本当に、よくできたよハリー!立派なスタートだ!」
ルーピン先生も笑顔で言った。もう一回やりたいとハリーは言ったが、今度こそ先生はきっぱり断った。ハニーデュークス菓子店の最高級板チョコを私たちに一枚づつ渡して、ハリーは来週からまた同じ時間に練習することに決まった。私は魔法薬学の課外授業があるからとルーピン先生の方が気を遣ってくれた。スネイプ先生に何か言われたのだろうか。
「ハリー、もう帰ったほうがいい。だいぶ遅くなった」
シリウスのことを少しだけ話して、ルーピン先生はハリーを寮に返した。私はルーピン先生に話をしたかったので、ハリーの姿が廊下の角を曲がって見えなくなるまで待った。
「それで、サチ」
ルーピン先生はどこか緊張していた。それを見て私も緊張してしまった。
「話というのは──あの、まね妖怪のことかな」
「はい」
ひっくり返された砂時計と、それを元に戻そうとする死人となった“あのひと”。
最初、私はルーピン先生に全て話そうと考えていた。未来から来たことだけでなく、誰が死んでしまったかということまでを全て。
けれど考え直した。
それをして楽になるのは私だけで、自分が死ぬなんて知らされたルーピン先生は何を考えるのだろう。最悪、死ぬための覚悟を決める余裕を作り出してしまうことにならないだろうか。だったら全部を話さずに、言わなければいけない時を見極めなければならない。ダンブルドア先生がハリーにそうしたように。あのひとは少し言わなさすぎだったけれど、あのひとがハリーに真実を託したように。
「ルーピン先生。あれを見て先生が考えたことは間違っていないと思います」
だから私は、遠回しに肯定した。あれがスネイプ先生の未来に起こり得る姿であること。私がそれを止めようとしていること。生徒が知りようのないことをたくさん知っていること。それをわかってもらえるだけで、今は十分だった。
「それじゃあ、君は……」
「私は、私があるべき場所に戻ってしまうことが怖かったんです」
伏せていた瞼を上げると、ルーピン先生は心配そうに私をまっすぐに見ていた。
「でも──もう怖くありません。もちろんルーピン先生のことだって、最初から怖くなんてありませんでした」
私は冗談めかして付け足した。ルーピン先生は眩しそうに目を細めた。
「君は強いね」
「恋してますから!」
「うん。私が君の覚悟を見誤っていたみたいだ」
私たちは顔を見合わせて、どちらからともなく顔をほころばせた。
クリスマス休暇の前に行われたクィディッチの試合で、グリフィンドールはハッフルパフに負けてしまった。しかし、新学期すぐの試合でスリザリンがレイブンクローに勝ったことにより、グリフィンドールがレイブンクローを破れば二位に浮上することが決まったのだ。対レイブンクロー戦に向けてハリーは目に見えて忙しくしていた。私もスネイプ先生との課外授業の速度が二倍になったり、ハーマイオニーとバックビークの裁判の資料集めをしたり──
「もう二月だってのに、マクゴナガルはまだ箒を返してないのか?」
もちろん、人目を避けてシリウスへ食べ物を届けに行くのも欠かさなかった。今日は放課後のスネイプ先生との課外授業を終え、夕食を食べ終わったその足でハグリッドに資料を渡すついでに、禁じられた森に足を運んでいた。
「うん。でも試合は今週の土曜だから、もうそろそろ戻ってくるんじゃないかな」
「それにしても長いな……ううむ」
呪いなんかかかってるはずがないのに、と自分が指名手配されていることを棚に上げて文句を言っているシリウスは、どこからどう見ても犯罪者には見えなかった。いつの間に調達してきたのかボロボロで生地の色もわからなかったローブは新品のように滑らかになっていたし、杖を持っていないから杖なし呪文を練習しているのだと胸を張る姿にはどことなく気品があった。暇だったので自前でこしらえたという木のフォークとナイフを使って、今夜も私の持ってきたチキンとパイを優雅に食べていた。
そして今日の話題はと言えば、シリウスに協力しているクルックシャンクス──どうりで最近スキャバーズの飼い主であるロンを見ると私に視線を送ってくると思った──がネビルからくすねてきた合言葉がまとめられたメモのことだった。シリウスの計画では、まずクルックシャンクスにスキャバーズ改めペティグリューを城の外まで追い出してもらい、シリウスがもう一度侵入してグリフィンドールの男子寮を確認することで、ペティグリューが城内に戻れないようにしたいらしい。
ここまで一息で述べて、シリウスは申し訳なさそうに眉を下げた。黒い犬の姿ではなかったけれど、耳と尻尾が垂れ下がったのがはっきり見えた。
「……本当にこの計画で進めていいんだな?」
「何度も言ったけど、あなたのやりたいようにやって。ロンとハーマイオニー、それにハリーのことは心配いらないから」
肩を優しく叩くと、シリウスはキュッと眉を寄せた。このやり取りは今日だけで十回を超えていた。
シリウスはネズミや箒を巡ってロンとハーマイオニーの仲がこじれていることを気にしているのだ。私はシリウスがひとりでやりたいようにやるのが結果的に近道であるらしいと知っている。だって私がいなかった過去ではそれでうまくいっていたのだから。
ふと、頭の上に手が乗せられた。
「シリウス?」
「サチ、わたしは君のことも心配しているんだ」
スネイプ先生ともダンブルドア先生とも違う、なんだか懐かしくて優しい手だった。どうしてだろう。覚えてもいない両親がシリウスの透き通った瞳に重なって見えた。なぜか胸の奥にじんわりと温かいものが広がって、私はとっさに目を伏せてしまった。
「どうした?気分でも悪いのか?やっぱりスネイプの課外授業が負担になってるのか?」
私は慌てて首を横に振った。シリウスには、彼の嫌いなスネイプ先生の恋愛相談を一方的にしているので、少しでも私が疲れているようなそぶりを見せるとすぐにそれをつっついてくるのだ。
「違くて。その、なんだかシリウス、お父さんみたいだなって」
「お父さんみたい!?」
「ご、ごめん、変だよね……」
ちらっと様子をうかがうと、シリウスは目をまん丸にして私を見つめていた。色の白い頬にじわじわと赤みがさしていく様子に、私も顔を熱くさせながら目を離せないでいた。
「サチ」
「はい」
イエス、サーなんてまるで先生にするかのように返事をしてしまった。それもこれもシリウスが見たこともないほど嬉しそうに微笑んだからで。
「ありがとう。こんなに幸せなのはハリーが生まれたとき以来だ」
シリウスはゆっくりと、どこまでも柔らかく私の頭をなでてくれた。
「大げさじゃない?」
私はなんとか喉から絞り出した。シリウスの細められた目には、押し寄せる嬉しさを必死に隠そうと目を泳がせている私が映っている。
「大げさなものか。ハリーがいて、君がいて、こんなに喜ばしいことはない」
私がぐうの音も出せないのをいいことに、シリウスは消灯時間ギリギリまで頭をなでていた。
またもシリウスの得意げな笑顔を背中に、私は走ってホグワーツまで引き返した。城内はすっかり暗くなっていて、月明かりも届かないのか三歩先も見えなかった。
「ルーモス」
パッと杖先に光が灯る。しかしなぜか廊下の先は真っ暗なままだった。暗い、というより黒かった。
黒い?
まさか、と思ってゆっくり目線と杖先を上げた。
「……」
「……」
「ス……スネイプ先生……」
お化けと叫ばなかったことを褒めてほしかった。暗闇の中に血の気のない顔と手が、魔法の光に照らされていた。
「こんなところでどうしたんですか?」
慌てて口に出してすぐ、それはスネイプ先生が私に聞きたいだろうと思った。案の定先生は唇の端を歪めた。
「君こそ、こんな遅くになぜ寮に戻らずフラフラと出歩いていたのかね?」
「用事があったんです」
「ほう。禁じられた森にか」
シリウスに会う前にハグリッドを訪ねていてよかった。
突然のスネイプ先生との遭遇に早くなった鼓動を感じながら口を開こうとしたところで、スネイプ先生がぴくりと眉を動かした。
瞬きをした次の瞬間、冷たいものが頬をかすめた。
スネイプ先生の手だと理解する前に、私は杖先を下げていた。光が私の赤くなった顔を照らさないように。どうか夜の闇に私の想いが紛れることを一心に祈った。それが通じたのか、先生が杖に注意を向けたのは一瞬で、私の肩口についていたらしいものを鼻先に突き付けた。
「犬の毛のように見えるが」
「ハグリッドの犬と遊んだからです」
ファングが黒い犬で本当に幸運だった。
それが用事か、と先生は鼻を鳴らした。私はポケットから、ヒッポグリフの裁判の判例や引用した資料の書き連ねられた分厚いメモを取り出した。
「裁判の準備を手伝ってるんです」
ハグリッドいわく、裁判を担当する委員会はルシウス・マルフォイの息がかかっているそうなので、スネイプ先生はもしかすると私よりも内実を理解していたのかもしれない。一転して口を閉じ、粗を探すかのように私の頭からつま先に視線を往復させた。
「人目のない夕食後に、ミス・グレンジャーも連れずわざわざ一人でハグリッドの小屋に?まったく、諸君グリフィンドールの行動力には感服させられますな」
どうやらスネイプ先生は私とハーマイオニーが図書館とハグリッドの小屋に通って何をしているのかとっくに知っていたらしい。余計に耳が熱くなったのを誤魔化すように、私は手を握りしめた。
「それは……放課後は魔法薬学の課外授業がありました」
「小賢しく我輩に責任を押しつける脳はあるが、日を改めようという計画性はなかったという訳か」
意地悪くスネイプ先生は片頬を上げた。こんな顔でも笑ってもらえると嬉しいなんて、私はどんどんおかしくなっているような気がする。大きく跳ねた心臓を落ち着けるために、私は先生のつま先に目を落とした。
「すみません。先生のせいにするつもりは、」
「やましいことがないならば、なぜ我輩を見ないのだ?シラユキ」
あなたが好きだから。
しかしそんなこと口にできるはずがない。
「怒られて落ち込んでるからです」
「君は決まって、何かを隠したいときは目を逸らす」
スネイプ先生が一歩近づいた。私は顔を上げられない。
「我輩の開心術を恐れているが、校長にそうしないのはなぜだ」
「なぜ?な、なぜって──」
鎌をかけられたことは明らかで、ここで「開心術って?」なんてとぼけられたらよかった。黙っているなんて、普通の生徒が、それも今年編入の私が知りえないことを知っていると肯定したのと同じだ。スネイプ先生が生徒に見境なく開心術をかけるようなひとだとは思っていない。けれど、初対面で「生きてたんですか」なんて言ってしまった怪しい私に何もしないとは言い切れなかった。
「──なぜって、ダンブルドア先生は私の保護者ですから。いくら私がスネイプ先生を好……尊敬、してるからって、なんでも詮索されるのは嫌に決まってます」
口が滑りかけて、今度は別の意味で心臓が早鐘を打った。ここ何ヶ月かシリウスに気軽にスネイプ先生を好きだと話しているせいで、無意識に愛を告白するところだった。
そっとスネイプ先生の表情をうかがうと、釈然としなさそうに私を見ていた。なんとか話を逸らすことには成功したらしい。さっきまでの緊張感はすっかり消え失せていた。
「あの、そろそろ消灯だと思うので寮に戻っても……」
「とっくに消灯は過ぎた」
私たちは無言で顔を見合わせた。
「これはスネイプ先生に責任を押しつけていいと思います」
「君がそんなに減点をお望みだとは知りませんでしたな」
「減点が怖くて、あなたの研究室通いができますか?」
スネイプ先生の眉間に縦じわが増えた。
事実、スネイプ先生に難癖で減点されるのはなんとも思っていない。他の先生方、特にルーピン先生が課外授業での減点分をさりげなく加点してくれることもあり、寮のみんなに迷惑をかけずに済んでいるのも相まって、今年は全く減点を気にしていなかった。
さあ減点してくださいとばかりに微笑んだ私を前に、スネイプ先生は無言できびすを返した。
「我輩が寮まで送るが、その間に少しでも口を開いたら減点だ」
「はい!」
「グリフィンドール、一点減点」
寮の入り口、太った婦人の代わりを務めるカドガン卿の前で「おやすみなさい」と言ったことで、さらに一点引かれてしまった。
合言葉を唱えてから、夜の挨拶は礼儀だよね、とカドガン卿に文句を言ったら、地獄耳のスネイプ先生は素早く振り返り、私が寮にひっこむより早く三点目の減点を言い渡したのだった。
次の朝、枕もとで私が起きるのを待っていたらしいハーマイオニーが、わっと泣いて抱きついてきた。
「どうしたの?何かあった?」
なるべく優しく尋ねると、ハーマイオニーはもっと激しく泣き声を上げた。
私がシリウスに夕食を持って行った昨夜、ハリーがマクゴナガル先生からようやくファイアボルトを返してもらえて、談話室は大騒ぎだったらしい。そこまではいい知らせで、やっとロンもハーマイオニーに対して態度をやわらげた矢先だった。
スキャバーズは失踪し、ロンのベッドには血痕とクルックシャンクスのオレンジ色の毛が残されていた。
もちろんロンや他の寮生、ハリーまでもがクルックシャンクスがスキャバーズを食べてしまったと考えた。しかしハーマイオニーは彼女のペットを庇い、毛は彼女がクリスマスに猫を男子の寝室に連れて行った時に落ちたものかもしれないし、そもそもロンは彼女がクルックシャンクスを買った日に頭上を飛び跳ねられてずっと偏見を持っている、と主張した。
私がシリウスとクルックシャンクスが結託してスキャバーズを白から追い出そうと画策していると知っているのを抜きにしても、たしかに状況だけで考えればロンが怒ったのはもっともだと思った。けれど確固たる証拠がないのも事実で、問題はロンとハーマイオニーがここ最近お互いに向ける態度が強すぎたことだった。
クィディッチのレイブンクロー戦まで数日を二人の説得に費やしたが、どちらも言い分を曲げず、ロンに至っては「君はハーマイオニーの味方じゃないか」とまともに取り合ってすらくれなかった。こうなっては解決の糸口すら掴めない。
ハリーは守護霊の呪文を試合前日に私と確認したそうだったが、ハリーはロンに、私はハーマイオニーにひっぱられてしまったので叶わなかった。
そして迎えた試合当日、私はハーマイオニーと一緒に競技場に行った。司会のリー・ジョーダン──フレッドとジョージの親友──の解説は前回よりも増して気合いが入っており、さっそくファイアボルトの説明をしてはマクゴナガル先生に怒鳴られていた。
「ジョーダン!いつからファイアボルトの宣伝係に雇われたのですか!?まじめに実況を続けなさい!」
試合はグリフィンドールがリードを守っていたが、徐々にレイブンクローが押し返し、八十対三十に持ち込まれていた。
みんながスニッチを追い始めたシーカーのハリーとチョウ・チャンに注目している中、ロンが近くにいないので箒の動きを捉えづらかった私は、眼下に黒い布が蠢いたのに目を取られた。
頭巾をかぶった三つの背の高い黒い姿が、並んでハリーを見上げていた。
けれど、独特な寒気は感じない。よく見ると、頭巾の中からプラチナブロンドが見え隠れしている。ああ、スリザリンの、と思う間もなく、ハリーがユニフォームの懐から杖を抜いた。
「エクスペクト・パトローナム!守護霊よ来たれ!」
白銀の守護霊は、私の牝鹿の対である牡鹿の形をしていた。
脳裏によみがえったのは、ハリーの見せてくれた忍びの地図。四人のいたずら仕掛人──ムーニー、ワームテール、パッドフット、そして──プロングズ。これがそれぞれの動物もどきか守護霊を意味しているとするならば。満月で現れる狼はルーピン先生で、イモムシのような尾のネズミはもちろんペティグリュー、パッドフットと名乗った黒い犬、最後に残るはプロングズ。鹿の角の尖った先を意味するその言葉。
フーチ先生のホイッスルが大歓声と共に競技場に鳴り響いた。ハリーがスニッチを取ったのだ。興奮冷めやらぬままロンに遠慮して足早に競技場から離れるハーマイオニーに断って、ピッチに降りた私はチームメイトやロンとハイタッチするハリーを見つめていた。
「立派な守護霊だったよ」
「サチ!ルーピン先生!」
ハリーの視線を追って隣を見上げると、ルーピン先生が混乱と嬉しさの入り混じったような顔をして立っていた。
「吸魂鬼の影響はまったくありませんでした!僕、平気でした!」
「それは、実はあいつらは──ウム──吸魂鬼じゃなかったんだ」
そう言ってルーピン先生はハリーを人垣から連れ出した。ドラコ・マルフォイと大柄な取り巻き、それにスリザリン・チームのキャプテンであるマーカス・フリントがマクゴナガル先生に激怒されている。ロンとハリーはその光景にお腹を抱えて笑い、私に嬉しそうに手を振って、ユニフォームを着た選手たちと城への道を歩き出した。
「どうして私の守護霊は牝鹿なんですか」
その背中を見送りながら、私は傍に立っているルーピン先生を見上げた。
「ルーピン先生、教えてください」
競技場のざわめきを薄い膜一枚隔てた内側に、不思議なくらい静かな声が響いた。自分がどんな顔をしているのかわからなかったが、ルーピン先生はとても痛そうだった。
「ハリーの両親の守護霊は、お互いが対の鹿ですね」
「ああ、そうだよ」
「スネイプ先生は──」
私は言葉を切った。ルーピン先生の後方に位置する競技場の職員用観戦席で、マクゴナガル先生と話しているスネイプ先生と視線が交差したような気がした。
やっと腑に落ちた。
失われた過去を、あのひとは──スネイプ先生は。
「愛しているんですね」
どうしようもないほどに。それで、最期まで愛する人の忘れ形見を守り通した、と。
許せるはずがない。
あのひとが彼女を、彼女の遺した宝物を命に代えて守ったように、私もあのひとを守りたかった。あのひとは自覚のない私の想いを、もしかするとわかっていたかもしれないけど、それだけでは決して止まらなかった。一人で何もかも抱えて、全てをベールの向こうへ持って行ってしまったのだ。
献身。それがスネイプ先生の愛し方なら、私はそれをさせたくない。
叶わなくてもよかった。想っていられるだけでよかった。恋を自覚できただけで、この気持ちに応えてもらおうだなんて思っていなかった。たった今、この時までは。それだけではダメなのだ。
「振り向かせます」
自然と口が弧を描いた。
スネイプ先生の愛が、死にさえ捧ぐ形をしているのなら。
「私が、生きる理由になる」
どうやって助かる気のないひとを救うのか、道が開けた。さっきまで遠くで聞こえていたざわめきが、いの一番に耳に飛び込んだ。競技場の芝生が、冬の澄んだ空が、何もかもがずっと美しく見える。
「見届け人をお願いしますね、ルーピン先生!」
これは願いだった。決戦で死んでしまう運命のルーピン先生、そしてトンクスに生きてもらうための。ルーピン先生は、まず目を見張った。そしてゆっくり、照れくさそうに微笑んだ。
「私でいいのかい?」
「あなたがいいんです。ルーピン先生だったから、私は宣言したんです」
「おーい!サチ、早く!」
遠くからフレッドの声が聞こえた。先に行ったと思ったら、双子は道の途中で立ち止まって、私とルーピン先生が話終わるのを待ってくれていたらしい。
「談話室でパーティだ!」
「すぐに始まるぜ!」
「くいっぱぐれちまうぞ!」
フレッドとジョージが待ちきれないとばかりに口々に叫んだ。ルーピン先生はそっと私の背中を押した。
「行っておいで、サチ。またいつでも話そう」
「はい!──ありがとう!今行く!」
ルーピン先生に手を振って、私は双子のそばまで走った。
わざわざ待たなくてよかったのに、と言うと、二人はニヤリと笑って、談話室ではなく四階の廊下にある、隻眼の魔女の石像へと向かった。クリスマスの前最後のホグズミード行きの日、彼らから地図を譲られたハリーと通った場所だった。
「今からハニーデュークスに行くの?」
そう聞いた私に、双子は大げさに肩をすくめたり額に手を当ててみたりした。
「そんな!編入生殿の最初の規則やぶりはぜひ俺たちに任せてもらいたかったのに!」
「まだ一年も経ってないんだぜ!ハリーたちとすっかり親友じゃないか!」」
「俺たちは入学初日に廊下で花火を上げてニ十点も減点されたけど」
「サチ、君は思ったよりいたずらっ子なんだな」
矢継ぎ早に双子は話しながら、器用に呪文を唱えて、像の後ろから始まる石の滑り台を下った。
「お忘れかもしれないけど、私ってグリフィンドール生なんだ」
これに二人は大喜びだった。
ハニーデュークスで大量のお菓子と、それから三本の箒でバタービールの瓶を両手いっぱいに抱えて石の滑り台を慎重に登るときも、まだヒーヒー笑っていた。私も二人の飛ばす冗談がおもしろくてずっと笑うのを我慢できなかった。試合を見ただけなのに、カドガン卿に合言葉を言う時までに腹筋が六回も攣っていた。おそらく明日は筋肉痛だと思う。
談話室のパーティで昼食兼夕食を食べ終わる頃には、外は真っ暗になっていた。ハーマイオニーはただ一人祝宴に参加せず、私の座る横でマグル学の宿題をしていた。しばらくするとハリーがやって来て、私とちらっと目を合わせた。
「ハーマイオニー、こっちへ来て何か食べない?」
「大丈夫よ、ハリー。サチがさっき分けてくれたもの。それにこれ、あと四百ページも読まないといけないの!」
ハリーは「何で食べさせちゃったの!?」と小声で叫んだ。だって食べないと集中力がもたないし、そもそも健康に悪い。ヒソヒソと応酬し合う私たちをしり目に、ハーマイオニーはロンをちらりと見た。
「どっちにしろ……あの人が私に来てほしくないでしょ」
ロンはなんだかんだやはりハーマイオニーが気になっていたらしい。すぐさま聞こえよがしに声を上げたのだ。
「スキャバーズが食われちゃってなければなぁ。ハエ型ヌガーがもらえたのに。あいつ、これが好物だった──」
私かハリーが何か言う前に、ハーマイオニーはすすり泣きながら女子寮への階段を上って行ってしまった。
もう許してあげたら、とハリーが言ったものの、ロンは「だめだ」ときっぱり断った。
「あいつがごめんねっていう態度ならいいよ。──でもあいつ、自分が悪いって絶対認めないだろうよ。あいつったら、スキャバーズが休暇でいなくなったみたいな、未だにそういう態度なんだ」
「ロン、それ本気で言っているの?」
私は席を立った。
「彼女があなたのペットのことでなんとも思ってないって、本当にそう思うの?」
「実際そうじゃないか!ハーマイオニーはあの猫が悪いってちっとも認めやしないんだ」
「それはあなたがスキャバーズを大事に思うのと同じ理由だよ」
身の回りの自分の荷物をまとめて、私も階段に向かった。
「私がハーマイオニーと仲良くなったのはあなたよりずっと遅いけど、彼女がそんな人じゃないって、きっと誰よりも知ってる」
ちょっと言い過ぎたかな、とも思ったけれど、このくらい言わないと、ロンもハーマイオニーも一向に妥協できそうになかった。寝室では、ハーマイオニーが泣きながらマグル学の教科書をめくっていた。夜の一時になってラベンダーやパーバティが談話室から上がってくるまで、私とハーマイオニーは一緒に宿題やハグリッドに渡すメモ作りを続けた。
「あああああああああああアアアアアァァァァァっっッッッ!やめてええええぇぇぇぇぇぇ!」
ロンの耳をつんざくような悲鳴が女子の寝室にまで響き渡った真夜中、私はずっと起きていた。今日、シリウスがグリフィンドール塔に侵入して、スキャバーズに扮するペティグリューを完全に城から追い出すという計画だったのだ。この感じだとかなりしっかりとネズミを探したけれど見つからず、とうとうロンが目覚めてしまったというところだろうか。
計画が順調らしいことに誰にもばれないように胸をなでおろし、ロンの叫び声に飛び起きたハーマイオニーにひっぱられて談話室に続く階段を下りた。状況を把握したいパーシーや眠い目をこする寮生たちの声で、談話室はすぐに騒がしくなった。
「パース──シリウス・ブラックだ!」
ロンの声で、談話室は静まり返った。
「僕たちの寝室に!ナイフを持って!僕、起こされた!」
「ナンセンス!」
静寂の中、パーシーが一喝した。悪い夢だと片づけようとするパーシーに、ロンがなおも言い募っていると、ガウンを羽織ったマクゴナガル先生が肖像画の扉を荒々しく開けて入ってきた。
はしゃぎすぎだと怖い顔で叱るマクゴナガル先生に、ロンはもう一度シリウス・ブラックがナイフを持って立っていたと訴えた。
「ウィーズリー、冗談はおよしなさい。肖像画の穴をどうやって通過できたというんです?」
「あの人に、あの人が見たかどうか聞いてください!」
ロンはカドガン卿を振るえる指で指差した。
マクゴナガル先生は疑わしそうに睨んではいたが、肖像画を裏から押して外に出て行った。私以外の全員が、息を殺して耳をそばだてている。先生が今さっき男を一人通したか、と聞くと、「通しましたぞ!」とカドガン卿は威勢よく叫んだ。
「と──通した?あ──合言葉は!」
「持っておりましたぞ、ご婦人!」
談話室の内と外に愕然とした沈黙が満ちていた。しかしカドガン卿は気にもせず、むしろどこか誇らしげだった。
「一週間分全部持っておりました。小さな紙きれを読み上げておりました!」
だとしても普通、指名手配されている男を通そうなんて思わないだろう。それも、寮生であり生き残った子であるハリーを狙う死喰い人だとされている殺人者を。肖像画がカドガン卿に変わることを、太った婦人を襲撃した時からシリウスは予測していたのだろうか。ダンブルドア先生が門番としては平等すぎる絵を掛けると、そう確信していたのだろうか。
「誰ですか」
私がそんなことを眠気の覚めない頭で考えていると、マクゴナガル先生の必死に怒りを押し殺した震え声が談話室を打った。いつの間にか寮の中に先生は戻って来ていて、血の気の引いた顔でみんなを見回している。
「今週の合言葉を書き出して、その辺に放っておいた底抜けの愚か者は、誰です?」
「ヒッ」
ふわふわのパジャマとスリッパに包まれたネビルが、ガタガタ震えながら小さく手を挙げていた。