アズカバンの囚人編
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そこは寝室だった。埃にまみれたカーテンの揺れる大きな四本柱の天蓋ベッドに、クルックシャンクスが優雅に寝そべっている。その脇の床には片足があらぬ方向に曲がってしまったロンが座っていた。
「ロン──大丈夫?」
「犬はどこ?」
ハリーとハーマイオニーがロンに駆け寄った。私は一歩下がって、ポケットの中の鳥かごを握りしめていた。
「犬じゃない。ハリー、罠だ──」
ロンが痛みで脂汗をかきながら声を絞り出した。
「え──?」
「あいつが犬なんだ……あいつは“動物もどき”なんだ……」
ロンはハリーの肩越しに、私の後方を睨みつけた。ハリーとハーマイオニーの視線を追って振り返ると、ドアの影に隠れるようにシリウスが立っていた。そのままドアを素早く閉めると、ハリーがもう一度杖を上げる前に、ロンの杖を二人に向けた。
「エクスペリアームス!武器よ去れ!」
ハリーとハーマイオニーの杖が宙を飛んで、シリウスの手に収まった。
「君ならともを助けにくると思った」
みすぼらしい部屋に似つかわしくない、朗々とした声が響く。
「君は勇敢だ。先生の助けを求めなかった。ありがたい……そのほうがずっと事は楽だ」
ハリーを寂しさと嬉しさのないまぜになった瞳で見つめていたシリウスは、視線に気がついたのか、ふと瞬きをして私の手元を見下ろした。
「君は持っていてかまわない」
「シリウス、でも」
その瞬間、三人の視線が私に突き刺さるのがわかった。ずっと黙っていたのだから仕方ないとはいえ、裏切り者を見るように見られるのは心苦しい。
次の瞬間、ハリーが私とシリウスに跳びかかろうと身を乗り出した。私は思わずシリウスの前に出て、ロンとハーマイオニーはハリーの両脇をつかんで引き戻した。
「ハリー、だめ!」
ハーマイオニーは救いを求めるように私とハリーの間で目を行き来させた。
「サチ、どうして……」
「ハリーを殺したいのなら、僕たちも殺すことになるぞ!」
「ロン、座って」
私が努めて穏やかに言うと、ロンはますます顔から血の気を引かせた。
「そうでなくても、足の怪我がひどいんだから」
「サチ、君はどういうつもりなんだ?」
ハリーの声は今まで聞いたこともないくらい硬かった。
「わかってるのか?そいつはペティグリューを殺るために、たくさんのマグルを無残に殺したんだ。君の父親のことを殺した死喰い人の仲間なんだ」
「ハリー」
私はこうなるとわかっていながら、ハリーの口からシリウスの悪口を聞くのが堪えられなかった。しかしハリーは止まらない。
「こいつが僕の父さんと母さんを殺したんだ!」
「違う!」
ハリーがロンとハーマイオニーの手を振り解き、シリウスに向かって拳を振り上げた。シリウスより私が動く方が早かった。ハリーの拳が頬に当たって、口の中にじんわりと鉄の味が広がった。ハーマイオニーがヒッと息を呑んだのが遅れて耳に届いた。
ハリーは怒りでほとんど我を忘れていた。目の前にいるのが私なのかシリウスなのかもよくわかっていないようで、無茶苦茶に振り回される腕を、私は必死で押しとどめた。
「話を聞いて、ハリー!」
「邪魔するなよ!」
「やめないか!サチ──」
私とハリーを引き離そうとしたシリウスに、ハーマイオニーが蹴りを入れるのが見えた。よろけた彼にロンが体当たりし、バラバラと落ちた杖を二人は素早く拾って、ハリーも私の手を振り払い、三人は天蓋ベッドの方へ下がった。
私はすっかり満身創痍だった。ロンも足を動かしたせいで蒼白になっていて、ハーマイオニーも唇を切って、ハリーの頬にはクルックシャンクスの爪痕が残っていた。無傷なのはシリウスくらいで、後ろを振り返る間もなく、今度は彼の後ろにひっぱりこまれた。
「ハリー、わたしを殺すのか?」
私を後ろ手にかばいながら、シリウスが静かに言った。ハリーは杖先をシリウスの心臓に突きつけている。
「おまえは僕の両親を殺した」
「否定はしない。しかし、君が全てを知ったら──」
「全て?」
ハリーは吐き捨てた。
「おまえは僕の両親をヴォルデモートに売った。それだけ知ればたくさんだ!」
「聞かないと、君は後悔するぞ」
「おまえが思っているより、僕はたくさん知っている」
あくまで諭すように話すシリウスとは対照的に、ハリーの目には激情が燃えていた。私はシリウスの腕を振り切って、もう一度二人の間に入った。ハリーは動揺したように杖先を逸らした。
「あなたが思ってるより、私だって知ってる」
「サチ、下がっていてくれないか」
「聞かない。このままだと全然話が進まないもの」
痛いほどの沈黙の中、ハーマイオニーがしゃくり上げるのが聞こえた。
「ふ、服従の呪文でしょう?あ、あなたが、その男の、み、味方をするなんて──」
「ハーマイオニー、シリウスは間違ってもそんなことしないよ」
ハリーは凍りついたように立ち尽くしていた。そうすればいいのか途方に暮れているようだった。私もどうすればいいのかわからなかった。
突然、階下から誰かが上がってくるのが聞こえた。
「ここよ!」
ハーマイオニーが叫んだ。
「上にいるわ──シリウス・ブラックよ──早く!」
ドアが勢いよく開いて、飛び込んできたのは蒼白な顔で杖をかまえるルーピン先生だった。まず床に横たわるロンを見て、涙目のハーマイオニーを見、シリウスを守るように立つ私と、杖を向けているハリーを最後に見つめた。
「エクスペリアームス!武器よ去れ!」
またしてもハリー、ロン、そしてハーマイオニーの杖が飛び、ルーピン先生の手の中に収まった。三人は先生の登場にどこか安心したように肩から力を抜いたけれど、
「シリウス、あいつはどこだ?」
と言ったのを聞いて、再び顔を強ばらせた。私とシリウスはロンのポケットを見た。さっきよりも震えているが、まだ確かにそこにいる。ロンは当惑しているようだった。
「ルーピン先生、入れ替わってるんです」
ハリーから目をそらさずに言った。ハリーたちは何が何だかわからないといった様子だった。しかしルーピン先生が杖を下ろし、シリウスのほうに歩いて兄弟のように抱きしめたのを見て、絶望にも似た表情を浮かべた。
「何てことなの!」
ハーマイオニーが叫び、ルーピン先生を指差した。シリウスはまた私をひっつかんで、自分の後ろに隠した。今度は前に出られないように腕をしっかりとつかんでいる。
「先生は──その人とグルなんだわ!」
「ハーマイオニー、落ち着きなさい──」
「私、サチだって、誰にも言わなかったのに!」
ハーマイオニーは私が服従の呪文をかけられているとまだ信じているようだった。たしかに逆の立場だったらと考えると、それを否定するのは難しい。
「僕は先生を信じてたのに、先生はずっとブラックの友達だったんだ!」
「それは違う」
怒りに震えるハリーを、ルーピン先生は短く否定した。
「この十二年間、私はシリウスの友ではなかった。しかし、いまはそうだ……説明させてくれ……」
「だめよ!」
ハーマイオニーがもう一度叫んだ。
「ハリー、だまされないで。この人はブラックが城に入る手引きをしてたのよ。この人もあなたの死を願ってるんだわ。──この人、狼人間なのよ!」
「ルーピン先生が狼人間であることは、これっぽっちも関係ない!」
シリウスの手を思いっきり振り払って、私はもう一度前に出た。口を開くたびに鋭い痛みが頬にはしる。
「先生は城に入る手引きなんてしてないし、ハリーの死なんて願うわけない」
ハリーを守るための戦いで、この優しい人は命を落としたんだ。
ぐっと唇をかんで、私はルーピン先生を振り向いた。先生の瞳は相変わらず柔らかかった。ゆっくりと瞬いて、いつごろから気づいていたのかとハーマイオニーに聞いた。スネイプ先生のレポートを書いたときから、とハーマイオニーは囁くように答えた。
「スネイプ先生がお喜びだろう」
ハリーたちからの非難のこもった視線を浴びて、それでもルーピン先生は落ち着いていた。
「スネイプ先生は、私の症状が何を意味するのか、誰か気づいてほしいと思って、あの宿題を出したんだ……ハーマイオニー、君は、私が今までに出会った、君と同年齢の魔女の誰よりも賢いね」
「違うわ」
無理やり微笑んだルーピン先生に、ハーマイオニーは小声で反論した。
「私がもう少し賢かったら、みんなにあなたのことを話してたわ!」
「しかし、もう、みんな知ってることだ。少なくとも先生方は知っている」
「ダンブルドアは、狼人間と知っていて雇ったっていうのか?」
ロンが折れた足を抱えながら顔をしかめた。
「正気かよ?」
「ダンブルドアは、私が信用できる者だと、何人かの先生を説得するのにずいぶんご苦労なさった」
きっとスネイプ先生だろう、と私とシリウスの目が合う。
「そして、ダンブルドアは間違ってたんだ!」
今度はハリーがシリウスを指差して叫んだ。
「先生はずっとこいつの手引きをしてたんだ!」
「私はシリウスの手引きはしていない」
ルーピン先生が強調した。そして訳を説明させてほしいとハリーたちに杖を返した。そして自分の杖をベルトに挟んだので、私も鳥かごの入っているのと反対側のポケットに杖をしまった。
それから、ルーピン先生はハリーの質問に答える形で口早に説明を始めた。先日ハリーから回収した忍びの地図を使って、私たちがハグリッドを訪ねるのを見張っていたのだという。そしてハグリッドのところを離れて城を目指す私たちを見て、死んでいたはずの人物の名前が現れたのに気がついた。そうこうしているうちにシリウスが私たちとぶつかり、ロンとそのもう一人を暴れ柳に引きずり込むのを目撃した。
言い切って、ルーピン先生はロンに近づいた。
「ネズミを見せてくれないか?」
ロンはためらったが、必死に逃げようと暴れるネズミをポケットから引っ張り出し、抱きしめた。
「僕のネズミがいったい何の関係があるって言うんだ?」
「それはネズミじゃない」
シリウスが一歩前に出て、私の横に並んだ。
「どういうこと──こいつはもちろんネズミだよ──」
「ロン、それはネズミじゃない。魔法使いなの」
私が口を開くと、シリウスが「“動物もどき”だ」と後を引き取った。
「名前はピーター・ペティグリュー」
三人はもちろん「どうかしてる」と言った。ロンはますます腕の中のスキャバーズを強く握った。ハーマイオニーは震えながらも冷静を保とうとしていた。黙って成り行きを見守る私に何か思うところがあったのかもしれない。スキャバーズがペティグリューのはずがない、ピーター・ペティグリューが動物もどきなら魔法省に登録されているはずだ、と授業中に挙手をした時のようにはっきりと述べていた。正解だ、とルーピン先生は笑って、しかし、ペティグリューを含むジェームズ・ポッターとシリウスが未登録の動物もどきであることを誰も知らなかったのだ、と言った。
ルーピン先生はさかのぼって、自分が人狼になった時のことから説明を再開した。
小さい頃に噛まれてから、ずっと人狼として生きていること、脱狼薬を飲めば変身しても自分の心を保てること、最近開発されるまで、月に一度は怪物に変身していたこと。
そして、これは私も知らなかったのだが、暴れ柳はルーピン先生の入学と同時に彼のために植えられたらしい。
一ヶ月に一度先生はここを通り、満月の夜は叫びの屋敷で過ごしていた。この時の叫びや騒ぎを聞いて、ホグズミードの村では霊の声だと噂が広まり、人を近づけないためにダンブルドア先生がそれを煽った。ルーピン先生が卒業して叫び声が聞こえなくなった今でも、村人は決して近づこうとしない。
話はルーピン先生とその親友に戻る。月に一回、それも満月の周期に合わせて学校を休む先生の正体に、仲の良かったジェームズ・ポッター、シリウス、ペティグリューが気がつかないはずがない。三人は練習を重ねて、狼に変身したルーピン先生のそばにいられるように動物もどきになったのだ。それからの夜は叫びの屋敷を抜け出し、校庭や村を歩き回るようになった。こうして学校の隅々まで探検しつくし、作り上げたのが“忍びの地図”だった。
「もちろん、ダンブルドアの信頼を裏切っているという罪悪感を、私は時折感じていた」
ルーピン先生の声には自己嫌悪が込められていた。
この一年、先生はシリウスが動物もどきだとダンブルドア先生に告げるかどうか、ずっと迷っていたのだと言った。
「私はシリウスが学校に入り込むのに、ヴォルデモートから学んだ闇の魔術を使っているに違いないと思いたかったし、動物もどきであることは、それとは何のかかわりもないと自分に言い聞かせた。……だからある意味では、セブルスの言うことが正しかったわけだ」
シリウスがちらりとこっちを見たけれど、私は目を合わさなかった。
ルーピン先生が続いて説明したのは、彼がスネイプ先生を殺しかけてしまったという事件の詳細だった。
「セブルスは、私が月に一度どこに行くのか非常に興味を持った」
いつしかハリーたちも、すっかり話に引き込まれていた。
「私たちは同学年で──つまり──お互いに好きになれなくてね。セブルスは特にジェームズを嫌っていた」
スネイプ先生はある晩、マダム・ポンフリーに引率されて暴れ柳に向かうルーピン先生を見かけた。そしてシリウスは、木の幹のコブをつつけば後を追えると教えて、スネイプ先生はそれを試した。このことを知ったジェームズ・ポッターは、スネイプ先生を追いかけて引き戻したのだそう。結果的にスネイプ先生の命は助かったが、ルーピン先生の正体を見てしまい、ダンブルドア先生に口止めをされた。
私はシリウスを好きだけど、学生時代の行為はどうしても好きになれない。スネイプ先生が闇の魔術に没頭して、それを他の生徒に使っていたことも嫌いだし、この人たちの学生時代はちょっと荒みすぎているような気がする。
「だからスネイプはあなたが嫌いなんだ」
ハリーが考えながら口を開いた。
「スネイプはあなたもその悪ふざけにかかわっていたと思ったわけですね?」
「そのとおり」
冷たい声だった。
透明マントを脱ぎ捨てて、杖をルーピン先生に向けて、スネイプ先生が立っていた。なるほど、あそこで落とした透明マントはここで使われるためのものだったのか。拾わないでおいて正解だった。
「ポッター、なかなか役に立ったよ、感謝する……」
スネイプ先生は息切れしていて、目だけが異様に輝いていた。
「君の部屋に行ったよ、ルーピン。今夜、例の薬を飲むのを忘れたようだから、我輩がゴブレットに入れて持っていった。持っていったのは、まことに幸運だった……我輩にとってだがね」
スネイプ先生はそのまま忍びの地図を見つけたことを柔らかく話したが、私は別のことが気になった。打ち付けられた板の隙間から見える外は真っ暗で、夕方はうっすらとしか見えなかった満月は、今空高く輝いているだろう。しかし、スネイプ先生は脱狼薬を持っていない。ひょっとしてルーピン先生の事務室に置いてきてしまったのではないだろうか。
「今夜、また二人、アズカバン行きが出る」
スネイプ先生の言葉にハッとして、私は意識を叫びの屋敷に戻した。
「ダンブルドアがどう思うか、見物ですな……ダンブルドアは君が無害だと信じきっていた。わかるだろうね、ルーピン……飼いならされた人狼さん……」
「学生時代の恨みで、無実の者をまたアズカバンに送り返すというのかい?」
破裂音と共に、スネイプ先生の杖から出てきた細い紐が、ルーピン先生の口、手首、足首に巻きついて、そのまま床に倒れてしまった。そして、流れるようにスネイプ先生は杖の先をシリウスの眉間に突きつけた。
「我輩にきっかけさえくれれば、確実に仕留めてやる」
「スネイプ先生」
スネイプ先生は悔しげに歯噛みするシリウスの隣に立つ、私を見た。ハリーたちは何を信じたらいいのかわからないようで、黙って私をうかがっている。
「スネイプ先生、今を逃したら、あなたは絶対に後悔します」
「ミス・シラユキ、君が今年の編入だったのはこういう訳があったからか?ハグリッドのペットの毛などと──この、噓つきめ」
心臓が握りつぶされたみたいだった。
スネイプ先生は底の見えない瞳をギラつかせている。
「ポッターも、ウィーズリーも、ミス・グレンジャーも、許容されている境界線を越えた。しかもお尋ね者の殺人鬼や人狼と一緒とは。君も──」
「スネイプ。これ以上この子に何か言うつもりならわたしは──」
「黙れ、今すぐその薄汚い口を閉じろ!」
スネイプ先生は鋭くシリウスに向かって叫んだ。
「復讐は蜜より甘い」
今度は低く声を落とし、憎悪のこもった笑みをのぞかせた。
「おまえを捕まえるのが我輩であったらと、どんなに願ったことか……」
「お生憎だな」
シリウスはスネイプ先生に負けず劣らずの形相で吐き捨てた。
「しかしだ、この子がそのネズミを城まで連れていくなら──それならわたしはおとなしくついて行くがね……」
顎でロンを示したシリウスに、スネイプ先生は取り合わなかった。
「そんなに遠くに行く必要はないだろう。我輩が吸魂鬼を呼べばそれですむ。連中は、ブラック、君を見てお喜びになることだろう。……喜びのあまりキスをする──」
「スネイプ先生、聞いてください」
私はもう一度言った。
「城への手引きをしたというなら、むしろ、私を突き出してください。シリウスに何度も会いました。彼がこんなに健康なのは私が食べ物をあげて──」
「サチ!」
シリウスが口をふさごうとしたのをかわして、私はスネイプ先生の怒りで充血している瞳を見上げた。
「ルーピン先生は今年、ハリーに守護霊の呪文を教えました。先生が敵なのだとしたら、個人授業の時になんだってできたはずです」
「人狼がどんな考え方をするのか、我輩に推し量れとでも言うのか」
すると驚いたことに、ハリーが扉の前に立ちふさがった。
「学生時代に、からかわれたというだけで、話も聞かないなんて──」
「蛙の子は蛙だな、ポッター!」
少し落ち着いたように見えたのは一瞬で、スネイプ先生は再び激昂した。
「──さあ、どくんだ。さもないと、どかせてやる。どくんだ、ポッター!」
ハリーが杖をかまえた。私も慌ててポケットから杖を抜いた。
「エクスペリアームス!武器よ去れ!」
「アレスト・モメンタム!」
ハリーだけでなく、ロンとハーマイオニーも同時に武装解除を唱えた。スネイプ先生は足元から吹っ飛んで壁に激突し、私の叫んだクッション魔法は衝撃を吸収しきれなかった。頭からは少し血が流れていて、なんとか意識を保とうと瞬きを繰り返している。スネイプ先生の杖は高々と舞い上がってベッドに落ちたので、私はそれを拾って起き上がれない先生の元へ駆け寄った。
「話が終わったら解きます。本当にごめんなさい──シレンシオ!」
私に何か言おうとした先生の口からは、もう何も聞こえなかった。
「先生を攻撃してしまった……先生を攻撃して……」
ハーマイオニーは荒い呼吸をしているスネイプ先生を怯えた目で見つめていた。シリウスは素早くルーピン先生の縄目を解き、間もなくルーピン先生はよろめきながら立ち上がった。
「ハリー、ありがとう」
「僕、まだあなたを信じるとは言ってません」
「それでは、君に証拠を見せる時がきたようだ」
シリウスが鷹揚に言って、ロンにネズミを渡すよう向き直った。ロンは弱々しく首を横に振って、このために脱獄をしたのか、と助けを求めるように私とハリー、そしてハーマイオニーを交互に見た。
シリウスはローブのポケットから日刊預言者新聞の切り抜きを──ロンとその家族の写真を見せた。ロンの肩に乗ったスキャバーズを指差して、「指が一本ない」と続ける。
「あいつを追いつめた時、あいつは道行く人全員に聞こえるように叫んだ。わたしがジェームズとリリーを裏切ったんだと。それから、わたしがやつに呪いをかけるより先に、やつは隠し持った杖で道路を吹き飛ばし、周りの人間を皆殺しにした」
そして素早く、ネズミのたくさんいる下水道に逃げ込んだ。
私は起き上がろうとしたスネイプ先生の肩を押しとどめた。まだ頭がクラクラして立つのが辛いはずだ。
ルーピン先生はロンに聞いた。ペティグリューの残骸で一番大きいものは指だったと聞いたことがあるか。どうして十年以上も長生きしているのか。シリウスが脱獄してから、こんなふうにやせ衰えてしまったのではないか。
「こいつは、その狂った猫が怖いんだ!」
「ロン、違うよ。スキャバーズはダイアゴン横丁に来た時にはすでにこの状態だった……ハリー、そう教えてくれたよね」
ハリーはびっくりしたように私を見て、小さく頷いた。シリウスもクルックシャンクスのことをとても賢い猫だと目を細めた。
「わたしのためにグリフィンドール塔への合言葉を盗み出してくれた……誰か男の子のベッド脇の小机から持ってきたらしい」
ネビルのメモのことだ。
「ピーターは事の成り行きを察知して、逃げ出した。この猫は──クルックシャンクスという名だね?──ピーターがベッドのシーツに血の痕を残していったと教えてくれた。……たぶん自分で自分を嚙んだのだろう……死んだと見せかけるのは、前にも一度うまくやったのだし」
「それじゃ、なぜピーターは自分が死んだと見せかけたんだ?おまえが僕の両親を殺したと同じように、自分も殺そうとしていると気づいたからじゃないか!」
「違う、ハリー」
語気を荒くしてシリウスに迫ったハリーを、ルーピン先生が止めた。
「わからないのか?私たちはずっと、シリウスが君のご両親を裏切ったと思っていた。ピーターがシリウスを追いつめたと思っていた」
それは逆だった。
スネイプ先生はゾッとするほど血の気のない顔でルーピン先生を睨んでいた。
「嘘だ!」
ハリーは叫んだ。
「ブラックが秘密の守り人だった!ブラック自身があなたが来る前にそう言ったんだ。こいつは、自分が僕の両親を殺したと言ったんだ!」
「ハリー、わたしが殺したも同然だ」
ハリーに指を差されて、シリウスは苦しそうに顔を歪めた。
最後の最後に、ハリーの両親にペティグリューを守り人にするように勧めた。ペティグリューの無事を確かめに隠れ家に行くと、そこはもぬけの殻で、争った跡もまるでなかった。不吉な予感に背中を押されてハリーの両親の家に行くと、家は半壊し、二人の息はすでになかった。
「話はもう十分だ」
ルーピン先生は鋭く言った。
「本当は何が怒ったのか、証明する道は唯一つだ。ロン、そのネズミをよこしなさい」
「こいつを渡したら、何をするんだ?」
「無理にでも正体を現させる。本当のネズミなら、これで傷つくことはない」
ロンはためらって、それでもとうとうスキャバーズを差し出した。ネズミは狂ったように暴れている。私はポケットから銀色のかごを取り出して、ルーピン先生を呼んだ。
「使ってください」
「これは……」
「この夏、住むところに困るのはごめんですから」
シリウスの無罪をなんとしても証明する。そうすればハリーが親戚の家を出られるかもしれないし、私は休暇中に帰る家ができるのだ。シリウスを見上げると、嬉しそうに頷いてくれていた。
「シリウスは私の杖を使って。もう今さらだし」
「そうさせてもらおう」
今度こそ、シリウスは杖を受け取った。そしてネズミを銀色の鳥かごに入れて、ルーピン先生と一緒に杖を向けた。
「三つ数えたらだ。いち──に──さん!」
青白い閃光がほとばしる。ネズミの入った鳥かごは宙に浮き、ぴたりと静止した──かと思いきや、ネズミの姿が激しくよじれ、かごごと床に落っこちた。もう一度、思わず目を閉じてしまうほどの眩しい光が広がった。
かごは中にいるネズミがペティグリューに戻るのに合わせて、どんどん大きくなっていった。
小柄な男だった。ハリーやハーマイオニーとそこまで変わらない。太っていた男が急激に体重を落としたような奇妙な体型で、ネズミのように小さく鼻を動かしていて、小さな黒い目はせわしなく周囲を見回していた。ピーター・ペティグリューに会うのは初めてだったけれど、あまり想像と違わない容姿だったので、驚きは少なかった。私よりも横のスネイプ先生の方が瞳孔を開いていて、指先が小刻みに震えていた。
「やあ、ピーター」
ルーピン先生の口調は、いっそ朗らかだった。
「シ、シリウス……リ、リーマス……」
甲高くてネズミのような声だ。友よ、と媚びるようにつぶやいたペティグリューに、シリウスは思わず杖を上げかけて、それが私の杖だったことに気がついて杖先を降ろした。
「リーマス、君はブラックの言うことを信じたりしないだろうね。……あいつはわたしを殺そうとしたんだ……」
スネイプ先生が歯を噛みしめたのが聞こえた。この後に及んで命乞いをするペティグリューの姿は、決して愉快なものではなかった。
「こいつはジェームズとリリーを殺した。今度は私も殺そうとしてるんだ。……リーマス、助けておくれ……」
「少し話の整理がつくまでは、誰も君を殺しはしない」
冷たくルーピン先生が答えた。ペティグリューはどうにかシリウスに罪をなすりつけようと鳥かごを揺らしながら弁明したが、当然ルーピン先生もシリウスも、そしてハリーたちも聞き入れなかった。
「お前は十二年もの間、わたしから逃げていたのではない。ヴォルデモートの仲間から逃げ隠れしていたのだ」
シリウスは恐ろしい笑みを浮かべてペティグリューを見つめた。ヴォルデモートはペティグリューの情報でポッター家に行き、結果的に力を失ったので、アズカバンの囚人たちはペティグリューを裏切り者だと思っているらしい。
「ピーター、その連中が、もしおまえがまだ生きていると風の便りに聞いたら──」
「何のことやら……何を話しているやら……」
ペティグリューはシリウスから体ごと顔を逸らし、ルーピン先生を見上げる。
「リーマス、君は信じないだろう──こんなバカげた──」
「はっきり言って、ピーター、なぜ無実の者が、十二年もネズミに身をやつして過ごしたいと思ったのかは、理解に苦しむ」
ルーピン線背の言葉に、一切の感情の起伏はなかった。
「無実だ!でも怖かった!ヴォルデモート支持者がわたしを追っているなら、それは、大物の一人をわたしがアズカバンに送ったからだ──スパイのシリウス・ブラックだ!」
「よくもそんなことを」
シリウスが喉の奥から唸り声をあげた。ペティグリューは肩をびくつかせて、シリウスから距離を取ろうと狭い鳥かごの中で後ずさった。
「わたしがいつ、自分より強く、力のある者たちにへこへこした?しかし、迂闊だった。おまえはいつも、自分の面倒を見てくれる親分にくっついているのが好きだった。そうだな?かつてはそれが我々だった」
息も絶え絶えに汗を拭うペティグリューを、シリウスは怒りに染まった瞳で射抜く。
「ジェームズとリリーはわたしが勧めたからおまえを秘密の守り人にしたんだ」
シリウスにとってはこれこそが完璧な計画で、目くらましだった。
私はどうやってこの場から逃れようかと言い訳を続けるペティグリューを、これといった感慨もなく見つめていた。もし──もしも十二年前に捕まったのがペティグリューであったのなら、私の父親は生きていたかもしれない。彼を追い続けて父は、死喰い人との戦闘で命を落としたのだ。けれどいざ、ペティグリューを前にして、私の胸に浮かんだのは怒りでもなんでもなく───哀れな人。それだけだった。友達も仲間もあったはずなのに、全て自分のせいで粉々にしてしまった、かわいそうな人だった。
「お聞きしてもいいでしょうか」
ハーマイオニーが恐る恐る口を開いた。
「ど──どうやってアズカバンから脱獄したのでしょう?もし闇の魔術を使っていないのなら」
「ありがとう!それこそ、わたしが言いた──」
ペティグリューが救いの糸口を見つけたとばかりに激しく頷いて、ルーピン先生に睨まれて押し黙った。
「どうやったのか、自分でもわからない」
シリウスは考えながらそう言って、スネイプ先生のそばにしゃがんでいる私を見た。
「わたしが正気を失わなかった理由は唯一つ、自分が無実だと知っていたことだ。シラユキ──あそこにいるサチの父親が、わたしを信じていると知っていたからだ」
それは幸福な気持ではなかったから、吸魂鬼は吸い取れなかったが、それがシリウスの正気を保った。頭がおかしくなりそうな時は、犬に変身して耐えていた。吸魂鬼は目が見えないので、犬になったシリウスの感情が人間的でなくなったのを、正気を失ったと勘違いしたのだ。
そしてなんとか生き延びていたシリウスは、新聞を見て、ペティグリューが生きていたことを知った。
「これは妄執だった。吸魂鬼はこの思いを砕くことはできない。ある晩連中が食べ物を運んできて独房を開けた時、わたしは犬になって連中の脇をすり抜けた……わたしは犬の姿で泳ぎ、北へと旅し、ホグワーツの校庭に犬の姿で入り込んだ……それからずっと森に棲んでいた」
シリウスはもう一度私を見つめた。
「サチには本当に助けられた。わたしの無実を知っていて、君のおかげでわたしは心を取り戻せた。一度だけクィディッチの試合を観に行って……ハリー、君はお父さんに負けないくらい飛ぶのがうまい」
ハリーとシリウスの視線が交わった。信じてくれ、とシリウスがまっすぐに言った。
「信じてくれ、ハリー。わたしは決してジェームズやリリーを裏切ったことはない。裏切るくらいなら、わたしが死ぬ方がましだ」
ハリーは私を見て、シリウスを見て、ぎゅっと眉を寄せて、しっかりと頷いた。
「だめだ!」
ペティグリューは鳥かごの中で祈るように両手を握り合わせた。格子の隙間からなんとか指を出して、シリウスのローブの裾に縋りつこうとした。
「シリウス──わたしだ、ピーターだ……君の友達の……まさか君は……」
「わたしのローブは十分に汚れてしまった。これ以上お前の手で汚されたくはない」
「リーマス!」
指を蹴られかけて、ペティグリューは慌ててルーピン先生に向き直った。
「君は信じないだろうね……計画を変更したなら、シリウスは君に話したはずだろう?」
「私がスパイだと思ったら話さなかっただろうな」
だから話さなかったのだろう、と聞いたルーピン先生に、シリウスは謝った。ルーピン先生も、彼を疑ったことを謝り、シリウスはニヤリと笑って答えた。
「一緒にこいつをやるか?」
「ああ、そうしよう」
「やめてくれ……やめて……」
ペティグリューは鳥かごの中からあたりを見回し、今度はロンに向かって格子から必死に指を伸ばした。
「ロン……わたしはいい友達……殺させないでくれ、お願いだ……君はわたしの味方だろう?」
「自分のベッドにお前を寝かせてたなんて!」
ロンはできるだけ鳥かごから離れようと折れた足をねじった。ペティグリューは続いてハーマイオニーのつま先に爪を立てた。
「賢いお嬢さん……あなたは──あなたならそんなことをさせないでしょう……助けて……」
ハーマイオニーは怯えきって声も出さず、壁際まで下がった。
ブルブルと震えながらペティグリューは、次に私とスネイプ先生を視界にとらえた。スネイプ先生の名前を呼ぼうとしたものの、さすがのペティグリューも憎悪で頬を痙攣させている先生に助けを求める気はないようだった。
「ああ……サチ……君の父親はわたしをいつも気遣ってくれた……ハリーも──」
鳥かごの隙間をこじ開けようと爪を立てて、ペティグリューは小刻みに私とハリーに視線を往復させた。
「ハリー、君はお父さんに生き写しだ……そっくりだ……」
「ハリーとサチに話しかけるとは、どういう神経だ?」
シリウスの声は決して大きくはなかったけれど、ひりひりと肌を焼くような威圧感があった。
「その子たちの前で、おまえのせいで死んだジェームズたちのことを話すなんて、どの面下げてできるんだ?」
それでもなお鳥かごの中で哀れっぽく泣いて命乞いを続けるペティグリューに、シリウスとルーピン先生は近寄って、杖を突きつけた。
「おまえは、ジェームズとリリーをヴォルデモートに売った。否定するのか?」
ペティグリューはとうとう腕に顔を突っ伏して泣き喚いた。まだシリウスに情けをかけてもらえると思っているのか、ヴォルデモートに無理やり従わされたのだと嘘をついた。シリウスはすぐさま否定した。ペティグリューはハリーの両親が殺される一年前から、ヴォルデモートのスパイをしていた、と。
「あの方を拒んで、な、何が得られたろう?」
「史上でもっとも邪悪な魔法使いに抗って、何が得られたかって?」
シリウスは怒鳴りこそしなかったが、怒りのあまり薄灰色の目は血管の色が透けて、赤く光っていた。
「それは罪もない人々の命だ、ピーター」
「君はわかってないんだ!わたしが殺されかねなかったんだ!」
「それなら、死ねばよかったんだ」
シリウスはどこまでも温度のない声で告げた。
「ともを裏切るくらいなら死ぬべきだった。我々も君のためにそうしただろう」
いつしかスネイプ先生も少し平静を取り戻していて、唇は真っ青なままだったけれど、顔色は普段より少し悪いくらいまでに回復していた。
「おまえは気づくべきだった」
ルーピン先生がそう言って、シリウスも杖を上げた。
「ヴォルデモートがおまえを殺さなければ、我々が殺すと。ピーター──」
「やめて!」
叫んだのはハリーだった。鳥かごとシリウスたちの間に立ちふさがり、杖に向き合った。
「殺してはだめだ。殺しちゃいけない──」
「我々が殺すと、そう言いたいところだが……ハリー、わかっている」
がらりと口調を明るく変えて、シリウスはあっさり杖を下ろした。ルーピン先生は少し迷ったようだったが、シリウスの強い眼差しを見止めて、同じようにゆっくり杖先を床に向けた。
「決める権利は君にあるとも。それにサチの杖を、こんなクズのために使いたくない」
シリウスはそう言って、私に杖を差し出した。
「もういいの?」
「ああ。スネイプもいるし問題ないだろう」
「じゃあ……」
私もスネイプ先生に杖を返した。先生は無言で受け取って、少しふらつきながら壁に手をついて立ち上がった。ハリーがそれを横目で確認して、異様に汗をかいているペティグリューに向き直った。
「それじゃ、こいつを城まで連れていこう。僕たちの手で吸魂鬼に引き渡すんだ。こいつはアズカバンに行けばいい」
「ハリー!」
ペティグリューが異様なほど頬を上気させて、ハリーに近づこうと鳥かごの中でもがいた。
「君は──ありがとう──こんなわたしに──ありがとう──」
「おまえのために止めたんじゃない」
ハリーは怒りを込めて鳥かごを睨んだ。
「僕の父さんは、親友が──おまえみたいなもののために──殺人者になるのを望まないと思っただけだ」
早とちりだったみたいだけど、とハリーがつぶやいた。
ペティグリューをこの鳥かごに入れたまま魔法省に引き渡すことが決まると、それからは早かった。ルーピン先生がロンの骨折した足を包帯で固定し、ロンはずいぶんと楽になったようで、足に体重をかけても問題はなかった。
「サチ、さっきは本当にごめん。話も聞かずに君のことを──」
「もういいから、ハリー。気にしてないよ」
ハリーは私を叩いてしまったことを何度も謝った。頬はまだ腫れていたけれど、切ってしまった口の中はもう血が出ていないし、触らなければ痛みだって感じなかった。しかしハリーはなかなか納得しなかった。嬉しいやら恥ずかしいやらで、私の顔にはじわじわと熱が集まってきた。
「この鳥かごは我輩が運ぼう」
ずっと黙っていたスネイプ先生がふわふわした空気に堪えかねて、とうとう口を利いた。ルーピン先生を押しのけて「モビリコーパス」と唱えると、かごの中で窮屈そうに身を縮めていたペティグリューの体が、見えない糸で引っ張られているかのように浮き上がった。シリウスは少し不満そうだったが、この場にいる中で魔法省に意見できるような大人はスネイプ先生しかいなかったので、文句を言わずに従った。
いよいよ叫びの屋敷を後にしようと全員が階段に向かうと、クルックシャンクスが先頭に立って、ボワボワとした太い尻尾をきりっと上げた。その後ろに透明マントをポケットにしまったルーピン先生、そしてペティグリューの入った鳥かごを浮かせるスネイプ先生が続き、私とハリー、ロンとハーマイオニーに挟まれるようにシリウスがいた。
トンネルは先生たちにとっては狭いらしく、特に背の高いシリウスは何度も頭を天井にぶつけていたし、スネイプ先生に至ってはわざとらしく鳥かごをあっちこっちにぶつけて、ペティグリューから悲鳴をひねり出させようとしていた。私は何か、大事なことを忘れているような気がしてならなかった。重大なことを見落としている──
「これがどういうことなのか、わかるかい?」
そんな不安は、シリウスがハリーに話しかけたことでたちまちかき消えてしまった。
「ペティグリューを引き渡すということが」
「あなたが自由の身になる」
「そうだ……しかし、それだけではない」
シリウスは緊張しているようだった。不安そうに私をチラッと見て、何度も唇を湿らせた。
「誰かに聞いたかも知らないが、わたしは君の後見人でもあるんだよ」
「ええ、知っています」
「つまり、君の両親がそう決めたのだ。もし自分たちの身に何かあればと」
ハリーの瞳は期待に輝いていた。そわそわと瞬きを繰り返している。
「もちろん、君がおばさんたちと暮らしたいというなら、その気持ちはよくわかるつもりだ。しかし……まあ、考えてくれないか。わたしの汚名が晴れたら……もし君が……別の家族が欲しいと思うなら……」
「えっ?──あなたと暮らすの?」
ハリーが我慢できずに叫んだ。前を歩くスネイプ先生の肩が揺れたような気がしたが、先生は振り返らなかった。
「ダーズリー一家と別れるの?」
「むろん、君はそれを望まないかもしれないが」
シリウスは慌てた。変なところで自信がないのだ。
「よくわかるよ。ただ、その……サチのこともわたしが引き取るつもりだから、君にとって過ごしにくいなんてことはないと思ってね……」
「サチとも暮らせるの!?」
ハリーの顔にはみるみるうちに笑顔が広がった。
「もちろん、ダーズリーのところなんか出たいです!住む家はありますか?僕、いつ引っ越せますか?」
ハリーが私とシリウスを交互に見やった。しんがりを務めているロンとハーマイオニーは嬉しそうなハリーを見て、安心したように微笑んでいた。
「そうしたいのかい?本気で?」
「ええ、本気です!」
それを聞いて、シリウスは心から嬉しそうに微笑んだ。あまりにもきれいな顔をしていたので、ハーマイオニーとロンは顔を赤らめていた。気持ちはわかる。シリウスは顔立ちがとても整っているので、ふとした時の表情がびっくりするほど絵になるのだ。
行きと違って、帰りはずいぶん短く感じられた。一番前を歩いていたクルックシャンクスが先に幹のコブを押してくれたので、私たちが校庭へ出ても暴れ柳が枝を獰猛に振り回すことはなかった。校庭はすっかり真っ暗で、いつの間に雲が出ていたのか、夕方にはうっすらと見えていた月がすっぽりと隠れてしまっていた。
「──あ」
私が急に立ち止まったので、スネイプ先生とルーピン先生が後ろを振り返った。
「思い出した。スネイプ先生、満月です。今日は──」
「脱狼薬を飲んでいない」
スネイプ先生が目を見張って呟いた。やっぱり脱狼薬をルーピン先生の事務所に置いてきてしまっていたようだ。
最悪なことに、雲が切れた。校庭に銀色の月明かりが落ちて、私たちの影をぼんやりと形作った。
「逃げろ」
シリウスが表情を険しくした。
「逃げろ!早く!」
私とハリーの腕を強く引いて、シリウスはスネイプ先生に私たちを押しつけた。
「わたしに任せて──逃げるんだ!」
恐ろしい唸り声がして、ルーピン先生の体が伸びた。背中が盛り上がり、ローブを引き裂いて出てきた肌には毛が生えだした。指を突き破って鉤爪が生え、骨が膨張してバキバキと音を立てた。狼人間に変わっていくルーピン先生の横顔は苦しそうで、痛みを誤魔化すかのように爪で腕を傷つけていた。
しかしそれも一瞬で、ルーピン先生の鳶色の瞳には、もはや暴力への渇望しか浮かんでいなかった。シリウスも同時に巨大な黒い犬に姿を変え、噛みついたり引っ掻いたりして狼人間を私たちから遠ざけようとした。しかし力で押され、ペティグリューの入った銀色の鳥かごにぶつかり、スネイプ先生の制御下から外れてしまった。
ペティグリューはこの隙を狙っていたのか、素早く先生から杖を奪い取って、私たちに向けて何か呪いを放った。
「エクスペリアームス!」
私の杖から飛び出した赤い閃光が当たり、スネイプ先生の杖は戻ってきた。しかし少し遅かった。運悪く、足が折れていて避けそこなったロンに呪いが当たってしまったのだ。
「動くな!」
ハリーが杖を向けたが、ペティグリューはすでにネズミに変身していた。鳥かごは急速にその大きさに合わせて縮み、ネズミは回転車を走るように鳥かごを横に転がして、草むらに消えてしまった。それに続くように、狼人間が森に向かって逃げ出した。
シリウスは鼻面と背から血を流していた。しかしカラカラと音を立てながら鳥かごを回転させて逃げるネズミを見逃さず、足音を響かせて校庭を走り去った。
「ペティグリューはいったいロンに何をしたのかしら?」
「どけ、ミス・グレンジャー」
地面に倒れたロンの周りに集まった私たちを、スネイプ先生は雑に押し出して、ロンの半分に見開かれた瞳の動きや、だらりと開いた口から聞こえる呼吸音を調べた。生きているのは確かだったが、今のロンは全ての感覚が遮断されてしまったかのように、何の反応も示さなかった。
「いくつかの呪いが組み合わされている。時間はかかるがウィーズリーの健康に別状はない」
スネイプ先生は噛みしめた奥歯から言葉を絞り出した。そこにはまぎれもない怒りと焦燥がにじんでいて、ハリーとハーマイオニーは意外そうに眉を上げた。スネイプ先生は杖を振って魔法の担架を出し、ロンの折れた足を動かさないように注意深く乗せた。
「君たちは我輩についてきたまえ。すぐに校長に話をする必要がある」
しかしその時、暗闇から苦痛を訴えるような甲高い犬の鳴き声が聞こえてきた。
私とハリー、そしてハーマイオニーはサッと目配せをして──スネイプ先生の視界から私たちが完全に外れた瞬間、その方向に疾走した。すぐに、夏の夜中の蒸し暑さが噓のように冷気が私たちを取り巻いた。
「吸魂鬼がいる」
呟いた瞬間、キャンキャンという鳴き声がやんだ。湖のほとりにたどり着いて、私たちは、人の姿に戻ったシリウスが、うずくまって頭を抱えているのを見つけた。
「やめろ……やめてくれ……頼む……」
シリウスのそばに駆け寄ると、湖の向こうから、おびただしいほどの吸魂鬼が真っ黒な塊になって、滑るように近づいてきていた。六月も終わる時期だというのに吐く息は白く、体の芯を凍らせるように、急速に私たちの周りを霧が取り囲んでいく。
「ハーマイオニー、何か幸せなことを考えるんだ!」
ハリーが杖を高く掲げながら叫んだ。
「エクスペクト・パトローナム!」
私とハリーが同時に唱えた。私の杖からはいつものように牝鹿が飛び出して、シリウスにキスをしようと飛び回る[[rb:吸魂鬼 > ディメンター]]を蹴散らした。しかし、ハリーの杖からは薄い銀色のもやが出るだけだった。数が多すぎるのだ。私が追い払っても、黒いフードの看守たちは絶えず周囲を不気味に飛び回るばかりだった。
「ハリー──ハーマイオニー──がんばって」
私の歯がガチガチ鳴り始めた。シリウスは死人のように顔色が悪く、とっくに気を失っていた。ハーマイオニーも囁くように呪文を唱えて応戦しようとしたが、うまくいかなかった。私の杖から三度目に飛び出した牝鹿は、どんどん姿が小さくなっているように感じられた。
「エクスペクト・パトローナム!」
とうとうハーマイオニーが気を失った。
「エクスペクト・パトローナム!」
私とハリーは気力だけで立っていて、お互いの呪文を唱える叫び声でなんとか意識を繋ぎ止めていた。五度目に飛び出した牝鹿は、小鹿のように頼りなかった。それでも私たちの周りを果敢に跳ね回って──ハリーが膝をつくと同時に霧の向こうに消えていった。
「サチ──シリウスは、無実なんだ──僕たちは大丈夫だ──シリウスと暮らすんだ」
私はハリーの肩を支えた。
「エクスペクト・パトローナム!」
私たちはもう一度唱えた。私の守護霊も、もう形にならなかった。それでもハリーの杖から出たもやと合わさって、吸魂鬼はギリギリのところで押しとどめられた。けれどそれも、たった少しの時間だけだった。
「やめろ──あの人は無実だ……エクスペクト──エクスペクト・パトローナム──」
ハリーが苦しそうにあえいだ。一番近くの吸魂鬼が私たちをじっくりと眺めて、ヌメヌメした死体のような手を上げ、フードを脱いだ。目があるはずのところには虚ろな穴が空いていて、顔は灰色のかさぶたのような皮に覆われていた。異様に歪んだ口と思われる穴は、ザーザーと耳障りな音をたてて空気を吸い込んでいる。
「ハリーに──シリウスに触らないで──」
とてつもない怒りが沸き上がって、頭が沸騰したように熱くなった。
吸魂鬼がハリーの首に巻きついて、その顔を仰向けにさせたのだ。ハリーの意識はここになかった。すぐに霜がおりるような寒さに包まれたけれど、爆発的な感情は、私の正気を取り戻すのを助けてくれた。
最高のクリスマス──ローブの内ポケットにくっつけているスネイプ先生からのカード──飾られた雪だるま──シリウスの笑顔──走馬灯のように幸せな思い出が体中を駆け抜けた。
「エクスペクト・パトローナム!!」
今までで一番大きな牝鹿が飛び出して、猛々しく首を振りながら、ハリーとシリウスに覆いかぶさっていた[[rb:吸魂鬼 > ディメンター]]を湖のかなたまで蹴り飛ばしていく。守護霊は、それだけではなかった。湖の向こうから、立派な角の牡鹿が現れたのだ。牝鹿と牡鹿は楽しそうに湖を跳ねて、あっという間に吸魂鬼は森の向こうへ追い立てられ、周囲に暖かさが戻った。霧の向こうで、丸いメガネが月明かりを反射した。
「父さん」
そう呟いて、ハリーはガックリとシリウスの横に崩れ落ちた。
私も体から力が抜けて、その場にへなへなと座り込んだ。さっきの守護霊はハリーのものだった。それはつまり、これから逆転時計を使うということだろう。だったら──今はとにかくまぶたが重たくてかなわない──未来の私にペティグリューを任せよう。茂みの向こうから走ってくるスネイプ先生を視界の隅に、私はゆっくりと意識を落としていった。