アズカバンの囚人編
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その夜は、再び城が捜索されたらしい。
明け方にはマクゴナガル先生が戻ってきて、シリウスが逃げたと告げたらしい。“らしい”というのは、私は眠気にあらがえなかったので、すっかり目の冴えてしまったハーマイオニーに支えられながら、談話室で寝落ちてしまったのだ。
次の日には城中にシリウスの写真──手配書なので、今の彼とは比べ物にならないほど人相が悪い──が貼り出され、カドガン卿はクビになり、帰ってきた太った婦人の警備のため、トロールが何人か廊下を行ったり来たりするようになった。もうシリウスがホグワーツに侵入することはないだろうが、もちろん言わなかった。
もう一つ変わったことと言えば、シリウスに襲われたことで、ロンが一躍有名になった。まだショックが後を引いていたものの、誰かに事件の詳細を聞かれると、嬉しそうに語って聞かせた。
「隙間風がさーっときて……僕、目が覚めた。そしたらブラックが僕の上に覆いかぶさるように立ってたんだ。……こーんな長いナイフを持ってた……でも、手配書みたいなどろどろの骸骨じゃなかったよ。見たことないぐらいハンサムだった……逃亡中にいいものを食べてたに違いない」
ここで私はいつも目をそらし、女子生徒は黄色い悲鳴を上げた。危険な色男というものに惹かれるらしい。よくわからない。
「それで、あいつは僕を見た。僕もあいつを見た。そして僕が叫んで、あいつは逃げていった」
だけど、どうしてとんずらしたんだろう。それがハリーやロンの疑問だった。私は聞かれると口が滑りそうだったので、二人がその話をし始めるとさりげなく距離を取った。そうでなくても、ロンの心配をしながらも話しかけられないハーマイオニーと一緒にいたので、前にも増して私はハリーたちと話せていなかったのだけれど。
ネビルには本当に申し訳ないことをした。合言葉のメモをシリウスのところへ持っていったのはクルックシャンクスだったけれど、私はそれを黙認したし、特に禁じられた森に食べ物を届けに行けなくなることを恐れて、ネビルに代わって合言葉のメモを落としたと名乗り出なかった。マクゴナガル先生は鬼の形相で、今後ネビルがホグズミードに行くことを禁じ、罰を与え、合言葉を教えてはならないとみんなに言い渡した。私はなるべくネビルを待って寮を出入りし、宿題も手伝うようにした。その度にありがとうと泣かれて、何度もごめんねと心の中で謝った。
二日後には彼の祖母から「恥さらし」だの「一族の恥」だの怒鳴る吠えメールが送られてきた。シリウスの冤罪が晴れたら、まずネビルの家に手紙を出そう。日に日に小さくしおれていくネビルの背中を心苦しい思いで見ていると、隣で朝食を食べていたハリーの元にヘドウィグが手紙を持ってきた。見せてもらうと、ハグリッドからハリーとロンへのお茶会のお誘いだった。きっとハーマイオニーのことだろう。宿題やロンとのスキャバーズを巡る問題に追われて憔悴していく彼女を、ハグリッドはいつも心配していたから。
夜の九時になって帰ってきたハリーとロンは、バツが悪そうに並んで宿題──私はスネイプ先生からの追加課題──をこなす私とハーマイオニーを見た。バックビークの裁判のことなら、私もハーマイオニーもやりたくてやっているのであって、クィディッチや二年生までとは比べ物にならないほどの宿題に忙殺されていた二人を責める気持ちなんて一かけらもなかった。
「今週の週末はホグズミードだ!」
ハリーとロンが何か言おうとしたのを、シェーマスのはしゃぎ声が遮った。掲示板の周りには人だかりができていた。私とハーマイオニーの前の椅子に腰かけた二人は、すぐにあの四階の廊下にある隻眼の魔女の石像の話を始めた。どうやらハリーは今回もホグズミードに行くらしい。
「ハリー!」
目の前に本を積み上げて壁を作っていたハーマイオニーが、隙間を開けて二人を覗いていた。
「今度ホグズミードに行ったら……私、マクゴナガル先生にあの地図のことお話するわ!」
「ハリー、誰か何か言ってるのが聞こえるかい?」
ロンはハーマイオニーを見もしなかった。仲直りへ近づいたはずの二人の距離がものすごいスピードで離れていくのを感じた。
「ハリーを連れていくなんてどういう神経?シリウス・ブラックがあなたにあんなことをしたあとで!本気よ、私、言うから──」
「そうかい。君はハリーを退学にさせようってわけだ!」
「ロン、ハーマイオニーはそんなこと、」
「ニャー」
今度会話を遮ったのはクルックシャンクスだった。すぐにハーマイオニーに抱えられて女子寮の方に一人と一匹は消えていったが、クルックシャンクスが「いい仕事しただろ?」とばかりに自慢げに尻尾をゆらゆらさせたのを私は見逃さなかった。
夜にシリウスに会いに行ってるらしいクルックシャンクスとは、昼間や夕方に会うことはなかったが、いつからか仲間意識を持ってくれていたようで、喉を鳴らしながらなでろと宿題の上に寝そべることが増えた。うん、仲間というより下僕だと思われているかもしれない。
「それで、どうするんだい?」
ロンは私にも聞いた。そういえば許可証はダンブルドア先生が持ったままだった。サインまでしていただいたはいいものの、私は年度末には正式にシリウスが保護者になる手続きを始めるかもしれないので、どうせならシリウスにも許可証を書いてほしいと思った。ハリーのものを書くのなら、彼ならきっと私の分もと言いそうな気がする。
「行こうよ。この前は、君たち、ほとんどなんにも見てないんだ。ゾンコの店にも入っていないんだぜ!」
双子の御用達だというゾンコの店は、実はこの間のパーティの時、お菓子の買い出しついでに連れていってもらっていた。前回行ったかと聞かれて正直に否定したのが悪かった。買い出しに出かけた二時間のうち半分はいたずら用品の解説を実演を交えて教わることになったのだ。
「僕は行くよ。今度は透明マントを着ることにする」
「私はいいかな。スネイプ先生に質問しにいきたいから」
ハリーとロンはあからさまにいやそうな顔をした。スネイプ先生と二人っきりの勉強会は、二人からすると想像するだけでおぞましいようだった。
「楽しいのに」
「そんなこと言うの、ホグワーツ中探しても君だけだぜ」
土曜日の朝、私は談話室でハリー、ロン、ハーマイオニーと別れて地下牢へ向かい、胸を弾ませてドアをノックした。返答がないのはいつものことだったけれど、扉が開く気配は一向になく、中から物音も魔法薬を煎じている音も聞こえない。
「留守ですか?」
はい、と答えたらそれはゴーストの仕業……と言いたいところだが、スネイプ先生の研究室はスリザリンのゴーストである血みどろ男爵ですら近寄らないある種聖域だった。ハリーの減点でもしようと廊下を練り歩いているかもしれないので、私は足早に四階の廊下へ続く階段を駆け上がった。
「ハリー!……と、あれ?ネビル!どうしたの?」
石像の近くでハリーとネビルが立ち話をしていた。ハリーが助かったとばかりに肩の力を抜いたのがわかった。談話室で準備していたカバンは持っていないので、像に入り込む前にネビルが来てしまったのだろう。
ネビルは私を見つけて、ハリーと同じように顔を輝かせた。
「サチ!僕たち、今、図書室に行ってルーピン先生の“吸血鬼”のレポートを書こうって話してたんだ」
「それならネビル、ハリーは昨日終わらせてたよ。ね?」
「ウ、ウン。そうだった」
「すごいや。なら、手伝ってよ!」
助け舟が沈没してしまった。
「僕、あのニンニクのこと、さっぱりわからないんだ。──食べなきゃならないのか、それとも──」
背中越しに空気が揺れた。ネビルの「アッ」と小さく息を吞む音と同時に振り返ると、探していた人が立っていた。ネビルは私とハリーの後ろに身を縮めた。
「ほう?三人ともここで何をしているのかね?奇妙なところで待ち合わせるものですな──」
スネイプ先生の目が、まず私たち三人の顔に走り、続いて周囲の出入り口、最後に隻眼の魔女の像に移った。私は先生からハリーを隠すように一歩前に出た。
「よかった、私、スネイプ先生を探してたんです。研究室にいらっしゃらなかったから、ハリーを探せば見つかるんじゃないかなって」
「ほーう?」
スネイプ先生は他の先生方に比べて背は低いけれど、私よりは全然高い。先生からハリーもネビルも丸見えだった。
「ポッター。君はどうも予期せぬ場所に現れる癖があるようですな。しかもほとんどの場合、何も理由なくしてその場にいるということはない」
私の話を聞き入れた上で、先生は片頬をいじわるく上げた。
「二人とも、自分のおるべき場所、グリフィンドール塔に戻りたまえ。シラユキ、君は戻らなくて結構。我輩を探しておったのだろう?」
やっぱりハリーのホグズミード行きとネビルの宿題を手伝おうとつま先を動かしたのを、石像を調べながら先生は見逃してくれなかった。それでもハリーを振り返って「研究室に引き留めておくから」と口パクをしたのは見られなかった。ハリーは嬉しそうに頷いて、廊下の角に消えていった。
スネイプ先生はしばらく石像を杖で叩いたりブツブツ呪文を唱えたりしていたが、まさか「ディセンディウム、降下」で動くとは思わなかったらしい。数分もしないうちに廊下を離れ、私を疑わしそうに見下ろしながらも研究室のドアを開けてくれた。
大鍋に一番近い棚には、まだ十二月に無理やり置かせてもらった雪だるまが溶けずに冷気を振りまいている。私のかけた保存魔法はとっくに切れてしまっているはずだったが、そのことは指摘していない。その隣に、クリスマス以降は手編みの黒い手袋が増えた。ところどころほつれが見えるので、どこかで使ってはくれているらしい。本当に不思議な先生だな、とそれが几帳面に並べられているのを見るたび、じんわりとした熱が胸の奥に広かるのだ。
「今日は何の質問だ」
質問をしに研究室に行くと、入ってすぐの場所にある大きめの机に、私とスネイプ先生はいつも向かい合って座る。最初の一ヶ月は、先生が虎視眈々と私が課題や実験を失敗する隙を探していたようだったけれど、途中から何やら難しい本を読んだり、レポートの採点をしたり、やりたいことをやるようになった。最近は一週間に一回は雑談にも応じてくれるようになっていて、私はこの時間が大好きだった。
二時間ほど経っただろうか。持ってきた分の課題が終わって、質問することもなくなってしまった。そっと先生を見ると、毒薬について書かれたおどろおどろしい表紙の本に目を落としていた。
「スネイプ先生」
先生はページをめくる手を止めなかった。私がやることを終えてしまったのを察していたらしい。
「誕生日を聞いてもいいですか?」
「聞いてどうする」
「日頃の感謝を伝えたいんです」
スネイプ先生と目が合った。先生はよく「何を言っているのか理解に苦しむ」と言う。今度もそうだった。普通に考えて、グリフィンドールの、それもハリーと仲のいい女子生徒が、スリザリン贔屓のいじわるな先生に懐くなんて変わり者どころの話ではない。
「先生はそうおっしゃいますけど、私をいっぱい助けてくださいます。図々しくほとんど毎日質問に行っても答えてくださいますし」
「図々しいとわかっているならやめてはどうかね」
鋭い視線が刺さったが、無視した。
「教えていただけませんか?スネイプ先生みたいな先生に教われて嬉しいって言わせてください」
「たった今、君の口からお聞かせいただいたところだ」
思わず唇を尖らせて、慌ててひっこめた。自分の誕生日が嫌いなんだろうか。それと私がスネイプ先生を祝いたい気持ちは別ものなのに。私は先生の誕生日を知っているけど、本人から聞いたわけじゃないから、それまではクリスマスだけで我慢すると決めているのだ。来年までになんとかはぐらかされないようにしなければ。
先生は勝ち誇ったように片眉を上げて、本に目を戻してしまった。仕方がないので私も復習のために赤線と付箋だらけの五年生用の教科書を開いた。
「ス、ス、スネイプ先生!」
背後で大きな音を立てて扉が開き、私は思わず椅子の上で飛び跳ねた。そこには泥まみれで息を切らしたドラコ・マルフォイが立っていた。
「ポ、ポッターが!生首が!叫びの屋敷で!そ、そ、空に!」
咄嗟に身を縮めた私には気づかなかったのか、必死の形相で叫んだ。恐ろしい思いをしたらしく、言葉はいまいち要領を得ない。後ろからゼエゼエ二つの大きな呼吸音が聞こえる。きっとクラッブとゴイルだ。
大きくため息をついてスネイプ先生が立ち上がった。話を整理すると、ドラコ・マルフォイは透明マントの脱げかけたハリーに遭遇したということだった。凶悪な笑みを湛えた先生はまだ何か話したそうなドラコ・マルフォイを連れて、颯爽と研究室を出て行ってしまった。
出て行けとは言われなかったのでまた教科書を読んでノートを取っていると、今度は大きな足音を立ててハリーがスネイプ先生と一緒に入ってきた。
「座りたまえ」
背もたれを机側にひっくり返され、私の隣に座らされたハリーは、助けるを求めるように眉を下げた。しかしこうなってはできることは少ない。なんとかスネイプ先生を逆上させすぎないよう口を挟むくらいしかできることはなかった。
「ポッター、マルフォイ君がたったいま、我輩に奇妙な話をしてくれた」
ハリーは黙って説明を聞いていた。
「ウィーズリーと立ち話をしていると、大きな泥の塊が飛んできて、頭の後ろに当たったそうだ。そのようなことがどうやって起こりうるか、おわかりかな?」
「僕、わかりません。先生」
とぼけたハリーに、スネイプ先生は一段と眉間のしわを濃くして迫った。私はなるべくそちらを見ないように教科書の方を向いていたけれど、ページをめくる手はすっかり止まっていた。
「マルフォイ君はそこで異常な幻を見たと言う。それが何であったのか、ポッター、想像がつくかな?」
ハリーは「いいえ」と無邪気に言った。一年生が話してるみたいで、私はちょっと笑いそうになったのを必死に耐えた。
「ポッター、君の首だった。空中に浮かんでいた」
長い沈黙が流れた。私がおそるおそるページをめくる音が、いやに大きく聞こえた。三ページほどめくったところで、ようやくハリーが口を開いた。ドラコ・マルフォイはマダム・ポンフリーのところへ行ったほうがいいんじゃないか、と。
「君の首はホグズミードでいったい何をしていたのだろうねえ?」
スネイプ先生は悪口になると途端に饒舌になる。こんな柔らかい声は普通の会話で一度も聞いたことがない。
「君の首はホグズミードに行くことを許されてはいない。君の体のどの部分も、ホグズミードに行く許可を受けていないのだ」
「わかっています。マルフォイはたぶん幻覚を──」
「マルフォイは幻覚など見てはいない」
傍から見ていてこの二人の言い合いは、まるでコントだった。スタンドアップ・コメディだった。祖母が好きな番組を思い出す。
スネイプ先生はハリーの目と鼻の先まで顔を近づけていた。私があんなことされたら心臓が爆発してしまうと思う。それにしても、ハリーにここまで詰め寄りながら開心術を使わないのに、どうして私に使おうとしたのだろうか。やっぱり怪しいのだろうか。
ハリーはあくまでグリフィンドール塔にいたと主張したが、証人がいるのか、と言われて閉口した。私が証言できればよかったのだが、あいにくずっと研究室にいたのだ。スネイプ先生の行動についての証言ならバッチリなのに。
「なるほど」
衣擦れの音で、スネイプ先生が体を起こしたのがわかった。さっきより少し高い場所から柔らかく低い声が降ってきた。
「誰もかれもが、有名人のハリー・ポッターをシリウス・ブラックから護ろうとしてきた。しかるに、有名なハリー・ポッターは自分が法律だとお考えのようだ。一般の輩は、ハリー・ポッターの安全のために勝手に心配すればよい!有名人ハリー・ポッターは好きなところへ出かけて、その結果どうなるかなぞ、おかまいなしというわけだ」
ここまではよかった。
ハリーはこれを挑発と取って目を油断なく光らせていたけれど、スネイプ先生は本当にハリーの身の危険を警戒していたのか、いつもよりはっきりと自分の言葉を使っていた。
「ポッター、なんと君の父親に恐ろしくそっくりなことよ」
ここからが、いけなかった。
スネイプ先生は私怨を吐き出すことでハリーを揺さぶろうとした。ハリーの父親が傲慢で、規則を歯牙にもかけず、はなはだしい思い上がりだと口にしたのだ。
「黙れ!」
ハリーが椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「我輩に向かって、何と言ったのかね。ポッター?」
「黙れって言ったんだ、父さんのことで!」
「ハ、ハリー、ちょっと、」
「僕は本当のことを知ってるんだ。いいですか?父さんはあなたの命を救ったんだ!ダンブルドアが教えてくれた!父さんがいなきゃ、あなたはこうしてここにいることさえできなかったんだ!」
思わず私も立ち上がってハリーの肩を押さえたけれど、反射的に振り払われてしまった。
「あ──」
バランスが崩れた。
転ぶ。目を閉じかけたところで、強く右腕をつかまれた。スネイプ先生がハリーを睨みつけたまま、倒れかけた私の腕を支えていた。ハリーの顔がサッと青ざめた。
「ご、ごめん、僕、」
「どこまでも傲慢で、周りのことなど目に入れないあの父親と、瓜二つだ」
ハリーには聞こえないほど小さな囁きだった。スネイプ先生は驚くほど優しく、私の腕から手を離した。
「それで、校長は、君の父親がどういう状況で我輩の命を救ったのかも教えてくれたのかね?」
今度ははっきりと、それでいて柔らかにハリーに言った。
「それとも、校長は、詳細なる話が、大切なポッターの繊細なお耳にはあまりに不快だと思召したかな?」
とうとうハリーは黙った。
二人が今言っているのは、ルーピン先生のことだろうか。学生の時スネイプ先生を殺すところだったという、あの事件のことだろうか。
「君が間違った父親像を抱いたままこの場を去ると思うと、ポッター、虫唾が走る。我輩が許さん」
スネイプ先生は憎しみのこもった笑みを浮かべていた。私はやっぱりわからない。ハリーはハリーの父親とも母親とも違うのに、どうしてそっくりであるということだけでここまで憎んでいるのだろう。
「輝かしい英雄行為でも想像していたのかね?なればご訂正申し上げよう。──君の聖人君子の父上は、友人と一緒に我輩に大いに楽しい悪戯を仕掛けてくださった。それが我輩を死に至らしめるようなものだったが、君の父親が土壇場で弱気になった。あのどこが──」
「スネイプ先生、言い過ぎだと思いませんか」
私は腕を上げてスネイプ先生とハリーの視線を断ち切った。スネイプ先生の瞳はどこまでも暗かった。
「ハリーはジェームズ・ポッターではありません」
「これ以上我輩に意見するのならば、金輪際君をここに立ち入らせることはない」
「じゃあ、そうなさってください」
ハリーが驚いたように私を見た。スネイプ先生も心なしか眉を動かしたように見えた。
「先生がジェームズ・ポッターとその友人を嫌うのは勝手です。でも、それをハリーに押し付けるのは違います。憎み合いをしたいのならよそでやってください」
ちょっとためらって、先生が何か言う前に私はもう一度口を開く。
「少なくともハリーは──自分から魔法を暴力に使ったり、悪意で人を陥れたりしたことはありません」
再び沈黙が場を支配した。
スネイプ先生は出て行けと言うことはなかった。その代わり、ポケットをひっくり返せとハリーに吐き捨てた。
ポケットにはゾンコの店の袋と、古ぼけた羊皮紙──忍びの地図──が入っていた。ゾンコの店の悪戯グッズは、ロンの買ってきたものを持ち歩いていたと誤魔化したが、スネイプ先生の注意はむしろ、何の変哲もない羊皮紙に向いていた。
「余った羊皮紙の切れっ端です」
「当然君には必要ないだろう?我輩が──捨ててもかまわんな?」
スネイプ先生が羊皮紙を持って暖炉へ向かうと、ハリーは「やめて!」と叫んだ。ハリーの父親やシリウスが作った地図だから、燃やしても燃えなさそうではあるが、私はまだ緊張で心臓がバクバク言っていたので、何も言わなかった。
「これもまたウィーズリー君からの大切な贈り物ですかな?それとも──何か特別な物かね?もしや、手紙かね?透明インクで書かれたとか?それとも──吸魂鬼のそばを通らずにホグズミードに行く案内書か?」
ハリーの瞬きが速くなった。スネイプ先生は我が意を得たとばかりに恐ろしい笑みを浮かべた。そして何度か正体を現す呪文をかけ続けると、合言葉が間違っているので羊皮紙は地図を見せず、四つのメッセージを浮き上がらせた。それぞれ地図の制作者であるムーニー、ワームテール、パッドフット、プロングズのものであり、そろって羊皮紙の正体を暴こうとしたものをコケにするような一言だった。
「ふむ……片をつけよう……」
不気味なほど静かな声だった。さっきまでの緊張感はどこへやら、私とハリーは手を繋いで一緒に震えていた。スネイプ先生は暖炉の上の瓶からキラキラする粉をつかみ取り、炎の中に投げ入れた。
「ルーピン!話がある!」
すると暖炉の中で大きな姿が急回転し、ルーピン先生が暖炉から這い出してきた。
「セブルス、呼んだかい?」
「いかにも」
穏やかなルーピン先生とは正反対に、スネイプ先生の顔は怒りに歪んでいた。スネイプ先生はハリーがこんな物を持っていたとメッセージの光っている羊皮紙を指差した。ルーピン先生は瞬きもせずそれを見つめた。
なかなか見解を述べないルーピン先生にしびれを切らしたのか、スネイプ先生はこれに“闇の魔術”が詰め込まれているのではと促した。どこで手に入れたと思うか、と問いかけたスネイプ先生の肩越しに、ルーピン先生はハリーに黙っているよう視線を送った。
「闇の魔術が詰まっていると、本当に思うのかい?私が見るところ、無理に読もうとする者を侮辱するだけの羊皮紙にすぎないように見えるが」
「そうかね?」
ルーピン先生が「悪戯専門店で手に入れたのでは」と話し続けたのを、スネイプ先生は顔を強ばらせて否定した。
「むしろ、直接に制作者から入手した可能性が高いとは思わんのか?」
今度は私とルーピン先生の目が合った。しかしそれも一瞬のことで、ルーピン先生は穏やかなまま、ハリーにこのメッセージの名前の中に知り合いがいるかどうか質問した。当然ハリーは首を横に振る。
スネイプ先生の目が私に移ろうと動いたところで、ちょうどロンが研究室に飛び込んできた。
「それ、僕が──ハリーに──あげたんです──ゾンコで──ずいぶん前に、それを──買いました」
「ほら!」
ルーピン先生は手を小気味よく鳴らして、鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌に周りを見回した。そしてこれは自分が引き取ると言って、地図を丸めてローブの中にしまいこんだ。
「ハリー、ロン、一緒においで。吸血鬼のレポートについて話があるんだ。サチは──」
「さ、先に行っててください!すぐ追いかけます」
「わかった。それじゃあセブルス、失礼するよ」
三人の足音がゆっくり遠ざかるのを聞きながら、私は机に散らばった教科書や羊皮紙を慌ててまとめて、終わった課題をスネイプ先生に手渡した。さっきまで怒りをあらわにしていたはずの顔には、何の表情も浮かんでいない。
「スネイプ先生、その……」
先生は何も言わなかった。
課題を受け取って、出て行けとばかりに顔を背けられたので、私は肩を落としてドアに近づいた。廊下に一歩踏み出して振り返り、溶けずに残っている雪だるまと、少しほつれてしまった黒い手袋、そして黒い背中を見つめた。
「あなたを尊敬しているし、教えていただけて嬉しいです。でも、妄信してるわけではないので、間違ってることがあったら言います。それがうっとうしいなら、その、」
「来週の木曜」
「え」
「放課後と夕食後で五年生の範囲を終わらせ、次の学年に進む。予習は欠かさぬよう取り組みたまえ。質問があれば、これまで通り、答える価値のあることを聞くように。以上、質問は?」
何を聞けばいいのかわからなかった。今まで通り来ていいのか、五年生の範囲を終了できるほど勉強が進んでいたのか、邪魔じゃないのか、文句を言ってもいいのか──
「──い、いてもいいんでしょうか。私」
私が今までスネイプ先生にした質問の中で、間違いなく一番くだらない質問だった。これを聞いた理由はないし、色々考える間もなくとっさに出てきたものだ。答えなんて返ってくるはずがない。
スネイプ先生は少しだけ振り向いた。相変わらず機嫌が悪そうで、血の気もなく、大きな鉤鼻が目立っている。
「シラユキ」
「は、はい」
「何と言ってほしい?」
「はい?」
スネイプ先生の目は、不思議なほど凪いでいた。減点する隙を探す鋭い眼差しでも、どこまでも真っ暗な水底でも、憎しみに揺れる瞳孔でもなんでもない。
「君は我輩に、何と言ってほしいのかね?」
たぶん初めて、私は“スネイプ先生”を見つけた。
「あなたの言いたいことが、私の知りたいことです」
どうやって見つけたのかはわからない。今日はスネイプ先生の柔らかい場所を、運よく傷つけずに触れることができたのだと思う。
永遠にも思えた静けさの中、呼吸の音がやけに大きく聞こえた。
「くだらんな」
スネイプ先生は鼻で笑った。その時には瞳の向こうは重たいカーテンが下りていて、何もかもがその奥に押し込められていた。
「聞く必要のないことだ」
目も合わさずに先生は言って、私の鼻先で扉が閉まった。
だんだん周囲がくっきり輪郭を取り戻していて、今になって、私が先生以外に感覚を働かせていなかったことに気がついた。足音の反響が残る方向へ顔を向けると、ちょうどハリーとロンと別れたらしいルーピン先生が、こっちを振り返ったところだった。
先生の研究室から足を引きずるように離れて、心配そうに私を見つめるルーピン先生の前で、ついに腰が抜けた。
「サチ!大丈夫かい!?」
廊下に座り込んでしまった私の前に膝をついて、ルーピン先生は背中をさすってくれた。しかし顔がどんどん熱くなるにつれて、物憂げな表情は呆れたものに、そして嬉しそうな笑顔に変わった。
「大丈夫かい?」
さっきと同じ言葉だったけれど、声色は全く違った。
「ルーピン先生」
「うん」
「私、聞いたんです。いてもいいのかって、スネイプ先生に聞いちゃったんです」
頭が発熱したみたいに熱かった。ルーピン先生が冬の空気で冷えた手を額に当ててくれたけど、一瞬で温くなってしまう。
「そしたら聞かれました。なんて言われたいのか」
もちろん「はい」と言われたいに決まっている。でも私が言わせるんじゃなくて、いつかスネイプ先生の意志で言ってもらいたい。それに、スネイプ先生からかけられる言葉ならなんだって宝物になる。
「だから私の知りたいことは、スネイプ先生の言いたいことなんです。そう答えました。そ、そしたら──」
「そしたら?」
私もルーピン先生も、ごくりと唾を飲んだ。
「く──くだらないって。聞く必要ないって。そうおっしゃいました!」
「サチ、それって……!」
「聞か、聞かなくても、あ、当たり前だって」
堪えていた涙が一気にあふれ出した。蛇口が壊れたみたいに、何度ぬぐっても止まらない。
あんなふうに言われたのは初めてだった。まだ小さな一歩だけど、スネイプ先生に近づくことができた。許してくれた。
「これこれ。そんなにこすってはいかんよ」
どのくらい経ったのか、私とルーピン先生のハンカチがずっしりと重たくなった時、カラカラに乾いたハンカチが差し出されたのだ。顔を上げると、にこやかに微笑むダンブルドア先生が、ルーピン先生の横にかがんでいた。
「ダ、ダンブルドア先生!?いつからそこに!」
「五分前くらいからいらしていたよ」
「ゆっくり話すのはクリスマス以来かの?わしは本当にサチの涙に縁がある」
やっと涙が引っ込んで視界が明瞭になった。私はまじまじとダンブルドア先生を見つめた。やっぱり私が変身させた三角帽子をかぶっている。
「毎回今日みたいに嬉し涙ならよいのじゃが」
「本当に。よかったね、サチ」
さっきまで人目もはばからずボロ泣きしていたのだが、正気に戻った途端に羞恥が襲ってきた。すると、それはそれで優しい二人がこれでもかと言うほど笑顔の嵐を吹かせてきたので、私はこれ以上ないくらい赤くなった。
ダンブルドア先生の青い瞳に映ると、赤と混ざって紫色に見えた。本で見た宇宙人みたいで、私とルーピン先生はダンブルドア先生の瞳を覗き込んで笑い転げてしまった。ダンブルドア先生は自分では見えないと不服そうだったので、ルーピン先生の目を覗き込むと、鳶色の瞳は私の真っ赤な顔色を映してリンゴのようにつるりと光った。
その頃には顔の赤みが収り、私はそばで話を聞いてくれたルーピン先生にまずお礼を言って、どこまで知っていて何を計画しているのかわからないダンブルドア先生と、全てが片付いたらお茶会をしようと約束をして、やっと大理石の階段の前で解散した。
階段を上り、グリフィンドール寮へ向かって警護中のトロールの邪魔をしないように歩いていると、廊下の途中でハリーとロン、ハーマイオニーが久しぶりに三人そろって顔を突き合わせているのを発見した。
「みんな!どうし、」
「サチ!!」
肩越しにヒョッコリ顔を出して様子をうかがおうとして、ハーマイオニーにいち早く飛びつかれた。さっきまで腰が抜けてた私は、またしりもちをついて床に倒れこんだ。肩のあたりが濡れていくのを感じる。
「ハーマイオニー、泣いてるの……?」
おろおろとハーマイオニーの背中を、さっきルーピン先生が私にしてくれたようにさすった。ハリーが見せてくれたのは、大粒の涙であちこちインクが滲んだ手紙だった。
────────────────────────────
サチとハーマイオニーへ
俺たちが負けた。バックビークはホグワーツに
連れて帰るのを許された。
処刑日はこれから決まる。
ビーキーはロンドンを楽しんだ。
おまえさんたちが俺たちのためにいろいろ
助けてくれたことは忘れねえ。
ハグリッドより
────────────────────────────
さっきまでの浮ついた気持ちは急速にしぼんでいった。「こんなことってないよ」とハリーが口を開く。
「こんなことできるはずないよ。バックビークは危険じゃないんだ」
「やっぱり委員会はルシウス・マルフォイの言いなりなんだね」
私が聞くと、ハーマイオニーは私を助け起こしながら真っ赤な目でうなずいた。
「みんな怖気づいたんだわ。そりゃ、控訴はあるけど、必ず。でも、望みはないと思う……何にも変わりはしないわ」
「いや、変わるとも」
力強く言ったのは、なんとロンだった。目を丸くしている私とハーマイオニーの肩に、優しく手を乗せてくれた。
「ハーマイオニー、サチ、今度は二人だけで全部やらなくてもいい。僕が手伝う」
「ああ、ロン!」
ハーマイオニーは今度はロンに抱きついて、また泣き出してしまった。ロンが困り果てたように私を見たので、なでろとジェスチャーを送った。ロンが不器用にハーマイオニーの頭をなでると、しばらくしてしゃくり上げながら一歩離れた。
「ロン、スキャバーズのこと、ほんとに、ほんとにごめんなさい……」
「ああ──ウン──あいつは年寄りだったし」
ロンはハーマイオニーが離れて、とてもほっとしたような顔をした。
「それに、あいつ、ちょっと役立たずだったしな。パパやママが、今度は僕にふくろうを買ってくれるかもしれないじゃないか」
ハリーたち三人はようやく結束を取り戻して、私を加えて四人でハグリッドを訪ねようとした。けれど二度目のシリウスの侵入があってから生徒には厳しい安全対策が課せられていて、日が暮れてから外に出ることは不可能だった。
だからシリウスに会いに行くのも昼食の時間しかなくて、私はスネイプ先生からの追加課題を言い訳に城を抜け出し、ついでに宿題を手伝ってもらっていた。シリウスはとても頭がよかったのだ。魔法薬学を二年飛ばして勉強していることに嬉しさと悔しさの入り混じった歯ぎしりで応えてくれた。ちなみに未来であのひとに提出した闇の魔術に対する防衛術のレポートを見せると、こちらは素直に跳び上がって喜んでいた。
そういう事情で、私たちがハグリッドと面と向かって話せるのは魔法生物飼育学の時間だけだった。ハグリッドは敗訴したショックで、すっかり放心状態だった。みんな俺が悪いんだ、と裁判の状況を聞く限り、味方がバックビーク以外に誰一人としていない状況で戦った彼はうなだれていた。
「舌がもつれっちまって、そんでもって俺はメモをぼろぼろ落としっちまって、ハーマイオニー、サチ、おまえさんたちがせっかく探してくれたいろんなもんの日付は忘れっちまうし。そんで、そのあとルシウス・マルフォイが立ち上がって、やつの言い分をしゃべって、そんで、委員会はあいつに“やれ”と言われたとおりにやったんだ」
「まだ控訴があるよ、ハグリッド」
私はハグリッドの丘ぐらいある背中を思いっきり叩いた。こうでもしないと、蚊でも止まったのかと思われて逆に叩かれそうになるのだ。経験則である。
「そうだよ、まだ諦めないで。僕たち、準備してるんだから!」
ロンも熱を込めてハグリッドの肩にタックルした。以前肩を軽く叩いたら、肩こりだと思ったハグリッドに危うく手をぺしゃんこにされてしまうところだったのだ。もちろんハグリッドは細心の配慮をして私たちと仲良くしているから、何かありそうになるのはもっぱら私たちの力のせいだった。
四人でハグリッドを励ましながら城に向かう道を歩いていると、ドラコ・マルフォイと大柄な子分が後ろから追いこしていった。ハグリッドを小バカにしたように笑っている。それを見て、ハグリッドはハンカチに顔をうずめ、急いで小屋に戻っていってしまった。
「見ろよ、あの泣き虫!あんなに情けないものを見たことがあるかい」
ドラコ・マルフォイはわざとらしく肩を大きくゆすった。
「しかも、あいつが僕たちの先生だって!」
誰よりも早く動いたのはハーマイオニーだった。
ハーマイオニーがあらん限りの力を込めて、ドラコ・マルフォイの横っ面をひっ叩く。ハリーもロンも、そして子分たちも、ドラコ・マルフォイですら何が起こったのか理解できないという表情だった。
「ハグリッドのことを情けないだなんて、よくもそんなことを。この汚らわしい──この悪党──」
「ハーマイオニー!」
ロンがもう一度手を振りかぶったハーマイオニーを必死で抑えた。
「放して!ロン!」
今度は杖を抜いたので、私がハーマイオニーの腕をつかんで押しとどめた。
ドラコ・マルフォイは後ずさりして、クラッブとゴイルはお手上げ状態だった。薄青い瞳と目が合った。
「ごめんね、ミスター・マルフォイ」
思わず口をついて出たのは謝罪だった。
自分でもよくわからなかった。バックビークの爪から守ろうと飛び出したのに、怪我を負わせてしまったことへの謝罪かもしれない。怪我の治らない道化を演じさせてしまったことかもしれない。あるいは、この場で一番彼のプライドを傷つけたことか。それとも、解り合えなかったことが悲しかったのか──もしかしたら全部だったのかもしれない。
「あの、お見舞いをありがとう。嬉しかった」
医務室に積み上げられたお菓子やカードの一番下にねじ込まれていた、マルフォイ家の家名が印字された小さなカード。“ごめん”と一言だけのカードだったけど、きっと自分で考えて書いたのだろう。だって私は純血でもなんでもない。ルシウス・マルフォイにとって価値のある人間ではないから。スネイプ先生お気に入り枠を巡る好敵手(私が勝手にそう決めた)として、そうやって勇気を振り絞った姿は素直に好きだった。
ドラコ・マルフォイは何か言いたそうに口を開閉させて、「行こう」と小さくつぶやくだけに留めた。スリザリンの三人はあっという間に地下牢へと姿を消してしまったのだ。
「ハリー、クィディッチの優勝戦で、何がなんでもあいつをやっつけて!」
ハーマイオニーが上ずった声で言った。
「絶対に、お願いよ。スリザリンが勝ったりしたら、私、とっても我慢できないもの!」
ロンはしげしげとハーマイオニーを眺めながら、私たちを呪文学の時間だと階段へ促した。教室のドアを開けると、「三人とも、遅刻だよ!」とフリットウィック先生が鳥羽めるように言った。今日は“元気の出る呪文”の練習で、二人ずつペアになる必要があった。けれど後ろにハーマイオニーがいなかったので、私たちは三人でやらせてもらうことになった。
「ハーマイオニーはどこに行ったんだろ?変だなぁ」
ロンは首を傾げた。
「きっと──トイレとかに行ったんじゃないかな?」
そうだよね、とハリーはハーマイオニーの後ろを歩いていた私を見た。
きっと逆転時計の調整を間違えてしまったのかもしれない。さっきドラコ・マルフォイとあんなことがあったばかりだし。
けれど逆転時計のことは言ってはいけないと使用を先生に持ちかけられた時に約束しているので、私は使用を断った身であるものの、ハリーの問いに曖昧に頷くことしかできなかった。
今日はさすがにハーマイオニーを無視して昼食に禁じられた森へ行くことはできなかったので、ハリーとロンとアップルパイを食べてからグリフィンドール塔に急いで戻った。やっぱりハーマイオニーは談話室に居て、数占い学の教科書に頭を乗せて眠り込んでいた。ハリーと一緒にハーマイオニーを突っついて起こすと、彼女は焦ったように辺りを見まわした。
「もう、クラスに行く時間?今度は、な──何の授業だっけ?」
「占い学だよ。まだあとニ十分あるけど」
「どうして呪文学に来なかったの?」
ロンとハリーが話しかけると、ハーマイオニーは「あーっ!」と叫んだ。
「なんてことを!フリットウィック先生、怒ってらした?ああ、マルフォイのせいよ。あいつのことを考えてたら、ごちゃごちゃになっちゃったんだわ!」
「ハーマイオニー、君はパンク状態なんだ。あんまりいろんなことをやろうとして」
ロンの言葉はもっともだった。けれどハーマイオニーは自分が納得いくまで絶対に意見を変えない。私も何度か選択科目を減らすように言ってはみたものの、「大丈夫!」で済まされてしまった。
「ちょっとミスしたの。それだけよ!私、いまからフリットウィック先生のところへ……」
「ハーマイオニー、これどうぞ。試験に出そうだったし、フリットウィック先生に言って、あなたの分のノートを作るのを手伝っていただいたの」
でも直接謝らなくちゃ、と今にも談話室からキリキリ飛び出しそうな様子だったので、私はハーマイオニーの肩をまあまあと押さえなくてはならなかった。
「あなたの事情、私もマクゴナガル先生にあれの使用をすすめられたから、フリットウィック先生にはもう説明したよ。わざわざ来なくていいから、今日はよく休んでって伝言がある」
「ああ、サチ!大好き!」
“あれの使用”って?と首を傾げていたハリーとロンだったが、顔を真っ赤にして目を回した私をぺちぺち叩いて、占い学の教室まで背中を押してくれた。
占い学は予定より早めに水晶玉に入るとトレローニー先生が言ったので、私たちの前にはブラッジャーの半分くらいの大きさの乳白色のガラス玉が用意された。六月の試験はこれを使うらしい。占い師と言えば水晶玉のイメージが強いのは魔法界でも同じようで、ラベンダーやパーバティなんかはいつにもましてやる気に満ち溢れていた。この水晶玉が数年後、ホグワーツでの決戦に使われるなんて、トレローニー先生にも予言できなかっただろう。
十五分ほど黙って水晶玉を見つめる時間が過ぎたところで、ついにハーマイオニーが食いしばった歯の隙間から声を漏らした。
「全く時間のむだよ。もっと役に立つことを練習できたのに。“元気の出る呪文”の遅れを取り戻すことだって──」
「じゃあハーマイオニー、私と問題出し合いっこする?」
あくびを噛み殺して目を輝かせたハーマイオニーと話していると、トレローニー先生が腕輪をチャラチャラ鳴らしながらそばを通り過ぎた。
「球の内なる、影のような予兆をどう解釈するか、あたくしに助けてほしい方、いらっしゃること?」
「僕、助けなんかいらないよ」
ロンがしたり顔で囁いた。
「見りゃわかるさ。今夜は霧が深いでしょう、ってとこだな」
私とハリー、ハーマイオニーは吹き出した。
とうとうトレローニー先生は「何事ですの!」と叫んで私たちの囲むテーブルを振り返った。みんなの目も私たちへそそがれている。
「あなた方は、未来を透視する神秘の震えを乱していますわ!」
トレローニー先生はテーブルに大股で近寄って、水晶玉を覗き込んだ。ハリーがげんなりした顔をしたのが私たちにはありありと見えた。すぐに先生は何かがある、と低い声で言い、水晶玉の高さまで顔を下げた。何かが動いている、と先生は呟いたかと思うと、ハリーの顔を見つめて大きく息を吐いた。
「ここに、これまでよりはっきりと……ほら、こっそりあなたのほうに忍びより、だんだん大きく……死神犬のグ──」
「いい加減にしてよ!」
叫んだのはハーマイオニーだった。
「また、あのバカバカしい死神犬じゃないでしょうね!」
パーバティとラベンダーは何事か囁き合って、トレローニー先生と一緒にハーマイオニーを睨んだ。
「まあ、あなた」
トレローニー先生の目に浮かんでいたのはまぎれもなく怒りだった。
「こんなことを申し上げるのは、なんですけど、あなたには占い学という高貴な技術に必要なものが備わっておりませんの。まったく、こんなに救いようのない“俗”な心を持った生徒に、いまだかつてお目にかかったことがありませんわ」
耳鳴りがするような、完璧な沈黙だった。そして──。
「結構よ!」
ハーマイオニーは唐突に立ち上がって、カバンに教科書や筆記用具を詰めこみ始めた。
「結構ですとも!」
「ハーマイオニー、やめるの?」
ロンを椅子から叩き落す勢いでカバンを肩にかけたハーマイオニーに、私は声をかけた。
「ええ、やめた!私、出ていくわ!」
「そう。じゃあ私もやめる」
「えっ?」
「運命を変えるって、一度やってみたかったんだ」
頭に疑問符を浮かべるハーマイオニーの背中を押して、先に下りているように促した。ハリーもロンも顎が外れたみたいに口を開けていた。クラス中が呆気にとられる中、ハーマイオニーが撥ね戸から梯子を下りて姿が見えなくなったところで、私はトレローニー先生を振り返った。
「“イースターのころ、誰か一人が永久に去るでしょう”、でしたっけ」
クラス全員が、先生までもがハッとしたように目を見開いた。
学年が始まって一番最初の授業で、トレローニー先生がそんな予言をしていたのを、さっきのハーマイオニーを見てたまたま思い出したのだ。あれが本物にしろ偽物にしろ、定められたことを変える最初の一手としてふさわしいのではないだろうか。
「一人ではなくて、二人だったみたいです!トレローニー先生、お世話になりました」
ニッコリ笑って、私も梯子を下り丁寧に撥ね戸を閉めた。
下に降りると、ハーマイオニーが嬉しさと申し訳なさがごちゃ混ぜになったような顔で微笑んでいた。
「サチ!あなたまでやめることなかったのに」
「いいんだよ。合わないと思ってたし、よく考えたら私が占いを当てにするなんておかしな話だった」
時間をさかのぼって、私は存在しないはずの場所で生きているんだ。そんな予言は聞いたことないし、そもそもそういう前例があるのかもわからない。
「来年からは数占いを取ろうかなあ」
「本当!?ベクトル先生に相談する?私あなたと一緒に勉強したいわ!」