プロローグ
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先生は不思議なひとだった。
「────本当に、授業は休まなくて大丈夫なのですか」
「はい、マクゴナガル先生。だってこれから魔法薬学なんです」
ゆるく首を振って笑った私の目元を、マクゴナガル先生はもう一度ハンカチで拭ってくれた。マクゴナガル先生のようにしわ一つなく几帳面に折りたたまれていたはずのそれは、涙でぐっしょりと濡れていた。
今朝グリフィンドール寮を出たときはまだ朝食前で、“太った婦人”も額縁の中で大あくびをしていたけれど、今はどの肖像画もさっきまで号泣していた私のせいですっかり目が覚めてしまったようだ。大広間ではもうデザートがふるまわれている頃だろうか。朝食から直接向かおうと重たい教科書を持ってきてラッキーだった。
マクゴナガル先生────校長となった先生は私の背中をさすってすっかり朝食を逃してしまっている。「ハンカチは洗って返すから、そろそろ先生は大広間に行ってください」と五回ほど繰り返して、やっとマクゴナガル先生はその場から離れた。いつでもなんでも相談してくれてかまわない、と何度も後ろを振り返りながら。生徒が困ったときはいつだって親身に寄り添ってくれる寮監が、ホグワーツに入学して三年が経った今でも大好きで自慢だった。
マクゴナガル先生が見えなくなって、ようやく私は地下牢への階段に歩き出す。魔法薬学の授業が行われる地下牢は、グリフィンドール塔から一番遠い。体の芯から凍りつくような寒さに思わずローブをきつく体に巻き付けた。ふと窓の外に目をやると、いつの間にか雪が深々と降っていた。音もなく景色を真っ白く覆い隠してしまうその様子に、胸の奥がつきんと痛んだ。
そういえば今日は、あのひとの誕生日だったっけ────
入学して組み分け帽子を被ろうと職員席に近づいて、初めは黒づくめで目つきの鋭いあのひとのことを「怖そうな先生だな」としか思わなかった。けれど、あれは授業日初日だっただろうか。マグルだった母を出産直後、闇祓いで不死鳥の騎士団の一員でもあった日本人の父をそれ以前に死喰い人の残党との戦闘で失い、イギリス人の母方の祖母に育てられていた私にとって、動く階段はとんでもない罠だった。階段から投げ出されてもう少しで全身ぺちゃんこになりそうだったところをあのひとが助けてくれた。
口ではとげとげしく減点を言い渡しながらも怪我がないかつぶさに確認していた瞳と、優しく支えてくれていたひんやりとした手を不思議に思ったことをよく覚えている。
あのひとの闇の魔術に対する防衛術の授業はとても厳しかった。特にグリフィンドールは目の敵にされていた。減点されても変身術で点数を稼いで、あのひとに質問しに行くのをやめなかった。答えてもらえるのが、その手でOをレポートに書いてもらえるのが嬉しかった。そういえば一年生の後半は、研究室に質問と一緒に押し掛けてもなぜか減点されなくなっていたことを最近気が付いた。自慢の生徒だと、教えてよかったと思われたくて他の教科にも精を出し、私の入学前まで担当していたという魔法薬学は、闇の魔術に対する防衛術と並んで特に勉強するようになった。勉強する範囲はとっくに低学年のものを超えていて、勉強を教えてくれたハーマイオニーがそのことを話してくれたのだ。もしかするととっくにハーマイオニーは私も知らなかった恋心を知っていたのかもしれない。いつからか私をもの言いたげに見ることが増えていた。
ホグワーツに入学して初めてのクリスマス。普段のお礼も込めてカードと一緒に手袋を送った。クリスマス休暇明けに寮に戻って、ベッドの枕元に置かれていたカードを見つけたときのことを、私は一生忘れないだろう。
進級してもあのひとを慕う気持ちは変わらなかった。
父のこともあり、一年生のクリスマスからダンブルドア先生の勧めで休暇ごとに“隠れ穴”にお邪魔していた。そんな中でロンやハーマイオニーから聞くハリーやあのひとの話をたくさん聞いた。二年生に上がるときの夏休みもそうで、当然ハリーやロン、ハーマイオニーでさえもがホグワーツに戻ることを反対した。父と同級生で仲が良く、数年前はホグワーツで教授をしていたというルーピン先生にも当然止められた。
それでも、あのひとが校長となったホグワーツに戻ることを決めた。
たった一年だったけど、あのひとの研究室に通い続けていた私は、あのひとがハリーのことを他の生徒より気にかけていたことをなんとなく察していたし、たまに研究室でお茶をするダンブルドア先生との信頼関係がとても強かったことを知っている。だから背後にどんな理由があったとしても、おそらくあのときただ一人、あのひとのことを信じていた私はホグワーツに戻りたかった。
ホグワーツでは、渋るネビル達にとっくに突出していた闇の魔術に対する防衛術の技術を盾にしてDAに入り、守護霊の呪文を覚えて、少しでもみんなで安心して生活が送れるように校内を奔走した。思い出すのはいつだって、カードを見つけた真冬の朝のことだった。そんなことを続けていれば当然死喰い人のカロー兄妹に目を付けられる。間一髪のところで窮地を救ったのは、またしてもあのひとで、前年の入学ほやほやな私を助けてくれたときと変わらない、優しくて冷たい手だった。目立つな、今年度は自分のところへ来ようなど考えるな、と短く告げて去ってしまったけれど、こうやって生徒を助けて忠告まで残すような彼が裏切り者だとはどうしても思えなかった。
渋るマクゴナガル先生から聞き出したあのひとの誕生日に、私は背伸びして七年生の範囲を勉強した闇の魔術に対する防衛術のレポート、一度の挑戦でなんとか成功した生ける屍の水薬、そしてカードを校長室前のガーゴイルにダメもとでくわえてもらった。カロー兄妹が校長室近くにいないか探索して戻ると、ガーゴイルの口には何も残っていなかった。返事がなくたって、仮に捨てられていたって、あのひとがそれを受け取ってくれたことを知れただけでよかった。
それなのに今日、よりにもよってあのひとの生まれた日、マクゴナガル先生が「ずっと開けられなかった引き出しが開いた」と言って持ってきたのが、Oと書かれたレポートと改善点が厭味ったらしく書き連ねられたメモの貼られた水薬、そしてカードだった。
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サチ・シラユキ
君のしつこさと努力は我輩をもってして賞賛に値する。
かような生徒は初めてだった。
SS
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一年近く前にホグワーツでの決戦が終わり、あのひとが死んだこと、無実だったことをハリーから聞いたときは涙も出なかった。なのに、それを受け取ったその場で私は崩れ落ちて、火傷しそうなほどに熱い涙を止めることができなかった。
────恋だった。恋だったのだ。最初で最後の初恋は、鮮烈な痛みを伴ってそれが終わっていたことを告げていた。どうして気付かなかったのだろう。どうして気付けなかったのだろう。
冬の空気ですっかり冷たくなっていたはずのカードは、しかし、じんわりとした疼きを私の目の奥にもたらした。どんどん増す胸の奥の痛みを振り切るように、私は底冷えのする階段を駆け下りた。あのひと、セブルス・スネイプに会いに数えきれないほど通った階段と廊下を目に入れたくなくて、とにかくがむしゃらに地下牢までの道を走る。見咎めて減点するあのひとは、もういない。
教室の前でやっと顔を上げる頃には、走ったせいか嫌に冬用のセーターとローブが鬱陶しかった。まるで季節違いの服でも着てしまったかのように、急に額に汗が浮く。それに、そろそろ授業開始時刻だというのに予鈴が鳴らない。ざわざわとした生徒のざわめきは上の、大広間の方からしか聞こえなかった。いつのまにスラグホーン先生は授業をキャンセルしたのだろうか。不思議に思いながら私は教室のドアノブを回した。
「あの、今日って授業日じゃありませんでしたっけ。ス、」
「休みすぎで日にちまで数えられなくなるとは、なんとおめでたい。歴史ある名門ホグワーツの始業日なんぞイギリス中の魔法使いが知って────」
スラグホーン先生、と続くはずの言葉は出なかった。目の先の薬品棚を整理していたのは割腹の良い穏やかな老教師ではなく、コウモリのような真っ黒で長いローブに全身を包み、顔と手だけが土気色に浮いているあの、セブルス・スネイプそのひとだった。
もういない、はずだ。この世のどこを探したって、二度と会えないはずだった。
どくり、と心臓が痛いほど波打つ。喉の奥が熱い塊でつっかえて何も言えなくなってしまった私に、同じく話を中断したスネイプ先生は眉間のしわをこれ以上は濃くなりようがないというくらい濃くしていた。
「お前のような生徒はホグワーツに、」
「生きてらしたんですか」
先生のこめかみがひきつった。恐ろしいくらいの沈黙に、私は脱兎のごとく魔法薬学の教室から逃げ出した。廊下に出た瞬間、季節外れの熱気が頬をなでる。さっき下ってきたばかりの階段を駆け上がって窓の外を見ると、さっきまでの雪なんてなかったどころか、木々には青葉が生い茂り、暗雲の下生温い風が吹いている。ホグワーツの正面には続々とセストラルに引かれた馬車がやってきて、周囲には数匹の吸魂鬼が飛び交っていた。いつか、ハリー達から聞いた彼らの冒険譚の一幕が眼下に広がっていた。夢にしてはあまりに感覚が鮮明で、描写が克明だった。
「そんな・・・・・・これって・・・・・・過去なの・・・・・・?」
「ほう!過去、とな?」
唖然として馬車から降りて校内に入っていく生徒達を見ていると、何の気配もなかった真後ろから突然、懐かしい声が聞こえた。魔法使いと言えばこうじゃないか、と誰もが真っ先に思い浮かべるような長くて白いひげ、三角の帽子、そして半月の眼鏡の奥でキラキラと輝くブルーの瞳。
「ダ、ダ、ダンブルドア先生!?」
「そうじゃよ。ほっほ、まるで幽霊でも見たような顔じゃのう・・・・・・おやおや」
「先生、い、生きて、そ、そ、そんな、はず」
さっき出し切ったと思った涙が再び堰を切ってあふれ出した。ダンブルドア先生はびっくりしたように目を見開いて、私の背中を押して校長室の前まで来ると「レモン・キャンデー!」と合言葉を唱えて中の柔らかいソファに座らせてくれた。
「そんなに目をこするものではないよ。えーと・・・・・・」
「サチです。サチ・シラユキ。グ、グリフィンドールの、三年生です」
「そうか!あの子の娘か」
ダンブルドア先生は嬉しそうに笑った。しゃくりあげながら無茶苦茶に涙をぬぐって答えていたら、先生の温かい手がそっと手のひらに添えられた。この校長先生の言葉には、どこか有無を言わせないような力がある。私もすっかり目をこする手を下ろして、瞬きの間に目の前で湯気を立てていたホット・チョコレートをすすめられるがまま口にしていた。
ダンブルドア先生にもしかすると未来から来たかもしれない、と言うと、今日は一九九三年九月一日だと教えてもらった。私は一九九九年の一月九日にいたのだから、どう考えてもここは過去だった。日付が綺麗にひっくり返されている。さらに今年はハリーの名付け親だというシリウス・ブラックがアズカバンから脱走したというニュースでもちきりで、私が入学したときには父の学友だったという彼はすでに亡くなっていたのもあり、思わずダンブルドア先生が渡してくれた新聞を凝視してしまった。先生はその間私がマクゴナガル先生から渡されたレポートと水薬を見て感嘆の声を上げていて──耳がとても熱かった──、新聞を食い入るように見つめる私の様子に何をどのくらい知っているかが検討が付いたらしかった。私が新聞から顔を上げるなり、
「君の知っている未来のことは、君の好きなようにすると良い」
とニッコリ笑った。
「好きなように?」
「言うも言わないも自由じゃ。当人が知らない方がうまくいくこともあるし、まあ使い方次第じゃな」
脱獄してきたシリウス・ブラックのことの顛末はロンから聞いている。「僕たち、あのスネイプを吹っ飛ばしたんだぜ。あのときのあいつって言ったら──」その頃には私のスネイプ先生への自覚のない恋心を悟っていたらしいハーマイオニーが、ロンを全力で部屋から追い出していたので、そこに至る経緯はあまり聞いていないけれど。でも、そのとき私はホグワーツにいなくて、それでもみんなはシリウス・ブラックを救っていた。ダンブルドア先生の言うのは、余計なことをすると、その結果が全く違うものに変わってしまう可能性があるということだろうか。ともかく、その言葉の意味をしっかりと理解できるまで、何か言うことはやめた方がよさそうだった。
「・・・・・・結果が、全く違うものに変わる?」
ふと、脳裏に未来のスネイプ先生の後ろ姿がよぎった。もしかして、あのひとの死んでしまう未来を変えることができるのだろうか。大広間で手を繋ぐように横たわっていたルーピン先生とトンクス、ジニーのお兄さんのフレッド、スネイプ先生の写りこんだ写真を譲ってくれたコリン、あの戦いで死んでしまった仲間、そして校庭に力なく横たわるダンブルドアが次々と頭を駆け巡る。
「ダンブルドア先生。私、未来を変えられる?」
「うまく君の力を使えば、果たして」
「スネイプ先生に、今度こそ思いを伝えられる?」
ダンブルドア先生は、今度こそ本当に驚いたようで、危うくホット・チョコレートで髭がコーティングされるところだった。沈黙はとても長くて、三時間くらい続いたんじゃないかと感じた。おそるおそる顔を上げると、先生はどこまでも優しく微笑んで言ったのだ。
「知っているかの?愛は、この世で最も強い魔法じゃよ」