2話:狂気のはじまり

七弥ななやは「用事を先に済ませてくる」と言って何処かへ行ってしまい、俺はひとり取り残されるような形で通路に立っていた。
まぁ…誰もいない通路で練習できるので、良しとするか。

俺が今いる通路の――向かって左側は、一面ガラス張りで外の風景がよく見える。
今は夕方から夜になる頃なのだろうか、夜の闇に染まりつつある夕焼け空がそこに広がっていた。

「…もうすぐ、君の好きな夜空が広がるね」

ぼんやりと外を眺めていると、突然背後から声をかけられた。
確か、この声の主は……――

「…白季しらき、か?」

そう訊ねながら振り返ると、そこには白金色の髪をした青年が微笑みながら立っていた。

「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ、倉世くらせ?」
「…突然、後ろから声をかけられれば…誰だって警戒するだろ?」

俺は、苦笑しながら白季しらきに言った。
――そもそも、警戒するように言ってきたのは目の前に立っている白季しらきなのだが……

「ふふっ。そういえば、僕が気をつけるように言ったんだったね」

白季しらきは「忘れていたよ」と言いながら、自分の頭をたたいている。

「あ。そういえば、倉世くらせ…君は何で、一人でこんなところにいるんだい?」

白季しらきが不思議そうに首をかしげていた。
…まぁ、確かに――通路に、俺だけがいるのは不自然かもしれないよな。

「…実は――」

俺が事の次第を説明すると、白季しらきは納得したように頷いた。

「なるほど…それは大変だね。たった30分でスピーチの練習を……」

白季しらきは――いつの間に、俺の胸ポケットから抜き取ったのか……
挨拶用の台本を手に、驚いている俺の隣に立った。

「…っ、いつの間に」
「ふーん、なるほど…ね」

白季しらきは台本をひと通り読むと、ひとり納得していたが――一体何を納得していたのだろうか……?

「……ぁ、あの~…」

また突然、背後から声をかけられた。

背後から声をかけられるのは、これで何度目になるのだろう……
ただ、俺が不注意過ぎるだけなのだろうか?

俺と白季しらきが振り返ると、ピンク色のゆったりとウェーブがかった髪をした少女がおずおずとそこに立っていた。

……何か用だろうか?
俺が不思議そうに少女を見ていると、彼女も俺の方を見ながら訊ねる。

「もしかして、貴方…倉世くらせさん、よね?」
「ん…あぁ」

少女が何故、俺の名前を知っているのか…
それはまったくわからないが、どうやら少女は俺の事を知っているようだ。

何も答えないでいると、少女は心配げにこちらを見つめてくる。

「…君は、誰だい?」

無言の気まずい空気の中、最初に声を発したのは白季しらきだった。
どうやら、白季しらきは俺の心情を察してくれたらしく…俺の代わりに訊ねてくれたようだ。
すると、少女は視線を俺から白季しらきに移して訝しがりながら答える。

「…貴方こそ、誰?大体、人に名前を訊ねる時はそちらが先に名乗るのが礼儀でしょう?」
「へぇー…そう言う自分の事は、棚上げかい?いいご身分だね」

白季しらきが、少しむっとした様子で言い返している。
もしかしなくても、この2人は少し相性が悪いのかもしれないな……
気づけば、2人は俺の事を忘れているかのように言い合い始めていた。

「貴方、大体…倉世くらせさんの何?」
「…君の方こそ、倉世くらせの何なんだい?」

……この会話だけを誰かに聞かれたら、おそらく…いや、間違いなく誤解を生む。
どうして、こうなってしまったのだろうか……
確か、俺は挨拶の練習をする為にひとりでいたというのに――

そう考えると、自然と深いため息をついてしまった。


***


その頃――ラウンジでは、倉世くらせによる状況報告をする為の準備がおこなわれていた。

「…とりあえず、警備だけは厳重にしてくれ」

七弥ななやは自分より10歳は年上であろう男に、そう命じた。
命じられた男は小さく頷くと、七弥ななやにだけ聞こえるような小声で訊ねる。

「…あの方は、本当にすべてを忘れてしまったのでしょうか…?」
「あぁ、本当だ…きれいに、すべてを忘れてしまったらしい……」

腕時計で時間を確認した七弥ななやは、男の方を見ずに答えた。

倉世くらせの補佐をしていたお前が、一番ショックかもしれないが…とりあえず、今まで通りアイツの補佐をしてやってくれ」
「…わかりました」

男は少し寂しげに頷くと、諸々の準備をしに戻っていった。

(だいぶ落ち込んでいるようだな…まぁ、仕方ない事だが。状況報告の時間は…だいぶ予定をずらした為か、ずいぶん遅くなってしまったな……)

準備を進めている軍人達を眺めながら、七弥ななやは考える。

(…一応、あの方に事が知られないように手配したが……もしかすると、無駄だったかもしれないな)

七弥ななやは作業をしている一人の、ある軍人・・・・に目を向けると深いため息をついた。

「……そろそろ、倉世くらせを迎えに行くか。30分だけとはいえ、十分じゅうぶん練習できただろうし…な」

七弥ななやはひとり呟くと、ラウンジを後にした。

――この時の七弥ななやは、まだ知らない。
実は、倉世くらせが練習どころではない状況にある事を……


***

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